Coffee Break<週刊「世界と日本」2169号より>
直系末裔が語る
明智光秀と私~細川家に伝わる光秀像
マルチな才能発揮 光秀に迫る
政治ジャーナリスト 細川 珠生 氏
「出演回数」は多いものの、NHK大河ドラマで初めて主人公として描かれることになった、私の先祖である明智光秀。これまで、戦国時代を扱ったドラマでも、その基となる歴史教育でも、光秀は完全なる歴史の「敗者」であった。そんな「悪者」だった光秀が大河ドラマの主人公として描かれることになったのは、なぜか。子孫である私の視点で、考えていることを述べてみたい。
《ほそかわ・たまお》
1968年生まれ。聖心女子大学英文科卒。星槎大学非常勤講師(現代政治論)。三井住友建設(株)社外取締役。熊本藩主・細川忠興と明智光秀の娘・玉夫妻の直系卑属。洗礼名・ガラシャ。1995年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演中。著書に『明智光秀10の謎』(本郷和人共著)、『私の先祖 明智光秀』(共に宝島社)ほか多数。
まず、「光秀の子孫」とはどういうことか、私と光秀の関係から紹介したい。
私は、熊本藩主・細川忠興と、その妻・玉(キリスト教洗礼名・ガラシャ)の長男・忠隆の直系卑属で、忠興から数えて、私の父・隆一郎で12代目となる家系である。
細川家当主は、元内閣総理大臣の細川護熙氏であるが、当主家は、忠興・玉夫妻の三男・忠利の子孫。訳あって、家督は我が家の先祖の忠隆ではなく、三男・忠利へ譲られたことで、そのようになっているが、400年以上さかのぼると、忠興の子として兄弟という間柄であり、当主家とは一族となる。
細川忠興に嫁した玉が、明智光秀の娘であることから、光秀も先祖にあたるということだ。細川家といえば、忠興の時代からさらに100年ほど前に起きた「応仁の乱」が有名であるが、この時の管領・細川勝元とは、勝元の曽祖父と我が一族の先祖が兄弟という間柄。
細川という名字が意外に多いのも、このころ多くの分家が誕生したことに起因していると思われる。私が父から教えられたことは、「護熙さんとは一族だけど、応仁の乱の細川勝元とはあまり関係ない」というものだった。
そのような家系で育った私にとって光秀は、どんな存在であったか。
光秀といえば、「本能寺の変」で主君・織田信長を討ち、その後、朝廷に奉じて征夷大将軍となったものの、3日後に、同じ織田家臣であった豊臣秀吉に山崎の合戦で敗れ、近江の坂本に逃れる途中で命果て、「三日天下」と呼ばれ(揶揄され)てきた戦国大名である。
歴史の授業では、主君を打った反逆者、謀反者、裏切者として紹介される「悪役」。
その一方、娘の玉は、「悲劇のヒロイン」として有名である。玉は、父親の謀反により嫁ぎ先の細川家から、「離縁」の形で丹後半島の山奥に幽閉され、その後、父を討った秀吉の許しを得て細川家に戻った。キリスト教に心酔することで自分の苦しみを解き、最後は夫・忠興のために、関ヶ原の戦いで敵の石田三成方の人質に取られまいと自ら死を選んだ。
光秀と玉は、親子であるのに関わらず、正反対のイメージとして描かれており、日本史の中でも有名な父娘であろう。しかしながら、我が家では、まず光秀自身が「正義の人」として言い伝えられてきた。そして玉は、父親の起こした一件により、幸せな人生から一気に不幸な人生へと転落したものの、持ち前の意思の強さでその悲劇を乗り越えようとした「立派な女性」であるという存在。また、人質に取られては、夫・忠興が精いっぱい戦えないと判断し、自らの命をささげて細川家を救った人として、また光秀もそんな玉の父親として、たくさんの細川家の先祖の中でも、とりわけ誇りに思ってきた二人であるのだ。
では、なぜ、光秀は「正義の人」と言い伝えられてきたのか。それは、歴史のミステリーと言われる「本能寺の変」の解にもつながることであるが、織田信長家臣団の中でも、筆頭の実力を発揮してきた光秀の人間性を表すものであると思っている。
光秀の前半生は史料が残っておらず、元々どんな生い立ちであるかはわからない。越前で朝倉家と関わるあたりから、ようやくその足跡がたどれるようになるのだが、その後、織田信長の重臣となるまでに、武将として、多くの功績を残した。
信長の「天下布武」に欠かせない丹波地方の攻略は、その土地の豪族たちを見事に打ち負かし、平定に漕ぎつけた。居城のある領地の近江・坂本、丹波・福知山と亀山(現在は亀岡)では、領民生活を重んじる城下町経営を行い、それらの土地の人たちは、未だに光秀を慕っている人が多くいるほど、人望の厚い領主でもあった。
信長に重宝されたのも、博識、多才な面があったからであろう。鉄砲、築城、城下町経営等の能力に長け、また茶の湯や和歌・連歌などの文化的教養も高かった。そんな光秀だからこそ、天下人としての素養は十分すぎるくらいありながらも、乱暴で非情な面が多くある信長に対する不信感を募らせ、ひいては、天下人になることも許さない、そんな思いから、本能寺の変を起こしたと考えられる。すくなくとも、我が家では、その行動こそが光秀の正義感を表すものであると解釈、伝承されてきたのである。
実際、光秀に罵詈雑言を浴びせる行為や、丹波攻略の過程で人質として相手方に差し出していた母親が殺される事態を招く非情さのエピソードは、信長の有能さと同じくらい出てくるのである。当時、ポルトガルからやってきたキリスト教の宣教師・ルイス・フロイスの「日本史」という書物には、信長の異常な精神性を表す記述が多数みられる。
「本能寺の変」の動機として、さまざまなことが言われているが、私はあくまでも、光秀の「男気」が起こした行為であり、それは正しいことを貫こうとする思いにほかならいと考えている。
とかく日本は、上に忖度し、横並びを重視し、下の者に対してパワハラをするような上下、左右の関係がなかなか変えられない。
おそらく光秀の時代は、もっとそうであっただろう。その中で、間違ったことは許さないという信念と、正しいことがまかり通る世の中でなくてはならないという正義を貫いた光秀は、父が言っていたように「立派な人」である。
そんな先祖がいることを、これからもずっと誇りに思うのと同時に、私自身も、正義を貫く勇気と行動力をもって、生きていきたいと思う。