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2018年、平成30年はあの明治維新からちょうど150年。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ

2018年7月16日号 週刊「世界と日本」第2129号 より

明治維新150年

真摯な検証作業で歴史を正せ

近代化のスタートは幕末だった

 

大阪学院大学 経済学部教授 森田 健司 氏

 改めて言及するまでもなく、明治維新という単一の歴史的事件は存在しない。我々は、江戸幕府が崩壊してから、明治新政府の統治権が確たるものになるまでの、一連の出来事を、便宜上そう呼んでいるだけである。しかし、「明治という元号」に改められてから、今年が150年目に当たるということは間違いない。このタイミングに、当該期を再確認することは、国の行く末を考える上でも、極めて有意義であると思う。

《もりた・けんじ》
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒。同大学大学院人間・環境学研究科を経て、現職。博士(人間・環境学)。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民思想の研究に注力。著書に『西郷隆盛の幻影』、『江戸の瓦版』、『明治維新 司馬史観という過ち』、『石門心学と近代』、『外国人が見た幕末・明治の日本』など多数。

 幕末・維新期の実相を知る上で、最も大きな障害となるのが、当該期を舞台としたフィクションの数々である。そこでは、激動の時代の中で波乱の人生を送る、極めて個性的なキャラクターたちが活躍する。
 それは例えば、坂本龍馬であり、桂小五郎であり、西郷隆盛であり、大村益次郎であり、勝海舟である。困ったことに、創作されたキャラクターたちは、確実に実像を上書きしていく。だから、相当自覚的にならない限り、当該期の実相に到達するのは難しいのである。
 例えば現代人の多くは、当時の国際環境からみて幕藩体制は「旧き悪しき」ものであり、近代的体制への転換のため、幕府は倒されたと認識しているはずである。身分制度から人々を解放し、個人の能力に応じて仕事を選択する世を招来するためには、幕府を転覆させなければならなかった、と思っている向きも多いだろう。しかしこれらの話は、史実を参照すれば、単なる錯誤であると判明する。
 実力主義による積極的な人材登用が始まったのは、阿部正弘が老中首座に就いた1845(弘化2)年以降のことであり、明治に改元される、はるか以前の話である。また、黒船来航の後は、阿部はさらなる改革を実行している。
 具体的には、大船建造の解禁や、海岸の防衛強化、講武所と蕃書調所の設立などである。阿部の改革は、何より列強の動きを意識したものであり、これ以降の日本は、さまざまな意味で急速に近代化していく。
 つまり、近代化自体のスタートは、明らかに幕末である。しかもこれは、専ら上からの指令に従った近代化などではない。職人たちの高い技術、整備された陸運と水運、高い識字率と活発な出版文化など、戦の絶えた時代を通じて成長し、蓄積された諸条件によって、はじめて可能となったものなのである。
 フィクションによって広まった誤解の一つに、日本初の株式会社は坂本龍馬の海援隊だ、というものがある。これは、資本と経営の分離、および出資者に収益の一部を還元することから考えられた仮説だったが、その仮説が無批判に国民的作家の作品に取り入れられ、既成事実化したものである。
 株式会社という先進的な組織の祖が、薩長に近しい龍馬であるとの説は、確実に維新にポジティブなイメージを付与した。
 しかし、実は「海援隊=株式会社」説は、発案者である経営学者の坂本藤良によって、明確に否定されているのである。彼は、海援隊の前身である亀山社中の「社中」の語から、このような誤解が始まってしまったと告白している(『幕末維新の経済人』)。加えて、もし、正当に日本初の株式会社というものを選定するならば、それはおそらく1867(慶応3)年6月に創設された兵庫商社だろうとも主張しているのである。
 兵庫商社は、役員を決め、定款を備えた、貿易を主体とする商社である。設立したのは、幕臣の小栗忠順だった。日米修好通商条約批准のために渡米し、彼の地の状況を視察したこともある小栗は、横浜造船所の創設などにも取り組み、日本の近代化に尽くした。しかし、その功績は十分には評価されていない。それは、彼が強硬な佐幕派だったことによるものだろう。
 新政府軍に対して徹底抗戦を主張した小栗は、それによって免官となり、領地である上野国権田村に帰る。そこで、無抵抗なままで新政府軍によって捕縛され、弁解も許されず斬首された。明治新政府にとって、幕府を強力な中央政府として再興させた上で、近代化を進めようと考えていた小栗は、最も目障りな存在だったからである。
 戊辰戦争において、新政府軍の合理主義が、旧幕府軍の非合理主義を圧倒したとの見方も、フィクションを通じて日本に定着している。しかし、小栗のことを思うとき、これほど屈辱的な話もないだろう。
 新政府軍が各藩を恭順できた理由は、天皇の威光を利用したことに加え、最先端の兵器を数多く所持していたからである。合理主義などとは一切関係がない。事実、最新兵器を十分に備えていた庄内藩は、最後まで新政府軍に負かされなかった。明治を日本近代のスタートとするための論理は、どれも瑕疵を抱えている。
 明治に入って以降、日本は「徳川家の専制」から解き放たれ、民主的な体制に転換できたのだろうか。とんでもない、薩長両藩出身者による藩閥政治が始まって、日本の上流階級がただ入れ替わっただけである。
 その極みが、一部官僚への権力集中、いわゆる有司専制だろう。莫大な給金を得て、薩長閥はどんどん貴族化していく。民主的でも、実力主義に基づいたものでもなく、出身地による露骨な差別が始まったのである。
 明治政府の歪みが理解できる証拠がある。明治時代を通して、内閣総理大臣となった人々の出身地は、山口(3名)、鹿児島(2名)、佐賀(1名)、および京都(1名)のみなのである。なお、京都出身の首相は第十二代西園寺公望で、彼は戊辰戦争で功のあった公家の出の人物だった。
 江戸を「徳川家の専制」というのならば、明治は「薩長の専制」の時代である。五箇条の誓文の精神は、明治政府において遂に実現することはなかった。
 明治改元から150年の今年、我々が行わなければならないのは、明治の国づくりへの手放しの礼賛などではない。維新という麗しい呼称の下、理不尽に失われたもの、誤解によって歪んだものを、真摯な歴史の検証作業によって、復活させ、また正すことである。
 それこそが、日本という国に正しい意味での尊厳を取り戻すものになると信じている。


2018年5月7日号 週刊「世界と日本」第2124号 より

明治維新150年
「岩倉使節団」を改めて考える

 

日本よ 新しい“自我形成”に目覚めよ

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

 私どもは自分がどんな顔の人間であるかを知っている。自分を「鏡」という他者に投影して、みずからを確認しているからである。自己が他者をもたず完全に孤立している状態にあっては、自己がどんな存在であるかを確認することはできない。それゆえ「自我形成」もあり得ない。私どもは他者が自分をどう認識し、評価し、対応するのかに応じて、自己を初めて悟り、自我形成をつづける、そういう存在である。

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『放哉と山頭火―死を生きる』(ちくま文庫)など多数。

 日本は、江戸時代を通じて平穏な時代を過ごし、欧米のそれに勝るとも劣らない成熟した社会と文化をつくりあげてきた。しかし、この平和の中で、日本は欧米列強に競合できるような産業力や軍事力を整えてきたわけではない。
 「海洋の共同体」としての日本は、四方を海で囲まれ、海によって守られ、外敵の存在を意識することなく、国内の統治に万全を期していけば、平和はおのずと守られてきた。少なくとも幕末まではそうだった。「自国とは何か」という自我は薄くしか形成されてこなかったのである。
 アヘン戦争を経て大国・清国が、列強によって次々と蚕食(さんしょく)されていくさまに目を見開かされ、ペリーの黒船来港によって強烈なインパクトを受け、日本の指導者は新しい自我形成を余儀なくされた。
 列強の目に映る日本は、文明国ではない。だからこそ、不平等条約を押しつけられたのだ。危機から日本を脱却させるには主権国家としての内実を整備し、みずから文明国となるより他に道はない。そういう新しい自我が形成されたのだとみることができる。
 他者を徹底的に正確に認識し、そこから新しい自我を生み出そうとする意思において、明治維新の指導者にはきわめて強いものがあった。そのことを端的に示すものが岩倉使節団の欧米派遣である。
 それは外務卿である岩倉具視を特命全権大使とし、副使に参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務省次官補格の山口尚芳の4名、さらに、専門の調査事務官、随員、留学生43名を加えた総勢108名の大デレゲーション(派遣団)であった。
 明治維新政府の中枢部がデレゲーションを組んで、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、その他、全12カ国を、実に1年9カ月にわたり訪問し、精細な観察を繰り返したのである。新生明治政府それ自体が、ユーラシア大陸を長躯一巡したかのごとき壮図であった。
 岩倉らの出発した明治4年(1871)11月といえば、その7月に、不測の事態を想定して7000名に及ぶ御親兵を集めたうえで、その遂行によって、初めて明治維新がなったと言っていい廃藩置県を敢行、幕藩体制を切り崩したばかりの時期であった。
 これに不満をつのらせる旧藩の諸勢力が、各地で反抗の刃を研いでいた。新政府の中枢がこぞって2年近くも日本を留守にすることなど、想像さえできない不穏な時期であった。しかし、明治政府はそれをあえてやったのである。
 廃藩置県こそが明治維新の維新たるゆえんである。鎌倉幕府の源頼朝によって始められ、江戸時代にその完成期を迎えた幕藩体制と呼ばれる、徳川幕府を中央政府とし、二百数十の、多分に自立的な諸藩を配して形づくられてきたシステムの大転換である。
 中央集権と地方分権の均衡のうえに成立してきたこのシステムを、一挙に廃止して中央集権的国家とする。府県を設置して中央政府の意を体した知事を中央政府から府県に派遣し、この知事が全権をもって地方を統治するという「革命」であった。
 それにしても、この時期、なぜこんな大きなリスクを賭したデレゲーションを明治新政府は列強に就航させたのだろうか。他者たる文明国を、政府のトップが身をもって徹底的に研究し、自我形成をより優れたものにするためであった。
 維新に成功したとはいえ、主権国家の国づくりのテキストは何も用意されていなかったのである。廃藩置県が成り、旧体制は崩れたとはいえ、どういう国づくりをやったらいいのか、明治政府にはその具体像がどうしてもつかめない。そこで、文明国の文明国たるゆえんを、新政府の執行部が自分の目で観察しようとしたのである。
 幕末に強圧的に結ばされた不平等条約の撤回も、使節団の目的であった。しかし、最初の訪問国、米国で不平等条約改正は時期尚早であることにすぐ気づかされる。
 条約改正には、国内統治を完全なものとするための法制度の拡充、生産力と軍事力の増強を図ることが不可欠である。欧米列強と対等なレベルの文明国にならなければ、条約改正は困難だと悟らされたのである。
 使節団は産業発展の重要性を徹底的に悟らされ、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治、宗教など、実に、文明のありとあらゆる側面について学んで、帰国した。この使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力であったといっていい。
 その後の富国強兵・殖産興業政策が、さらには憲法と議会制度が次々とあきれるほどの速さで実現されていったのには、岩倉使節団の体得した知恵があったからだといっても過言ではない。
 これほどの「自我形成」を往時の日本の指導者はやったのである。
 米国の覇権力が後退し、中国の膨張がとめどもない。朝鮮半島は一触即発の様相を呈している。この状況にあってなお日本は、憲法第9条の改定にすら逡巡し、「モリカケ」だの「日報」などをテーマに政争をつづけてやむことがない。
 「事の軽重」がわからなくなってしまうほどに、日本の政治は劣化してしまったのか。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ。


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