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2018年、平成30年はあの明治維新からちょうど150年。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ

2018年9月17日号 週刊「世界と日本」第2133号 より

明治維新150年

今、岐路に立つ「日本外交」

地政学的視野からの国際認識が不可欠

 

元在仏日本大使館公使 東京外国語大学国際関係研究所所長 渡邊 啓貴 氏

パワーシフトと日本外交の環境変化

 今世紀に入って中国の台頭はめざましい。いわゆるパワーシフトの議論だ。その対応には日米防衛協力の強化だけが突出しているばかりで、パワーシフトそのものが世界やアジアの国際構造に与える影響について、その本質的議論は中途半端に終わったままとなっている。
 もちろんその背景には、パワーシフトとはいえ、現実にはアメリカのパワーは揺るぎないという楽観論がある。確かにこの10年や20年のうちに中国が総合力で、アメリカと対等なパワーになると本気で考えている人はいない。
 しかし、中国の台頭による国際秩序の構造的変化が起こり始めているのは確かで、その意味では明治維新以後150年たって日本外交は、アジアにおける歴史的に経験のない新しい事態に直面している。
 歴史的に日本外交はパワーの庇護の下での安定と繁栄を目指すことに概ね腐心し、成功してきた。幕末以前の日本は、「大陸大国」(ランドパワー)中国との朝貢貿易を通した中華圏の構成国だったが、中国の衰退後、日本外交は「海洋大国」(シーパワー)である英米との同盟関係を基軸とするようになった。
 例外的に不幸な時期が、1930年代初めから第二次世界大戦終結までの期間であり、米欧の助力で大陸進出政策を強化した日本は、勢い余って米欧列強と衝突してしまったというのが大筋である。
 英米協調路線というのは、近代以後の日本外交の国益重視のリアリズムだったことは確かで、同時にそれが国際秩序安定にも貢献した。それは大陸の潜在的パワーが脆弱であるという前提があったからだ。その前提が今崩れようとしている。だとすれば、日本外交の再考と軌道修正は不可避であろう。

地政学的に見た日本の位置づけ

 そのためには、広くユーラシアの地政学的視点からの国際認識が不可欠である。
 私たちは日ごろ、日本海の対岸にあるものとしてユーラシア(アジア大陸)を眺めている。日本外交は日米同盟を第一としており、外交的親近感は、むしろ距離では遠い太平洋の対岸であるアメリカの方にある。
 それでは日本海は、日本とユーラシア大陸を分断する海域なのか、それとも両者をつなぐ「内海」のような存在なのか。
 富山県が発行している、日本海を中心にすえた有名な「逆さ地図」というのがある。日ごろ見慣れている、太平洋を中心に東西の位置関係を示すメルカトル図法に対して、この地図は日本海を真ん中に置き、地図の上側に日本列島、その下側にユーラシア大陸を位置づける。
 「内海」である日本海を挟んで、ユーラシア大陸と日本はひとつの経済圏・運輸交通圏として見る方が自然だ。当然、富山をはじめとする日本海側の都市がそのためのハブとなる。
 もともと「ランドパワー(ユーラシアの大国、中国・ロシア)」と「シーパワー(海の大国、米英)」に挟まれた日本は「緩衝国(バッファー)」の位置にある。両者が対立するときには、日本は大陸と太平洋の両方から見た二重の防波堤の存在だ。
 つまり日本外交は、日本を挟むランドパワーとシーパワーとの関係に強く影響される。したがって日本が主体的な外交を展開するのはもともと難しい。
 陸海両パワーの関係が良好であれば日本列島は、交通と商業の要衝地として安定と繁栄の中心地域となるが、両者が対立する場合には、どちらか強い方につくか、きめ細やかな均衡外交を巧みに操っていくしかない。日本外交はもともと他律的性格が強いのである。
 ユーラシア情勢の変容をしっかりと把握する必要性がこれまで以上に強くなった。日本にとってパワーシフトは極めて深刻な事態なのである。

開かれた「ユーラシア+太平洋」

 しかしそのことが十分には意識されていないのが現状だ。冷戦終結後1990年代、2000年代前半に日本外交がユーラシアに注目した時期があった。しかしその後の日本外交は、対中国・北朝鮮外交を最優先させる立場に集中している。
 本年1月の河野外務大臣の国会演説は、日米同盟強化、近隣諸国(中国・韓国・ロシア・ASEAN)との協力、自由貿易体制、地球規模課題の解決、対中東政策強化、自由で開かれたインド太平洋戦略の6つの柱を掲げている。
 しかし、ヨーロッパや中央アジアを含むユーラシア全体への認識と見識、その対応については明確には論じられていない。長期的視野からのユーラシア全体の将来的な動向と、それに対する日本および日米同盟の対応は明確ではない。

日本外交の論点

 今後の日本外交は、ランドパワーとシーパワーの間で、様々な不可測的要素を考慮しつつ、正確な現状把握を通して柔軟かつ多角的に対応していく発想を持たねばならない。筆者なりの表現で言えば、それこそ真の意味での「リアリズム」である。
 本年初頭以後の米朝関係をめぐる議論の中で、日本外交のスタンスが不明確であることは世界のメディアが指摘したことだったが、背景には日米関係のなかで自己完結しがちな日本外交に対するじれったさがある。日本外交には柔軟な発想からの自立した見識が求められる。そうした見識による外交は容易なことではない。しかし、そのために努力する姿をまず世界に明らかにすべきである。
 そのための鍵はどこにあるのか。
 日本は世界有数の総合的国力を有する安全な国として高い信頼を得ている国だ。「信用性(クレディビリティー)」を基礎にした良いイメージをもつ国、「国家ブランド力」の高い国といえる。
 そのような国が、国際秩序の安定(グローバル・ガバナンス)のために、長期的かつ広範な視野からの構想をいかに示していくのか、それこそ今日の日本外交の真の論点である。
 これは理想論だが、そのための日本に対するアジア諸国の期待は大きい。それは容易ではないが、日本はそれを担うべき立場にある。今世紀に入って日本が中心となって称揚してきた「人間の安全保障」概念の定着は、日本の平和国家としてのブランド力の成果だ。
 「自由で開かれたインド・太平洋」は同盟戦略上重要だが、同時に日本外交の立ち位置から、その射程はユーラシアや世界の安全と平和のための広い視野を持ったものである必要があるだろう。さもなければ、中国を含むアジア諸国に対する日本外交は、普遍性のない説得力に欠けた一方通行的な外交にしかならないであろう。
 地政学的なリアルポリティーク(現実的・合理的な政治)の上に立ちつつ、同時に自らの利益の追求だけにとどまらない。普遍的な価値を相伴った日本外交は「真の現実主義」でもある。
 日本が近代化して150年がたち、太平洋戦争という過去の轍(わだち)を克服し、成長した姿をどのようにして世界に見せることができるのか。日本外交は今、岐路に立っている。


2018年8月1日号 週刊「世界と日本」第2130号 より

明治維新150年

波乱の歩み、バトンは新天皇に

 

文教大学名誉教授 宮本 倫好 氏

 来年春、平成が終わる。明治維新以来の150年は、4人の天皇がその地位にあったが、私は半分を優に越す年数を生きた。大戦と敗戦、廃墟からの復興、躍進、停滞という最も激動的であった昭和のほとんどを体験し、大戦の償いとともに、成熟国家を模索した平成もほぼ見届けた。それは普通なら数世代分に匹敵する得難い体験の集積でもあった。

《みやもと・のりよし》 1930年和歌山県生まれ。神戸外国語大学英米学科卒。コロンビア大学修士課程修了。フルブライト・スカラー。産経新聞・ロンドン、ニューヨーク特派員、編集委員室長などを経て文教大学教授に。理事・国際学部長、副学長を経て現在、名誉教授。他にスピルハレット大学名誉客員教授など。『アメリカ民族という試練』(筑摩書房)、『大統領たちのアメリカ』(丸善)など著書、訳書多数。

 明治は「欧米の植民地か、近代国家への脱皮か」という厳しい選択の中で幕を開け、世界に類の少ない成功例として、新国家への建設を軌道に乗せた。しかし、その道を驀進(ばくしん)する中で、将来の滅びの萌芽を内に抱えていたのは悲劇だった。
 明治はその統一新国家の中心に天皇を据えた。道徳的、儀礼的権威を維持し続けてきたのが天皇家だ。明治維新は幕府の上に立つその権威を利用して、攘夷という強烈な酒精分で民衆を酔わせ、倒幕に成功した。下級武士たち中心の新政権にはしかし、新国家の明確な青写真はなかった。ただ討幕に成功すると、攘夷の方針を180度切り替えて開国し、欧米列強を急追する。その手口は手品のように鮮やかだった。
 まず登場するのが岩倉具視を団長とする欧米視察団。「世界のどこに新国家ができて早々、革命の主力が外国視察に出かける国があるか」と司馬遼太郎は半ばあきれ、半ば感動的に書くが、このナイーブなまでのひたむきさは、以来日本人の骨格の重要な一部を形成する。
 その結果、モデルに選ばれたのが議会制民主主義国の英米ではなく、帝政プロシャだ。廃藩置県という第2の革命にも成功し、憲法も制定して、国民国家の成立という最大の課題を果たす。順調に国力を充実させた日本は、日清、日露の戦争にも勝利して、世界の強国への道を確実なものとする。
 この時の驕(おご)りが、後年無謀としか言いようのない太平洋戦争突入の遠因となった。その背景には、自己過信の軍部が天皇の権威に直結する統帥権、帷幄(いあく)上奏権などを得て、議会や政府を超えた独裁権力を確立した。
 必然的な帰結が史上初の敗戦だったとすると、明治の功業はいったん無になったのか。私は戦後の旧制中学の歴史の授業で、後年有名な大学教授になった教師から「明治維新の不徹底さを今度の敗戦で完成できる」と教えられた。
 敗戦処理の最大のポイントは昭和天皇の戦争責任問題だった。私個人の感想は、当時の南原繁・東大総長の次の言葉に尽きる。「昭和天皇には法的にはともかく、道義的には戦争責任はある。しかし天皇ご自身は、それを十分ご承知だと思う」。
 降伏直前のギャラップ調査では、米国民の計70%が「天皇は処刑または終身刑、あるいは国外追放に値する」と答えた。米世論は天皇が戦争の最高責任者であると認めていたのだ。
 これに逆転の影響を与えた一人が戦前の10年間、最後の駐日大使だったジョセフ・グルーである。戦争勃発後半年間を米大使館で幽閉されたが、帰国後、「天皇は戦争を望んでいなかった。単なるシンボルに過ぎず、真珠湾攻撃にも責任がなかった。戦後の日本の再建には、天皇制は不可欠」と主張し続けた。
 また戦後、天皇と単独会見したマッカーサー司令官が、天皇制存続に対し、米政府に与えた助言も決定的だった。「全責任は私にある」とする昭和天皇の潔いご発言は、総司令官を心底揺すぶった、と回顧録にある。
 私が昭和天皇のお姿を拝見したことは2度あった。1度は戦後の全国ご巡幸で郷里に来られた時だ。「天皇は国民に、『すまなかった。頑張ってくれ』」というメッセージを、内心で懸命に送っているのではと、現場で感じたものだ。
 2度目は、戦後30年に当たる1975年のご訪米に同行取材した時だ。これは実質的に戦中の日米関係を清算する、いわば「謝罪旅行」であり、日米新協調時代の幕開けに、と両国政府が綿密に仕組んだものだった。
 まず訪問されたディズニーランドで、昭和天皇、皇后の席へ数人の米国人の子どもたちが集まった。すると天皇は、そばに座った子どもの頭を懸命に撫でた。それは微笑ましい光景だったが、いかにもぎごちなかった。
 他人の子どもの頭など撫でたことはなかったであろう天皇にすれば、ぎごちないのは当然だ。だが私は「こうすることが日米親善になる」と信じ切って、懸命に努めているのであろう天皇の、愚直なまでの姿に感動した。
 ホワイトハウスでの大統領主催の晩さん会では、昭和天皇は「先の大戦への反省」を、とつとつと述べた。翌日のヤンキー・スタジアムでの野球観戦では、天皇来訪のアナウンスに、中年男性客が大声で叫んだ。「よう来たのう。わしゃ、その勇気には感服したわ」。多少の皮肉はあったが、拍手もわき、「もうこれで、戦争のゴタゴタはケリにしよう」という米国民衆の率直な思いがこもっていた、と私には思えた。
 間もなく終わる平成の現天皇、皇后のこれまでの歩みは、国民のための祈りを重視し、ストイックな公務への姿勢が目立った。広島、長崎、沖縄、サイパンなどの戦跡ご訪問には、先帝の戦争責任への償いの気持ちがよく表れていると思うし、震災などの被災地ご訪問では、時には地べたに座られて、被災者と同じ目線で慰められる。これは新しい皇室像を自覚されたお姿であろう。
 皇后さまと親交のある作家・末盛千枝子さんが書いていたが、平成26年の天皇の心臓手術後、皇后さまと二人で葉山を散歩されていた時のこと。勤務途中の男性が車を止め、道を横切ってきて「陛下、およろしかったですね」と明るく声をかけ、そのまま車で走り去った。この時皇后さまは「しみじみとした幸せを感じた」と述べられた。現在の国民と皇室の関係が凝縮されている話だ。
 両陛下が求め続けられた新しい皇室像。「武力を持たない天皇制は日本人の知恵の中で一番聡明なものだった」とは、戦前の皇国史観を壮大な虚構と見る司馬遼太郎の天皇観だ。思想家の内田樹は、「政治権力と天皇制の持つ道義の力の二原理が併存し、中心が二つの楕円的な仕組みは、生命力も復元力も強い。日本の統治方式は一つの発明だ」といっている。
 やがて平成が終わり、維新以来150年の波乱の実績の上に、バトンは新天皇に引き継がれる。新しい天皇制の定着を心から望みたい。


2018年7月16日号 週刊「世界と日本」第2129号 より

明治維新150年

真摯な検証作業で歴史を正せ

近代化のスタートは幕末だった

 

大阪学院大学 経済学部教授 森田 健司 氏

 改めて言及するまでもなく、明治維新という単一の歴史的事件は存在しない。我々は、江戸幕府が崩壊してから、明治新政府の統治権が確たるものになるまでの、一連の出来事を、便宜上そう呼んでいるだけである。しかし、「明治という元号」に改められてから、今年が150年目に当たるということは間違いない。このタイミングに、当該期を再確認することは、国の行く末を考える上でも、極めて有意義であると思う。

《もりた・けんじ》
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒。同大学大学院人間・環境学研究科を経て、現職。博士(人間・環境学)。専門は社会思想史。特に、江戸時代の庶民思想の研究に注力。著書に『西郷隆盛の幻影』、『江戸の瓦版』、『明治維新 司馬史観という過ち』、『石門心学と近代』、『外国人が見た幕末・明治の日本』など多数。

 幕末・維新期の実相を知る上で、最も大きな障害となるのが、当該期を舞台としたフィクションの数々である。そこでは、激動の時代の中で波乱の人生を送る、極めて個性的なキャラクターたちが活躍する。
 それは例えば、坂本龍馬であり、桂小五郎であり、西郷隆盛であり、大村益次郎であり、勝海舟である。困ったことに、創作されたキャラクターたちは、確実に実像を上書きしていく。だから、相当自覚的にならない限り、当該期の実相に到達するのは難しいのである。
 例えば現代人の多くは、当時の国際環境からみて幕藩体制は「旧き悪しき」ものであり、近代的体制への転換のため、幕府は倒されたと認識しているはずである。身分制度から人々を解放し、個人の能力に応じて仕事を選択する世を招来するためには、幕府を転覆させなければならなかった、と思っている向きも多いだろう。しかしこれらの話は、史実を参照すれば、単なる錯誤であると判明する。
 実力主義による積極的な人材登用が始まったのは、阿部正弘が老中首座に就いた1845(弘化2)年以降のことであり、明治に改元される、はるか以前の話である。また、黒船来航の後は、阿部はさらなる改革を実行している。
 具体的には、大船建造の解禁や、海岸の防衛強化、講武所と蕃書調所の設立などである。阿部の改革は、何より列強の動きを意識したものであり、これ以降の日本は、さまざまな意味で急速に近代化していく。
 つまり、近代化自体のスタートは、明らかに幕末である。しかもこれは、専ら上からの指令に従った近代化などではない。職人たちの高い技術、整備された陸運と水運、高い識字率と活発な出版文化など、戦の絶えた時代を通じて成長し、蓄積された諸条件によって、はじめて可能となったものなのである。
 フィクションによって広まった誤解の一つに、日本初の株式会社は坂本龍馬の海援隊だ、というものがある。これは、資本と経営の分離、および出資者に収益の一部を還元することから考えられた仮説だったが、その仮説が無批判に国民的作家の作品に取り入れられ、既成事実化したものである。
 株式会社という先進的な組織の祖が、薩長に近しい龍馬であるとの説は、確実に維新にポジティブなイメージを付与した。
 しかし、実は「海援隊=株式会社」説は、発案者である経営学者の坂本藤良によって、明確に否定されているのである。彼は、海援隊の前身である亀山社中の「社中」の語から、このような誤解が始まってしまったと告白している(『幕末維新の経済人』)。加えて、もし、正当に日本初の株式会社というものを選定するならば、それはおそらく1867(慶応3)年6月に創設された兵庫商社だろうとも主張しているのである。
 兵庫商社は、役員を決め、定款を備えた、貿易を主体とする商社である。設立したのは、幕臣の小栗忠順だった。日米修好通商条約批准のために渡米し、彼の地の状況を視察したこともある小栗は、横浜造船所の創設などにも取り組み、日本の近代化に尽くした。しかし、その功績は十分には評価されていない。それは、彼が強硬な佐幕派だったことによるものだろう。
 新政府軍に対して徹底抗戦を主張した小栗は、それによって免官となり、領地である上野国権田村に帰る。そこで、無抵抗なままで新政府軍によって捕縛され、弁解も許されず斬首された。明治新政府にとって、幕府を強力な中央政府として再興させた上で、近代化を進めようと考えていた小栗は、最も目障りな存在だったからである。
 戊辰戦争において、新政府軍の合理主義が、旧幕府軍の非合理主義を圧倒したとの見方も、フィクションを通じて日本に定着している。しかし、小栗のことを思うとき、これほど屈辱的な話もないだろう。
 新政府軍が各藩を恭順できた理由は、天皇の威光を利用したことに加え、最先端の兵器を数多く所持していたからである。合理主義などとは一切関係がない。事実、最新兵器を十分に備えていた庄内藩は、最後まで新政府軍に負かされなかった。明治を日本近代のスタートとするための論理は、どれも瑕疵を抱えている。
 明治に入って以降、日本は「徳川家の専制」から解き放たれ、民主的な体制に転換できたのだろうか。とんでもない、薩長両藩出身者による藩閥政治が始まって、日本の上流階級がただ入れ替わっただけである。
 その極みが、一部官僚への権力集中、いわゆる有司専制だろう。莫大な給金を得て、薩長閥はどんどん貴族化していく。民主的でも、実力主義に基づいたものでもなく、出身地による露骨な差別が始まったのである。
 明治政府の歪みが理解できる証拠がある。明治時代を通して、内閣総理大臣となった人々の出身地は、山口(3名)、鹿児島(2名)、佐賀(1名)、および京都(1名)のみなのである。なお、京都出身の首相は第十二代西園寺公望で、彼は戊辰戦争で功のあった公家の出の人物だった。
 江戸を「徳川家の専制」というのならば、明治は「薩長の専制」の時代である。五箇条の誓文の精神は、明治政府において遂に実現することはなかった。
 明治改元から150年の今年、我々が行わなければならないのは、明治の国づくりへの手放しの礼賛などではない。維新という麗しい呼称の下、理不尽に失われたもの、誤解によって歪んだものを、真摯な歴史の検証作業によって、復活させ、また正すことである。
 それこそが、日本という国に正しい意味での尊厳を取り戻すものになると信じている。


2018年5月7日号 週刊「世界と日本」第2124号 より

明治維新150年
「岩倉使節団」を改めて考える

 

日本よ 新しい“自我形成”に目覚めよ

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

 私どもは自分がどんな顔の人間であるかを知っている。自分を「鏡」という他者に投影して、みずからを確認しているからである。自己が他者をもたず完全に孤立している状態にあっては、自己がどんな存在であるかを確認することはできない。それゆえ「自我形成」もあり得ない。私どもは他者が自分をどう認識し、評価し、対応するのかに応じて、自己を初めて悟り、自我形成をつづける、そういう存在である。

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『放哉と山頭火―死を生きる』(ちくま文庫)など多数。

 日本は、江戸時代を通じて平穏な時代を過ごし、欧米のそれに勝るとも劣らない成熟した社会と文化をつくりあげてきた。しかし、この平和の中で、日本は欧米列強に競合できるような産業力や軍事力を整えてきたわけではない。
 「海洋の共同体」としての日本は、四方を海で囲まれ、海によって守られ、外敵の存在を意識することなく、国内の統治に万全を期していけば、平和はおのずと守られてきた。少なくとも幕末まではそうだった。「自国とは何か」という自我は薄くしか形成されてこなかったのである。
 アヘン戦争を経て大国・清国が、列強によって次々と蚕食(さんしょく)されていくさまに目を見開かされ、ペリーの黒船来港によって強烈なインパクトを受け、日本の指導者は新しい自我形成を余儀なくされた。
 列強の目に映る日本は、文明国ではない。だからこそ、不平等条約を押しつけられたのだ。危機から日本を脱却させるには主権国家としての内実を整備し、みずから文明国となるより他に道はない。そういう新しい自我が形成されたのだとみることができる。
 他者を徹底的に正確に認識し、そこから新しい自我を生み出そうとする意思において、明治維新の指導者にはきわめて強いものがあった。そのことを端的に示すものが岩倉使節団の欧米派遣である。
 それは外務卿である岩倉具視を特命全権大使とし、副使に参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通、工部大輔の伊藤博文、外務省次官補格の山口尚芳の4名、さらに、専門の調査事務官、随員、留学生43名を加えた総勢108名の大デレゲーション(派遣団)であった。
 明治維新政府の中枢部がデレゲーションを組んで、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、その他、全12カ国を、実に1年9カ月にわたり訪問し、精細な観察を繰り返したのである。新生明治政府それ自体が、ユーラシア大陸を長躯一巡したかのごとき壮図であった。
 岩倉らの出発した明治4年(1871)11月といえば、その7月に、不測の事態を想定して7000名に及ぶ御親兵を集めたうえで、その遂行によって、初めて明治維新がなったと言っていい廃藩置県を敢行、幕藩体制を切り崩したばかりの時期であった。
 これに不満をつのらせる旧藩の諸勢力が、各地で反抗の刃を研いでいた。新政府の中枢がこぞって2年近くも日本を留守にすることなど、想像さえできない不穏な時期であった。しかし、明治政府はそれをあえてやったのである。
 廃藩置県こそが明治維新の維新たるゆえんである。鎌倉幕府の源頼朝によって始められ、江戸時代にその完成期を迎えた幕藩体制と呼ばれる、徳川幕府を中央政府とし、二百数十の、多分に自立的な諸藩を配して形づくられてきたシステムの大転換である。
 中央集権と地方分権の均衡のうえに成立してきたこのシステムを、一挙に廃止して中央集権的国家とする。府県を設置して中央政府の意を体した知事を中央政府から府県に派遣し、この知事が全権をもって地方を統治するという「革命」であった。
 それにしても、この時期、なぜこんな大きなリスクを賭したデレゲーションを明治新政府は列強に就航させたのだろうか。他者たる文明国を、政府のトップが身をもって徹底的に研究し、自我形成をより優れたものにするためであった。
 維新に成功したとはいえ、主権国家の国づくりのテキストは何も用意されていなかったのである。廃藩置県が成り、旧体制は崩れたとはいえ、どういう国づくりをやったらいいのか、明治政府にはその具体像がどうしてもつかめない。そこで、文明国の文明国たるゆえんを、新政府の執行部が自分の目で観察しようとしたのである。
 幕末に強圧的に結ばされた不平等条約の撤回も、使節団の目的であった。しかし、最初の訪問国、米国で不平等条約改正は時期尚早であることにすぐ気づかされる。
 条約改正には、国内統治を完全なものとするための法制度の拡充、生産力と軍事力の増強を図ることが不可欠である。欧米列強と対等なレベルの文明国にならなければ、条約改正は困難だと悟らされたのである。
 使節団は産業発展の重要性を徹底的に悟らされ、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治、宗教など、実に、文明のありとあらゆる側面について学んで、帰国した。この使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力であったといっていい。
 その後の富国強兵・殖産興業政策が、さらには憲法と議会制度が次々とあきれるほどの速さで実現されていったのには、岩倉使節団の体得した知恵があったからだといっても過言ではない。
 これほどの「自我形成」を往時の日本の指導者はやったのである。
 米国の覇権力が後退し、中国の膨張がとめどもない。朝鮮半島は一触即発の様相を呈している。この状況にあってなお日本は、憲法第9条の改定にすら逡巡し、「モリカケ」だの「日報」などをテーマに政争をつづけてやむことがない。
 「事の軽重」がわからなくなってしまうほどに、日本の政治は劣化してしまったのか。日本よ、新しい自我形成に目覚めよ。


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