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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2196号より>

    万葉時代の宗教意識

    おてんとうさまが見ている

    國學院大學文学部教授 上野  誠 氏

     《うえの・まこと》

     1960年、福岡生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程満期退学。文学博士。奈良大学文学部教授を経て2021年4月より國學院大學文学部教授。著書は『万葉びとの宴』(講談社新書)、『日本人にとって聖なるものとは何か—神と自然の古代学』(中公新書)、近著に『教会と千歳飴』(小学館)など多数。万葉文化論を標榜し、学界に新風を送っている。新作オペラも好評を博している。

    罪/罰、善/悪も相対的な日本文化

     こ数年、万葉時代の宗教意識について、考えている。

     日本社会というものには、契約の観念がないといわれることがある。事前に法が定められ、その法に定められた罪を犯した者は罰せられるという観念がない、ないしは薄いといわれる。読者のなかには、前に見た「天つ罪」と「国つ罪」はどうなのかといわれるかもしれないが、じつは、この罪には罰があらかじめ定められているわけではないのである。もちろん、罪を犯せば制裁はあるが、それが事前に定められているわけではないのである。スサノヲノミコトは、「天つ罪」を犯して追放されてしまうが、追放先の出雲では大活躍する。罪と罰の明確な対応関係がなく、善と悪の関係すら、その時々の状況によって異なるのである。スサノヲノミコトは、その典型だ。

     つまり、絶対的な罪と罰、善と悪の基準が日本社会には存在しないのである。ジャンケンでは、グーはチョキに勝つがパーに負ける。だから、グーの優劣は、相手次第で決まるということになる。ところが、コイン投げの場合は、表と裏の優劣は固定的だ。

     

    日本人は契約しないという契約をしている

     では、契約思想がないということは、無秩序かといえば、そうではない。おそらく、契約しないという契約をしているのだと思う。つまり、日本社会では、信頼をしている場合は、契約などしないのだ。お寺へのお布施は契約ではないから、和尚さんに聞くと「お心持ちでどうぞ」といわれる。では、1円でよいかといえば、そんなことはない。状況を勘案して額が決められてゆくものである。だいたいの相場というものがあるのだ。

     つまり、契約をしないということは、契約しないという契約をしているのと同じなのである。貸椀伝説も、契約のように見えて契約ではない。祈ったらお椀が貸してもらえるが、返却しなかった時の罰則があらかじめ定められているわけではないのだ。実際に椀を返さなかった不届き者への罰もない。

     日本文化圏での道徳的教育というものは、罪と罰との関係を学ぶことではない。私たちは、「おてんとうさまが見ているから悪いことをしてはいけませんよ」と教えられたが、何が悪いことかは教えられなかったし、悪いことにどんな罰があるかも教えられなかった。すべては、状況からその折々に考えよ、ということであろう。私たちは、神とも人とも、契約は結ばないのだ。あるのは信頼関係だけ。しかも、あまりにも漠然としたものだ。

     

    おてんとうさまが見ている

     しかし、それは自由でお気楽なものである、と考えるのはあまりにも浅はかだ。日々変わる状況のなかで、自分の行動を判断するのは自分だし、状況によって罪の基準も変わるから、うっかり大罪を犯すことだってあり得る。第一、「おてんとうさま」というけれど、神さまなのか仏さまなのか、何なのかよくわからない。よくわからないものが見ているというだけで、罪と罰の明確な基準すらもないのだ。ひとつだけいえることは、高いところから、ずっと見ているということだけだ。

     個別の契約を結ばないかわりに、無限に俺を信頼せよ、こちらも無限に信頼をしているぞといわれても困るだろうが、人間社会ははじめからそういうものだという前提で、私たちは生きているのである。この構造は、貸椀伝説とまったく同じである。

     相互に監視をしなくてはならないような関係は、日本社会では良好な関係ではないのである。契約しなくても、相互監視しなくても相手のことを思って、行動するという行動が日本社会では求められるのである。おてんとうさまが見ているというが、おてんとうさまは善人にも、悪人にも平等だ。悪人だからといって、照らさないわけではない。それでも、不正をしてはいけないというのである。

     だからこそ、逆にそのおてんとうさまのもとで、不正をするということは、大罪になるのである。

     

    契約のない社会はいじめの温床になる

     契約をしないでおこうという契約は、無限の信用を前提とするが、それは罰も無限になるということである。日本社会のいじめの構造も、じつはここにあるのだ。信頼を裏切った者には、何をしてもよいことになるからだ。集団内の秩序を守らない者を、その社会で生きてゆけなくするのだ。政治家の政党除名も、過激派のリンチも、構造だけを見るなら似ている。

     じつは日本社会におけるいじめというものは、敵対的関係から生まれるものではないのである。むしろ、仲間から生まれるものなのである。ちょっとでも、いじめ問題を扱った学校の先生なら、よくわかることだが、いじめられた生徒が数カ月前いや、数分前までいじめていた生徒であるということは、よくあることだ。むしろ、いじめは共同体を維持するために、敵を作って団結する行為なのである。だから、生徒間で聴き取りをすると、いじめた側も、いじめられた側も、友達だと互いに主張することが多い。だから、厄介なのである。なぜならば、仲間内での無視や暴力を止める力が働かないのである。いじめをやめさせようとすると、今度は自分がいじめられるのである。

     もうひとつ日本型いじめには、重要な特徴がある。それは、日本型のいじめは常に一対多なのである。この特徴は、日本型いじめが、共同体を維持するために行われる行為だからである。

     

    「おてんとうさまが見ている」は恐ろしい道徳教育

     ここまでの議論は、日本人が大好きな話なのだが、これはじつに恐いシステムであることも忘れてはならない—。日本社会では、無人スタンドの泥棒や賽銭どろぼうをした人は、発覚した場合、仮に罪を償ったとしても、永遠に社会的に信用されない。全人格が、理由の有無を問わず否定されてしまうのである。本人が社会から排除されるだけならよいが、「うわさ」という制裁は家族にも累が及ぶし、うわさは逃げても逃げても追いかけてくる。しかも、それはたった一度でも、数度でも同じなのだ。信頼回復のチャンスなどない。

     「おてんとうさまが見ている」は、じつに恐い道徳教育なのである。

     

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