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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2213号より>

    確かな未来を実現する国を目指して

     国家とは本来、歴史の上に成り立つものである。令和4年は一体、どのような一年になるのか。わが国の未来を確かなものにするためには、過去を振り返ることが欠かせない。昨年起きた出来事を復習することから始めよう。

     

    日本大学 危機管理学部教授

    先崎 彰容 氏

    《せんざき・あきなか》 1975年東京都生まれ。専門は近代日本思想史・日本倫理思想史。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院博士課程修了後、フランス社会科学高等研究院に留学。著書に『未完の西郷隆盛』、『維新と敗戦』、『バッシング論』、『国家の尊厳』など。

     先の自民党総裁選で、岸田文雄氏が最初に掲げたのは、「小泉政権以来の新自由主義政策の転換」であり、「成長と分配の好循環」であった。これは要するに、1990年代に始まり、2000年代に決定的になった「新自由主義経済」のあり方を是正するという宣言であった。停滞する日本経済を成長軌道に再び乗せるためには、新しい発想による新しい市場の創造が必要である。従って、これまで政府が規制をかけてきた分野を解放すること、すなわち規制緩和と市場競争の導入が正しいとされ、個人間の競争を促す政策がとられたわけである。

     面白いのは「個人主義」という言葉への評価である。1980年代、バブル経済の絶頂期を支えたのは、企業戦士と呼ばれる企業に所属するサラリーマンたちだった。「24時間、戦えますか!」という栄養ドリンクのCMを覚えている人もいるだろう。好景気を背景に、このサラリーマン家庭の子供たちは、自分たちは親世代のように企業に所属せず、自己実現を目指したい、夢を追いかけたいと主張した。「フリーター」はその象徴であり、100%肯定的な個人主義として登場してきたのである。

     ところが、新自由主義政策は、経済成長を生み出さなかった。規制緩和は新規参入を許すから、勢い、競争が激しくなる。結果、サービスを受ける側からすれば、サービスは向上し価格は下がりよいことばかりに見える。

     しかし企業側からすれば、価格競争にのめり込んでデフレ基調の中で収益の拡大が見込めず、勝ち組と負け組が現れた。負けないためには人件費を抑えるのが一番だ。非正規雇用は激増したが、経済は成長しなかった。ただ単に雇用不安定だけが、もたらされたのである。その結果、個人主義で自由な自己実現の象徴だった「フリーター」は、自由人ではなく「非正規雇用」と訳すのが正しいということになった。同じ働き方、生き方であるにもかかわらず、時代背景によって肯定的にも否定的にもなるということだ。

     にもかかわらず、筆者は明確に覚えているが、新型コロナ直前までの日本では、再び、個人主義的な生き方を肯定する言葉が溢れていた。それが「フリーランス」という言葉である。企業に所属していると、新しい発想が形になるまで時間がかかる。意志決定までに時間がかかりすぎてしまう。その点、所属をもたないフリーランスな生き方は、意志決定までの時間が早く、迅速に行動でき、小回りが利く。かくして、フリーター➡︎非正規➡︎フリーランスと、表面的な言葉だけを変えて、同じ生き方が肯定と否定の間を行ったり来たりしていたわけだ。

     コロナ禍が明らかにしたのは、フリーランスが、いかに脆弱な足場に上に成り立った働き方だったのかということだった。一例を挙げれば、夫がフリーカメラマン、妻がベリーダンスの教師だった夫婦は、瞬く間に収入を奪われた。結婚式がなければ撮影の仕事はないし、教室は閉鎖しなければならないからだ。こうした不安定な職業形態を、「新しい発想」を生むと見なし、肯定してきたのが、コロナ直前までの日本だったのである。

     以上の新自由主義政策を批判して、岸田内閣は発足した。誕生直後に話題をさらっているのは、2度目の10万円をどのような方法で給付するかについてである。だが、こうした目先の政策に一喜一憂し、全額現金か、それともクーポンかをめぐり、新聞・マスコミ・政治家を含めた大人たちが大騒ぎしている光景は、端的にいえば間違いである。日本人の精神が萎縮し、近視眼的となり、大きな視野を失っているからだ。

     令和4年の今、必要なのは「令和日本のデザイン」すなわち新しい日本の国家像である。大きな視野をもち、国家の基本である歴史を振り返り、未来に確かなビジョンを持つことである。では具体的に、令和日本はどのようにデザインされるべきか。新年にあたり、一つの具体的提言をしておくことにしよう。

     すなわち今後、成熟社会となる日本では、経済成長だけでなく「文化」を重視すべきである。日本は国家戦略として、自らの文化を売り込み、発信し、魅力を宣伝する能力を決定的に欠いてきた。例えば昨年、政府は甘利明氏を中心に、10兆円規模の大学支援ファンドを創設した。

     しかし注目されているのは、次世代科学技術の活性化、すなわち理系の大学教育の充実である。大学教育への投資は、圧倒的に理科系に重点が置かれがちである。先進諸国同士の激しい技術開発競争に勝ち、アメリカに人材が流出しがちな状況を防ぎ、ひいては国家の基礎を支える理科系人材を要請する—。

     それ自体は誠に結構なことだ。しかし一方で、人文系が徹底的に無視されているのが現状だ。だが「文化」とは本来、その国の国柄を決定し続けてきた資産であり資源でもある。その資源を国際社会に向けて発信する人材を要請し、世界で活躍してもらうことは、長期的な視野から見た場合、先端技術開発者と同じだけの重要な意味をもつ。なぜなら、先端技術はいったん諸外国との競争に負ければ後(こうじん)を拝さねばならないが、「文化」はそれぞれが独自の魅力を持っている以上、競争とは無縁の営みだからである。日本は日本に固有の強みを見つけ出せば、他国とは全く違った土俵で戦うことができるのだ。

     今後、日本社会は成熟時代を迎える。いや、すでに迎えている。その時、岸田内閣が掲げる「新自由主義」批判が、単なる「成長と分配の好循環」といった、経済的な問題に終始し、国民にカネをばらまく仕方だけが話題になるのは、政策として間違っている。「新自由主義」を転換するためには、「文化」を全面に打ち出し、競争原理とは違う土俵で日本のプレゼンスを世界に広げていくことだ。

     確かな未来のビジョンは「文化」にあるのである。

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