Coffee Break<週刊「世界と日本」2216号より>
18歳成人社会を考える
千葉商科大学
国際教養学部准教授
常見 陽平 氏

《つねみ ようへい》
1974年生まれ。北海道出身。一橋大学商学部卒業。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。㈱リクルート、玩具メーカー、コンサルティング会社を経てフリーに。雇用・労働、キャリア、若者論などをテーマに執筆、講演に活躍中。千葉商科大学国際教養学部専任講師を経て現職。著書は『社畜上等!』、『なぜ、残業はなくならないのか』、『「就活」と日本社会』など多数。
毎年、成人の日の各紙社説を楽しみにしている。若者に限らず新聞離れが進む中、一度も新聞を読んだことがない人も多い新成人に対して、社説でエールや説教を届けるのは、無理がないか。いくら熱弁をふるっても届かないのだ。
むしろ、新聞を読んでいる保護者や管理職世代に対して「ちゃんと言ってやりましたよ」とアピールしているかのように見える。
この「成人の日社説」で今年、各紙で触れられていたのは「18歳成人」の件である。成人の定義が今年の4月1日より20歳から18歳に変更になる。不動産、スマートフォン、クレジットカードなどの契約を「新成人」は保護者の同意を必要とせずに結ぶことができるようになる。既に導入されている「18歳選挙権」と合わせた。18歳成人社会に大きく変わる。
裁判員として選ばれる可能性もある。長年、男女で結婚可能な年齢に差があり、女性は16歳だったが、今回、18歳に統一された。なお、飲酒、喫煙、ギャンブルなどはこれまで同様20歳である。成人式の参加者を何歳とするかは、各自治体が個別に検討するようだ。
諸外国では18歳で成人する国も多数ある。「成人」とは何か、長年に渡る熟議を重ねた結果なのだろう。18歳を子供扱いしないとも言えるし、若い国民の権利拡大とみることもできるだろう。しかし、なんとも曖昧な違和感を抱いてしまうのはなぜだろうか。
「成人する」と「大人になる」というのは似て非なるものである。特に後者は複数の意味を含んでいる。精神的・肉体的な成長、法律上の意味、社会的な意味などである。特に精神的、社会的な意味ではそうだ。18歳なり、20歳なり「成人」の基準をこえていたとしても、「大人」になれるわけでも、そうだと認められるわけでもない。中高年になっても「あの人は子供だ」「大人げない」と言われるように、精神的、社会的に大人になれないという人たちがいる。
法律上の成人と、精神的・社会的な大人はイコールではないものの、当事者不在で成人であることや、「大人性」のようなものを押し付けているようにも見える。
若年層の権利拡大のようで、政治や経済の論理で「票田」「市場」を開拓しているかのように見える。18歳選挙権が実現して数年になる。若者が政治に関心を持つことは否定しない。
また、一部の若者は社会問題全般に興味を持ち、社会を変えようと思っている。「Z世代」と呼ばれる若者が、政治、男女平等、環境問題などについてNPOを立ち上げたり、社会運動を起こしている。
ただ、すべての若者が社会を変えたいと思っているわけではない。政治や社会問題に関して無関心な若者が、無批判な状態で権力に手なづけられるのもまた危険ではないか。穿った見方をすると、有権者を2学年分増やし、上手く手なづけるための政策のようにも見えてしまう。
「若者の○○ばなれ」という言葉をよく見かけるが、実際は「お金」と「時間」の若者離れが起きている。大学生をみていても、学生生活をなんとか維持するためにアルバイトをせざるを得ない状態になっている。
自身が苦しい環境に追い込まれているがゆえに、政治などに関心を持つことも期待したいのだが、考える余裕すらない。「学生」の「労働者化」が進んでいる。左翼のアジ演説の呼びかけで「学生、労働者諸君!」というお決まりのフレーズがあるが、気づけば学生は労働者になっていたのだ。
各種契約が18歳から可能になるという件については、若年層の顧客化という意味もある。もちろん、アルバイトなどで収入を得ることができる状態にあっても、保護者の承諾なく契約を結べないという状態を容認するわけではない。保護者との関係が崩壊している若者にとっては、経済的な自立を実現する施策だとも言える。とはいえ、世間知らずの若者が無知なまま不利な契約を結ぶというリスクは避けなくてはならない。とくに、クレジットカードの契約などは多重債務者を生み出す可能性は意識しなくてはならない。
私はロスジェネ世代であり、第二次ベビーブーマー世代である。18歳人口が約200万人いた世代である。ちょうど成人する頃は、大きな市場が生まれることを期待したのか、私たちの世代を狙いうちにした広告が大量に投下された。今後、生涯に渡って商品・サービスを使い続けるお客様となることを期待したのだろう。クルマ、酒、タバコなどが特に顕著だった。若者向け雑誌を見ても、いかにしてこの層を取り込むかに躍起になっていた。もうバブルが弾けた後だったが、その残り香はあり、とにかく派手な広告攻勢だったことを覚えている。
いまの18歳は私たちの頃の約6割程度の人数ではある。とはいえ、成人が18歳になったことにつけこんだ消費喚起が行われていないか。都合よく利用していないか。消費者トラブルにつながるだけに、注意しなくてはならない。
私はどちらかというと、自由な社会、選択肢の用意された社会を熱望する立場である。一方で、日和見主義的に聞こえるかもしれないが、何でもかんでも自己責任だと断じる社会に対しては反対である。
この18歳成人については、一見すると若者を一人前として扱い、権利を拡大するものだとも捉えられ、私は賛成派として声をあげるべきなのだろう。
しかし、そこでイエスと胸をはって叫べないのはなぜか。それはこのように、若者への権利拡大、大人扱いを装い、巧妙に思い通りにコントロールできる有権者、消費者を増やそうとしていないかという色を感じるからである。
冒頭で紹介した成人式社説も、「大人の自覚」などを若者に呼びかけるのは、正論のようで、気をつけないと老害芸になってしまうことをメディア関係者には意識してもらいたい。若者を取り巻く環境が決して恵まれた状態ではない中、「自覚」などと言われなくても彼ら彼女たちは厳しい社会をいきなくてはならないのだ。
そして、都合のよいときだけ「大人の自覚」を持ち出し、若者に権利を装った義務を押し付ける社会はいかがなものか。
あらためて、大人とは何か。どのようにして大人になるのか。これを機会に考えたい。