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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2220号より>

    沖縄本土復帰50年に想う

    外交評論家

    加瀬 英明氏

    《かせ ひであき》

    1936年、東京生まれ。慶応、エール、コロンビアの各大学で学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。著書は『グローバリズムを越えて自立する日本』『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』ほか多数。

     

      この5月15日は、沖縄本土返還の50周年に当たる。4か月後の9月に、日中国交正常化の50周年が巡ってくる。この50年間、世界が何と大きく一変したことだろうか。

     

     佐藤栄作首相といえば7年8か月にわたる長期政権を維持して、「官僚政治」に頼り「対米依存を深めた」といって評判がよくないが、沖縄返還を実現して日米同盟関係を強固なものとしたのを称えるべきだ。

     とくに、まだ30代だった若泉敬京都産業大学教授を密使として起用して、ニクソン政権を相手に5年にわたって極秘裡に交渉した結果、沖縄返還という金牌を手にした炯眼(けいがん)は、一流の政治家だった。官僚に頼ったとすれば、50年前に沖縄が祖国のふところに戻ることはなかったろう。

     岸田文雄首相が3月7日に参院予算委員会で、「『非核三原則』は日本の国是だ」と発言した。首相は沖縄返還に当たって米国が有事の際に核兵器を日本に持ち込むことを認めた密約があることを、知っていただろうか。

     この密約の存在は日米両国によって確認され、国会でも認められている。米国が沖縄返還に当たって、「重大な緊急事態が発生した場合に、日本政府と事前協議を行ったうえで核兵器を沖縄に再び持ち込む権利が認められることを必要とする」と求めたのに対して、日本側が「事前協議が行われ、遅滞なくその必要を満たすであろう」と約束したもので、ニクソン大統領と佐藤首相が合意議事録にイニシャルだけ記している。

     私がはじめて沖縄を訪れたのは、返還前の昭和43(1968)年だった。まだ日本国内でなかったので、そのための身分証明書が必要だった。私は東京放送(TBS)が出資した「エンサイクロペディア・ブリタニカ(大英百科事典)」の最初の外国語版となった『ブリタニカ国際大百科事典』の初代編集長として、沖縄、韓国の項目の選定、執筆者の推選を現地の学者に依頼する方針を定めて、沖縄では大田昌秀琉球大学教授を中心にしてグループをつくってもらった。

     返還4年前の沖縄は、那覇の街並みをはじめ一面屋根が沖縄特有の赤い瓦で葺かれ、今日の東京のように醜いビルが林立していなかった。大田教授は酒が強く、山羊の生肉の刺身をつまみ泡盛を啜りながら、意気投合した。沖縄戦中、学生による鉄血勤皇隊員として、沖縄守備軍の牛島満司令官が自決した摩仁の司令部壕で伝令として戦った、生々しい体験をきいた。

     大田氏は情が篤い人だった。私より9歳年長だったが、年齢の差を気にかけない忘年の交わりを楽しんだ。沖縄県知事に当選した直後に、沖縄県経営者協会の招きで那覇を訪れたところ、大田知事が会場の沖縄ハーバービューホテルに顔をだしてくれた。

     大田氏は反米でも、反日でもなかった。とくに産業がない沖縄にとって、米軍基地が本土から補助金を入手する手立てとなったのは、仕方ないことだった。

     同じ50年前の9月に、田中角栄内閣のもとで日中国交正常化が断行された。

     当時、中国は中ソ戦争に怯えて日本と結ぶことを渇望していた。この年2月に、ニクソン大統領が電撃訪中したが、米ソ冷戦が激化するもとで中国を取り込むものだった。米国が蒋介石政権の台湾と外交関係を結んでいたのに、まったく障害とならなかった。

     日中国交正常化は、朝日新聞をはじめとする「日中友好」の狂瀾(きょうらん)の世論に背を押されて行われたが、私は中国が信頼できない国だから、米中が国交を結ぶまで待つべきだといって強く反対した。ニクソン大統領、キッシンジャー特別補佐官(当時)も、田中首相も、大平正芳外相も、50年先を見ることができなかった。

     50年前のロシアは、世界を二分する超大国として中国の兄であり、ロシアが馬上のドン・キホーテなら、中国はロバに乗った従者のサンチョ・パンサだった。だが今日、ロシアは経済規模を示すGDP(国内総生産)では世界11位で、10位の韓国よりも小さい。1人当たりGDPでは64位でしかない。

     プーチン大統領は“ロシアの栄光”を取り戻すためにウクライナに侵攻して、大きな誤算を託っている。ロシアは国際的に孤立し核ミサイルしか誇れない、“第二の北朝鮮”に変わりつつある。かつてロシアが馬上にあって中国が従者だったのが、逆転している。

     振り返ると、佐藤首相が沖縄返還という偉業を行えたのも、7年以上に亘(わた)って在任したからだった。岸田首相が就任した時に第100代目の総理大臣に当たったが、伊藤博文公が初代首相となってから、首相の在任期間は平均して1年4か月しかなかった。これでは国家戦略が存在しえない。

     日本は50年以上にわたって、うたた寝してきた。うたた寝は平安時代初期の古今和歌集にも登場する言葉だが、横になっているうちに、眠ってしまうことをいう。転び寝、仮寝、ごろ寝ともいう。目を覚まさなければならない。

     私は若泉教授と、沖縄返還後に親交があった。無口な人で功を誇ることがまったくなかった。

     私が40歳の時に福田赳夫内閣が発足して、首相特別顧問という肩書をもらって、カーター政権を相手に対米外交の第一線に立った。

     第1回福田カーター首脳会談で、米国に日本が国連安保理事国常任理事国となる資格があり、支援するといわせることと、首相から授かった密命だったが、カーター大統領が選挙戦の公約として在韓米軍の完全撤退を公約としていたのを、撤回させることだった。

     外交を専管事項だと錯覚していた外務省によって妨害されたが、役目を果たした。福田内閣が短命だったのが惜しまれる。

     

     

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