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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2227号より>

    生きて今あること—万葉学徒の迷妄—

    國學院大學文学部教授

    上野 誠

    《うえの まこと》

    1960年、福岡生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程満期退学。文学博士。奈良大学文学部教授を経て2021年4月より奈良大学名誉教授、國學院大學文学部教授。著書は『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)など多数。

     

     

     

    個人が尊重される社会で少子化は起こる

     

     今は、少子化というよりも、結婚忌避時代だ。

     個々人が個々人の幸福を追求する社会においては、家族は個人の幸福追求を阻害する最大のリスクとなる(たとえば、子どもが不登校になるなど)。少子化が進む社会とは、ひとりひとりの意思が尊重される社会なのである。一方で、人は人と関わることでしか生きてゆけない。その人間関係の始発点は、母子関係を中心とした家族にある。家族という始発点からしか、人は社会的動物になってゆかないのだ。

     そればかりではない。自分自身も、自己の幸福を追求するには大きなリスクともなる。心身の病気もそうだが、自己の長生きとて、リスクであろう。戦後八十年、日本だけではなく、先進国に生きたすべての人びとは、個々人が個々人の幸福を追求してきた。そのために、私たちは、地域のコミュニティー作りや親戚づきあいのために必要な時間的投資も、金銭的投資もしてこなかった。

     

    突然、家族が重くなった

     

     私は、一九六〇年に福岡県の現・朝倉市で生を受けた。

     三人きょうだいの末っ子で、父が四十歳、母が三十八歳の時の子であったから、甘やかされて育った。親族の中でも、溺愛されていたと思う。そのために、小学校の低学年まで、身辺自立がまったくできていなかった。父母、姉は、幼稚園、小学校によく呼び出されていた。

     一方、次男であり、家業の洋品店を継ぐ必要もなかったので、何の期待もされていなかった。結局、兄夫婦が家の雑事、両親の世話もしてくれていたので、大学も好きな文学と歴史を学ぶために、文学部に進んだ。國學院で『万葉集』と民俗学を学んで、大学院にも進むことができた。しかも、兄とは歳が十三歳も離れている。家のことなど、知らんぷりだ。

     ところがである。兄の肺癌が悪性であることがわかり、私はにわか長男とあいなった。しかも、母は大腿骨折と誤嚥性肺炎で入退院の繰り返しとなってゆくころなのだ。奈良から福岡に帰り、さまざまに手を尽くすけれど、もうどうすることもできなくなってしまった。結局、母親を奈良で介護するしか、道がなくなってしまったのである。突然、母ひとりではあるけれど、家族が重く重く、圧し掛かってきたのである。

     私はといえば、働き盛りの五十歳台。大学の役務、学会の役員、自らの研究の集大成たる論文集の刊行と、研究者人生のなかでも、大きな山に登ろうとしていた。そのころのことである。自らを生んでくれた母、大切に育ててくれた家族、それがいきなり、人生の重荷になってしまったのである。

     結局、にわか長男の私は、母親の介護を七年間することになった。それは、私にとって重い重い母との時間となった。

     

    重い時間

     

     しかし、それは介護される母にとっても、重苦しい時間であったはずだ。

     いや、違う。母の方がもっともっと苦しかったはずだ。介護は、介護をされる側の悲しみの方が、はるかに大きいからである。母親自身も迷惑をかけているという思いはあるのだが、身内であるが故の我儘も出てしまう。頼まれていたソフトクリームが、車の渋滞に巻き込まれて溶けてしまった時の、母親の表情が今もって忘れられない。それでも、なおソフトクリームを食べたいという母親の言葉に、私は泣きたくなってしまった。済まないと思いつつも、母はもう一度、買って来てほしいという。

    誠 お母さん、あんまり、わがままば言いよったら、誠の方が先に逝くばい—。へとへとやけん。

    母 やったら、私が死んだ次の日に死になさい。順番通り、死なないかんとよ。それに、二人いっしょなら葬式代も安く済むばい。

    誠 なんば言うとね。

    という会話を何度したか、わからない。苦しい時間を救ってくれたのは、ユーモアだった。

     もちろん、重く、苦しい時間であったが、今となっては、かけがえのない豊かな時間であったとも思う。母が他界して、五年。今、私は『万葉集』の注釈を始めている。完成は七年後だ。

     

    注釈メモから

     

     次の歌の注釈メモを取った時に、ふと時の重みを感じたのは、母との七年の時間があったからであろう。

     沙弥満誓(さみまんぜい)の歌一首

     世(よ)の中(なか)を

     何(なに)に喩(たと)へむ

     朝(あさ)開(びら)き

     漕(こ)ぎ去(い)にし船(ふね)の

     跡(あと)なきごとし

     沙弥満誓の歌一首

    世の中というものを

    何にたとえよう

    朝港を

    漕ぎ出した船の……

    そのあとかたもないのと同じ

    〇沙弥満誓の歌 「沙弥」は、十戒を受けた仏教者の名称。僧になるための修行者と考えてよい。サンスクリット語「シュラーマネラ」を音写して、漢語で「沙弥」と記したもの。「沙門」とも置き換え可能な語。「満誓」は法名で、俗名は笠朝臣麻呂。『続日本紀』によってその閲歴を辿ると、地方官として土木工事等に大きな業績を上げている。沙弥としての大宰府派遣は、注記にある通り、それまで捗らなかった筑紫観世音寺の完成を期してのことであった。「別当」は、寺院運営の長官職のこと。沙弥となっても、宴席に連なり、官人時代からの交友を続けていたことは、梅花宴歌からもわかる(巻五の八二一)。 〇世の中を 何に喩へむ 「世の中」を何に喩えよう、と問いかける表現。 〇朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし 早朝となって港から船が出てゆく様子を、比喩的に「朝開き」と述べている。漕ぎ去っていった船は、航跡を残すが、その航跡も、消えてゆくというのである。〈今、朝となって船があることがわかる〉→〈船は出航するので港からなくなる〉→〈船は出航しても波は残る〉→〈しかし、残った波もいずれは消える〉→〈残るのは以上の船と波への認識だけだ〉→〈しかし、認識した人間の生命は有限だ〉。それで、世の中だというのである。

     

    無常観の寓意

     

     これは、物と事の認識を、無常観から説く寓意歌。闇のなかでは、船が存在していても、それを見ることができない。朝になれば、船が存在していることは認識できる。船が港から出ても、その航跡は残る。しかし、その航跡も消えてしまう。認識できないもの、存在しているもの、存在がなくなっても認識できるもの、すべてが潰えて認識だけが残っている状態の、四つの態が歌われている。つまり、常なるものなどないのだといいたいのだ。そして、波を見つめた人間も、やがては死ぬ運命にある。もちろん、仏教の知識が前提にあるのだが、それを景の喩えから説くところに、当該歌の知があるのである。

     冥界で、母はこの注釈メモをどう読んでいることだろうか。 

     

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