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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2234号より>

    関ヶ原合戦の政治学

     近時の、終わりなきウクライナ紛争を見るにつけ、戦争とは何かを思わざるを得ない。

    「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」とはクラウゼヴィッツの有名な命題だ(『戦争論』岩波文庫)。

    国際日本文化研究センター名誉教授

    笠谷 和比古 

     《かさや かずひこ》 1978年京都大学大学院史学科修了。96年国際日本文化研究センター研究部教授、2015年同所定年退職 名誉教授。19年大阪学院大学法学部教授。この間、ベルリン大学、北京外国語学院、パリ大学などの客員教授を歴任。NHK「その時、歴史が動いた」や「BS歴史館」「英雄たちの選択」などにもゲストコメンテーターとして出演。著書に『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館)、『武士道の精神史』(ちくま新書)、『徳川家康』(ミネルヴァ書房)、『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書)などがある。

     この命題は近代の戦争を念頭に置いたものであるけれども、その洞察力の深さゆえに時代を越えた普遍性を帯びており、日本の戦国武士のような社会にも適用されるところが少なくない。そして、かの関ヶ原合戦はそのような政治的な性格をもっとも顕著に帯びた戦争であった。筆者は『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書)を著して、同合戦の実態をめぐって近年、様々な方面から提示されている疑問点や新説などを検討し、現在時点における同合戦の歴史像の構築を試みた。

     今日においても同合戦の実態をめぐる熱い論争が続けられている背景には、やはり同合戦に対する人々の深い関心があるということだろう。そこには覇権を確立したいとする人間の根源的な欲望があり(B・ラッセルはそれを「権力愛」と呼んだ)、また、戦争の正当性レジティマシー(社会的正当性)のあり方をめぐる駆け引きがあり、敵の敵は味方という冷徹な論理、思惑を越えて暴走する集団の力学、主観的には友好協調にありながら客観的には敵対する構造的矛盾、等々。

     ここに四百年前の話でありながら、しかもサムライたちの物語でありながら、今日のわれわれを引付けて止まない理由がある。政治家は言うまでもなく、ビジネスパーソンにとっても事情は同じだろう。

     関ヶ原合戦は、単なる豊臣対徳川といった構図だけではとらえきれない複雑さを有していた。徳川家康率いる東軍であるが、総数七万のうち純徳川兵力は三万にとどまり、残りの四万は家康に同盟した豊臣系武将たちの兵力であった。そして彼らこそが戦場で最も重要な役割を果たしていた。

     このような複雑で矛盾に満ちた構図をなしたのは、同合戦の基底に豊臣政権の内部分裂という深刻な事情があったことによる。石田三成に代表される豊臣政権の行政を司る吏僚派と、加藤清正・福島正則らに代表される武功派との根深い対立があった。文官組と制服組との対立は、どこの世界でも見られる現象であるが、豊臣政権においては政権の命取りになるほどに深刻であった。

     その事情をもっとも顕著にしたのが、かの文禄・慶長の役による朝鮮半島への出兵問題であった。戦争遂行の方針をめぐって両派の対立は深刻となる。加藤清正は主戦派の代表格であったのだが、慶長の役における蔚山籠(うるさんろう)城戦(じょうせん)の悲惨な飢餓体験を通して、次第に和平撤兵論に傾いていく。しかしその動きが石田派の目付(監察官)から秀吉に訴えられ、和平撤兵派が秀吉から弾圧を蒙るという展開となる。

     これが原因となって、秀吉死後に清正ら武功派七将が蹶起(けっき)して三成の殺害を企てる事件が勃発する。三成は大阪から逃れて伏見に至り、伏見城内にある自己の屋敷に籠る。七将の側は軍勢を率いて伏見城まで来り、同城を包囲したが城内には入れない。三成は安全な避難所に入ったけれども先が見えず、双方ともデッドロックの状態に陥った。

     この問題を解決したのが家康であった。七将の側には鉾を収めさせるとともに、三成は政界から引退して、居城佐和山に謹慎することとした。この事件は、いわば関ヶ原合戦の縮図であり原型であった。この事件を無事解決した家康の輿望は高まり、豊臣系武将たちからの信頼をも勝ち得ることが出来たのである。

     豊臣政権の内部矛盾のもう一つの対立軸は、その政策内容にあった。豊臣政権の代表的政策が太閤検地である。諸大名の領地に三成らが検地奉行として乗り込み、徹底した面積把握をするのみならず、坪刈りと称するサンプル調査をして、すべての田畑の生産高まで把握する。面積把握はいずこの政権でも行うことだが、生産高まで徹底して把握するというのは、前近代の政権では例を見ないことである。豊臣政権は、さらにその大名領内に「太閤蔵入れ地」と称する秀吉の直轄領まで設定するのであった。

     このような中央集権的施策に対して諸大名、特に武功派諸大名たちの間から反発の声が上がる。家康はこのような施策に批判的であった。秀吉死後の政権運営を取り仕切っていた家康は、このような太閤蔵入れ地を廃止する措置もとっていた。

     すなわち、関ヶ原合戦における三成か家康かという対立選択は、それぞれが体現している豊臣政権型の中央集権主義か、大名領有権を尊重する地方分権主義かという国家体制の在り方をめぐる抗争となっている。

     それはマニュフェストを掲げて議会の議席を争い、政権獲得を目指す現代の総選挙にも似た構図なのである。関ヶ原合戦には、そのような体制選択選挙としての性格が備わっていた。多くの豊臣系の武将大名たちが家康を支持して、東軍として戦っていたことの意味と意義がその点に求められる。

     そしてもちろん家康に天下獲りの野望が潜んでいることは否定しうべくもなかった。それでは、家康に同盟して東軍として戦っていた豊臣系の武将大名たちは、豊臣家を見限って徳川に鞍替えしたのであろうか。これは否である。彼らの豊臣家と秀頼に対する忠誠心に揺るぎはなかった。

     彼らは、家康が豊臣政権の枠組の中で実力第一人者として振舞うことに異存はなかった。だが家康が、石田三成らを打倒する勢いをもって豊臣家と秀頼を覆滅してしまって徳川政権を樹立するとなると、それは別問題であるとされた。

     関ヶ原合戦とは、このような葛藤の所産である。同合戦の結果、西軍大名の領地六三〇万石が没収されたが、実にその八割強にあたる五二〇万石が家康に同盟した豊臣系武将たちに配分されたのは、如上(じょうじょう)の複雑な経緯によるものであった。同合戦が、軍事的手段をもってする政治に他ならなかったとする所以である。

     

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