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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2235号より>

    お金のはじまりのはなし

    元大阪府教育庁文化財保護課・考古学者

    西川 寿勝 

     《にしかわ としかつ》 1965年大阪府生まれ。89年、奈良大学文学部文化財学科卒業後、奈良国立文化財研究所研究補佐員。91年〜2022年、大阪府教育委員会文化財保護課。日本考古学協会員・日本書紀研究会員など。主な著作に『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』学生社(単著)、『蘇我三代と二つの飛鳥』新泉社(共著)など多数。

     新型コロナウイルス騒動やウクライナ侵攻による物価高、わたしたちのくらしに経済動向は見過ごせません。それは日本の古代も同様でした。今回、わが国最初のお金とされる和同開珎(わどうかいちん)の価値変動から貨幣経済の破綻を紹介します。

     厳密には和同開珎の前段階に銀粒を銭とした交易の実験があり、西暦690年代には銅銭の富本銭(ふほんせん)を発行する試行もあったようです。ただし、流通量は少なく、飛鳥周辺にしか通用しませんでした。贈答・供物(くもつ)の役割が大きかったようです。

     対して、和同開珎は元明天皇の即位にあわせ、秩父で銅が産出されたという吉報を演出、「和銅」の元号を制定して708年から大量発行されました。710年の平城京遷都の経費捻出という説もあります。平城宮の省庁で大勢の役人を新規採用するにあたり、給与をお金で支払うためという説もあります。

     和同開珎は同じ形状・大きさで銀銭と銅銭が発行されました。当時から、銅は信用が低く、銀銭は広まっても銅銭は広まりませんでした。奈良朝はすぐに銀銭を廃止して銅銭を普及させる政策に変更します。また、銀の産出量は乏しかったため、銀銭を主軸とする通貨は行き詰まると考えたのでしょう。対して、銅の採掘は軌道に乗り、平城京造営の雇役の賃金や資材の経費など、大量の銅銭が支払いに使われました。

     711年、奈良朝は銅銭と米、銅銭と生糸などの交換レートを固定、公定価格を決めます。これは銀との交換レートにたよらずとも銅銭の価値を明瞭にする狙いがあったようです。さらにこの年、役人がお金をためると官位が買えるという蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出します。その意味にはインフレ対策やお金の使い道を増やし、還流を促したという説もあります。同時期、庶民に課せられた公事(勤労奉仕)や調(米以外の税)も銅銭で支払える調銭令(ちょうせんれい)が出されます。このように奈良朝は貨幣流通を急速に広めたのです。

     『続日本紀』などによると、造幣局にあたる鋳銭司(ちゅうぜんじ)が河内・大和の田原・山城の岡田・長門におかれました。河内の鋳銭司は大阪府堺市美原区の太井遺跡とされ、銀や銅を溶かしたルツボなどが発見されています。大和の田原は鋳銭司跡がまだがみつかっていません。奈良県生駒市北田原・南田原周辺とされます。平城宮跡から「田原銭五千文」と記された荷札の木簡が出土しています。山城の岡田鋳銭司は京都府木津川市の銭司遺跡とされ銅銭・ルツボ・銅カスが、長門鋳銭司は山口県下関市長府の覚苑寺周辺とされ、やはり鋳型・ルツボなどがみつかっています。

     その他、周防でも銅銭が鋳造されたと記録されます。2021年、山口市で周防鋳銭司推定地が発掘調査され、平安時代の土器とともに承和昌宝(835年発行)、長年大宝(845年発行)、饒益神宝(にょうやくしんぽう)(859年発行)の鋳損じ銭(いそんじせん)やルツボなどが多数発見されました。

     さて、銅銭発行から10数年後の720年頃には政策が早くもほころびをみせます。未熟な経済活動のもと、お金を発行すればするほど、市中はインフレが加速したのです。公定価格の引き下げが度重なり、経済は混乱します。

     決定的なことは、ニセ銭の横行です。当初、奈良朝はニセ銭を強く取り締まりましたが追いつきません。流通促進を優先し、幾度か大赦(たいしゃ)を出して放免もしました。近年の発掘成果によって、ニセ銭の鋳造痕跡が平城京の各所、四天王寺の北方、大阪市細工谷(さいくだに)遺跡などからみつかっています。

     752年に完成する東大寺大仏が約250トンだったとされ、わが国では膨大な量の銅が埋蔵されていることがわかりつつあったのです。銅の値打ちは土くれに近く、誰でも手に入れて銅銭をつくることができました。つまり、手に入れた銅銭をもち続けるほど、同じ対価の商品が買えなくなる状況です。人々は貨幣流通を避けるようになりました。

     ちなみに、古代の銅鉱山は栃木県の足尾銅山や茨城県の日立銅山、愛媛県の別子銅山などが候補でしたが、いずれも江戸時代の開発が判明しています。江戸時代の銅山は世界的にも有数の産出量で、17・18世紀のわが国は世界一の銅輸出を誇っていました。奈良時代には山口県長登(ながのぼり)銅山、兵庫県多田銅山で採掘遺跡がみつかっています。「ながのぼり」は「奈良登り」に通じます。後には銅を勝手に採掘して私的に交易してはいけないという太政官府が発行されます。

     760年、奈良朝は財政を立て直すべく和同開珎十枚分の価値をもたせた新通貨、万年通宝を発行します。さらに765年、和同開珎百枚分の価値をもたせた神功開宝を発行します。両貨幣の発行により当然ながら市場ではハイパーインフレがひきおこり、貨幣経済を破綻させました。お金は公定基準だけでなく、そのものの信用を失い、政治も混迷を極めました。称徳(しょうとく)天皇が崩御、僧の道鏡が失脚した772年、ついに和同開珎は使用が禁止されます。奈良朝は経済の立て直しに苦慮しますが混乱はおさまりません。779年、和同開珎は再び使用が容認され、三種の銅銭を等価とする市場価値に落ち着ついたようです。

     796年、平安京遷都がすすめられるなか、平安朝は隆平永宝を発行して、経費捻出をはかります。旧銭に対する十倍の公定価値とし、800年末で旧銭使用を廃止すると定めました。しかし、すでに売買は穀物や布などの交換財が主流となり、銅銭は使われませんでした。旧銭の和同開珎などのみならず、新銭の隆平永宝も市場は受け入れませんでした。

     ひるがえって現在、世界中の政府は新型コロナウイルス騒動で疲弊した経済に対し、未曽有の追加予算を増刷してしのごうと躍起です。その結果、市場にお金があふれ、株も貨幣の価値も下がり、物価の高騰はとまりません。戦争の影響で石油や小麦などの資源や食糧も価格が急激に変動しています。奈良朝の貨幣政策ほど単純な失敗にはならないでしょうが、同じ轍を踏まないよう注視したいものです。

     

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