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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2246・2247号より>

    吉田松陰と『留魂録』

     

     

     

     

     

    皇學館大学教授

    博士(神道)

    松浦 光修 

     《まつうら みつのぶ》 1959年熊本市生まれ。皇學館大学文学部国史学科教授。博士(神道学)。皇學館大学を卒業後、大学院博士課程に学ぶ。専門は日本思想史。歴史、宗教、政治、教育に関する評論、随筆など幅広く執筆。著書に『新訳 留魂録 吉田松陰の「死生観」』 (PHP研究所)など多数。最新刊は『新編 いいかげんにしろ日教組』・上巻『いいかげんにしろ日教組』・下巻『まだ懲りないか日教組』各(経営科学出版)。

    安倍元総理と『留魂録(りゅうこんろく)

     

     令和四年七月八日、安倍晋三元総理(以下、「安倍総理」と記す)は、奈良県での参議院選挙の応援演説中、背後から銃撃された。同日、志なかばで悲運の殉職にいたるわけであるが、それから、もうじき一年が経つ。

    殉職から四日後の十二日、葬儀が行われた。そのさい昭恵夫人は、次のような挨拶をされている。

     「十歳には十歳の春(しゅん)夏(か)秋(しゅう)冬(とう)があり、二十歳には二十歳の春夏秋冬、五十歳には五十歳の春夏秋冬があります。父、晋太郎さんは首相目前に倒れたが、六十七歳の春夏秋冬があったと思う。主人も政治家としてやり残したことは、たくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後の冬を迎えた。種を、いっぱいまいているので、それが芽吹くことでしょう」(阿比留瑠比「芽吹くか安倍氏『後来の種子』・『産経新聞』令和四年七月十四日)

     夫人の挨拶は、吉田松陰の遺著『留魂録』の一節を踏まえている。

     そもそも、安倍総理自身が、父・晋太郎氏の追悼文で、『留魂録』のその一節を引用されていたそうであるが、今度は昭恵夫人が、わが夫の追悼文で、それを踏まえた挨拶をされたわけである。

     安倍総理が、生涯、吉田松陰を尊敬していたことは、よく知られている。私は平成二十三年、『新訳 留魂録 吉田松陰の「死生観」』という本を出版し、翌年二月、安倍総理にその本を、直接お渡ししたことがある。私が鞄からその本を取り出し、表紙が見えた瞬間、安倍総理が、「あっ、松陰先生の本ですね」とおっしゃったことを、今も記憶している。

     つまり、安倍総理にとって吉田松陰は「吉田松陰」ではなく、あくまでも「松陰先生」だったのである。

     それでは、その松陰の『留魂録』とは、どのような本なのであろう。話は今(令和五年)から、百六十四年の昔にさかのぼる。

     

    すべての人生に春夏秋冬あり

     

     松陰は「安政の大獄」により、安政六年十月二十七日、「武蔵の野辺」に散(さん)華(げ)した。処刑の前日に書き上げたのが、『留魂録』である。読者として想定されていたのは、松下村塾に集っていた門人たちであり、今もその現物が、萩の松陰神社に保存されている。その内容は現在、便宜的に「十六条」に分けられているが、昭恵夫人が、夫の葬儀の挨拶で、踏まえられたのは、その第八条である。

     その要旨を、ここに掲げておこう。

     「今、私は死を前にしても、おだやかで安らかな気持ちでいる。それは春・夏・秋・冬という四季の循環について考え、こういうことを悟ったからである。稲は、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄える。人々は秋になると、収穫を喜ぶものであり、収穫を歓ばず、「ああ、今年の仕事が終わってしまう」などと言って悲しむ人はいない。

     私は今、三十歳である。ついに何一つ成功させることができないまま死んでいくわけであるが、私の人生は、これはこれで一つの“収穫の時”をむかえたのではないか…と思っている。そもそも稲とはちがい、人の命には“あらかじめ決まった年数”などない。十歳で死んでいく人には、その十歳のなかに、春・夏・秋・冬の四季があり、二十歳で死んでいく人には、その二十歳のなかに、春・夏・秋・冬の四季がある。したがって、三十歳で死ぬ者には三十歳のなかに…、五十歳で死ぬ者には五十歳のなかに…、百歳で死ぬ者は百歳のなかに、それぞれ春・夏・秋・冬の四季がある…ということになる。

     私は今、三十歳…。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいる。その実が、じつはカラばかりで中身のないものなのか…、それとも中身がつまったものなのか…、それは、本人である私にはわからない。けれども同志の諸友のなかで、私のささやかな誠の心を、“次は私が受け継ごう”と思ってくれる人がいれば、幸いである。

     それは、たとえば一粒の米が、次の春の種モミになるようなものであるから、そうなれば、私の人生は、結果的に春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミであった…ということになろう。諸友よ…、どうか、そこのところを、よく考えてもらいたい」。

     松陰は“日本人の道”を極めることによって、あたかも「悟(ご)達(たつ)した高僧」のような、「安心立命(あんしんりつめい)の境地」にいたったのであろう。

     

    わが志を張りて、大にせよ

     

     しかし、松陰と「悟達した高僧」では、大きく異っている点がある。「留魂」という思想である。「悟達した高僧」ならば、「輪廻」を脱して「解脱」し、この世とは永遠に訣別することを望むであろう。

     しかし、松陰は「解脱」を望んではいない。松陰は、たとえ死しても、みずからの魂を、この世に留め、祖国を護りつづけることを望んでいる。「悟達した高僧」からすれば、そのような思いは、たぶん「迷い」の一種なのであろうが、松陰は、あえてその「迷い」の世界に、みずからの魂を留めたい…と言っているのである。

     ここで、松陰の刑死の直前の一文が想起される。「我を哀しむは、我を知るに如(し)かず。我を知るは、吾(われ)が志(こころざし)を張りて、之(これ)を大にするに如かざるなり」(安政六年十月・「諸友に語(つ)ぐる書」)。つまり、松陰は、「私の死を悲しんでくれるより、私という人間をよく知ってくれた方が嬉しく、私という人間をよく知ってくれるよりも、私の志を受け継ぎ、それを広め、大きなものにしてくれる方が、もっと嬉しい」と言い残しているのである。

     あるいは安倍総理は、時空を超えた「松陰の門人」であったのかもしれない。そして、その一年祭を前にした今、私たちは、松陰から安倍総理へとつづく「志」を、どのようにして「張りて、之を大に」すればよいのか…、そのために自分には何ができるのか…、それらのことを、わが心に、あらためて問うべきなのではなかろうか。

     

     

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