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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2250号より>

    爽風エッセイ

    8月31日・消せない記憶

     

     

     

     

     

     

    筑波大学特命教授

    谷口 智彦 

     1997年8月31日の朝は英国で迎えた。肌寒い日が多く、それでも伸びる芝生の手入れが煩わしいロンドンの夏は、その日、8月最後の日曜で閉幕だ。

     妻と、ティーンエイジャー手前の娘・息子2人と始めた英国暮らしは4カ月が過ぎ、ようやく周りを見渡せるようになっていた。

     英国はラジオ文化を残していた。朝はBBC、とくにその「ラジオ4」の硬派な報道を聞きつつ、例えば歯を磨くんだそうだ。

     それでは自分もと、ロバーツという昔からある英国メーカーのラジオを買った。キッチンの木製カウンターに置くと、外装がウッディでレトロなラジオは見栄えがした。

     その日もスイッチを入れると、耳を疑う話をしている。

     「あの時あなた、どこで、何を」と誰もが長く尋ね合うこととなる決定的瞬間、ひとつの集合記憶が作られる時と、所に居合わせたのである。

     ダイアナ元妃が、自動車事故で死んだ。場所はパリ、セーヌ川を潜るトンネルである。

     36歳の彼女と同乗していたのはドディ・ファイエド。ハロッズ百貨店オーナーの息子だと、ラジオは伝えていた。パパラッチが追い回していたのだとも。

     チャールズ皇太子(当時)との離婚が確定したのは前年の8月28日だ。それからほとんど正確に1年後のこと、悲劇は、強い運命性を感じさせた。

     経済誌の記者だった筆者は幾分か職業意識によって、がそれ以上に、これは立ち合わねばならない何かだと悟り、衝動に駆られるようにして、ケンジントン宮に向かった。

     元妃が居所とした宮殿に着いたのは10時半。30分もしないうち、駆けつける人また人で、立錐(りっすい)の余地がないまでになった。

     バラ、ユリ、ヒマワリ、それに子どもの絵や手書きのカードで、大きな門の周囲は見る間に埋まった。1人、しゃくりあげつつ歩いてくる男性がいた。呼び止めて話を聞いた新聞記者とおぼしい女性の目に、大粒の涙があふれ出る。仕事になっていなかった。

     デイリー・メール紙記者だという男は「時速160㎞以上で突っ込んだ、って。ドライバーがシューマッハー(F1ドライバー)でもダメだったんじゃないか」と言ったあと、「ギリシャ悲劇だな」と呟いた。

     同じ感想が筆者の念頭にあったから、彼の言葉はやけに記憶に残った。

     「慟哭(どうこく)」の文字で表したい嘆きぶりを示す英国の老若男女はしかし、元妃の華麗なスキャンダルをタブロイド紙で読むのを好んだ。好餌としたとさえ言ってよい。それがパパラッチの需要を生んだ。

     いま悲しみにくれるこれら人々には、もしや、元妃を死なせたのは噂を好み、醜聞(しゅうぶん)をもっと愛した自分たちの俗情だったと、内心自責するところはないのだろうか―。

     「ユナイテッド・キングダム」と国名に言う。けれど英国は厳然たる階級差が消えず、北アイルランドの血なまぐさい対立がいまだに残る国だった。

     「ゴッド・ユナイテッド・キングダム」。1枚、カードにそんな字があった。「神がいま、やっとユナイトしてくれた」という意味だったか。

     確かにあの時あの場が作った記憶は巨大な集合意識を作り、人々を統合した。筆者にも、消せない記憶だ。

     

    1982年の夏の思い出

     

     

     

     

     

     

    (作家)

    川口 マーン 惠美 

     ドイツの夏は美しい。湿度がない分、日差しがジリジリと照りつけるが、夕方になると急に爽やかになり、辺りの木々で小鳥が思い出したように囀(さえず)り出す。しかも10時ごろまで仄明るい。

     41年前の1982年、ドイツは記録に残るスーパー・サマーだった。6月20日、おりしもその只中でドイツ暮らしを始めた私の脳裏には、当然のことながら、ドイツの夏は絶品というイメージが強烈にこびりついた。特に夕方は得(え)も言われぬほど美しい。太陽が傾き、しっとりとしてきた空気を貫くように、あちこちの教会から鐘の音が聞こえてくる。少し高台に上がれば、街並みは一面、赤茶色の甍(いらか)の波。当時の私はそんなありふれた風景に、「ああ、私はバッハやモーツァルトの地にいるのだ」とひたすら感動した。何にでも感動できるから、若いということはなかなか良いものだ。

     そういえば、この夏はサッカーのW杯がスペインで開催された年で、私は当時、音大のそばの女子寮に住んでいたが、ドイツ戦で緊迫した場面になると、近所一帯に地鳴りのような歓声が沸き起こったのを覚えている。ドイツは決勝戦まで残り、結局、3対1でイタリアに敗れたが、ドイツの最初の思い出は、日の長さと、夕方の清々しさ、そしてサッカーの熱狂かもしれない。

     当時のドイツは必ずしもバラ色ではなかった。奇跡の経済成長は終わりを告げ、13年間も続いた社民党政権の大盤振る舞いで財政は緊迫。79年の第2次オイルショックの影響からも抜けきれず、GDPはマイナス成長で、失業者が200万人を越えた。

     しかも冷戦がエスカレートし、NATOは緊張状態。そんな中、シュミット首相の構造改革は失敗し、10月に政権はキリスト教民主同盟のコール首相にバトンタッチ。ただ、当時、若かった私たちは不吉なニュースなどどこ吹く風、すこぶる元気だった。

     あれから41年、色々なことがあった。89年にはベルリンの壁が落ち、1年もしないうちに東西ドイツが統一。その翌年にはソ連も崩壊、一気にグローバリズムが弾けた。西側に暮らしていた私は西側民主主義の勝利を疑うこともなく、インターネットの普及やEUの発展に興奮し、平和の到来を信じた。まさに時代の転換といった躍動感がそこかしこに漲(みなぎ)っていた。

     ただ、今、思えばドイツ統一は西による東の併合であり、東の人たちは決して納得していなかった。だからこそ、東西の確執はいまだに燻り続けている。

     さらに近年は難民の殺到に、疫病騒ぎ。それどころか、まさかの戦争が勃発し、産業界のライフラインだったロシアのガスも手に届かなくなった。そこで、すごい勢いで石炭を炊き増している大矛盾のドイツだ。

     しかし、夏をこよなく愛するドイツ人は今は上機嫌。しかもここ数年はスーパー・サマーが続いている。彼らがガス不足を思い出すのは9月に秋風が吹いてからだ。去年も一昨年もそうだった。

     ちなみに最近は、洪水も山火事もすべてCO2のせい。テレビの天気予報では、「晴れ」を「良いお天気」と言わなくなった。ドイツの公式の見解では、温暖化のせいで晴天が続き、旱魃(かんばつ)や災害が起こっているのだから、これが慶事であるはずはないという理屈だ。

     何だかややこしい世の中になってしまった。

     それでも私は敢えて言う。今年の夏も良いお天気になりますように!

     

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