サブメニュー

    ●週刊「世界と日本」コラム

    外部各種イベント・セミナー情報

    • 皆様からの情報もお待ちしております

    お役立ちリンク集

    • お役立ちサイトをご紹介します

    Coffee Break

    • 政治からちょっと離れた時間をお届けできればと思いご紹介します

    東京懇談会録

    • ※会員の方向けのページです

    ●時局への発言ほか

    明治維新150年チャンネル

    • 2018年、平成30年は明治維新からちょうど150年。
    • お知らせ

      ●会員専用コンテンツの閲覧について
      法人会員及び個人会員、週刊・月刊「世界と日本」購読者の方で、パスワードをお忘れの方はその旨をメールにてご連絡ください。その際に契約内容が分かる内容を明記ください。折り返し、小社で確認後メールにてご連絡します。

      パスワードお問い合わせ先

      tokyo@naigainews.jp

    Coffee Break<週刊「世界と日本」2251号より>

    爽風エッセイ

    夏 の 記 憶

     

     

     

     

     

     

     

    ジャーナリスト・俳優

    葛城 奈海 

     「ヨー、ホイ!」

    山小屋に声が届く距離になると、裏声を使ってそう自分の存在を伝えた。逆に、小屋にいるときにその声が近付いてくると、「あ、誰か来た!」とわくわくしたものだ。

     その山小屋とは、東京大学の運動会(「体育会」のこと)に所属する部が協力して運営していた寮のひとつ、乗鞍寮。北アルプスの乗鞍岳(標高3026m)の中腹、1700mに位置する乗鞍寮へと歩みを進めていくと、いつも甘い樹木の香りが漂っていた。寮から一番近い「人里」までは2キロメートルも離れていた。食材などは「歩荷」と言って、背負子に段ボールを積んで荷揚げをしたりもしていた。

     学生時代私は、運動会合気道部に所属していた。合気道部からも寮の運営に携わる寮委員を出しており、子供のころから山好きだった私としては乗鞍寮委員になることを希望していたが、生憎、当時はまだ女子学生にその道は開かれていなかった。女性がなれたのは、寮で出す食事の献立を考え、調理の仕切り役となる「エッセン番」だ。

     大学2年生のときから、毎夏その「エッセン番」として1週間程度を乗鞍寮で過ごすようになった。20人ほどの食事を作るのは、なかなか骨が折れた。調理自体は寮委員も手伝ってくれるのだが、大鍋で適量を作るのが難しいのだ。あるとき、けんちん汁を作ったらたっぷり余ってしまい、夜の宴会の罰ゲームならぬ「罰けんちん汁」になるという切ない経験もした…。

     先輩と共に登山道を使わず、寮から直接山頂を目指したことがある。生い茂る笹の間を藪漕ぎしつつ追いかけた先輩のリュックには、大きな虻がたかっていたのをよく覚えている。山頂近くになると、視界が開け、高天ヶ原という場所に出た。少しガスがかった中に高山植物の女王と言われるコマクサがピンク色の花を咲かせ、その名の通り、天上界のような光景が広がっていた。

     帰路は多くの登山者が上ってくる登山道を下った。山頂近くまで続く乗鞍スカイラインの駐車場からもさほど距離がないため、ハイヒールに近いような靴で登ってくる女性もいて目を丸くしたものだ。3000m峰にそんな恰好で来るなんて!

     乗鞍寮には大勢が入れるような風呂はなく、仲間たちとしばしば山道を人里近くまで下り、「せせらぎの湯」という渓流沿いの露天温泉に入った。女子は水着を着ての混浴だ。けっこうきつい硫黄泉で私は好きだったが、温泉上がりに着た服には硫黄臭が染みついてしまい、実家に帰ると妹からは煙たがられたものだった。

     ちなみに、9月の秋休みぐらいになると、山はかなり冷え込む。夜「せせらぎの湯」に入りに行ったら、寮まで戻ってくる頃には、髪の毛がバリバリに凍っていたこともあった。

     そんな乗鞍寮では、誰かが帰っていく際に必ず歌っていた歌がある。その名も『惜別の歌』(作詞作曲・藤江英輔)。

     遠き別れに耐えかねて、その高殿に登るかな。悲しむなかれわが友よ、旅の衣を整えよ。

     別れと言えば昔より、この人の世の常なるを。流るる水を眺むれば、夢懐かしき涙かな。

     君がさやけき目の色も、君紅の唇も。君が緑の黒髪も、またいつか見ん、この別れ。

    哀愁漂うこの歌も、夏の記憶の一コマだ。 

     

    ある台湾人日本兵の8月15日

     

     

     

     

     

     

     

    拓殖大学政経学部教授

    丹羽 文生 

     数年前の8月半ば、10日間ほどを台湾で過ごした。あるシンクタンクの招聘によるもので、メインはシンポジウムでの研究発表だったのだが、それ以外にも要人への表敬訪問や座談会と目白押しだった。

     滞在中の15日、この日は「終戦の日」である。別に意識して設定したわけではなかったのだが、その日は特に予定が入っていなかったため、知人に頼んで、戦時中、インパール作戦に従軍したという元台湾人日本兵の男性を紹介してもらうことにした。

     男性は会うなり軍隊礼式で筆者を迎えた。当時、90歳だったと記憶する。矍鑠(かくしゃく)とし、流暢で格式高い日本語を操る男性の姿は、まさに「大日本帝国臣民」そのものだった。

     かつて、台湾は「日本」だった。したがって、第2次世界大戦では、多くの台湾人が「日本人」として「日本」のために戦った。

     男性も、その1人だった。「一視同仁」や「内台一如」といった統治方針の下、幼い頃から「日本人」として育てられた男性は「自分の国は自分で守る」との使命感に駆られ、16歳の時に家族に内緒で自ら志願し、戦場に渡った。もちろん、男性のいう「自分の国」とは日本のことを指す。

     台湾では1942年4月に陸軍特別志願兵制度、1943年5月に海軍特別志願兵制度を実施、応募者が殺到したという。男性は入隊後、まずシンガポールに派遣され、ここで約3カ月間、軍事訓練を受け、次いでビルマへ。到着すると、すぐに空襲に遭い、地獄絵図のような景色を目の当たりにする。

     多くの戦死者を出したインパール作戦では敵軍の圧倒的な戦力を前に為す術がなく、逃げることだけで精一杯だったらしい。補給線が絶たれ、食料も水も確保できない。1944年6月、ビルマから撤退中に、空腹を満たすため、牛の足跡に溜まった雨水を飲んで赤痢とマラリアに罹った男性は、野戦病院で診察後、タイの陸軍病院を経て、カンボジアにある兵団病院に入院する。

     敗戦を告げる昭和天皇の玉音放送は病床で聴いたという。悔しさと無念さが込み上げてくる一方、妙な安心感を覚えたらしい。

     話の途中、男性は、亡き戦友たちのことを思い出し、何度も声を詰まらせた。厚生労働省社会・援護局によると、台湾人日本兵は軍人・軍属合わせて20万7183人が出兵し、そのうち実に3万304人が戦没している(行方不明含む)。

     台湾だけではない。当時、朝鮮半島も「日本」だった。朝鮮人日本兵は軍人・軍属合わせて24万2341人で、そのうち2万2182人が戦死、あるいは不明となっている。満州地域や南洋諸島の人々、さらには戦時中、日本の軍政下に置かれた東南アジアの国々では、インドネシア(旧東インド)の郷土防衛義勇軍のように日本の指導・協力により新軍が結成され、同じ「アジアの一員」として自存自衛と大東亜の解放を掲げ、日本人と一緒に戦った。

     今年も間もなく8月15日がやって来る。今日における日本の礎となった日本人戦没者はもちろん、台湾や朝鮮半島の外国人戦没者の御霊にも、心からの敬意と感謝の念を表し、その無念に対して、思いを馳せようではないか。

     

    【AD】

    国際高専がわかる!ICTサイト
    徳川ミュージアム
    ホテルグランドヒル市ヶ谷
    沖縄カヌチャリゾート
    大阪新阪急ホテル
    富山電気ビルデイング
    ことのは
    全日本教職員連盟
    新情報センター
    さくら舎
    銀座フェニックスプラザ
    ミーティングインフォメーションセンター