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    Coffee Break<週刊「世界と日本」2292号より>

    仁徳天皇と南海大地震

     

     

     

     

     

     

     

    元大阪府教育庁文化財保護課・考古学者

    西川 寿勝  

    《にしかわ としかつ》

    1965年大阪府生まれ。89年、奈良大学文学部文化財学科卒業後、奈良国立文化財研究所研究補佐員。91年~2022年、大阪府教育委員会文化財保護課。日本考古学協会員・日本書紀研究会員など。主な著作に『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』学生社(単著)、『蘇我三代と二つの飛鳥』新泉社(共著)など多数。

     『古事記』は仁徳天皇を聖帝と記します。天皇が山に登って国見をすると、民衆のカマドの煙がなく、貧しいことに気づきます。それで3年間、課役(えつき)を免除しました。すると国中の民衆のカマドの煙は満ち、民衆は課役に苦しまなくなった、といいます。『日本書紀』も同様の記事で仁徳天皇をたたえます。しかし、記事は史実でなく、仁徳天皇も実在すらしないという研究者が多数います。世界最大の仁徳陵古墳も仁徳天皇の非実在性から、大仙(だいせん)古墳と呼ぶ動きがあります。

     

     仁徳天皇の伝承にはもう一つ、重要なものがあります。淀川南岸の茨田堤(まったのつつみ)築堤と、上町台地を貫通する難波堀江(なにわのほりえ)開削です。『古事記』は仁徳天皇の御世に、秦人(はたひと・渡来人達)を役して、茨田堤と茨田三宅(みやけ・直轄地)を作り、難波堀江を掘って海に通した、とあります。『日本書紀』も宮の北の郊原(のはら)を掘り、南の水(大和川)を引いて西の海(大阪湾)に入れる。よってその水をなづけて堀江という。また北の河(淀川)の?(ごみ)を防ごうとして、茨田堤を築くのです。

     

     古代の大阪平野は淀川の流路が定まらず、大和川の水も流れ込んで広大な河内湖が形成されていました。逃げ場を失った河内湖の水を、運河で排水するというのが難波堀江です。さらに、淀川南岸に茨田堤をつくって流路を固定、河内湖にあふれないようにしました。5世紀、巨大古墳築造を含め王権主導による大規模な土木事業が各地にみられ、耕地も拡大したことは否定できません。

     大阪は都市化とともに発掘調査もすすみ、5世紀前半の状況がわかりつつあります。半島から渡来人が数多く移住、竪穴住居にカマドが普及しました。奇しくも、仁徳天皇のカマドの伝承にも合致します。難波堀江は台地の岩盤を掘削するのであれば、開通まで時間がかかります。しかし、砂堆(さたい)の掘削であれば、治世中に開通できます。堀江とされる大川の両岸で5世紀前半の遺跡もみつかり、仁徳天皇時代に往来も盛んだったようです。

     

     結論を先にいえば、わたしは仁徳天皇聖帝伝承にある免税・難波堀江・茨田堤の記事は5世紀前半の史実と考えます。『古事記』『日本書紀』は民衆のカマドの煙が登っていなかった理由を記しません。また、難波堀江と茨田堤ができた結果、淀川河口がどう変化したのかも記しません。わたしは南海大地震によって民衆が被災、王権はすばやく救護したと推定します。そして、難波堀江と茨田堤は地震による津波被害からの復興事業と位置付けます。つまり、5世紀前半の大阪に南海大地震の発生で津波が襲いました。王権は備蓄米を開放、海水や土砂が入った淀川をさらえて茨田堤とし、難波堀江を掘って河内湖を排水したのです。『古事記』『日本書紀』の編さん段階、すでに津波やその復興の詳細は失われ、聖帝伝承と土木事業のみ記録されたと考えます。

     

     2011年の東日本大震災では大きな津波被害がありました。その後、過去の津波痕跡研究も活発化します。和歌山県串本町の橋杭岩周辺では津波で打ち上げられた巨石が数多くあり、そこに付着するフジツボなどの生物が化石化する年代の分析から400年周期の津波が推定されました。和歌山市友ヶ島内にある深蛇(しんじゃ)池は津波のときのみ、海水が流入します。沈殿物のボーリング調査で、過去4000年間に5回の大津波を確認しています。同様の調査が高知市蟹ヶ池でも行われました。放射性炭素年代法により西暦300~600年頃の大津波が判明しています。現在、南海大地震による津波の発生回数やその時期は限定できていません。いずれ明らかになりそうです。

     

     和歌山市西ノ庄遺跡は紀の川河口北岸の集落遺跡です。カツオ・マグロなどの大型魚を捕獲する漁具や、塩をつくった炉跡が数多く発見されました。この製塩炉を熱残留地磁気測定した結果、西暦400年前後の稼働とわかりました。そして、製塩炉のある生活面を覆う形で洪水層がみつかりました。津波痕跡とされます。その後、洪水層を基盤として集落が再生します。20~30年後のようです。つまり、津波以前が5世紀前後、津波の直後が5世紀前半です。

     興味深い成果があります。福井県三方五湖の一つ、水月湖(すいげつこ)の湖底堆積物、年縞研究です。西暦416年、水月湖に日本海の海水が侵入したことが年縞の乱れなどから判明しています。

     海生のプランクトン(珪藻)がこの年のみに観測されました。水月湖は海と隔たった汽水湖で、海水の侵入は異常事態です。その原因は地震による大津波で、日本海の海水が一時的に侵入したからです。翌年以降、海生プランクトンの量が極端に減少することも津波を裏付けます。残念ながら、日本海側で痕跡が確認された西暦416年の津波が南海大地震と関連するのかはわかりません。

     

     『日本書紀』允恭天皇(いんぎょうてんのう)5年条に興味深い記事があります。秋7月14日、地震があった。これよりさきに玉田宿禰(たまだのすくね)に命じて先帝(反正天皇のご遺体)のモガリをさせていた。地震があった夜、尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)を遣わして、モガリの様子を見に行かせた。人々は欠けることなく集まっていたが、玉田宿禰だけはいなかった。吾襲はそのことを允恭天皇に報告した、というものです。

     允恭天皇は雄略天皇の父です。『宋書』倭国伝に記された倭王武とその父、倭王済にあたります。倭王済は452年の記事に登場するので、416年に治世していたとは考えられません。ところが、允恭5年は干支に直せば「丙辰(へいしん)」年で、416年に一致するのです。水月湖年縞による地震年と『日本書紀』の地震年が偶然一致する確率は極めて低いものです。西暦416年に大地震があったことは認められると考えます。そうすると、仁徳天皇の聖帝伝承にこそ、その記憶の一端を垣間見ることができるのではないでしょうか。

     

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