Coffee Break<週刊「世界と日本」2299号より>
爽風エッセイ
4回目の「戦時下のキーウ」

神戸学院大学 経済学部教授
岡部 芳彦氏
筆者は2025年6月6日、キーウで開催された「第3回地域・都市間協力国際サミット」の冒頭で、EUの自治体首長ら7名とともに、ウクライナ大統領賞「黄金の心」を授与された。今回キーウには「兵庫県知事の代理」として訪問した。筆者は、日本で最もウクライナ支援に熱心な自治体といっても過言ではない兵庫県のウクライナ復興支援プロジェクトチームのアドバイザーを務めている。同国際サミットへの招待状が斎藤元彦知事に届き、兵庫県庁から要請を受けて代理として、この会議に出席したのである。戦時下のウクライナには海外安全情報の「退避勧告」が出ているが、2024年2月に東京で開催された「日本ウクライナ経済復興推進会議」の結果、同国の復興に携わる関係者には、例外として日本の外務省への届け出・了解を得て、キーウへの渡航が認められている。今回は、兵庫県の要請に基づき、外務省に申請の上、勤務校の承認も得ての半官半民の公務出張となった。戦争が始まってウクライナに渡航するのは4回目である。
ゼレンスキー大統領との再会と「黄金の心」受賞
戦争が始まってからの訪問では、毎回大型の国際会議への出席があったため、その席上でゼレンスキー大統領を間近で見ることができたが、言葉を交わすのは初めてである。大統領就任直後の2019年に2度ほど言葉を交わす機会があったためか、最初の一言は「元気ですか?」だった。なんともゼレンスキーらしい言葉と感じた。ウクライナ大統領令によれば筆者への「黄金の心」授与理由は「ロシア連邦によるウクライナへの軍事侵略において人道支援の提供、およびウクライナの国家主権と領土保全の支持に対する多大な個人的貢献」であった。正式に授与されることを聞いたのは同国際サミット開始の10分前であった。この時間感覚もいかにもウクライナらしい。
ウクライナ大統領賞「黄金の心」であるが、名称・形状にもゼレンスキー政権らしさが見受けられる。例えば、2021年7月に最初に創設されたのは「ウクライナの伝説」である。ロシア・ウクライナ戦争が始まって後の2022年12月に創設された「黄金の心」の授与対象は、「特にロシア連邦によるウクライナへの軍事侵略に関連して、ウクライナの防衛を保ち、国民の安全と国家の利益を守り、その結果のための措置の実施において、ボランティア支援の提供とボランティア運動の発展への多大な貢献」に対してである 。
形状もそれまでの大統領賞が勲章型であるのに対して、まったく異なるものである。筆者に贈られた「黄金の心」はそれが顕著で、歪なハート型にウクライナ国旗色の糸が通してあり、一見ブローチのようでまったく勲章のようには見えない。ゼレンスキー政権は発足当初からそれまでのウクライナ大統領や政府の権威主義に抗う傾向がみられたが、これらの大統領賞の名称やデザインはそれを象徴しているとも言える。
これまでの功績を認められての受賞は誇らしい。ただ、筆者の前に受賞した外国人のうち2名は、ウクライナ東部で高齢者の避難や子供の支援を行っている際にロシア軍の砲撃を受け死亡したカナダ人とスペイン人のボランティアである。それを考えると非常に重い受賞でもある。授与の前日、その時点で、この戦争が始まってから4番目に激しい空襲があった。ウクライナではいまだ戦争が続いている。
旅、スポーツ記者は恵まれていた…

尚美学園大学 名誉教授
佐野 慎輔氏
暖かいところに行きたい…。いまならば「涼しいところに」となるのだろうが、あのときは切実にそう思った。31年前の話である。
1994年リレハンメル冬季オリンピックの取材で1カ月ほどノルウェーにいた。凛とした空気と雪をかぶったノルウェーの森に自然の峻厳を知り、晴れた夜空に緑の帯が漂うオーロラに魅了された。
飽かず、贅沢な時間であった。しかし、寒かった。寒暖計はいつも氷点下、寒気の厳しい日は零下30℃にもなる。鼻の奥がつんと痛くなったことを記憶している。思えば前の年の暮れから情報を求めて、すっぽりと雪と氷の世界にいた。
「5日ほど休みをもらいます」
「そうか。で、どうすんだ」
「暖かいところに行ってきます」
あの頃、新聞の総発行部数は1997年の5377万部をめざして右肩上がり。上司はおおらかだった。どこに行くかも聞かれず、閉幕後の現地休暇に許可が下りた。
リレハンメルからの最終送稿、撤収作業を終えてオスロからコペンハーゲンへ。バルセロナでゴルフをするという同業他社の仲間と別れ、一気に南に下る。めざすはアテネ。オリンピックの余韻のまま、第1回夏季大会開催の地を見ておきたい。だが「地中海で浮かんでみたい」気持ちがはるかに勝った。
ノルウェーとの気温差35℃前後、重いセーターを脱いでパルテノン神殿にのぼり、パナシナイコ競技場を走った。タベルナでムサカを頬張り、白濁したウゾを流しこんだ。そしてピレウス港から船で海に漕ぎ出す。しかしさすがに2月はギリシャも冬、ウインドブレーカーで身を固くして波に寝そべった…。これがその後も幾度か、ギリシャを訪ねる始まりとなった。
スポーツ記者は恵まれていた。まじかにスポーツの興奮を味わい、取材という大義名分で国内外を旅する機会も多い。1泊以上を条件に国内すべての道府県を制覇したのは30代半ば、海外も30を超える国々に足を踏み入れた。今よりはるかに緩い労働環境、取材の合間に縮こまった羽を伸ばすことができた。
街を歩き、市場や地元デパートをのぞく。朝は地元紙に目を通し、夜ともなれば地元の人たちが憩う居酒屋に腰を据え、海山の肴に評判の地酒。スポーツ記者はおいしい店をよく知っている。気が向けば美術館、博物館に足を延ばし、寺社仏閣に詣でる。その地元を知ることは書く原稿に味わいを生む。
遠い昔、先輩記者から言われた。「原稿に風合いを出せ。地方に行けばその地方の香りがする原稿を書け」―それ以来だろう、街を歩くことは記者を辞めた今も習い性となっている。
たとえ仕事の合間でも、いや仕事の合間だからこそ、小さな旅を楽しみたい。後輩の記者に聞くと、残念ながら自由に使うことのできる時間はだんだん減ってきているという。日本新聞協会発表の2024年10月時点の一般紙、スポーツ紙を合わせた発行部数は2661万6578部。ピーク時から半減してしまった。取り巻く社会環境が小さな旅を許さないとしたら、とても悲しい。