Coffee Break<週刊「世界と日本」2299号より>
爽風エッセイ
取材中の思い出~姪が生まれた日

欧州鉄道フォトライター
橋爪 智之氏
筆者が会社員との二足の草鞋ながら、本格的に執筆をするようになってから、既に四半世紀が経とうとしている。長いライター業生活の中で様々な国や地域を訪れ、多くの思い出が残っているが、そんな私の旅のエピソードの中で、特に忘れられない思い出として深く胸に刻まれている出来事がある。
今から約13年前、2012年11月末。その時は、ちょうどFAMトリップ(観光客誘致を目的とした旅行業関係者やプレス関係者向けの体験旅行)に参加して、ポーランドの首都ワルシャワを訪れていた。私にとって初めてのポーランド訪問だったが、季節は真冬。ヨーロッパの冬は明るい時間が短く、朝は8時近くにならなければ陽が上らず、夕方は16時前には陽が沈む。それでも太陽が見られればラッキーで、厚く覆われた雲のため、何日も太陽を見ることができないことも多い。案の定、視察旅行とはいえ連日曇り空の中、寒さに震えながらワルシャワ市内を朝から晩まで歩き回った。町中はクリスマスの電飾が準備されているが、12月まで点灯することは無い。…いや、今日は11月30日で、明日から12月だ!明日の晩になれば、町中もいくらか華やかになるであろう…そんな期待を抱きつつ、社会主義時代の面影を色濃く残す古いホテルへと戻った。
部屋へ戻る前、ツアーガイドから明日の視察スタートは10時からと伝えられる。少し時間が取れるならば、行きたいと思っていた場所がある。ワルシャワ市内を流れるヴィスワ川に架かる橋を通過する、列車の撮影がしたかったのだ。ツアーは視察が詰まっているため、行くならばこの時しかない。
翌朝は5時に起床して、6時にはホテルを出た。時間があまり取れないし、連日の曇天から太陽光は期待していなかったが、日の出時刻に少し空が明るくなってくれればありがたい、と考えていた。ホテルの外へ出たら、昨晩にも増して寒さが厳しい。歩道の表面に薄っすら霜が降りていて、アスファルトなのに油断をしていると転びそうになる。早朝にもかかわらず、トラム車内は職場へ急ぐワルシャワ市民でそれなりに埋まっていた。ヴィスワ川近くの停留所で下車すると、風が吹いて尋常ではない寒さとなっており、体感温度はマイナス5~10度くらいではなかっただろうか。
西の空は薄っすらと明るくなってきたが、まだ撮影ができるほどではない。街灯の光に反射してダイヤモンドダスト(空気中の水蒸気が凍る現象)が輝くのを見ながら、カメラを構えて空が明るくなるのをじっと待っていたら、携帯電話にメールが届いた。こんな時間に何だろう、そう思ってチェックをしたら、日本の義母からだった。「無事に生まれました」…姪が生まれた、という連絡だった。
その時である。西の空から光り輝く太陽が顔を出した。数日ぶりの陽の光である。鉄橋を渡る車両に太陽光が反射し、車体が鈍く光る。夢中でシャッターを切った。色々と嬉しくて叫びそうになった。
その姪は今年、中学生になった。その時の話をすれば、「…またその話?!おじいちゃんになった??」などと半ばウンザリした顔で言われるが、あの日見たあの光景は私にとって一生忘れることのない、大切な思い出として胸に刻み込まれている。
知られざる特攻基地、大津島を訪ねて

ジャーナリスト・俳優
葛城 奈海氏
「徳山に行くなら、ぜひ大津島にも足を運んで」。そう、某出版社の担当編集者から勧められるまま、4年前の夏、講演の帰路に向かった山口県周南市の大津島。徳山駅にほど近い徳山港から小型フェリーに揺られて約40分。馬島港に降り立つと、縦書きで「ようこそ回天の島 大津島へ」と大書した看板が迎えてくれた。港の目の前には、白い石造りの鳥居と社殿がまぶしい大津島回天神社が鎮座している。令和元年に創建された同社の御祭神は、戦没回天烈士106柱だ。
そう、ここは、「人間魚雷」回天の訓練基地があった島なのだ。回天とは、大東亜戦争末期に作られた、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自ら操艦して敵艦に体当たりする特攻兵器だ。その名には、「天を回らし、戦場を逆転させる」という願いが込められている。
かつて整備工場から回天を運搬するために使用されていた訓練基地跡へと続くトンネルの壁面には、出撃する隊員の様子などを映した白黒写真が日本語と英語の説明文つきで展示されていた。そのひとつには「出撃搭乗員は見送りのものと互いに激励・握手を交わし、季節の花を抱いて大津島・光・平生の基地を後にした」と記されている。
トンネルを抜け、岩場から突き出した桟橋の先に進むと訓練場だ。もともと九三式魚雷の発射試験場だったところが昭和19年9月1日、回天基地開隊に伴い、回天の操縦訓練場となり、以後終戦まで搭乗員たちが猛訓練に明け暮れた。今ではコンクリート剥き出しのがらんとした状態になっているが、独特な構造物から覗く海面には無数の魚影が揺れていた。
再び港の近くまで戻り、徒歩10分ほどの回天記念館へと向かう。屋外には実物大の回天のレプリカが、平成10年にリニューアルされた記念館には、遺書、手紙、軍服、遺影や遺品などのほか、回天の歴史や時代背景、当時の生活などがパネルで展示されている。
中でも一際目を引いたのが、大津島での訓練開始まもない昭和19年9月6日、荒天を押して訓練に出て殉職した黒木大尉、樋口大尉の遺書だ。18メートルの海底に着底後、刻々と迫る死を前にして両大尉は事故の様子や改善点を沈着に記していた。樋口大尉の「後輩諸君ニ 犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ」という文言が胸に刺さる。
その後、自転車を借りて島内の高台にある魚雷見張り所跡、展望広場、厳嶋神社などを巡った。いくつかの小さな湾では、海水にゆらめく光に吸い込まれるように、美しい渚に足を漬けた。
思えば、この大津島での体験が、その後、加計呂麻島(鹿児島県大島郡瀬戸内町)や八丈島(東京都)の震洋(特攻ボート)基地跡といった国内の戦跡遺構を訪ねる原点となった。
神風に代表される航空特攻に比して、回天・震洋といった「航空以外の特攻」を知る日本人は少ない。ましてや、その遺構が戦後80年を経た今この時も静かに存在し続けていることを知る人は、さらに少ない。八丈島の震洋格納壕跡などは、すぐそばで民宿を営む島民でさえその存在を知らなかった。今を生きる私たちが先人たちから受け継いでいるバトンの重みを感じるためにも、日本を守るために命を捧げた若者たちの気配を感じに、時にはこんな「旅」もお勧めしたい。