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2023年の政治、世界経済は波乱が続きます。それでも日本は景気拡大持続へ。それぞれの専門分野で、深く丁寧に将来を見通します。

2023年9月4日・18日号 週刊「世界と日本」第2252・2253号 より

政局秋の陣 与野党の思惑は

 

「大きな政治」を目指すべき岸田首相

 

評論家
ノンフィクション作家

塩田 潮 氏

《しおた うしお》

1946年高知県生まれ。慶大法卒。雑誌編集者、月刊『文藝春秋』記者などを経て独立。『霞が関が震えた日』で講談社ノンフィクション賞受賞。『大いなる影法師』、『昭和の教祖 安岡正篤』、『田中角栄失脚』、『日本国憲法をつくった男 宰相幣原喜重郎』、『密談の戦後史』、『東京は燃えたか』、『内閣総理大臣の沖縄問題』、『危機の権力』、『解剖 日本維新の会』、近著に『大阪政治攻防50年』など著書多数。

 9月2日、国民民主党の代表選挙で玉木雄一郎代表が前原誠司氏との一騎打ちを制して3選を遂げた。

 野党第3党の党首選だが、政党政治の在り方と将来の与野党再編をめぐる路線が焦点となったため、注目を集めた。玉木氏は実行中の「提案重視・問題解決型」の現実路線を主張した。前原氏も持論の「与党と対峙する非自民・非共産の野党結集」を訴えた。

 

 前原氏は昨年11月、インタビューで「このままでは国民民主党は消えてなくなると思う。どこかで何らかのアクションを取らなければ」と明かしたが、決意を実行したのだろう。「低迷の与党」対「躍進する日本維新の会」という構図が明確になってきたのを見て、アクションを起こす時機と判断したに違いない。

 実際に今、自民党による国民民主党の取り込みや、維新を軸とする野党結集構想が飛び交っている。玉木氏と前原氏の一戦は、与野党各党の思惑の投影という側面があった。

 現在、自民党は衆議院で単独で過半数を超えているが、参議院は過半数に8議席、足りない。公明党との連立は衆参ねじれの回避が最大の目的だが、参議院13議席の国民民主党で8人以上が与党入りすれば、自公連立でなくても、自民党はねじれを阻止できる。

 今年の前半、衆議院での選挙協力をめぐって「自公の亀裂」が表面化した。岸田文雄首相は6月、解散・総選挙を企図して、「解散不発」という失敗を演じたが、その主因は自公対立であった。自公連携は10月で24年となるが、両党とも「強まる分断への遠心力」に対する危機感は強い。

 

 一方、岸田内閣は「解散できない首相」のマイナスイメージや物価高騰、マイナンバーカード問題などが響いて、再び支持率低落に見舞われた。8月の調査で読売新聞は政権発足後の最低の35%、時事通信は2番目の低率の26・6%と低迷中だ。

 首相の政権戦略は、来年9月の自民党総裁任期満了時の総裁再選が最優先課題である。首相はその前の衆院選実施・勝利による再選確実の状況作りを狙った。解散意欲は本物で、次の「政局秋の陣」では、まず内閣改造と自民党役員人事で総裁再選の布陣を用意し、10〜12月に解散再挑戦というシナリオを想定していたはずである。

 ところが、支持率再下落で、解散ムードは吹き飛んだ。首相も党内のライバル不在という現状を見て、「衆院選なし」でも続投可能と判断し、総裁選後への衆院選先送りに傾斜するのではという見方が有力となっている。

 他方、安倍晋三元首相の国葬実施や日本銀行総裁人事、G7広島サミット(主要国首脳会議)へのウクライナ大統領招待など、意外にも「サプライズ大好き」の岸田首相は、断固、今秋の衆院選実施に踏み切るかも、という見立てもある。

 その反面、今年12月で与党11年となる自民党が、「1強」にもかかわらず、ここ数年、衰弱の下り坂にあるという指摘も見逃すことができない。大きな要因は支持基盤の融解という実態である。

 固体が液体に変わることを融解というが、自民党に限らず、維新を除く従来型の各党は支持基盤の融解現象に直面していると映る。政党支持の固体は、自民党では各業界や全国各地の各種団体などの既得利益構造、立憲民主党と国民民主党は労働組合、公明党は創価学会、共産党は伝統的な左翼勢力だが、いずれも液状化が激しい。

 経済成長の終焉(しゅうえん)、急激な国際化やIT社会到来、少子・高齢化などによる社会構造の変化と国民の価値観の多様化などが原因だ。

 「自公の亀裂」も、維新に対抗する選挙対策をめぐる思惑と計算の狂いという問題だけではない。自公連立はもともと「氷上のダンス」で、その現実が露呈したという深刻な事情が潜んでいる。

 自公連立の内実は、愛を失った24年の結婚歴の夫婦が氷上でダンスを踊っているような危うさと背中合わせだ。両党にとって権力による果実が「厚い氷」のときは問題ないが、融解現象で足もとの氷が薄くなると、割れ目が拡大して湖水に沈没という「薄氷の連立」の一面が顕在化する。

 

 下り坂の自民党を再び上り坂に変えるには、何が必要か。何よりも岸田首相が国民の「大きな民意」をくみ取り、当面の課題処理だけでなく、日本再生の将来像、立国の基本路線、シナリオなどを明確に提示して挑戦する「大きな政治」を目指すべきである。

 その姿勢と意欲が見えなければ、国民の中に潜在する「政権交代可能な政党政治」復活への期待が高まる。民意が強く望めば、与野党再編や野党結集の歯車が再び動き始める。冒頭で触れた国民民主党代表選は、実はその序幕だったという展開になるかもしれない。

 自民党が下り坂のまま、再浮上できなければ、十数年ぶりに政権交代劇の幕が開くことになる。正念場となる決戦の時期はいつか。

 

 大胆に予想すると、決戦は2025年と見る。25年は6〜7月に次期参院選があり、衆院選がない場合の衆議院議員の任期満了が10月30日に訪れる。岸田政権が続いているかどうかは分からないが、自民党が下り坂で解散・総選挙を先送りし続けると、25年夏の衆参同日選挙実施論も噴出しそうだ。

 決戦の鍵は主権者である国民が握っている。どの政治勢力に将来を託すのか、勝負は約2年の長丁場となるが、政治の側も、国民の関心が高い課題や目標を論点として提示しなければならない。続投中なら、そのとき、岸田首相は就任時からおそらく唯一、唱え続けている「憲法改正」を掲げて衆参同日選を仕組むのだろうか。

 同時に、25年は維新が推進してきた関西・大阪万博の開催年だ。今は快進撃の維新だが、馬場伸幸代表は足もとの疑惑で「文春砲」の直撃を受け、並行して万博開催準備の遅れや不手際の問題も抱えて、党代表として指導力が問われている。

 本番の25年、維新は政権交代劇の見せ場で主役を演じることができるかどうか。もしかすると、万博を境に一気に凋落(ちょうらく)という大苦戦も、ないとはいえない。

 

 


2023年9月4日・18日号 週刊「世界と日本」第2252・2253号 より

これからの経済・景気の展望

 

~米中経済の悪化で鈍化も、国内景気回復持続~

 

第一生命経済研究所 経済調査部 

主席エコノミスト

永濱 利廣 氏

《ながはま としひろ》

95年早稲田大学理工学部卒業後、第一生命入社。05年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、16年より現職。跡見学園女子大学非常勤講師兼務。内閣府経済財政諮問会議有識者、経産省物価高における流通業のあり方検討会委員、総務省消費統計研究会委員、景気循環学会常務理事。著作に「給料が安いのは円安のせいですか」(PHP研究所)等。

23年度後半の世界経済の動向

 

(1)世界のインフレ率動向

 

 世界の消費者物価は国際商品市況の落ち着きやこれまでの金融引き締めを背景に、財価格の下落を主導に米国→欧州→日本の順番に急速に伸びが鈍化してきた。特に米国では、住宅価格下落が住居費などのサービスインフレも低下に転じており、ユーロ圏ではエネルギー供給制約がある中でも、エネルギー確保のため需給両面で取り組みを実施したことから、米国に追随してインフレが低下してきた。こうした中、よりコストプッシュの要素が大きい日本のインフレ率は、価格転嫁の遅れによりインフレ率の低下が最も遅れており、国内需給のタイト化や賃金上昇による内生的な物価上昇とはなっていない。

 

(2)世界の金融政策動向

 

 インフレ率のピークアウトに伴い、欧米では金利と量の双方から金融引き締めのペースが鈍化している。ただ、追加の利上げ観測がまだ燻(くすぶ)っていることから、長期金利は昨年ピークに近い水準まで上昇している。

 ただ、米国では住宅需要の軟化から住宅価格が下落していることからすれば、既に政策金利は上限近くまで来ており、年度後半以降もディスインフレが継続することで、FRB(米国連邦制度理事会)は当面政策金利を据え置こう。

 一方のユーロ圏のほうも、米国よりもインフレ率低下が遅れるものの、既に政策金利が中立金利を上回っているため、ECB(欧州中央銀行)も当面金融政策は据え置きで、来年後半以降は利下げに転じるだろう。

 こうした中で日銀は、7月に指値オペの金利水準を0・5%から1・0%に引き上げることでYCC(イールドカーブ・コントロール・長短金利操作付き・量的質的金融緩和)の修正を行ったため、当面修正の可能性は低いだろう。仮にYCC撤廃やマイナス金利解除に動くとすれば、景気回復の持続により来年春闘で賃上げの継続が確認される来年度以降になろう。

 

(3)23年度後半以降の海外景気

 

 2023年度前半にかけての世界経済は、金融引き締めによる下押しがある一方で、ユーロ圏以外の主要先進国はいずれも総合PMI(企業の購買担当者景気指数)が50を上回って推移するなど、総じてみれば底堅い動きがみられた。

 背景には、雇用が安定する中での物価高対策や、特に日中において経済活動の再開に伴うサービス消費、GX(グリーントランスフォーメーション)・DX(デジタルトランスフォーメーション)・レジリエンス強化面を中心とした設備投資の増加がある。

 特に米国では、堅調な雇用情勢を受けて労働需給の引き締まりが続き、人手不足により高い賃金上昇が継続したことで個人消費や輸出がけん引役となってきた。しかし、これまでの急速な金融引き締めを受けて住宅ローン金利は急上昇しており、今後もこれまでの利上げの影響が見込まれる中、住宅市場や設備投資の悪化が主導することで、年度後半の米国経済は明確に減速局面に入ろう。ただ、労働市場の勢いが下支えすることで、景気後退にまで至る可能性は低いと想定される。

 一方、足元で悪化が目立つユーロ圏の景気だが、雇用の改善が続く中で最悪期は脱しつつあると見る。今後はインフレ鈍化に伴う消費の下押し緩和、エネルギーの供給制約や価格高騰の緩和に伴う生産活動の回復により、来年にかけて幾分景気は持ち直すと見る。

 こうした中、デフレリスクが高まる中で政府の対応が鈍い中国経済が最大の懸念材料となろう。昨年末のゼロコロナ解除で一時的に持ち直しの動きがあったものの、不動産市況の悪化や地政学的緊張の高まりによる悪影響が当初の予想以上に重しになっている。特にGDPの3割相当を占めるとされる不動産開発部門は低調が続いており、企業の債務問題が長期化する中で、不動産開発投資が足を引っ張っている。これを受けて中国人民銀行も金融緩和に着手しているが、地政学的緊張の高まりによる中国からの資本流出につながるリスクもジレンマとなっている。こうした中で、特にコロナ禍以降に少子化に拍車がかかっており、中国の経済成長率は長期的にも伸びが抑制される可能性が高まっている。

 

(4)23年度後半以降の国内景気

 

 このように、すでにPMIで減速の可能性を示している世界経済は、来年にかけてリセッションは避けられるものの、米中中心に減速が不可避となろう。

 こうした中で、肝心の日本の景気は相対的に底堅い回復が予想される。背景には、コロナからのリオープンを原動力としたサービス消費の回復、政府の支援策の恩恵も受けたGX・DX・レジリエンス強化向けの設備投資、中国人の日本向け団体旅行解禁を受けてのインバウンド消費の更なる拡大がある。

 なお、当面のリスクは財消費の抑制要因となっているコストプッシュインフレの影響に加え、世界経済の減速による輸出や生産・設備投資への悪影響だが、世界的には依然として日本の主力産業である自動車の繰越需要が旺盛なため、景気の腰折れは避けられると見る。

 以上より、今年度後半以降の国内景気は、海外経済の悪化を受けて減速を余儀なくされるものの、底堅い国内のサービス消費や設備投資、インバウンド消費や自動車関連輸出が下支えとなることで、緩やかな回復を続けると予想する。

 

 


2023年8月21日号 週刊「世界と日本」第2251号 より

日本の民主主義の進むべき道

 

 

日本大学危機管理学部教授

先崎 彰容 氏

《せんざき あきなか》

1975年東京都生まれ。専門は近代日本思想史・日本倫理思想史。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院博士課程修了後、フランス社会科学高等研究院に留学。著書に『未完の西郷隆盛』、『維新と敗戦』、『バッシング論』、『国家の尊厳』など。

 

 今日、「自由と民主主義」という言葉は、自明の正義、普遍的な価値ではなくなってきている。その原因は、日本内外の事情が大きく変動しているからだ。日本はどこへ向かって進めばよいのか。その処方箋を出すために、まずは時代情勢を冷静に診察することから始めたい。

 

 一例として、G7を挙げるのがよいだろう。かつて世界のGDPの七割を占めたG7は、今や五割にまでその力を弱めている。変わって台頭してきたのがグローバル・サウスとBRICSと呼ばれる、かつての発展途上国の国々である。国際社会を見極めるうえで重要なのは、G7が衰退したのではなく、世界が「多極化」しているという事実である。そして多極化とは、複数の価値観、国際秩序観を抱いた国々が、決定的な派遣を握れず、ひしめき合う世界のことを意味する。

 もう少し丁寧に説明すると、かつてはG7が国際秩序を握り、七カ国が考える価値観、すなわち「自由と民主主義」は「普遍的価値」だと見なされていた。G7が考える外交をおこない、その支配下で動く国は善であり、それ以外は秩序を乱すとして悪の烙印を押された。ところが、G7が掲げる価値観は、異なる文化と歴史を持つ国にとって、必ずしも正義ではない。一例を挙げると、民主主義は多数決の原理を重視するが、少数民族を抱える国にとって、多数決は少数民族の弾圧に恰好の口実を与えてしまうのだ。こうした国に生きる人びとにとって、正義は、民主主義よりもむしろ複数の声を聞く政治制度なのである。

 ここにロシアのウクライナ侵攻を加えてみよう。ロシアが主張しているのは、より大きな眼で見た欧米の国際秩序への不信感である。G7の可否よりも根源的な違和感を、ロシアは表明している。資本主義と民主主義、そして欧米主導の外交秩序という、四〇〇年近い歴史をもつ近代システム自体に、違和を表明しているのだ。そこに中国の思惑が重なる。中国もまた根本思想を辿るなら、華夷(かい)秩序(ちつじよ)の中心国だという自負をもつ。中国の国際秩序観は、本来、自分たちが中心であるべきであり、欧米の覇権など百年程度のことにすぎないのだ。そこにインドが、欧米や中国とも異なる国際秩序の主人公になることを目指して、第三の地域に声をかける。これが昨今、よく耳にするようになったグローバル・サウスなのである。

 かくして、G7・ロシア・中国・インド・グローバル・サウスといった地域と国々が、異なる正義感と国際秩序観をもって覇権争いを開始した。かつての「普遍的価値」である自由と民主主義は、もはやそれだけでは魅力的な響きをもたなくなりつつある。世界が「多極化」しているとは、以上のような変化の渦中に、日本も身をさらしていることを強調したいからだ。

 では次に、国内をどう理解したらよいだろう。ここで参考になる書物が最近刊行された。フランシス・フクヤマ『リベラリズムへの不満』(新潮社)である。この著作の魅力は、G7すなわち先進資本主義諸国を覆う病を摘出している点にある。自由と民主主義を理念とするこれらの国々は、いわば成熟社会の病を抱えている。日本もまた例外ではないのである。フクヤマによれば、リベラリズムは今日、極端な方向に進みすぎている。リベラリズムの基本原則は、個人の自律性の尊重である。しかし国家の干渉を徹底的に拒絶した結果、新自由主義を経済モデルとして採用することになった。新自由主義の特徴とは、市場の競争を正しいとみなし、政府の介入を排除する。それは競争による勝者と敗者を生みだしてしまうが、それは自己責任とされるわけだ。アメリカの野球選手の年俸が、天文学的な数字になることを、知っている人も多いだろう。このアメリカン・ドリームの傍らには、多くの不法移民や浮浪者など、その日暮らしの人たちが、摩天楼の下に蠢(うごめ)いていることも知っているだろう。失業者の群れは治安の悪化をもたらす。だとすれば、「自由と民主主義」のうち、自由を追求するあまり、民主主義がもつ平等性がないがしろにされているではないか。

 さらにリベラリズムは、もう一つの問題を引き起こすとフクヤマは言う。ライフスタイルや価値観の自由を求めすぎた結果、社会規範すべてに否定の声をあげるようになる。その結果、みずからの生得的な特徴—人種、性別、性的指向—を全面的に押し出し、その不平等性を追求し、少しでも考え方の異なる人を見つけると指弾するようになる。この傾向を、フクヤマは「アイデンティティ政治」と名づけ、警告を発している。なぜなら本来、性差別への批判は、多様性を求めてあげた声であるにもかかわらず、自分の意見と異なる側を糾弾し、悪のレッテルを貼る「非寛容」に陥っているからだ。例えば保守的なグループにとって、同性婚や妊娠中絶を容認できないのは、彼らが培ってきた文化的・宗教的信条に基づく「価値観」である。その価値観を、生得的特徴を盾に全面否定することは、文化の否定に他ならない。多様性と平等を求めてきたはずの人たちが、逆に相手を全否定するのだ。

 ここまでくれば、もうお分かりであろう。昨今、日本で騒がれた一連の性的少数者をめぐる狂騒曲は、このフクヤマの指摘を踏まえていない。法案に賛否いずれの立場をとるにせよ、この程度の時代診察を踏まえずに大声を発している日本の言論界が、いかに冷静さを失っているかはもはや明らかである。

 さて、以上の時代診察から何が言えるだろうか。それは国際社会が多極化し、安定性を欠いており、一方、国内を診てみると、過剰な競争の脱落者を抱え、しかも相手を批判しあう言論が飛び交っている社会情勢である。いずれにせよ、「自由と民主主義」を掲げてきた国々を閉塞感が覆っていることは間違いない。そして日本もまた例外なく、閉じられた空間になってしまっている。まずは自分たちが発する言葉が、何を意味し、どこに陥っているのか。時代への処方箋は、冷静な判断から、すべては始まる。

 


2023年8月7日号 週刊「世界と日本」第2250号 より

日米同盟と核抑止を考察する

 

 

評論家

江崎 道朗 氏

《えざき みちお》

1962年、東京都生まれ。九州大学卒業後、国会議員政策スタッフなどを経て2016年夏から評論活動を開始。主な研究テーマは近現代史、外交・安全保障、インテリジェンスなど。産経新聞「正論」執筆メンバー。2020年、フジサンケイグループ第20回正論新風賞を受賞。最新刊に『なぜこれを知らないと日本の未来が見抜けないのか』(KADOKAWA)。

核兵器の必要性を認めた「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」

 

 5月19日、広島G7(先進7カ国)サミットにおいて「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」が公表された。マスコミ報道を見て、今回もまた「核なき平和」みたいな美辞麗句を述べたと誤解している人が多いようだ。だが、「広島ビジョン」を実際に読んでみると、意外なことに気づく。実は「核を無くせ」ではなく、「核は必要だ」と言っているのだ。

 「広島ビジョン」では、ロシアによる核の恫喝(どうかつ)をこう非難している。

《我々は、ロシアのウクライナ侵略の文脈における、ロシアによる核兵器の使用の威嚇、ましてやロシアによる核兵器のいかなる使用も許されないとの我々の立場を改めて表明する》

 そして、ロシアによる核恫喝に対抗するためにも、自国の防衛のために核兵器が有効であるとして、次のように記されている。

《我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている》

 要は核の恫喝を厭(いと)わないロシアと中国などを念頭に、《法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を守り抜く》ことを話し合い、自由主義陣営の核兵器が防衛目的の役割を果たしていることを確認したのが、今回の広島G7サミットだったわけだ。

 とはいえ、北朝鮮や中国が、日本に対して核の恫喝を仕掛けてきたとき、米国は本当に対抗してくれるのか。日本は戦後長らく核兵器については思考停止状態で、「いざとなれば米国が何とかしてくれる」かのような根拠なき楽観論に逃げ込んでいた。

 

核に関する日米拡大抑止協議(EDD)

 

 だが、北朝鮮の核開発の進展を受けて日米両国は2010年、日米同盟の中核である拡大抑止の維持・強化のあり方を議論するための恒常的な場として日米拡大抑止協議(EDD)を始めた。

 今回も広島サミットを受けて6月26日から27日まで日米両政府は、米国ミズーリ州ホワイトマン空軍基地において日米拡大抑止協議を実施した。外務・防衛当局が出席し、核使用への抑止に一層備えるために情報共有、訓練及び机上演習などについて議論し、実際に机上演習も実施した。

 加えて岸田文雄政権は、バイデン政権に対してアメリカの核の傘というが実際に使われる核兵器とその運搬手段はどうなっているのか、この目で確認させて欲しいと求め、日本の代表団が今回、B2ステルス戦略爆撃機や退役した大陸間弾道ミサイル「ミニットマン2」の発射管制センターの視察を行っている。

 この拡大抑止協議をさらに実のあるものにするためには、日本政府としてしなければならないことがある。それは「日本独自の核抑止戦略」を策定することだ。

 北朝鮮の核兵器、ミサイル技術の進展は目覚ましく、いずれ日本も核による恫喝を受けることになる。その時点でアメリカによる核攻撃の準備を依頼するのか、それとも日本本土が核攻撃を受けた際に報復を依頼するのか、その際、アメリカはどの核兵器をどのように使うのか、その攻撃場所はどこなのか。

 これは中国の場合も同様だ。台湾紛争に際して在日米軍の使用を米軍に認めないよう中国は当然、圧力を加えてくるだろうが、日本が核の恫喝を受けた場合に、アメリカはどのような対抗措置をとるのかなど、具体的なシミュレーションに基づいて「米国に対する日本の要望」を細かく決定し、米国と事前に話を詰めておかないといけない。

 

まずは、日本独自の「核抑止戦略」の策定を

 

 要は、日本独自の戦略がないまま日米で協議を続けたところで、「アメリカさん、とにかく何とかしてください」という話にしかならないのだ。

 そう考えた自民党保守系の「日本の尊厳と国益を護る会」(青山繁晴代表、山田宏幹事長)が、広島G7サミット直前の5月18日、松野博一官房長官と国会内で面会し、岸田首相宛ての提言「核抑止戦略に関する提言」を手渡した。

 「日本独自の核抑止戦略」を策定するためには、官邸の国家安全保障会議において核に関する議論を開始しなければならない。そのたたき台を「護る会」は作成し、政府に提示したわけだ。

 提言では冒頭、以下のような趣旨を述べている。

《「護る会」では、我が国の平和と安全のためには、核抑止についての議論は避けてはならない重要な課題であり、核問題を自分自身の国家安全保障の問題として考える時期に来ているとの問題意識のもと、令和4年11月から令和5年3月まで4回にわたり有識者を交えて核抑止についての勉強会を重ねて来た。そこで行われた議論を踏まえ、我が国としての「核抑止戦略」について考えるべき論点と今後の安全保障に関する政策への提言を取りまとめたところである。今我々は「タブー無き核抑止」を議論し、現実の政策、戦略として具体化することが求められている。

 なお、憲法をはじめ我が国として在るべき方向性を今後の課題として不断に検討することは当然であるが、本提言においては、「日米安全保障条約」に基づく日米同盟関係の維持、「核拡散防止条約(NPT)」に基づく権利・義務の堅持など、これまでの我が国の基本政策は現実的なものであるべきとの基本姿勢に立脚している。》

 わが国はいま核の脅威に直面しているわけだが、だからと言って「核武装せよ」といった極論を述べても、現実の政治は動かない。大事なことは、核の脅威にどう立ち向かうのか、日本としての戦略をまず持とうではないか、というのが護る会の提言の根幹だ。

 そして日本が独自の核抑止戦略を策定することは、現行憲法や日米安保条約、NPT体制のもとでも可能なことなのだ。

 せっかく広島G7サミットで、防衛目的のために核兵器は必要だと確認したのだ。

 ロシア、中国、北朝鮮の「核の脅威」から日本の平和を守るためにどうしたらいいのか、できるだけ早く日本独自の「核抑止戦略」を策定するよう、政府に求めたいものである。

 


2023年8月7日号 週刊「世界と日本」第2250号 より

ChatGPTとどう向き合うか

 

 

千葉商科大学

国際教養学部准教授
常見 陽平
 氏

《つねみ ようへい》

1974年生まれ。北海道出身。一橋大学商学部卒業。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。㈱リクルート、コンサルティング会社等を経てフリーに。雇用・労働、キャリア、若者論などをテーマに執筆、講演に活躍中。千葉商科大学国際教養学部専任講師を経て現職。

 AIと人間の共存についての議論は特にこの10年間、盛り上がっている。AIが人間の雇用を奪う論、人間を支配する論、あらゆるデータが流出するリスク、AIとの役割分担をめぐる倫理的問題などが議論されてきた。

 

 一方で、AIの進化は止まらない。利用事例は増え続け、その度にAIは学習していく。是非を議論しているうちに、気づけばAIに囲まれている。スマートフォンを使っている限り、逃げられない。いや、私はスマホを持たないと主張する人も、気づけば暮らしの隅々にAIが広がり、いつの間にか取り囲まれている。

 今回、生成AI、対話型AIのChatGPTが世界を震撼させたが、これは物語にたとえると、序章ではないが、前編の第3章くらいだと見ている。今後も変化は継続して起こり、その度に同じような議論が巻き起こるだろう。AIが人間を上回るのは何年後かという未来予測もよく発表される。事実をもとに推測する地道な努力をリスペクトしつつ、とはいえ、今回のChatGPTのように想像をはるかに上回る新技術、新サービスが登場する可能性も否定できない。

 2023年は日本の大学にとって慌ただしい年となった。まだ約5カ月残っているのだが、そう断言できる。大学の募集停止のニュースが相次いだ。今後、18歳人口が減少し続けることから危機感が高まっている。生き残りをかけた取り組みも日々、報じられる。しかし、なんといってもChatGPTである。教育、研究を行う大学としてどう対応するのかが話題となった。

 東京大学を始め、各大学で声明やガイドラインが発表された。言うまでもなく、レポート執筆などにおいての悪用が懸念された。

 大学において、このAIが関係するのは学生だけではない。教員も活用する。研究支援、教育支援、ユーザーサポート、コラボレーションなどだ。なお、この4つの活用例は、私がChatGPTに「東京大学はChatGPTをどのように活用するか?」と質問した答をまとめたものである。

 大学は必ずしも使用を禁止したわけではない。むしろ、活用をしつつ学ぶことを推奨する大学も現れている。

 問題は、AIを活用することの是非だけでなく、「どのように使いこなすか」が論点となる。青学、慶応、東経、東洋、日本という私立大学のゼミに属する学生が100名集まる研究発表会で、ChatGPTの利用状況について質問してみた。「使ったことがある」という学生は9割程度だった。高い認知度、浸透度と言っていい。一方で「週に1回以上使っている」つまり、使い続けている人はどれだけいるか確認したところ、2割弱もいなかった。「レポートに使ったことがあるか?」と質問したところ、教員たちが見ている前で手をあげた学生が1名だけいた。限られたサンプルではあるが、有名大学の感度の高い学生たちはもちろん、生成AIを知っているし、使ったことはあるが、有効な利用法が分からず、利用をやめてしまっている。

 大学生に関していうと。就職活動への利活用も想定される。現にこれを活用したエントリーシート支援ツールもすでに登場し、全国紙などで紹介された。採用担当者の間では、「もう、直接、学生に会って確認するしかない」というため息も漏れる。

 一方、就職活動・採用活動の現場では既にAIやデータの利活用が進んでいる。大学生が就職活動で業界・企業研究やエントリーに活用する就職ナビにはもう10年以上前からこれらが導入されており、本人の属性やクリック履歴に基づいた、マッチング率が高そうな検索結果が表示される。

 2010年代後半には内定者の辞退率を予測するサービスが、個人情報の取り扱いをめぐって問題となった。ただ、賛否、是非は別として、このようなサービスが既に世の中に存在することは確認しておきたい。

 さらに、AIが書類選考や面接を担うサービスも既に登場し、選考に活用されている。大量のエントリーシートをAIがかわりに読み込み、合否を判断するのだ。

 このような話をすると、「AIが人を判断していいのか?」という疑問が起こる。この問いは、その是非をめぐるものと、AIに本当に判断できるのかという疑念などに分解される。ただ、後者に関してはブーメランが待っている。「そもそも人間は、正確に物事を判断するのか」という問いだ。大量のエントリーシートを読み込ことは苦痛だ。処理しきれないがゆえに、学生は大学名でふるいにかけられ「学歴フィルター」の餌食となる。採用担当者は人事の中でも入れ替わりが激しいポジションだ。経験が蓄積されるわけではない。AIは経験を蓄積し、学び続ける。この問いを重ねると「AIが判断することの是非」の議論から発展し、そもそも「人間が判断していたことの是非」が問われることになる。

 リクルートグループの経営者は、「1クリックで就職・転職が可能な社会を実現する」と宣言している。賛否、是非は別として、あくまでサービス設計やテクノロジーの上では実現可能性は高そうだ。

 私たちに今、できることは何か。それは人間が取り組むべき仕事、AIにまかせてはいけない仕事とは何かを考え続けることではないか。

 常に自分の仕事について、これは人間がやるべきなのか、AIに任せるべきなのかを胸に手をあてて、考えたい。単純作業だけではない。ときに考えることが必要な仕事も、AIに任せてみる。最終的に決定する立場をいかに人間が果たすか。これを考えたい。人間が取り組む仕事がより明確になる。

 もちろん、いまやコンテンツなどクリエイティブなものもAIがつくってしまう時代である。人間とは何かが常に問われ続ける。ただ、AIは最適化に向いているのであって、規格外のモノやコトを創ることに向いているようには思えない。もちろん、この規格から外れたモノやコトをAIがつくり出す時代がすぐそこにあるとも言えるが。人間の感情、アナログであることこそ、AIの苦手なことではないか。

 人間が人間らしくいられるにはどうするか。AIの進化、変化を見つめつつ、考えたい。会社員時代、明らかに採用ミスと上司たちから叱られた若者が企業を背負って立つ人材に成長したこと、誤字脱字のある文章をSNSに投稿したところ凄まじく拡散したこと、これは好き嫌い、良い悪いは別として、極めて人間らしいことだと思っている。それもAIが学んでしまうかもしれないのだけれども。

 


2023年7月17日号 週刊「世界と日本」第2249号 より

“国は人民の殻なり”—ナショナリスト福澤諭吉

 

 

拓殖大学顧問
渡辺 利夫
 氏

《わたなべ としお》

1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。オイスカ会長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『台湾を築いた明治の日本人』『後藤新平の台湾—人類もまた生物の一つなり』など多数。

©️国立国会図書館  「近代日本人の肖像」
©️国立国会図書館  「近代日本人の肖像」

 福澤諭吉の最高傑作は何かと問われれば、読者の多くは『文明論之概略』(明治8年)を挙げるであろう。議論の密度、説得力、文章の格調の高さからして私にも異存はない。同書は福澤が最も知力旺盛な時期に、力の限りを尽くして書き上げた大作である。  しかし、『文明論之概略』において福澤が伝えたかったことは、意外にも読者に十分には理解されていない。多くの読者は同書を、日本の文明開化の必要性を正々堂々と論じた明治日本最高の著作だという広く流布されたイメージに縛られ過ぎているのではないか。  福澤は文明化がなぜ重要かといえば、それは自国の独立を保つためである。文明は独立を維持するための「術」に過ぎないという。日本の最高の課題は独立であって、そのための手段として文明を捉えるべきである。思考の順序を取り違えては絶対にならない、と福澤はいう。『文明論之概略』というより『独立論之概略』が福澤の真意なのである。

 理想主義的というより空想的な憲法と憲法解釈に則り、自国の防衛に己の身を削ることの少なかったのがわが日本である。ロシアの残忍なウクライナ侵攻がなお続く。中国では台湾統一への野望がいよいよ強い。北朝鮮の核も、ついに実戦化の段階に入った。

  昨年末、国家安全保障戦略に関する「防衛三文書」が閣議決定の運びとなった。ようやくにして、である。日本もパシフィズム(反戦平和主義)、つまり軍事力を嫌悪し、外交に過剰な期待を寄せるこの思想から脱しようという姿勢を見せ始めたのか。

 新戦略は、現在の日本が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境の只中にあるという認識に立つ。それゆえ力強い外交が必要だが、同時に「自分の国は自分で守り抜ける防衛力を持つことは、そのような外交の地歩を固める」と訴える。大いに評価したいが、この新戦略実現に必要な基本的原則には、「専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を堅持する」と、旧来のものがそのまま踏襲されているではないか。

 「自分の国は自分で守り抜ける防衛力を持つ」と記述する一方、他方では専守防衛と非核三原則を堅持すると同一文書の中で述べるのは自己矛盾ではないか。「他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず」というのは、平和安全法制成立時の議論の中で何度も繰り返されてきた「必要最小限度」規定と同一のものに違いない。

 三文書の作成者もそのことを承知していないはずもないが、これを超えると憲法論議にまで踏み込まざるを得ない。それゆえ、旧来のフレーズにとどまったものと想像される。核抑止戦略の方は非核三原則をうたうことによって封印されてしまったかの感さえある。日本への武力攻撃には「反撃能力」の整備によって対応すると明記されたことは評価されていいが、専守防衛、非核三原則、必要最小限度によって確かな反撃能力が担保できるのか。憲法制約をいかに乗り越えるか、難題がなお山積している。

 戦後の日本人は、自分の国は自分で守るというナショナリズムを長らく欠落させてきた。戦後70数年の間、日本は国際社会の中で、独立自尊の精神をすっかり忘れたまま生きてきた。幕末・明治期に苦渋に満ちた思考を強いられた大いなるナショナリスト福澤諭吉の声に、最も深く耳を傾けるべきは現代の日本人なのではないか。『時事小言』(明治14年)において福澤はこういう。現代語訳にして記しておこう。

 

「青螺(さざえ)が殻の中に収まって愉快だ安堵(あんど)だと思っているその最中に急に殻の外から喧嘩のような異様な騒ぎの声が聞こえてきて、こっそり頭を外に伸ばして四方をうかがえば、何とまったく思いもかけないことに、自分の身は殻と一緒に魚市場のまな板のうえに乗っかっているではないか。そんなたとえ話がある。国は人民の殻であり、国民の維持と保護のことを忘却してなお国家などといえようか。最近の文明のありよう、世界の戦争などを観察していると、まことに異常なことが起こっているといわざるを得ない。憂うべき禍(わざわい)は実に多い一方、禍を憂(うれ)うる人が少ないことは、私にとっては大きな不満である」

 福澤といえば、「国権」よりも「民権」の大切さを説いた自由民権論者とみなされがちであり、事実、そのように記している解説書が今でもある。しかし、国会開設や普通選挙の実現などを求める自由民権運動が大きな政治的潮流となっていた明治14年に書かれた、先程も言及した『時事小言』の中で福澤は、はっきりとこう述べる。ここも現代語訳で記しておく。

 

 「もちろん私(福澤)は民権論に反対ではないが、民権はただ伸張すればよいというものではない。国会を開設し、どのような国柄の国家を建設すべきかという肝心の問題を議論するのでなければ、民権など論じても詮無(せんな)きことだ。西洋列強による干渉や介入が恒常化している現在、ただ国会を開設すればよいというほど事態は単純ではない」

 自分(福澤)は元来が民権主義者だが、目下の私は国権主義者だといって、「青螺」の巧まざる比喩で己の立場を論じたのである。現在の日本も、中国の海洋進出や近づく台湾有事、北朝鮮の核開発などさまざまな難題に直面しながら、国会やメディアではそれほど緊急性をもっているとは思えない問題に延々と時間と紙面を費やしている。日本にとって一番大事なことは何なのか。今何をしなければならないのか。組織や人の上に立つリーダーには事の軽重を見極めるリアルな見識が不可欠である。福澤から学ぶべきはこのことではないか。

 


2023年7月3日号 週刊「世界と日本」第2248号 より

データサイエンスの重要性について

 

 

一般社団法人新情報センター会長
青山学院大学名誉教授
美添 泰人
 氏

《よしぞえ やすと》

1946年東京都生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学院修了、ハーバード大学Ph.D.(統計学専攻)。日本統計学会会長、統計審議会会長などを歴任、現在、一般社団法人新情報センター会長、青山学院大学名誉教授。主な共著書に『経済統計入門』、『統計入門』(東京大学出版会)、など。

 

 現代は「ビッグデータの時代」と言われるように、様々な大量のデータが入手可能であり、人々は、Facebook,Twitter,Instagramなどのソーシャルメディアで大量のデータを共有しているが、これらのデータを分析することは、紙と鉛筆を用いた統計学では不可能である。

 

 こうしたビッグデータは「21世紀の石油」と呼ばれ、それをいかに活用するかが、企業の業績や政策の有効性を左右することが認識されてきた。ビッグデータの特徴として、英語の頭文字をとって3Vと呼ばれるものがあり、それらはVolume(大量なデータ)、Velocity(データが計測され、記録される速度が速い)、Variety(データの種類が多様)である。ビッグデータの中には、新聞、インターネット、SNSなどからの文字情報や衛星写真などの画像情報もあり、そうしたデータを扱うためには、統計学の知識に加えて、コンピュータを用いた大量のデータ処理が必要になる。このようなビッグデータは2000年代に入ってから顕著に増加してきた。

 データサイエンスは、大量のデータから意味のある情報を抽出するための方法であり、現代のビジネスや科学において欠かせない重要な技術といえる。データサイエンスではコンピュータの利用が必須であり、AI、特に機械学習や深層学習などの発展にともなって、今世紀に入ってから社会に大きな影響を与えているが、その背景には計算機の処理性能の驚異的な高度化がある。いわゆる「ムーアの法則」によれば、コンピュータの性能は1年半から2年ごとに2倍になるとされ、これによれば15年間でほぼ1000倍となるが、実際に、計算機の能力はこのような速さで向上してきた。

 ビジネスにおいては、顧客の嗜好や需要予測、マーケティング戦略、リスク管理、顧客サービスの改善など、多くの重要な決定がデータに基づいて行われ、そこでデータサイエンスによって正確な予測や意思決定を行うことができる。オンライン小売業者は、どの製品がどの地域で人気があるかを分析して製品の配送や在庫管理を最適化できるし、銀行は、金融市場の変化に対応して顧客に対するリスクの分散化や貸し出し先の分析にデータサイエンスを活用することが期待される。科学の分野においては、実験や観測のデータを分析することで新しい知見が得られる。たとえば、生物学において遺伝子解析を行って疾患の原因を突き止めたり薬剤の創出に役立てる研究、気象学においては、観測データを解析することで自然災害の発生や気象変動を予測する研究が行われている。公的統計においても、米国では、失業率の推計にあたって、従来の統計調査だけではなく、Twitterにおけるつぶやきを反映させる手法が検討されたし、日本でも、家計の消費支出の推計に関してビッグデータの活用方法が導入されている。

 ところで、日本の数学・統計の教育、および統計の活用は海外に比較して遅れが目立っていた。当然、データサイエンスに関わる人材は非常に不足しているため、その育成は喫緊の課題である。幸い、この点については、今世紀に入ってから大きな改善が進められている。ひとつは初等中等教育の分野で学習指導要領を改訂して統計教育の水準を国際標準に近づいたことである。その効果が現れるまでにはしばらく時間がかかるものの、このように統計的なものの見方が普及することで、社会全体のデータ活用能力が高められることが期待される。並行して、大学教育において、統計・データサイエンスを専門とする学部の新設が続いている。2017年に、滋賀大学に最初のデータサイエンス学部が設立されるまでは、総合研究大学院大学で年間数名の大学院教育が実施されていたほかは、統計を専門に教える学部が存在しなかったものが、滋賀大学に続いて、データサイエンスという表現を含む名称の学部・学科は急増しており、この原稿を執筆している時点で、学部は10以上、学科やコースは数十になろうとしている。当然、大学によって水準や内容に違いはあるが、基本的には、数学および統計学を基礎として、コンピュータサイエンスや機械学習など、様々な学問領域の手法を組み合わせて、大規模なデータセットを扱うことに焦点があてられる。データの前処理、可視化、機械学習、データマイニング、自然言語処理なども重要な話題である。

 このような学部・学科で専門的な教育を受けた人材が輩出されないかぎり、日本におけるデータ分析の発展は大きな障害を抱えることになる。民間企業における需要が大きいことは当然として、公的統計の分野でも、政府における統計の重要性は改めて認識され、内閣官房に設置された「統計改革推進会議」では公的統計の質を高める努力が続けられているが、そのための人材が必要である。

 大量のデータを処理するためには、情報科学(コンピュータサイエンス)の手法が必須とされる点で、古い時代の統計学とは性格が変化しているが、データサイエンスの中心が統計学であることは変わらない真実である。いわゆるデータサイエンティストの中には、統計を否定するような指摘、たとえば「ビッグデータは全数調査に対応するから、統計学が扱う標本抽出の理論は不要である」という指摘がある。これは基本的には誤解であり、一般にはビッグデータは偏った調査や観測に対応するから、データの発生過程に関する理論的なモデルを背景にして議論すべきものである。

 また、データサイエンスの手法は、ブラックボックスとなる危険性を持つことも、次第に認識されるようになってきている。たとえば、新聞の文字情報を用いた、テキストマイニングといわれる手法によって経済予測を行っても、その結果に関して説得力のある経済的な解釈ができない限り、無条件に経済予測を信頼することは危険である。これは、データサイエンスに限らず、統計的手法であっても、心がけなければならない姿勢である。

 今後、ビッグデータは、さらに巨大なものとなる一方で、計算機の処理能力の向上と、AI技術の新たな展開も期待される。社会の状況をできるだけ正確に把握し、的確な意思決定を行うためにも、これから、統計学およびデータサイエンスに関する需要は高まることが予想される。したがって、社会人には、AIの結果を盲信することなく批判的に解釈できるような「教養としてのデータサイエンス」が求められることを強調したい。

 


2023年6月5日・19日号 週刊「世界と日本」第2246・2247号 より

危機管理後進国への警鐘

 

 

拓殖大学大学院地方政治行政研究科特任教授
同大学防災教育研究センター長
濱口 和久
 氏

《はまぐち かずひさ》

1968年熊本県生まれ。防衛大学校卒。日本大学大学院修士課程修了(国際情報)。陸上自衛隊、栃木市首席政策監などを経て、現職の他に一般財団法人防災教育推進協会常務理事・事務局長、稲むらの火の館(濱口梧陵記念館・津波防災教育センター)客員研究員なども務める。著書に『リスク大国 日本 国防・感染症・災害』(グッドブックス)他多数。

 

地震リスク

 今年は関東大震災(大正関東地震)から100年目にあたる。関東大震災は日本国内で明治維新後に起きた自然災害としては最大の被害となった。

 現在の東京は、関東大震災当時よりも「東京一極集中」状態が進んでおり、今後30年以内に高い確率で起きることが想定されているマグニチュード7クラスの首都直下地震が起きた場合、政府の想定をはるかに上回る甚大な被害(長期間のブラックアウトなど)が起きる可能性がある。首都圏で東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)後に計画停電が実施された。このときにもっとも影響を受けたのが医療機関だった。透析や人工呼吸器などの医療機器を使っている患者さんにとって停電は死活問題となる。

 ブラックアウト以外で心配される事態としては水道管の被害がある。阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では、消火に必要な水を消火栓に供給する水道管が各所で破断したことで、消防車が到着しても放水できない事態が起きた。首都直下地震でも同じ事態が予想される。加えて、首都圏では消防車の台数も消火をする人員もまったく足りていない。同時多発的に火災が起きた場合には、関東大震災と同様に、消火活動が間に合わず被害が拡大する恐れがある。

 首都・東京の被害は単なる東京だけの問題に収まらない。あらゆる機関が集まる東京が甚大な被害を受ければ、情報ネットワークで繋がっている海外にも影響を及ぼすことになる。

 さらに言えば、首都直下地震に留まらず、南海トラフ巨大地震や日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震などの広域大規模地震の場合も、「国難」級の甚大な被害が起きることを日本人は覚悟しておくべきだ。

 

防災行政の課題

 戦後の日本の防災行政は、大規模災害を経験するたびに見直しが行われてきた。

 最初の契機は、昭和34(1959)年に約5000人の犠牲者を出した伊勢湾台風だ。2年後に災害対策基本法が制定され、政府および公的セクターをすべて巻き込む防災行政推進の基本的枠組みが作られる。

 首相をトップとする中央防災会議が設置され、災害対策についての国・都道府県・市町村・指定公共機関の防災上の責任分担を明確にし、それを担保する手段として、それぞれが防災計画を策定することが義務づけられた。阪神・淡路大震災後に災害対策基本法の大改正が行われると、著しく異常かつ激甚な災害の場合には、「災害緊急事態」の布告がなくとも、緊急災害対策本部の設置が可能となった。

 政府の災害対策本部は、緊急災害対策本部のほかに非常災害対策本部があるが、緊急対策本部が設置されたのは東日本大震災のときの一度しかない。

 一方、非常災害対策本部は防災担当相を本部長とし、地方自治体の首長などに指示(指揮)できることになっているが、それは果たして可能なのか。防災担当相は幾つもの担当を兼務し、防災だけに専念しているわけではない。現在、国家公安委員長、国土強靱化、領土問題、海洋政策、国家公務員制度も担当している。あまりにも担当分野が多すぎるのではないか。

 誤解を恐れずに言えば、閣僚の中でも防災担当は重要度が低い大臣ポストの1つになっている。しかも当選回数順送り主義で人選されているとしか思えないような人物が防災担当相に就いている場合がある。

 内閣府(防災担当)が国土庁に代わって防災業務を担うようになってからも、省庁ごとに防災業務の事務を分担管理(縦割行政)する体制が続いている。内閣府の職員の大半は省庁や地方自治体から平均で約2年間の出向であり、専門性を持った職員がほとんどいない非常に脆弱な体制となっている。

 同様に、内閣官房も省庁からの出向で成り立っている。消防庁も総務省に採用され人事異動で消防庁に勤務し、数年で総務省に戻る職員と市町村消防から出向している職員がほとんどであり、人的資源の蓄積が難しい。

 官僚機構は過去の事例「前例主義」に基づいて課題解決をしていくが、「緊急時」は過去の事例に基づいて方針を決めることが不可能なことが多い。そのため、「緊急時」には危機管理対応の最高指揮官である首相が事態を見極めて決心しなければならないが、阪神・淡路大震災や東日本大震災では首相の方針の打ち出しが遅れたことで事態が悪化した。

 災害対策基本法の最大の欠陥が放置され続けていることについては意外と認識されていない。東日本大震災では多くの被災した市町村で行政機能が麻痺したことで、県に支援要請ができず、県や国からの救助隊の派遣や支援物資の到着が遅れた(熊本地震からは国によるプッシュ型支援が始まってはいるが・・・・)このことからも、被災した市町村が第一次災害対応(広域公助)の責任を負わされている法律の立てつけを見直すべきである。

 

緊急事態条項の必要性

 令和3(2021)年6月、感染症と自然災害に強い社会を目指す「ニューレジリエンスフォーラム」が設立された。当フォーラムは、国民の生命と生活を守るため、「緊急時」についての関係法規の見直し、「平時」から「緊急時」へのルールの切り替え要件の整備を掲げている。

 それらの根拠規定としての「日本国憲法への緊急事態条項の明記」に向けて、医療界、経済界、防災関係、自治体関係をはじめとする多くの人々と力を合わせて幅広い国民運動を推進する団体である。日本政府に対しても提言(岸田文雄首相に提言書を手交)を行い、筆者は事務局長として当フォーラムの活動に参画している。

 ほとんどの国の憲法に緊急事態条項が明記されているのに、日本国憲法にだけ緊急事態条項が明記されていなのは異常な状態だ。

 日本は今後間違いなく、大規模災害(大規模地震)に立ち向かわなければならない事態が必ず来る。そのときに備えて、緊急事態条項を憲法に明記し、場当たり的な対応ではなく、「備えあれば憂いなし」の体制を早急に構築すべきである。

 


2023年5月22日号 週刊「世界と日本」第2245号 より

台湾は侵略に反対、平和こそ国際社会の核心的利益

 

 

台北駐日経済文化代表処代表
謝 長廷
 氏

《しゃちょうてい》

1946年台北市生まれ。国立台湾大学卒業。大学在学中に弁護士試験をトップの成績で合格。司法官試験も合格。74年日本・京都大学法学修士後、同大学博士課程修了。台北市議会議員、立法委員(国会議員)、高雄市長を歴任。民主進歩党主席、行政院長(首相)、2007年第12代総統選挙民主進歩党候補者、16年6月より現職。

 

台湾が重要な役割果たすサプライチェーンの再編

 

 3月31日、「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定」(CPTPP)の加盟国はイギリスの加盟に合意した。CPTPPが求めるハイレベルな条件に合致するよう近年改革を進めてきた台湾は、一昨年9月にCPTPP加盟申請を提出しており、台湾の加盟についても一日も早く認められることを期待している。

 

 分業と信頼と自由貿易に基づくグローバル化は近年、機密流出、ハイテクの軍事転用、制裁の政治利用などのリスクを回避するため、経済安全保障が重視されるようになり、サプライチェーンの再編が進められている。台湾は先端技術を持つ経済体であるのみならず、信頼できる国際社会のパートナーであり、民主主義陣営の一員として世界に貢献できる。

 

経済繁栄は平和の賜物

 

 東アジアではこの70年余り、大規模な戦争が発生せず、平和が続いたことが各国の経済発展につながった。経済繁栄は平和の蓄積の賜物だといえる。逆に戦争は、一瞬にして積み上げてきた経済と安定した社会を破壊してしまう。

 

 とくに世界は緊密にグローバル化しており、ロシアによるウクライナへの軍事侵略が、ウクライナの国土を破壊したのみならず、日本をはじめ多くの国々の物価上昇を招いたように、いかなる地域の戦争も全世界の発展に影響を及ぼすことになる。とりわけ台湾は最先端の半導体工場が集積しており、もし台湾有事が発生すれば、世界経済に及ぼす影響は計り知れない。

 

 台湾は長年にわたり、中国からの軍事脅威に直面している。中国共産党は台湾を中華人民共和国の一部と主張し、台湾が統一を拒否し続けたら、武力統一を排除しないとしている。しかし、歴史的事実を見れば、台湾が中華人民共和国に統治されたことは一度もなく、台湾の民意の大多数は統一ではなく現状維持を望んでいる。台湾の蔡英文総統は中国に対して、対等と尊厳の原則の下での対話と交流を呼びかけている。

 

 今日、台湾海峡が世界から注目され、緊張がエスカレートしている主な要因は、権威主義体制を強化している中国の習近平国家主席が台湾に対する武力統一の立場を放棄せず、台湾に攻め込む準備を続け、国際社会に多大な不安と対立を引き起こしているからだ。最近も、蔡総統が米国に立ち寄った際にマッカーシー米下院議長と会談したことを口実に、中国軍が台湾を包囲するように空母も動員して軍事演習を実施し、空と海から台湾を威嚇した。仮に中国が統一の名の下に台湾に武力行使すれば、それは台湾に対する一方的な侵略にほかならない。

 

平和こそ国際社会の核心的利益

 

 中国は台湾を譲ることのできない「核心的利益」と主張するが、国際社会にとっては平和こそが「核心的利益」だといえる。平和を守ることとは、侵略戦争を発生させないことであり、一方的な武力による現状変更の行為に対して国際社会は一致して断固反対しなければならない。さもなければ、強国による小国への野蛮な侵略が見逃され、国際秩序が崩壊してしまいかねない。

 

 そして、平和は愛であるが、愛するふるさとや大切な人を守る力がなければ悲劇となる。抵抗する力がなければ平和は脆(もろ)く崩れ、投降すれば運命は他人に握られ、自己の理想を実現する術を失う。尊厳ある生存こそが重要なのであり、力の均衡を保つ必要がある。

 

 台湾は防衛力強化に最善を尽くすと同時に、米国や日本と安全保障面でも協力を促進し、抑止力を高めていくことが緊急の課題となっている。侵略戦争に支払うコストの高さが理解されれば、無謀な侵攻が抑止され、戦争予防と平和の維持につながるからだ。

 

民意こそ国を動かす

 

 侵略戦争を未然に防ぐためには、軍事力だけでなく、外交力と民間の力も必要である。外交面では民主主義国家が一致団結し、孤立や分断を招かないようにし、尊厳ある対話を通して平和を創出していく努力を続けていかなければならない。

 

 民間の力とは、民意こそ国を動かすということである。民主主義国家だけでなく、権威主義国家の政府も民意は無視できない。権威主義国家が言論統制しようとするのは、過剰なほど民意を気にしていることの裏返しである。戦争は民族の滅亡や国家の孤立化、排除化を招く恐れがあり、大切な家族や友人の命を奪い、さらには自らの命も危険にさらされる。これは戦争を発動した国の人々もそうであり、侵略戦争に英雄や勝者はいないという真相をより広く伝えることができれば、平和を希求する力をもたらすであろう。

 

国際機関の台湾排除見直しを

 

 国連は1971年の2758号決議(アルバニア決議)により、中華人民共和国の国連加盟と中国の代表権を認めたが、中華人民共和国に台湾の代表権を与えたものではない。国連における台湾代表権については未解決のままである。台湾は世界保健機関(WHO)、国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)、国際民間航空機関(ICAO)、国際刑事警察機構(ICPO)などの国際機関への意義ある参加を求めているが、中国が「一つの中国原則」を各国に押し付けて台湾の参加を妨害しているため、台湾は国連関連活動や国際機関に十分な参加ができず、国際社会との連携や情報共有に不便が生じている。

 

 いま一度、国連憲章の理念に立ち返り、国際法の遵守、国連憲章の遵守を推進し、平和的手段により紛争を解決し、武力による解決を容認しないことを国際社会が改めて確認する必要がある。中国の圧力で台湾を地理的空白にすることがあってはならない。 

 

 


2023年5月1日号 週刊「世界と日本」第2244号 より

『葛西、安倍、両巨星を悼む』

 

筑波大学特命教授
谷口 智彦
 氏

《たにぐち ともひこ》

1957年生まれ。1981年東京大学法学部卒業。慶應義塾大学大学院教授を経て筑波大学特命教授。安倍晋三第2期政権を通じ、初め内閣審議官、のち同総理退任まで内閣官房参与。それ以前「日経ビジネス」編集委員、ロンドン外国プレス協会会長、外務省外務副報道官など経てJR東海で4年5カ月常勤顧問を務めた。主な著書に「安倍総理のスピーチ」(文春新書)、「誰も書かなかった安倍晋三」(飛鳥新社)、「日本人のための現代史講義」(草思社文庫)がある。

 

 2022(令和4)年、日本は、元総理・安倍晋三、東海旅客鉄道(JR東海)名誉会長・葛西敬之の両巨星をほぼ同時に失った。

 葛西氏の没後、雑誌の記事や対談に、安倍元総理が葛西氏の葬儀で読んだ弔辞を加えた書『日本が心配だ!』(ワック刊)が出た。

 本年2月には『日本のリーダー達へ・私の履歴書』(日本経済新聞出版刊)と題した書が続く。かつて日経新聞に載せた自伝を再録したうえ、同紙夕刊に2000年の後半連載した随筆を加え、親しい友人の追悼文を収めた本で、編集を担ったのはJR東海で故人を支えた秘書たちだ。

 さらに3月、内外52人もの人々の寄せた追悼文に葛西夫人の筆になる後記を付した私家版が、同社から出た。

 『貫いた信念、恵まれた縁』という同書こそは、故人の名を正しく留めんとした秘書たち執念の作である。没後1年を経ずして世に出たのはその証拠だ。

 葛西氏は同世代にあっては稀なことに、士族的生い立ちの人だったことが『履歴書』に明らかだ。父親と一対一、古今東西の古典を読んで人となった。

 国鉄に入ると、日本を支える動脈支脈となるべき鉄道が、再生不能の負債となった様を看破する。国営だ、潰(つぶ)れないと思うから、労組の無法、経営の惰弱(だじゃく)がやまない。

 分割民営化に向かった葛西氏の奮闘は、手段を選ばぬ戦闘集団・労組、旧弊にしがみつく経営を共に敵とし、政官界の力学を読んで圧倒的な勢いを作る闘いだった。複数方面の攻勢を同時に仕掛け、攻めて、攻め抜く必要のあったものだ。

 葛西氏単独の達成ではない。しかし葛西氏がいなければ、恐らく成功しなかった。

 氏の本領は、民営化後短時日のうち国の資産となっていた新幹線地上設備(車両以外)を取り返し、自社資産に計上させたところにある。設備の減価償却によって投資資金を作るまっとうな経営が初めて可能になり、その後新幹線は周知の通り面目を一新した。

 国鉄分割民営化は1987(昭和62)年に成就し、国鉄の、一大戦闘集団だった各労組は力を失った。改革があと3年遅れたらバブル崩壊とその後の不況に遭遇し、巨大な国営企業体の整理などできたかどうか。ただでさえ自己変革力の鈍い日本は、もっと固陋(ころう)な国になっていただろう。

 葛西氏における憂国の一念はその後、まだ40代だった安倍氏を引き付けることとなる。

 いまこの2人、日本を支えた主軸が突如として消えた。北京の戦略要路ならこれを知り、快哉を叫びはしなかっただろうか。

 日本には早かれ晩(おそ)かれ、その存立を揺るがす大難題が見舞う。

 一つには、男系皇統の存続をどう図るか。

 伝統に構わず女系天皇をひとたび容認するや、論理の必然的成り行きとして、皇族が例えば中国人と結婚することも、その子が皇位を継ぐことも、結局認めざるを得なくなる。

 そんな状況を作り出すのをひとつの目標として、中国の対日世論工作=認知戦は、いまも足下で進んでいるとみておくべきだ。

 二つめに、台湾が中国に吸収されてしまうことをいかに防ぐか。

 たとい戦争を伴わず平和的手段によるものだとしても、台湾が中国共産党の支配下に入ってしまうと、日本と日米同盟の利益は不可逆的に損なわれる。防ぐに如(し)くはなしだが、日本に何ができるか。

 いま見た2つは精神、物質の両面で、日本に危機を及ぼす。深刻度は歴史に前例を見出せないほどだというのに、立ち向かうわれわれの足場はもろい。

 人口減少を抑える長期戦、経済を再び成長させる短期戦の2つを闘いつつでなければ、いかなる挑戦にも応じられないからだ。

 だからこそ、安倍、葛西両氏の逝去が惜しまれてならない。

 こんな時安倍氏がいてくれたらと、ほぞを噛むことが必ずやあるだろう。安倍氏が葛西氏を精神的同志あるいは長兄と慕っていたのを知る者は、そのときには葛西氏の不在を同様に嘆くだろう。

 2人には第一に、日本の国柄と近代以降の歴史に対する深い理解があり、そこに根ざした正邪の判断基準があって揺るがなかった。

 安倍氏を指して「日本と世界の行く末を示す羅針盤」だったと、岸田文雄総理は述べた(安倍氏に対する国葬儀における弔辞で)。

 一方6月15日、芝増上寺の葬儀で葛西氏の死を悼み、「貴方ほど確固たる世界観、国家観を持った方を寡聞(かぶん)にして知らない」と語ったのは安倍氏である。

 この時点で、1月も経ず安倍氏自身命を失うことになろうとは誰知ろう。とまれ、安倍氏も葛西氏を不動のコンパスとみなしていたことがよく窺(うかが)える。

 そんな2人を、日本は失ってしまった。

 両氏は第二に、自他とも任じる誇り高い愛国者だったけれども、戦後日本右翼において本流だった現代版尊皇(そんのう)攘夷(じようい)、すなわち反米民族主義の思想に一度として染まったことがない点で共通していた。

 日本の安全を守る責任を双肩に担う覚悟があるなら、針路はひとつ、日米同盟を確固不抜にするのみだと両氏とも信じ、実践した。

 米国大統領の誰彼を好きか、嫌いかといった好悪感情が入り込む隙間はなかった。

 米国に対し卑屈に揉み手をし、安保をよろしくと、頼み込まねばならないとも思っていなかった。米国をインド太平洋に関わらせ続けるには、日本自身の努力がカギを握ると弁(わきま)えていたからだ。つまりは両者とも観念でなく実理に就き、そこに徹する指導者だった。

 そして第三に、交わりのあった人物に関して濃淡に拘わらずよく記憶しただけでなく、書物から得た知識を決して忘れず、適宜適切に再現できる点でも葛西氏と安倍氏は驚くほど似ていた。概して快活で、明るい性格も。

 世にいう天才は、突然、孤立しては現れない。しばしば群(クラスター)をなし、互いに近しく交わりあう。

 強い個性はさながら強力な磁場をなすごとくで、親和性の高い個性を遠くから引き寄せるのであろう。葛西氏、安倍氏の出会い、終生続いた交友は、まさしくそれだった。合掌。

 

 


2023年4月17日号 週刊「世界と日本」第2243号 より

求められる「政治への信頼」

 

日本大学名誉教授
岩井 奉信
 氏

《いわい ともあき》

1950年東京都生まれ、日本大学法学部卒業、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了、常磐大学教授を経て2000年より日本大学法学部教授、2021年同名誉教授。著書に『立法過程』『政治資金の研究』 『族議員の研究』など多数。

 

 日本の政治は「衰退」しているのではないか。今日の日本の政治に「熱気」や「活力」を感じ、政治に「期待」や「希望」を見出す者はどれほどいるだろうか。

 何故、日本の政治は「衰退」してきたのか。それは政治に対する国民の「信頼」が失われているからだ。世論調査を見ても、政治への「信頼」と同時に「関心」も低い。特に次世代を担う若者にその傾向は顕著だ。

 振り返ってみると、この四半世紀以上、われわれは政治に裏切られ続けてきたといっても過言ではない。自民党の下野で誕生した細川政権は、新しい時代の到来を期待させたが、それは1年も経たずに崩壊した。その後、自民党と社会党の連立や政界再編という政治理念を置き去りした潮流の下では「永田町の論理」や「数合わせ」が優先された。

 「自民党をぶっ壊す」と登場した小泉純一郎内閣は、国民の熱狂的支持を集めたが、その構造改革路線は結果的には格差を助長するものになった。また、本格的政権交代として期待された民主党政権は「決められない政治」と揶揄されたように政治を混乱の極に陥れた。

 そして日本憲政史上、最長の政権となった安倍晋三内閣は、政治を安定させ、経済や外交などの分野で輝かしい成果を上げたが、その一方で「官邸主導」の名の下、説明責任を果たさぬ独断的な政治が横行し、国民の政治への「信頼」を高めることに寄与したかというと疑問が残る。そして今、岸田文雄内閣は、その方向性も明確にできず、低支持率にあえいでいる。

 このような政治に対する「信頼」が失われたのが1990年代の「政治改革」の実現と軌を一にして顕著になったのは皮肉としか言いようがない。というのも選挙制度にせよ政治資金制度改革にせよ、そもそも政治への「信頼回復」を目指したものだったからである。

 いずれも「政治家本位」の政治を「政党本位」の政治に転換することで「金権政治」から脱却し「政策論争」を促し、政治のリーダーシップを確立することを目的とした。しかし、実際には「政治改革」の副作用として「政界再編」の激流の中で「数合わせ」の政治の横行を生んだことは否定できず「政治改革」に関わってきた身からすると慚愧(ざんき)に堪えない。

 だからといって「政治改革」が誤りであったとは言えない。「政治とカネ」をめぐる問題は未だにくすぶっているとはいえ、以前に比べればかなり是正された。政治における「政策」の重要性も大きくなっている。そして小泉内閣や安倍内閣に代表されるように、政治のリーダーシップは以前に比べて格段に強くなった。「政治改革」の成果は確実に実を結んできているのである。

 にもかかわらず、政治に対する「信頼」が高まるどころか、低下し続けているのは何故だろうか。そこには民主主義の政治が抱える根本的問題が潜んでいる。実は民主主義の政治では「実効性」(effectiveness)と「応答性」(responsiveness)のふたつが求められる。「実効性」とは、いかに迅速かつ効率的にものを決めるかであり「応答性」とは、いかに国民的合意を形成するかである。当然のことながら、国民的合意を実現しつつ効率的に決定が行われることが望ましい。しかし、現実には、二つを両立することは至難の技である。特に時間との競争が問われる現代の政策決定では往々にして「実効性」が重視され、「応答性」を確保するための「説明」や「説得」は軽視されがちになる。

 日本の政策決定では、消費税や社会保障改革に代表されるように、過度の「実効性」の重視が政策の効果を台無しにすることが少なくない。「急がば回れ」と言うように、十分に議論を重ねた上で、政策を実行する方が、効率的だという事例も多い。

 ただ、我が国の政治では、十分な議論や説明の機会や時間が確保されているとは言えない。国会は会期が限られ、議論の時間は余りにも少ない。挙げ句の果てに国会での議論は政策論議より「政争の具」的なものが多すぎる。これでは国民が政治に置き去りにされていると感じるのもうなずける。もっと議論や説明の機会を増やすための制度改革に取り組む努力をしなければならない。

 そもそも日本の政治は「政局政治」が優先され過ぎる。メディアの政治報道の多くが政局報道に費やされているのはその証左(しょうさ)だ。それは現実政治の世界が政局中心に動いていることの現れでもある「永田町の論理」や「数合わせ」はその最たるものだ。すなわち政党や政治家が「政界」という狭いコップの中の世界だけを視野に活動する結果、民主主義の主役である国民が置き去りにされるのである。これでは国民に政治への「信頼」を求めることは難しい。

 同時に、政治に裏切られ、無視され続けても声を発しない「大人しい」国民にも問題がないとは言えない。政治が「信頼」できないからといって、政治への「関心」を持たないことは、政治の「主役」の立場を放棄しているからだ。この点については、われわれ政治を研究、教育する者にも責任の一端があることは認めざるを得ない。若者に対して「主権者」に相応しい政治教育を行ってきたかという忸怩(じくじ)たる思いもある。その意味では、欧米が熱心に行ってきた「主権者教育」にも積極的に取り組む必要がある。

 政治への「信頼」回復は、政党や政治家だけの問題ではない。「信頼」できない政治を許容し、自ら政治への「関心」を持たずにきた国民の問題でもある。「実効性」と「応答性」をいかに両立させていくべきか、制度や意識、教育などを含めた多面的な改革が必要である。

 いかに政治への「信頼」を回復させるか、日本の政治を「衰退」から救い、日本の民主主義を「再生」させ、「活力」あるものにする努力が今こそ求められている。 

 

 


2023年4月3日号 週刊「世界と日本」第2242号 より

『異次元の少子化対策』から家族観・幸福度を考える

 

拓殖大学政経学部准教授
佐藤 一磨
 氏

《さとう かずま》

1982年生まれ。慶応義塾大学商学部、同大学院商学研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。専門は労働経済学・家族の経済学。近年の主な研究成果として、Relationship between marital status and body mass index  in Japan. Rev Econ Household (2020)がある。

 

 この少子化対策では(1)児童手当など経済的支援の強化、(2)学童保育や病児保育、産後ケアなどの支援拡充、(3)働き方改革の推進の3つが主な内容として検討されている。中でも児童手当の拡充は国会で論戦の的になっており、所得制限の撤廃、子どもが高校になるまでの期間の延長、第2子目・第3子目の増額といった内容が議論されている。

 

少子化の主な原因

 このように多くの時間を使って児童手当の拡充について議論されているが、この政策が本当に少子化対策として有効なのだろうか。

 もし現在の少子化の原因が「夫婦の子ども数の減少」であるならば、児童手当拡充の効果は大きいと予想される。子育てや教育の金銭的負担が子ども数が抑制される最も大きな理由だからだ。しかし、国立社会保障・人口問題研究所の『出生動向基本調査』によれば、夫婦の最終的な子どもの数の平均値はだいたい2人であり、1970年代から2000年代半ばまでこの値は大きく変化していない。このため、これまでの少子化の主な原因は、必ずしも夫婦の子ども数の低下ではなく、また別に存在すると考えられる。

 

重要な「結婚支援策」の検討

 ここで別な少子化の原因として考えられるが「婚姻率の低下=未婚化」である。日本の50歳時点の未婚率の推移を見ると、1990年では男性で5・6%、女性で4・3%だったが、2020年には男性で28・3%、女性で17・8%となり、男女とも大きく上昇している。このような未婚率の上昇は、出生数の低下に直結する。背景にあるのは日本における結婚と出産の強い結びつきである。日本では結婚が出産の前提となっている。欧米諸国では結婚と出産の関連は弱く、婚外子の割合はアメリカでは約40%、フランスで約60%となっているが、日本ではわずか約2%が婚外子だ。この点を考慮すると、出産の前提となる「結婚する人々の減少」は、少子化の大きな原因となる。実際、日本総合研究所の藤波匠上席研究員の分析によれば、1995年から2005年までは婚姻率の低下が主な少子化の原因だと指摘されている。

 以上の議論を踏まえれば、現在検討されている児童手当拡充だけでは少子化対策として十分とは言えない。「子どもが生まれてきてからの支援策」だけでなく、その前段階の「結婚支援策」も検討する必要があるだろう。

 

恋愛結婚市場DX化への事業支援

 結婚支援策としてさまざまな政策が考えられるが、未婚化の原因として指摘されることの多い「結婚を望む男女の出会いの場の拡充」と「雇用・所得の安定化・向上」への対策が検討に値する。国立社会保障・人口問題研究所の『出生動向基本調査』によれば、25〜34歳の男女が独身でいる理由として、「適切な相手と出合っていない」ことを最も多く選択している。このため、若年層の出会いの場を広げ、マッチング確率を高めることが望ましい。近年、職場や友人を介した結婚が減り、SNSやマッチングアプリといったインターネットサービスを利用して知り合った夫婦の結婚が13・6%を占めるというデータもある。これは恋愛結婚市場にDX(デジタルトランスフォーメーション)の波が来ていることを示唆しており、これらの事業支援が検討に値するだろう。

 

経済的に不安にならない環境整備

 また、日本の場合、一定の経済的な条件が整わなければ結婚に踏み切らない、もしくは結婚相手として選ばれない傾向がある。男性の場合、正規雇用就業者と非正規雇用就業者で婚姻割合に大きな差があり、非正規雇用で働く男性の50歳時点での未婚率が6割を超えている(令和2年国勢調査)。この結果は、結婚するうえでの経済力の重要性を物語っており、所得の安定・向上を促す政策の強化が必要となる。このためにも経済成長を促進し、将来にわたって経済的に不安にならない環境を整備することが重要だ。これは経済・雇用政策であり、子育て支援策とセットで実施されるべきだろう。

 

有効性を示す海外の研究事例

 実は子育て支援策という観点からも経済・雇用政策が有効であることを示す海外の研究がある。ルクセンブルク社会経済研究所のエイドリアン・ニエト研究員は、スペインにおける労働者の有期雇用から無期雇用(終身雇用)への転換を行った企業に補助金を支給する政策の効果を検証している(*1)。ニエト研究員は終身雇用に転換すれば、生活が安定し、出産が促進されるのではないかと考え、実際の効果を検証した。分析の結果、この政策によって男性の第1子目を持つ割合が4・3%上昇し、女性の第2子目を持つ割合が3・1%上昇することがわかった。さらに、国全体といったマクロの視点で見た場合、政策によって年間5761人の子どもが増え、出生率が1・4%引き上げられたと指摘した。この分析結果は、雇用が安定し、生活基盤がしっかりすれば、子どもが増えることを示唆している。

 

人口減少は「静かなる有事」

 さまざまな政策を検討する際、重要なのは結婚や出産・子育てが一時的なものではなく、長期にわたるという認識だ。現時点だけでなく、将来にわたって所得や雇用の安定化が期待できなければ、その数は増えないだろう。少子化による人口減少は「静かなる有事」であり、もしこのまま人口減少が続き、生産年齢人口の減少に歯止めがかからなければ、国力の低下や国家の衰退につながる。これを防ぐためにも、将来を見据えた長期的な結婚・子育て支援策の検討が求められる。

 

OECD諸国との比較

 以上の議論を踏まえたうえで、子育てと家族観、そして幸福度について触れておきたい。他のOECD諸国と比較して、我が国の家族関連の政府支出は相対的に小さく、「子育ては家庭で行う」という認識が強かった。しかし、バブル崩壊以降の長期的な低経済成長に直面し、所得が伸び悩んだ日本にとって、子育てを家庭のみで行うのが難しくなってきている。この点を考慮すれば、「子育ては家庭だけではなく、社会全体で行う」という認識に変えていく必要がある。

 

幸福度が高まる環境の整備

 このような家族観の修正は、子育てが幸福度に及ぼす影響にも変化をもたらすと予想される。これまでさまざまな研究から、子どもを持つことは幸福度、中でも女性の幸福度を低下させると指摘されてきた。これは、子どもを持つことによって得られる幸せ以上に、金銭的・時間的・精神的負担が大きいことが原因だと考えられる。特に日本のような性別役割分業意識が強い社会の場合、子育て負担が女性に集中するため、女性の幸福度がより低下する傾向にある。このような傾向が続けば、出生数の向上は難しいだろう。今必要とされるのは、これまで家庭内で負担してきた出産・子育てのコストを社会全体でも負担し、子どもを持つことによって幸福度が高まる環境の整備だ。本来、子どもを持つことは喜ばしいことであり、それをより実感できるよう社会の変革を推し進めるべきだろう。

 

(*1)Nieto Castro, A. (2022). Can subsidies to permanent employment change fertility decisions?  Labour Economics, 78, [102219].https://doi.org/10.1016/j.labeco.2022.102219

 

 

 


2023年3月6日号 週刊「世界と日本」第2240号 より

円安・物価高とこれからの日本経済

 

第一生命経済研究所 経済調査部
首席エコノミスト
永濱 利廣
 氏

《ながはま としひろ》

95年早稲田大学理工学部卒業後、第一生命入社。05年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、16年より現職。跡見学園女子大学非常勤講師兼務。内閣府経済財政諮問会議有識者、経産省物価高における流通業のあり方検討会委員、総務省消費統計研究会委員、景気循環学会常務理事。著作に「給料が安いのは円安のせいですか」(PHP研究所)等。

 

2023年の物価は伸び鈍化

 

 原稿執筆時点における直近2022年12月の全国消費者物価を見ると、生鮮食品を除く総合が前年比+4・0%となり、9カ月連続でインフレ目標の+2%を上回っている。更に、そのインフレ率は前月から+0・3pt拡大しており、季節調整値の前月比で見ても+0・4%上昇している。

 背景には、これまでインフレ率押上の主因となってきたエネルギー価格の他品目への波及に、食料品値上げの加速や円安に伴う家電製品の大幅値上げ等が加わったこともあり、少なくとも2022年末まで日本のインフレ率は加速していたことになる。

 しかし、2023年を展望すれば、既にエネルギー価格の上昇はピークアウトしていることから、特に2月分以降の消費者物価の伸び率も鈍化の可能性が高いだろう。というのも、足元ではエネルギー価格の元となる原油価格が130㌦/バレル超えから70~80㌦/バレル台まで下がっており、既にガソリン価格の値下がりに結び付いている。また、総合経済対策による電気・ガス代の価格抑制策の影響が2月分から反映されるためである。

 ただ、中部・関西・九州以外の電力会社が価格上限引き上げを政府に申請していることから、4月分もしくは6月分からは多くの地域で電気料金の大幅値上げが実施される可能性が高いことには注意が必要だろう。

 一方、生鮮除く食料品の価格については、既に穀物価格自体はピークアウトしているものの、昨秋まで円安傾向が続いてきたことから、今後もしばらく価格転嫁が続く可能性が高いだろう。なお、当初は10月の政府小麦売り渡し価格がロシアのウクライナ侵攻の影響を受けて大幅に引き上がることが懸念されていたが、岸田政権が価格を据え置くことを決断した。

 ただ、これはあくまで値上げの先送りである。というのも、今年4月の政府小麦売り渡し価格は通常の過去半年間の平均輸入価格ではなく、過去1年までさかのぼった平均価格で決まる。このため、4月の政府小麦売り渡し価格にはウクライナ危機直後の小麦価格の上昇分が反映されることには注意が必要である。

 

為替はドル安が進行の可能性     

 

 このため、これまでの商品市況高や円安の進展を理由に食料品や耐久財等の値上げは2023年以降もしばらく続きそうだ。となると、為替の動向も2023年の物価を大きく左右しよう。

 しかし、これまでの物価上昇の主因となってきたドル高も2023年以降はもう一段の円高に向かいそうである。というのも、既に米国経済はこれまでの金利上昇などの影響を受けて明確に減速している。そして米国では逆イールド、すなわち2年債利回りが10年債利回りを上回るとその後必ず景気後退局面するという経験則があるが、すでに今年の夏時点でこの状況にあることからすれば、2023年の米国経済はさらに減速の度合いが強まることが予想される。

 また、そもそもドル高のきっかけが、米国のインフレ率上昇に伴うFRBの利上げ観測の強まりである。

 しかし、米国のインフレ率上昇の主因の1つとなった一次産品価格は世界経済の減速などを見越してすでにピークアウトしている。となれば、今後は米国のインフレ率も低下傾向がより明確になるだろう。事実、FRBが+2%のインフレ目標とするPCEコアデフレーターを直近前月比が今後も続くと仮定してインフレ率を延長すると、早ければ今年の秋以降にもインフレ率は+2%台に近づくことになる。

 となれば、これまで立て続けに急速な利上げを実施しているFRBも、今年前半中に利上げを打ち止め、景気悪化の度合い次第では年内に利下げに転じる可能性すらあるだろう。

 一方、円安の要因となっていた日本の経常黒字の縮小も、輸入一次産品価格が円安の進行以上に下落していることからすれば、日本の貿易赤字も縮小に向かおう。

 また、日銀人事も円高圧力となる可能性がある。というのも、3~4月にかけて日銀副総裁、総裁の任期が満了となる。

 そして、最も重要な日銀総裁の後任人事は、現在のイールドカーブコントロール政策における問題点を指摘してきた経済学者で元日銀審議委員の植田和男氏起用されることになった。となると、リフレ的な政策志向の強い黒田日銀よりもタカ派にシフトする可能性があることからすれば、これも円高圧力となる可能性があろう。

 

今年の家計負担は+2・2万円/人程度

 

 以上を踏まえれば、今年2月分以降のインフレ率は低下トレンドに転じる可能性が高いだろう。というのも、足元のインフレ加速は輸入物価上昇に伴うコストプッシュによるものであり、すでに原因となる一次産品の国際商品市況はピークアウトしているからである。

 実際、日経センターが公表している最新2月分のESPフォーキャスト調査によれば、CPIコアインフレ率は今年の10―12月期にピークを迎える見通しとなっている。

 持続的なインフレ率の維持にはディマンドプルインフレが必要であるが、この年の世界経済は一段と減速が強まる可能性が高く、そもそも日本は海外と異なり需要不足である。このため、来年以降はコストプッシュインフレ圧力の低下により日本のインフレ率は低下に転じ、コアCPIのインフレ率も+1%台まで下がるとエコノミストはみている。

 なお、ESPフォーキャスト通りに今後も消費者物価が推移すると仮定すれば、2022年のインフレ率は+2・3%に対して2023年のインフレ率は+2・2%に鈍化することになる。そして、家計の一人あたり負担増加額は2022年に前年から+2・3万円(四人家族で9・1万円)増加することに加え、2023年は+2・2万円(4人家族で8・8万円)増加すると試算される。インフレ率が鈍化するとはいえ、今年の春闘の結果次第では、家計の実質負担はさらに増えることには注意が必要であろう。

 

 


2023年3月6日号 週刊「世界と日本」第2240号 より

『行動制限を伴わないコロナ社会-社会・経済の正常化を目指すには』

 

特定非営利活動法人健康経営研究会
理事長
岡田 邦夫
 氏

《おかだ くにお》

1982年大阪市立大学大学院修了後、大阪ガス株式会社産業医。2006年NPO法人健康経営研究会設立、理事長就任。大阪市立大学医学部臨床教授ほか、厚生労働省、文部科学省等の委員会委員を歴任。現在、経済産業省 健康・医療新産業協議会健康投資WG委員、健康長寿産業連合会理事、大阪商工会議所メンタルヘルスマネジメント検定委員会副委員長。

 

 先行き不透明で、確実な解決方法もなく、ただ時の流れに任す時代に突入した。パンデミックは当初、生命・健康を重視し、経済を犠牲にするステージをもたらしたが、その経過において、両立させなければ社会活動が立ち行かなくなることから新たなステージに進んだ。感染症で多くの方がなくなられ、また、休業・倒産などで、自殺者も増加した我が国の経験は、果たして未来に向けての処方箋を作ることができたのであろうか。

 VUCA(将来の見通しが極めて不透明になった社会情勢)の時代において、今言えることは、大きな社会的問題が発生した時に、解決できる能力を持つ人の育成に行政や企業、多くの団体が、もしくは社会が注力すべきであるということのみである。いずれは何事も落ち着くことになるが、その結末には大きな悔いを残さないことが重要である。

 医の立場からは、『上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す』と古代中国の医書に記載されているとのことであるが、現実社会では、病も人も国(社会)も同時に医すことが必要となっている。我が国の現状は、医師が段階的に成長するのを待っている状況ではない。多くの人、団体などが協働して医すことが求められている。近江商人は、『売り手よし、買い手よし、世間よし』の同時に『三方よし』を求めたが、どうもここに未来の処方箋の一つがあるようだ。社会経済をよくする、感染症を防止する、そして、その重症化を食い止める、のすべてを同時に求めるのが現代社会である。そこには、上医・中医・下医の分け隔てなく、また、政府・都道府県市町村、企業、医療機関、各種団体、学校、個人などの垣根は存在しない。

 ただ、ここの連携不足が社会の混乱を生み出すのである。連携をもってアウトカムを出せば、小さな正解が集積して社会が動くのである。ある企業がいくら頑張っても、社会全体に及ぼす力は限られているし、他の多くの企業がパンデミックを全く意に介しないのであれば、我が国は「烏合の衆」の国民になってしまう。

 多くの人に、健康行動を求める方法論の一つにナッジがある。例えば、禁煙である。基盤に「法令上の罰則」があり、頂上に「自由意志」というピラミッドが構築される。罰則については、「禁酒法」の過ちを繰り返さないためには、これは採用できない。そうかといって、「自由意志」を採用すると「受動喫煙」による問題が発生する。その狭間には何があるのかを考えるのが為政者、経営者等のミッションである。凶悪犯罪には、厳しい刑罰が合法化される。パンデミックにおいて、自発的に休業する店舗には、インセンティブとして補助金が給付された。新型コロナに感染すれば、感染症法2類に分類されているので、保健所に届け出て、指示を受けることになる。一定の拘束を受けるが、施設は提供され、食事は公費で賄ってくれる。さて、新型コロナウイルスに恐怖感を持たない人は、このようなことは全く意に介さず、日常生活を送るであろう。感染症対策を講じることによってインセンティブが与えられるならば行動を起こす人も多くなるかもしれない。しかし、社会全体の感染症リスクが減少し、社会・経済の活性化というインセンティブを享受するために、感染症対策を考えた人はどれほど存在したのであろうか。一人ひとりがそして多くの企業が、『三方よし』の行動を取れば、公益社会が実現するが、その道は遠い。SDGsはまさしく、この考え方の実現である。

 もう一つは、シンデミック(syndemic)である。パンデミックにおいて、感染症対策のみでは感染、発症、重症化などを制御することはできず、日頃の生活習慣や生活習慣病の予防ならびに持病の適正なコントロールがなされていることが重要である、という考え方である。ここには、いわゆる「格差」の問題(経済格差、健康格差など)大きな障壁となりうる。我が国においては、生活習慣病対策はすでに長い歴史を持っているが、高齢化の名のもとに有所見率は増加し続けている。果たして、高齢化のみが健康診断における有所見率の増加に寄与しているのかは疑問である。

 カリスマ経営者の登場は、企業の救世主になりうるが、後継者としてのカリスマがいなければ企業の歩む道は険しい。我が国は、人口構造ではピラミッドをなさなくなっているが、企業の基盤を強固にするためには、人財ピラミッドを築き上げなければならない。しかし今は、陣頭指揮を執る管理職の空洞化が危惧される。その結果は、例えばインフルエンザの予防接種にみられる予防効果である。100人の組織で、たった一人の予防接種は、個人的にも組織的にも社会的にも効果を発揮しない。無駄の一言である。一人ひとりがパンデミックについて自らができることを考え実践するか、また組織が何をすべきか、行政が何をすべきか、その結果が時を待たずして社会に反映されることになる。求められるのは、利己と利他、DiversityとIncl usionの融合であろう。目的を一にする「見えざる手」をいかに企業の成長に結びつけるか。経営者の手腕が問われている。しかし、この実現は極めて難しく、不可能に近いかもしれないが、「拙速」と「巧緻」を組み合わせることで牛歩よりは早い解決法を見出すことになる。私の無責任な考えとして、企業の利益を大胆に放出して、企業基盤を強固にする方法があるのではないかと思っている。その投資が無駄になるかどうかは、経営戦略次第であろう。決断に多くの時間を要する場合と経営者の勘に基づく拙速が企業を大きく羽ばたかせるかもしれない。それくらい経営者の責任は大きいのである。社会のスピードは一段と速くなっているが、私たちの歩みはそれに追いついていない。人は大器晩成で成長には時間を要するが、その一人ひとりの力が合わさって社会が進んでいるのである。若い人達の労働に対する無力感、すなわち空洞化はすでに蔓延しており、現在は中間管理職の空洞化が進行中である。そして、次にはすでにその前兆が認められる経営者の空洞化が危ぶまれる。「セレンディップの3人の王子」の旅は経営者にも必要かもしれない。

 

 


2023年2月20日号 週刊「世界と日本」第2239号 より

防災への備えと教訓から学ぶ

 

関西大学特別任命教授・社会安全研究センター長
京都大学名誉教授
河田 惠昭
 氏

《かわた よしあき》

関西大学特別任命教授・社会安全研究センター長、人と防災未来センター長。京都大学名誉教授。国連SASAKAWA防災賞、防災功労者内閣総理大臣表彰など受賞。日本自然災害学会および日本災害情報学会会長を歴任。主な著書に『これからの防災・減災がわかる本』『にげましょう』『日本水没』『津波災害(増補版)』『河田惠昭自叙伝』等。

 インドのマハトマ・ガンジーは7つの社会的大罪を指摘した。その1つが『人間性なき科学』である。筆者はこれを『災害文化を軽視・無視した科学文明』と解釈している。 

 

 たとえば、気象庁がいくら避難情報を「正確、迅速、詳細」に提供し、それに基づいて自治体が避難指示を早期に発表しても、大多数の住民は避難しない。これは典型例だろう。「避難しないと命を失うかもしれない」と考えて、避難行動するという文化的行為につながっていない。他人事に終わっている。その上、グローバルな情報時代を迎えて、SNSによって非科学的情報が科学的情報と混在して大量に発信され、ますます的確に判断ができない社会へと変貌している。知識が増えても知恵すなわち生活文化にならない限り、私たちの『こころとからだ』は成長しないのである。今年は関東大震災100年である。そして、東京都は「ぼうさい国体2023」の東京での開催に同意せず、横浜市で開催される運びとなった。関東大震災の2年後に、東京大学地震研究所は大震災の発生を科学的に解明することを目的として創設された。東京での不開催は同研究所のみならず、『危機対応の社会科学』として顕著な業績を挙げてきた社会科学研究所などの意見を反映しているのだろうか。この伏線はあった。昨年5月に10年ぶりに東京都が再評価し、公表された首都直下地震の余りにも現実離れした“軽い”被害想定結果からの流れである。確かなことは、政治に倫理観がないことである。これはガンジーの指摘するもう1つの大罪である『原則なき政治』に該当する。

 さて、結論めいたことを先に述べてしまったが、これから主張する本稿では、関東大震災や阪神・淡路大震災そして東日本大震を経験して、この100年間に「私たちは何を考え学んできたのか」について私見を述べて、なぜ大罪かを明らかにしたい。

 これらの大震災を経験して私たちが学んできたことは、ひょっとして間違っていたのではないのかという疑問にぶつかる。防災研究の初期には「災害の発生のメカニズムがわからなければ、有効な対策は立てられない」と考え、必然的に理学先行、工学追随の姿勢で始まった。ところが、戦後から1959年の15年間は、毎年のように千人以上が災害の犠牲になる『災害の特異時代』を経て高度経済成長期に入ると、災害の被害は激減した。国際的に『Japan As Number 1』と囃(はや)し立てられ、わが国は防災力も大きくなったと錯覚した。その時代は、たまたま自然災害の静穏期と重なっただけだった。1995年阪神・淡路大震災は、わが国の大都市での防災力が致命的に小さいことが露呈した災害だった。その時、気づいたのは災害の社会科学的なアプローチがほとんど欠けているという実態であった。確かに米国を中心とした先進国では、社会科学的アプローチで自然災害を解析するという実績が積み重ねられてきた。しかし、それらも残念ながら災害下位文化(Disas. Sub-Culture)という位置づけで、災害文化ではないと考えられて進められてきた。つまり普遍性がないという理由である。

 この考えに対して、真っ向から反対したのが筆者である。1980年代後半にそれを主張する災害文化に関する論文を公表し、自然災害の特質は、歴史性と地域性であることを主張した。これと軌を一にして研究対象を都市災害に変えた。大都市で災害が起これば、ライフラインや建築物の物理的な被害に留まらず、未曽有の住民が犠牲になり、都市社会全体が被災する危険性があるからである。そのとき、都市災害を専門にした研究者は、筆者1人だった。阪神・淡路と東日本大震災を経験して、社会科学的研究はわが国を中心に広範囲に実施されるようになった。でも残念ながら、多くのものは現在も災害下位文化の範疇(はんちゅう)に留まっている。研究成果は論文にまとめやすいが、災害文化に昇華できない質的レベルが低い論文が増えたままである。なぜそうなってしまったのか。その理由の1つは、研究者が現場で、災害に被災する悲惨さを十分経験していないからであろう。要は、頭でっかちなのである。筆者は、防災研究は実践的でなければならないと信じている。その教訓は、わが国だけでなく世界的な災害の現場を調査し、如何に災害が非人道的なものであるかということである。

 ではどうすれば災害文化が形成されるのか、その指針を出すことは大変難しいが、敢えて試みてみよう。現在、わが国では、国連のSDGsが社会的に大きな関心を巻き起こし、具体例が各種メディアによって毎日のように紹介されている。それは持続可能な開発目標と訳されている。実は、2015年の開始年に先だって、英語のディベロップメントを「開発」と「発展」のどちらに解釈するのかということで、途上国と先進国の間で鋭い対立があった。発展と解釈するためには先進国は財政負担を明記するべきであり、できなければ開発であるという途上国の主張通りになった。しかも、17の目標の中で最重要な第1目標『貧困をなくそう』は、実は『災害をなくそう』なのである。災害に遭遇したすべての国は例外なく貧しくなるのである。でも、国連加盟国で災害が多発するのはその3分の1である。だから全加盟国の同意を得るために表現を変えたのである。しかも、もっと日常生活的なレベルから、持続可能性、包摂性やレジリエンスを理解しなければならない。そして、コロナ・パンデミックに遭遇して、わが国より一人当りのGDPの多い国ほど感染率、死亡率が総じて高いという現実に遭遇した。そこでわかったことは、社会の防災力を向上させるためには、経済的に豊かになるだけでは不十分で、日常的な生活文化向上を重視する、すなわち『こころとからだの成長』を同時に進める必要があることだ。それは災害文化による発展と災害文明(科学)による開発の協同作業によってもたらされるのではないだろうか。現在は、情報化の進展とともに、後者だけが重要視されている。

 


2023年2月6日号 週刊「世界と日本」第2238号 より

令和5年(2023年)岸田政権の展望と課題

 

政治評論家
伊藤 達美
 氏

《いとう たつみ》

1952年生まれ。 政治評論家(政治評論・メディア批評)。講談社などの取材記者を経て、独立。政界取材30余年。中曾根内閣時代、総理官邸が靖国神社に対し、東條英機元総理ら“A級戦犯”とされた英霊の合祀を取り下げるよう圧力をかけた問題を描いた「東條家の言い分」は靖国神社公式参拝論争に一石を投じた。「国対政治の功罪」、「土井たか子のアタマの中身」など著書多数。

 国会放送記者会(民法クラブ会員)。自由民主「メディア短評」執筆陣。

少なくとも6月までの退陣なし

 

 令和5年の岸田文雄政権がどうなるか展望してみたい。

 昨年、岸田政権は参院選に勝利したものの、安倍元首相の国葬問題や旧統一教会問題をめぐる対応、さらには相次ぐ大臣辞任で支持率が大きく下落した。このため、「退陣は時間の問題」との見方が多いようだが、筆者の見方は違っている。引き続き綱渡りの政権運営を強いられるものの、少なくとも6月までは岸田政権は続くし、その後は秋口の解散・総選挙をにらむ展開となり、さらにそこで勝利すれば来年秋の総裁再選が視野に入ってくると予想する。しかし、そのためには3つのハードルをクリアしなければならない。

 最初のハードルは来年度予算を年度内に成立させることができるかどうかだ。

 今年の予算審議は難問山積である。

 昨年の補正予算で29兆円規模の経済対策を打ったものの、依然としてわが国経済を取り巻く状況は厳しい。10年にわたる「アベノミクス」でも克服できなかったデフレに加え、ロシアのウクライナ侵略などによる資源高、物価高が重くのしかかる。来年度予算に盛り込まれた経済政策が現在の経済情勢に十分かどうか、厳しい論戦が交わされることになるだろう。

 また、来年度予算は防衛力強化の初年度となる。昨年末に閣議決定した防衛3文書に記載された「反撃能力」や防衛費の財源問題など、これに反対の立場の立民党や共産党などは激しく政府を攻撃するだろう。なんといっても、これまでの安保政策の歴史的大転換である。政府答弁の難易度はこれまでになく高い。もし、答弁ミスが発生すれば、たちまち立ち往生となりかねない。

 加えて、旧統一教会問題や閣僚の不祥事も引き続き不安材料だ。

 通常国会は1月23日召集が決まった。当初、同27日召集説もあったが、4日間早めたのは予算審議の日程をしっかり確保したいからではないか。政権としても予算審議の重要性を十分認識していると思われる。

 次のハードルは4月の統一地方選と衆院補選である。

 予算の年度内成立を果たしたからといって、いったん沈んだ支持率が急回復することは難しい。もし、岸田首相の「不人気」が原因で統一地方選の結果が振るわなければ、地方から「岸田降ろし」の声が出かねない。また、4月下旬には千葉5区、和歌山1区、山口4区で衆院補選がある。ここで自民党候補が全敗することになれば、「岸田退陣論」が現実味を帯びてくることになる。

 ただ、仮にこうした事態になったとしても、退陣に向けて政局が動くのは統一地方選や衆院補選が終わる4月下旬となる。5月には広島サミットがあることから、その直前の退陣は考えにくい。だとすれば、仮に退陣表明が行われるとしても、6月中旬の通常国会の会期末近くになってからだろう。

 その後、自民党総裁選が行われ、実際に政権が変わるのは7月末か8月になるのではないか。「少なくとも6月までの退陣はない」と考える理由だ。

 逆に、予算が順調に成立し、統一地方選や衆院補選でそこそこの結果を残すことができれば、岸田政権は昨年来の窮地を脱した形となる。そこから先は冒頭に述べたように、筆者としては解散・総選挙をにらむ展開を予想している。

 解散時期については10増10減に伴う公認調整の進捗状況が大きな要素となる。これが最後のハードルだ。

 増員都府県の新たな候補者擁立と、減員県における現職議員の処遇がポイントとなるが、政治家の政治生命にかかわるだけに調整は困難を極めることになる。そのほか、区割り変更は全体の約半分の140選挙区に及び、各選挙区支部長は新たな選挙区での支援者獲得などに追われることになる。

 これも一定程度の時間を要するだろう。しかし、茂木敏充幹事長や森山裕選対委員長の精力的な動きを見ていると、秋口にも準備が整うと予想する。あとは状況を見ながら岸田首相が具体的な時期を判断することになるのではないか。

 もちろん、「政界、一寸先は闇」と言われる。何が起こるか分からない。特に首相自身の健康問題やスキャンダル、あるいは大災害や安全保障上の重大事案が発生すればまったく別の展開となることはいうまでもない。

 

「ポスト岸田」不在の「一強」状態

 

 昨年からの変化で見逃せないのが、岸田政権を支える自民党の挙党体制が整ったことである。おそらく、昨年11月以来、相次いで党内有力者と会合を重ねたことで、当面の政局運営についての共通認識を形成することに成功したのではないか。

 実際、総裁選で岸田首相を支持した麻生太郎副総裁、茂木敏充幹事長、遠藤利明総務会長はもとより、萩生田光一政調会長も政策面で党内取りまとめに汗をかく。また、非主流派から党4役入りした森山裕選対委員長も公認調整に全力で取り組み、菅義偉前首相や二階俊博元幹事長も首相を支える姿勢を示している。

 一方、ポスト岸田の有力候補と目される河野太郎デジタル担当相や高市早苗経済安保担当相に対する評価や期待度は流動的で不透明だ。また、安倍元首相という支柱を失った安倍派もポスト岸田を目指して動き出す状況にはない。そういう意味で現在の自民党は「岸田一強」状態とさえいえる。

 

変わった岸田首相

 

 これまでの岸田首相のイメージは、決断が遅く、問題先送りの弱いリーダーではなかったか。しかし、筆者の見るところ、昨年10月末、山際大志郎コロナ担当相(当時)を更迭したころから様子が変わってきたように思う。

 その後も2閣僚が辞任するなど厳しい運営が続いたが、臨時国会最終盤で第2次補正予算や旧統一教会被害者の救済新法の会期内成立を果たしたのは岸田首相の強い意志によるところが大きい。

 また、長年の懸案となっていた原発政策の転換や昨年末の防衛3文書の改定や防衛費の財源問題でもぶれることがなく政府・与党をリードした。今年に入ってからも、例えば、1月4日の伊勢神宮参拝後の記者会見では、これまで「中身が見えない」との批判があった「新しい資本主義」について雄弁に語り、少子化対策に対する積極的な発言も目立ってきた。

 中国の故事に「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」という言葉がある。先入観にとらわれていると本筋を見失うことになりかねないのが、今年の政局かもしれない。

 


2023年1月16日号 週刊「世界と日本」第2237号 より

自我形成から自己確立へ

 

拓殖大学顧問
渡辺 利夫
 氏

《わたなべ としお》

拓殖大学顧問・経済学博士・著述家

拓殖大学前総長、元学長。昭和14(1939)年、山梨県甲府市生

まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科修了。

経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授を経て拓殖大学に

奉職。専門は開発経済学・現代アジア経済論。(公財)オイスカ会長。

日本李登輝友の会会長。平成23(2011)年、第27 回正論大賞 受賞。

I 自己と他者

 

 私どもは、母親の胎内で生成し、この世に生まれてきます。私どもが初めて出会う他者が母です。他者であるとはいえ、きわめて密度の濃い「共生的」関係が母と子供の関係です。この母子の共生的関係から少し離れて存在するのが、父親です。母親とならぶもう一つの共生的関係にある他者が父親です。そして、その周辺にこれも多分に共生的な関係にある兄妹・姉妹さらには祖父母がいるはずです。いうまでもなく、これが家族です。この家族関係においては、自己と他者との関係は、それをみずからは選び取ることができない、そういう意味で運命的なものです。

 私どもは、まずは家族という共生的な他者の目の中に映る自己を確かめながら人生を出発させます。人生における最初の他者が家族です。家族という他者の目に映る自己が受容的であることを確認し、そうして私どもは「肯定的な自我」を形成していくはずです。逆に、母子関係、父子関係、家族関係がスムーズにいかず、緊張をはらむものであったりすると、「否定的な自我」が形成され、その後の人生の過程で私どもはさまざまな心理的葛藤に悩まされることになりかねません。

 幼児期、児童期を経て、少年・少女期、青年期に入っていくとともに、私どもは家族とは異質な他者との人間関係を取り結んで生きていかなくてはなりません。小学校、中学校、高校、大学へ進むとともに、血縁や出身地やその他のさまざまな属性において異なる人々との人間関係の中で生きていかざるを得ないのです。

 高校や大学を卒業していろんな企業、団体などの組織の中で働くようになれば、そこで取り結ぶ人間関係は、一段と錯綜したものとなりましょう。そうした人間関係の中でも、私どもは他者の眼に自分がどう映じているかを確認しながら、人生の船を漕いでいかなければなりません。きわめて多様な他者の眼の中に投影される自己を確認しながら、自己の他者への対応を変化させ、自我を確かなものとして形成していかなければならない。他者の眼に映る自分をつねに理性的に見据え、柔軟かつ自在に自己を変容させながら人生をしなやかに送るよう努めること、これが真に自立した人間の行動なのだと私は考えます。

 

II 自分史を書く

 

 人生とは経験の積みあげです。経験の文章化は、自分を再確認し、その後の自己を形成していくために欠かすことのできない作業だと私は考えます。自分史を書く絶好の機会が私にはありました。私の東京工業大学の退職は平成12年でした。最終講義で何を話そうか、随分思いあぐねたことを思い出します。経済学者が経済学のことをしゃべってもさして興味をもってくれそうにない。そう予想して私は「センチメンタルジャーニー—私の中のアジア」と、ややくだけたタイトルのレクチャーにしました。通常はあまり語ることのない自分史を、最後の機会なのだから一回くらいはみんなの前で話すのも悪くはないか、といった気分でした。

 その最終講義に雑誌Voiceの編集者の一人が聴講にきてくれていました。レクチャーが終わったところで彼は、“先生、今日の話、面白かったです。テープにとっておきましたので、それを原稿に起こしますから、朱入れしてうちの雑誌に掲載させてください”という。ゲラに結構な量の朱入れをしてできあがった論文を掲載してくれました。“最終講義が雑誌に掲載されることなんて初めてのことですよ”と後に編集長から言われました。

 自分史を書くという場合、出生に始まり現在にいたる年表のようなものをつくり、少年時代、青年時代、壮年時代、現在と大きく三つ、四つの時期を区分して、その中で自分にとって重要であったと思われる経験、その後の人生に与えた経験の意味などを書いてみたらどうでしょうか。一つのストーリーを書いていくと、書く前には想像もできなかったようなことどもが連想されてきて、内容は書いていくうちに段々と濃いものになっていきます。誰にも文章化しておきたい、そういう重要なことごとが人生の中にはあるはずです。

 

Ⅲ 経験と経験知

 

 私は大学を出てから日本化薬株式会社という民間企業に就職しました。そこで働き、その後に母校の大学院にいって博士号を取得、母校ではない大学の専任講師として教員・研究生活に入ったのです。

 就業期間は短いものでしたが、この民間企業での勤務は私の人生に大きな影響力を与えてくれた経験でした。会社を辞めた理由は、会社の仕事がいやになったからではまったくありません。“研究者としてなんとしてでも自立したい。その道に入るにはこの年齢くらいが限界かな”と思いを定めてのことでした。会社での勤務は、私にはむしろ大変、充実した時間でした。何よりその後の人生で経験することごとをみる時に、この時の経験ほど役に立ったものはないといってもいいほどです。

 会社に入ったのは昭和38年、翌年が東京オリンピック、「企業の時代」でした。私が勤務したのは、東京赤羽の荒川沿いに立地する医薬品製造工場でした。資材倉庫課に配属され、工場敷地内の各所への資機材の搬出入の事務を執り、傍(かたわ)らフォークリフトで化学薬品のドラム缶を主要部所に運び込むといったことも私の仕事でした。フォークリフトの運転免許や危険物取扱主任者のライセンスも当時取得しました。

 私が何より驚かされたのは、企業組織における人間関係でした。工場がコミュニティーを形成し、人々が相互に強く結びついて一つの小宇宙を形成しているではありませんか。赤羽の工場で観察した人間関係は、家族主義的としかいいようのない暗黙の合意を前提にした、まことに協調的なものでした。工場長はいつも菜っ葉色の作業服を着て、ネクタイなどつけておりませんでした。終身雇用を疑う者はおらず、少しずつではあれ給料が上昇していくことを楽しみとしていたようです。労働組合は確かに存在しましたが、労働組合が「経営側」と何かを争うという雰囲気を感じたことはありません。労働組合の方にも、そもそも経営側などという認識があったとは思われないのです。

 ここでは紙幅の関係もあって一つの経験しか書くことができませんでしたが、経験はこれを文章化することによって、初めて「経験知」となり、これが一つの確かなブロックとなります。別の経験を文章化してもう一つの経験知のブロックができあがっていきます。いくつもの経験知のブロックを積みあげていくと、簡単には崩れない経験知の大きな塊になります。このブロックの塊の大きさが、人間が成長したことの証なのではないでしょうか。さまざまな経験を、本当に自分自身の人生にとってかけがえのないものとするには、文章化がどうしても必要です。経験の文章化を継続すること、これを自分のクセのようにしてしまったらどうでしょう。人間が人間として成長し、自己を確立するには、これがどうしても欠かすことはできない条件ではないかと私は考えます。

 


2023年1月16日号 週刊「世界と日本」第2237号 より

新年に日本の針路を思う

 

日本大学 危機管理学部教授
先崎 彰容
 氏

《せんざき あきなか》

1975年東京都生まれ。専門は近代日本思想史・日本倫理思想史。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院博士課程修了後、フランス社会科学高等研究院に留学。著書に『未完の西郷隆盛』、『維新と敗戦』、『バッシング論』、『国家の尊厳』など。

 

 令和五年の日本が、どのような時代を迎えるのか。私たちはどのような時代の渦中にいるのか。新年を占うには、過去からの俯瞰がかかせない。まずは昨年をふり返ることから始めよう。

 

 誰も知るように、昨年は憂鬱な事件一色だった。新型コロナ禍の窒息した気分を払ったのは、明るい話題ではなく、プーチンによるウクライナ侵攻だった。これまでどこか遠い話だった戦争が、にわかに緊張感を与えてきた。目下、年末のニュースは、防衛費増額の財源をめぐって、増税の可否で持ち切りである。

 また真夏の日差しの中、凶弾に倒れた安倍晋三元総理暗殺事件は、統一教会の存在をあぶりだし、いわゆる被害者救済法を成立させた。個人の自由な意思を抑圧する勧誘や、家族生活の維持を困難にする献金等にたいし、「十分に配慮」することを求める最中、改めて宗教とは何かが問われたのである。

 こうした事件の一つひとつは、脈絡もなく起きている。しかし筆者は、国内外の事件には、共通する時代の気分があると思う。

 それは現在が大きな転換点にあること、つまり「戦後レジームからの脱却」の時代に入ったという認識である。

 例えば、統一教会問題があぶりだしたのは、政教分離という問題である。戦前の日本は、戦争に突入する過程で日本国民に多くの犠牲と動員を強いた。

 それは当時の新興宗教の弾圧や戦争協力も含まれていた。したがって、戦後日本の基本的な考え方は、政治権力は抑制されるべきであり、信仰など個人の内面にかかわる部分については、介入を避けるというものであった。

 しかし今回、被害者救済法成立にあたり、与野党で論点になったのは、マインド・コントロールなど個人の内面について、与党が「配慮する」と規定したのに対し、野党がより強い禁止措置を求め、最終的に「十分に配慮する」に決着するというものだった。

 与野党の駆け引きは、冷静に眺めた場合、かなり奇妙な対立である。なぜなら野党はリベラル政党であるにもかかわらず、個人の内面にまで踏み込んだ強い禁止命令を求めたからだ。リベラルとは自由主義であり、個人の内面は本来、権力の介入を一切許さないと主張すべきである。にもかかわらず、与党より強い介入を求めたのが、今回の野党だったわけだ。

 私はなにも新年早々から野党批判がしたいのではない。問題は、戦後の私たちが常識とし、無意識の基準とみなしてきた政教分離が、耐用年数をむかえているということなのだ。統一教会問題で私たちに突きつけられたのは、国家権力は、あまりに理不尽な献金や精神支配をする団体にたいし、時に権力を発動して内面を救済することがあるということである。つまり宗教分野で「戦後レジームからの脱却」を行うべき時代がきたのだ。

 この観点から、今度は防衛費増額をめぐる議論を見直してみよう。ウクライナ情勢を受けて、防衛費の倍増と「国民全体」の増税負担が議論されている。増税ではなく国債発行を行う場合、将来世代に借金を先延ばしし、痛税感を回避できる。増税可否の論議を、自民党内の政争の具にしてはならないし、またマスコミが判で押したように繰り返す「説明不足」の議論も私は正直、聞き飽きた。

 大事な論点は次の点にあると思うからだ。

 戦後以来、日本は原則的に「吉田ドクトリン」すなわち軽武装経済重視の国づくりに励んできた。この常識と価値観が、国際社会の変化を受けて賞味期限が迫り、変化を余儀なくされているのだ。防衛もまた「戦後レジームからの脱却」の時期が迫っているのであって、その際、私たちが新たに直面する事態は、「決断力の有無」ということなのである。

 もし極東アジアの国から長距離ミサイルが飛来した場合、今のわが日本政府に数分以内で物事を決断する勇気があるだろうか。

 つまり平時かつ民主主義の最良の部分である「熟慮」とか「話し合い」を緊急事態モードに切り替え、決断という蛮勇をふるうことができるだろうか。

 このように考えた場合、安全保障の肝が、時に「説明不足」でも物事を即断即決することにあると分かるだろう。威勢のよい防衛装備品の充実、核シェアリングの必要性を叫ぶ前に、今、私たちが直面している精神的な脆弱性に注目すべきなのである。

 こうした宗教と防衛に関する戦後体制の危機があるにもかかわらず、私たちは有効な手段を見つけられていない。しかも歴史をさかのぼり、俯瞰した場合、現代は危機的様相を一層深めるとしか思えない。

 例えば今から百年前を思い出してみよう。一九一八年に第一次世界大戦が終結すると間もなく、世界はスペイン風邪の大流行に見舞われた。終息直後の二一年、日本国内では原敬が暗殺され、二九年には世界大恐慌が猛威をふるう。そしてヒトラーの登場が三〇年代の世界を激変させてゆくのである。

 つまり当時を政治・経済・外交でみた場合、まず大恐慌によって資本主義の危機が露呈した。その同じ時期、政治では議会制民主主義の限界が露呈し、ポピュリズムが独裁者を生み出していく。

 さらに外交においては、欧米中心の国際秩序に対し、日本が大東亜共栄圏構想を掲げて、挑戦していくことになるのだ。

 以上から何が言えるのか。百年前の世界は、民主主義・資本主義・外交秩序、いずれもが危機に直面していたということだ。だとすれば、令和五年の私たちもまた、同じ渦中にいるのではないか。

 昨年のウクライナ侵攻は、欧米秩序への挑戦を意味するだろう。グローバル経済は新型コロナ禍で失速し、今や資本主義は格差社会と同義語である。中国が台頭するということは、一党独裁型国家による民主主義体制の否定にほかならない。

 新年早々、暗い見通しを述べたかもしれない。だが大事なのは、今の自分たちの置かれた状況を「冷静」に把握することだ。この冷静さを失った時、危機になる。情報に翻弄され、本当の危機がやってくるのだ。そうならないための、忍耐の一年になることだろう。

 


2023年1月2日号 週刊「世界と日本」第2236号 より

日本よ、最善の道を歩もう

 

大阪大学名誉教授
加地 伸行
 氏

《かじ のぶゆき》

昭和11年大阪生まれ。同35年京都大学文学部卒業、高野山大学、名古屋大学助教授、大阪大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授。文学博士。儒教を中心とする中国哲学史の研究とともに現代世相について批判・提言をしている。著書に『儒教とは何か』『マスコミ偽善者列伝』『令和の「論語と算盤」』など。

 

 謹賀新年。正月の諸刊行物やテレビ番組の中心テーマは、〈これからの日本〉であろう。事実、毎年、あれこれ書かれているし、テレビではそれらをテーマとするのが慣例。しかし、それら御高説のほとんどは〈一般論〉すなわち、なんとかを盛んにしましょう、かんとかに力を入れましょう、とかなんとか、当たり前のことを仰仰(ぎょうぎょう)しく言っているだけ。

 

 どこにも日本の将来を具体的に述べていない。大阪人の老生、それらを読み聞きしての感想はただ一つ。こうである。アホかいな。そして大阪弁の流行語を付け加えておこう、「なんか知らんけど」と。

 よっしゃ、そんなら大阪人の老生、キャーっと眼を剥(む)くような〈これからの日本〉について述べることにいたしたい。

 二点ある。まず第一点、こういう豪速球。

これからの日本は、〈鎖国で行こう、鎖国で〉これが日本の生きる最善の道である。

 明治維新以降、日本の学校教育の基調は、江戸時代封建制は誤りであり鎖国などもっての外として江戸幕府をボロクソにけなしてきた。そしてひたすら英米独仏などの近代国家を崇(あが)め奉って百五十年。

 しかし、英米独仏らは植民地政策で弱小国家から財物を収奪してきた。その結果、例えばアフリカの諸国家は独立国家として生きてゆく文化が育たず困っている。

 例えばアフリカの或る国の話。日本からの援助(ドル)の半分を政府幹部らがピンハネして自分らの懐(ふところ)に入れ、残りをその国家が使う。当然、目標未達成。すると臆面(おくめん)もなく、日本に援助増を求めてくる。それが近代化かよ。

 とにかく外国には根性悪いのがいっぱい。近代国家も後進国も、カネカネ、ゼニゼニ。こんな連中とつきあう必要があるのだろうか。

 江戸時代の鎖国は、外国からの侵略や植民地化を避けるための勝れた政策であった。もちろんそれだけではない。日本と戦争して、もし負けると敗軍の将は自分でハラキリしなければならない。それはかなわん、やりきれん、ということで外国は日本に来なくなった。しかし江戸幕府は、外国の様子は把握しておかねばならぬとし、オランダと中国(唐(から))とは常に連絡できるように連絡公館を長崎などにおいた。それらを通じて西洋事情や唐事情、例えば、ナポレオンの活躍などを把握していた。のみならず、限定的ではあったが通商もしていたのである。完全鎖国ではなかった。

 すなわち限定した相手国と通商や事情交換をしていたのである。ここだ、ここ。

 日本としては、例えば、アメリカは別格で通商をしよう。しかし、その他の国とは縁を切ろう。世界諸国に日本が出している工場はすべて撤退し、日本国内で生産をしよう。日本製品は優秀であるから、値段を今の倍にしよう。それでも外国は必ず求めに来る。

 そして、いま二百数十万人いるという外国人はその母国に帰ってもらう。彼らは、日本ではなくて、己の祖国のために働くべし。つまり、日本は日本人で構成することだ。

 当然、国防はアメリカとは協力しつつ日本人が中心となるべきである。日本は国防に徹し、絶対に外国へは兵を出さない。ただし、もし外国が日本に侵略してきたときは、当然闘うし、その外国への攻撃も行う。その責任は、すべてその外国にある。

 鎖国するのであるから、外国(アメリカ等を除く)とは、もうおつきあいはしない。舞台はすべて日本国内。外国のことなぞ、テレビやインターネットで知ればそれで十分。

 一方、当然、国民皆兵であるから、例えば体育はじゃらじゃらしたものはやめ、剣道、柔道、長距離走、体操などを中心とする。男女同様なのであるから、選択の必要はない。

 もちろん、キャンプや船に乗る訓練もしよう。同時に身体を使う職業訓練の初歩も行おう。

 自主独立、そして日本人たちの相互協力による選択的新鎖国で往け。

 次に第二点。人々は政府に対して、あれをしろ、これをしろ、と多くの要求をしている。政府は政府で、アレをします、コレをしますと、調子いいことを言っている。

 すかさず、評論家、それも経済評論家どもが政府にそんな金銭はないから無理、と叩く。すると政府は、国債を発行してそれを売り出して、それで得た金銭でゆきますと答え、平気でじゃんじゃん国債発行。

 そういうことが続いて、現在、日本の国家予算の四割前後が国債(借金)に対する利払いや満期返済費に使われている。家計で言えば、収入の四割が借金返済と同じ。

 このこと、われわれ庶民の生活に当てはめてみるがいい。例えばサラリーマン。月収が三十万円としよう。その四割の十二万円が借金返済用となれば、残りの十六万円で生活することとなる。それは始めから無理。そこで政府はミラクルボールを投げる。

 以下の話は、老生、三十年ぐらい前から提言しているのだが、だれ一人として見向きもしない。今後発行の国債に対しては一切課税しない。

 もちろん相続税なし。ここが大切。その新国債は現行の一万円札を刷ったあと、全面に日の丸を印刷して造る。この日の丸国債は通貨と同様としても使えるとする。しかし国債に付く利子はなし。

 となると、政府は日の丸国債をじゃんじゃん刷っても大丈夫。では誰が買うのか。大丈夫、相続税も消費税もないのだから、大金持ちはもちろん小金持ちも競争して買うであろう。ビンボー庶民も誇らしげに、ま、一枚(一万円分)ぐらいは買うか。

 すると、日本の人口の内一億人が、日の丸国債一枚(一万円)を買うと、それだけでポンと一兆円分の国債つまりは返済しなくていい現金が一兆円が政府の手に入り、それを自由に使える。といった計算が続いてゆく。

 この日の丸国債はいくら刷ってもインフレにはならない。なぜか。日本人は入手した余分の金銭はアメリカ人みたいにパァパァ使わず、がっちりと預貯金し、おネンネするからだ。

 鎖国そして日の丸国債—こういった思い切った政策を実行し国民を幸せにできる者こそ、真の首相である。

 


2023年1月2日号 週刊「世界と日本」第2236号 より

2023年経済安全保障と日本の針路

 

評論家
江崎 道朗
 氏

《えざき みちお》

1962年、東京都生まれ。九州大学卒業後、国会議員政策スタッフなどを経て2016年夏から評論活動を開始。主な研究テーマは近現代史、外交・安全保障、インテリジェンスなど。産経新聞「正論」執筆メンバー。2020年、フジサンケイグループ第20回正論新風賞を受賞。主な著書に『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』(PHP新書)など。

 

 いずれ日本も戦争に巻き込まれるかもしれない。そう考えて日本政府はその準備を始めた。

 現に昨年から北朝鮮のミサイル発射を受けてJアラートという名の「空襲警報」が頻繁に鳴り響くようになった。北朝鮮のミサイルがいつ日本に着弾してもおかしくない事態なのだ。

 しかも日本の平和と安全を脅かす「脅威」は北朝鮮だけではない。

 民主主義国家では、自国にとってどの国が脅威で、その脅威から自国を守るためにどのような国家安全保障戦略を採用するのか、文書をまとめ公表している。この国家安全保障戦略を日本が初めて策定したのは2013年、第2次安倍政権の時だった。

 このとき日本にとっての脅威は《国際テロ組織によるテロ》や《北朝鮮の軍事力の増強と挑発行為》などで、中国やロシアについては脅威と見なしていなかった。

 ところが国際社会では、南シナ海や尖閣諸島を含む東シナ海において軍事的挑発を繰り返す中国への反発が強まっていく。経済的にも中国は急成長を遂げ、いずれアメリカを追い抜くかもしれないと囁かれるようになった。

 かくして中国への警戒が強まる中、2017年1月、アメリカにおいて中ロの脅威に備えることを重視するD・トランプ共和党政権が誕生し、米中対立が一気に顕在化する。

 しかもトランプ政権に代わって2021年1月に発足したJ・バイデン民主党政権もまた、中ロを脅威と見なす国家安全保障戦略を公表した。

 要はアメリカが超党派で中ロを脅威と見なすようになったことを受けて2022年4月26日、小野寺五典会長率いる自民党安全保障調査会は、日本も北朝鮮だけでなく、中ロの脅威に備える国家安全保障戦略を策定すべきではないかと提案した。

 この提案を踏まえて政府の国家安全保障局は、中ロの軍事的脅威についての分析を行い、その結果を9月30日、官邸に設置された「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」第1回会合において報告した。

 『安全保障環境の変化と防衛力強化の必要性』と題する報告によれば、中国の圧倒的な軍事力に対して現有の防衛力ではとても対応できず、抜本的な強化が必要だという。

 戦争は軍事バランスが崩れたときに起こりがちだ。そして日本周辺の軍事バランスは、中国が圧倒的に優位に立っていて、日中の差は今後、ますます開いていくことが判明したのだ。

 日本としてはオーストラリア、インド、イギリスなどの同志国を増やすことで中国を外交的に牽制しようとしているが、このままだと軍事力不足のせいで紛争を抑止できず、有事つまり戦争に巻き込まれるかもしれない。

 そこで岸田政権は「有事」に備えるべく9月22日、この有識者会議を設置した。その「趣旨」にはこう記されている。

《有事であっても、わが国の信用や国民生活が損なわれないよう、経済的ファンダメンタルズを<RUBY CHAR="涵養","かんよう">していくことが不可欠であり、こうした観点から、総合的な防衛体制の強化と経済財政の在り方について、検討する必要がある》

 有事、つまり戦争になったときに、アメリカを始めとする国際社会が味方してくれるよう《わが国の信用》を高めると共に、戦争になればウクライナのようにインフラを壊され、貿易も制限され、エネルギーや食糧・医薬品の不足から《国民生活が損なわれる》ことになりかねないため、その対策を今から検討・準備するのがこの有識者会議の「趣旨」なのだ。

 9月30日、第1回会議に出席した岸田首相も《有事であっても我が国の信用や国民生活が損なわれることを防がなければなりません》と発言している。会議の出席者からも《有事においても経済活動や国民生活の安定を維持していくには、機動的に財政出動できるよう、一定の財政余力を平時から保持しておく必要》という不気味な発言が飛び出している。

 戦争になれば、膨大な武器・弾薬、燃料などの戦費が必要になる。

 被災した国民のための医薬品、避難施設の準備を含めた衣食の提供も必要だ。そのために平時から財政余力、つまり戦費を準備しておく必要があると言っているわけだ。

 11月9日、第3回会議において佐々江賢一郎座長が提出した「議論の整理」でも、有事を想定した以下のような発言が記されている。

《有事における海外からの資金や資源などの安定調達が、日本にとり死活的に重要なことは明らか。もし、有事に物が手に入らない、円安進行でインフレが止められないといった事態になれば、国民生活がさらなる危機の渦中に追いやられ、国民の一体性が保てなくなりかねず、そうしたリスクを避ける備えは重要》

 国民生活を維持するうえで重要な物資が、有事になると手に入らなくなるかもしれない。よって事前に備蓄したり、生産施設を増やしたりしておかなければならないというわけだ。

 そこで2022年5月に制定された経済安全保障推進法に基づき岸田政権は、有事に際して供給が滞ると国民生活に支障が出る「特定重要物資」の選定を進め、11月16日、官邸で開かれた「経済安全保障法制に関する有識者会議」に対して、半導体、蓄電池、永久磁石、重要鉱物、工作機械・産業用ロボット、航空機の部品、クラウドプログラム、天然ガス、船舶関連機器、抗菌薬、肥料の計11分野を提示した。

 今後、民間企業がこれらの物資について設備投資や備蓄などの計画を作成し、所管大臣の認可が得られれば、企業は政府から資金支援を受けられることになる。

 岸田政権は既に令和4年度第2次補正予算案にその関連費用として1兆358億円を計上している。有事に備えて重要物資を備蓄したり、生産設備を増やしたりするよう民間企業に要請する代わりにその経費を政府が負担する仕組みだ。

 2023年、日本は戦争を抑止すべく同志国との連携を更に強め、防衛力を抜本的に強化するだけでなく、抑止に失敗した場合を想定して官民挙げて「有事」への備えを本格化させていくことになる。

 


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