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特集

「安定的な皇位継承」を可能にする具体的な方策を十分に検討し、現行典範の現実的な改正を実現することを考えるチャンネルです。

2023年11月6日号 週刊「世界と日本」第2256号 より

皇室・王室への無関心
英国より深刻な日本を盛り立てるには

 

関東学院大学教授 君塚 直隆 氏

《きみづか なおたか》

1967年東京都生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。93〜94年には英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジへ留学。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授を経て、2011年より関東学院大学国際文化学部教授。専攻は、イギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治、世界の王室研究。

 著書に、『立憲君主制の現在』(第40回サントリー学芸賞受賞)、『エリザベス女王』、『イギリスの歴史』など多数。17年より栄典に関する有識者(内閣府:現在に至る)、18年より国家安全保障局顧問(内閣官房:20年まで)などを務める。

 

 二〇二三年九月八日、英国のエリザベス女王が崩御して一周年を迎えた。これに先立ち、英国の調査会社(ユーガブ)が、「英国は将来も君主制を維持すべきだと考えるか」との質問を国民に対して行った。この結果、六二%が「維持すべき」と答えた。昨年九月の女王崩御直後(六七%)と比較しても、ほぼ同じような数値が見られたことになる。

 しかし年齢別の調査結果によると、「世代間の断絶」ともいうべき現象が見られるのだ。六五歳以上で「維持すべき」と答えた割合が八〇%であったのに対し、一八〜二四歳ではわずか三七%にとどまっていた。王室からの「若者離れ」とでもいえようか。

 

 これは二〇二〇年代にはいってから、アンドリュー王子の売春疑惑やハリー王子夫妻の王室離脱騒動などで、英国王室が揺れに揺れていることにも原因があるのかもしれない。またすべての世代から愛されたエリザベス女王の崩御も大きな影響を与えたことだろう。

 ところが同じくユーガブによる世論調査によれば、一八〜二四歳の若者世代が王室への関心を失い始めていたのは二〇一五年くらいからのことなのである。この翌年六月に英国はヨーロッパ連合(EU)からの離脱をめぐる国民投票を行い、僅差ながらも離脱が決定した。その後の議会内、英欧関係のゴタゴタは読者もご記憶であろう。これに加え、二〇二二年からのロシア・ウクライナ間の戦争の影響もあり、英国はエネルギー危機、物価高が止まらない状態である。こうしたあおりをすべて受けているのが若者たちなのだ。

 

 これまで国民から絶大な信頼を寄せられてきた英国議会や政府への若者たちの疑心暗鬼は、王室に対する不信にもつながっているのかもしれない。

 しかし筆者はこの問題をそれほど深刻にはとらえていない。英国の若者のあいだで王室に対する支持率が下がったのはなにも今回が初めてではない。それこそエリザベス女王が即位した一九五二年から、七〇年以上にわたってたびたび見られてきた現象なのである。

 むしろこのような「厳格な」世論調査が行われることのほうが健全なのかもしれない。

 

 翻(ひるがえ)ってわが国の皇室に対する世論調査を見てみよう。

 主要新聞やテレビ局などが行う調査では、英国で行われているように「国王を支持するか」「王室は存続すべきか」といったストレートな質問はいっさい行われていない。わが国で一般的に見られる質問は「皇室に親しみを感じるか」というきわめて曖昧な表現に終始している。

 上皇・上皇后陛下や現在の天皇皇后両陛下のように、まさに「国民に寄り添い」、穏やかな表情で人々に接しているお姿を拝見していれば、「親しみ」を感じるのが多くの人々の通常の感情ではないか。しかし「親しみを感じる」ことと「皇室(君主制)を支持する」ことは必ずしもイコールではない。皇室に親しみを感じていても、君主制には反対という意見を持つひとも少なからずいるであろう。

 

 確かに日本では、欧米のようなあまりにストレートな表現は好まれないかもしれない。しかしその割には、岸田政権に限らず、歴代の政府や国会運営のありかたについては、訊く側の質問はもとより、答える側の表現も実にストレートではないか。だからこそ政府もこのような国民の声を受けて、積極的な政策を進めたり、慎重な姿勢を示したりしてきた。

 英国の場合には、政府に対する世論調査はもちろんだが、王室に対してもかなり直接的な質問が国民に投げかけられ、それに正直に答える事例が多々ある。亡き女王はもとより、チャールズ現国王もこうした声に敏感に対応してきた。

 日本では今年の四月に宮内庁に広報室が新たに立ち上げられ、皇室や皇族に関する正確な情報発信を目指すとされた。ところが現実には、広報室はここ数年の皇族に対する報道に見られたメディアの「行き過ぎ」を抑えるために作られた部署のようである。SNSを活用して皇族のみなさまの日々の活動を広報するといった方針はいっさい見られない。

 洋の東西を問わず、皇室も王室もさまざまな問題を抱えているのは一緒である。しかしそれをどのように癒やしていくのかの手法が明暗を分けることもある。もともと「病(やまい)」を例にとれば、西洋医学は病原体を「抑える」ことが主であり、東洋医学はこれを「発散させる」ことが主となる。このため痛みを和らげるという点で即効性が見られるのは西洋医学であろうが、逆に抑えたことで病を悪化させる危険性もある。

 

 これに対して東洋医学では、痛みや腫れなどはすぐに引かないが、これをどんどん出して発散させることで、長期的には毒をすべて出し切ることには成功を収められる。

 「ダイアナ事件」(一九九七年)の影響もあり、一九九九年に行われた世論調査では、英国王室を維持すべきと答えた若者世代はなんと二五%を切っていたのである。そこで女王をはじめ王室は「広報が足りない」と、王族の活動をさまざまな媒体を使って喧伝(けんでん)し、若者をも含めた国民からの支持率も回復していった。近年の王室からの「若者離れ」についても、おそらくチャールズ国王やウィリアム皇太子などが対策を練るだろう。

 日本では、ストレートな質問に基づく世論調査が見られないため、国民が果たして皇室に対してどのように思っているのかがいまいちつかめない。むしろ若者の「皇室離れ」は英国以上に深刻ではないかと予想される。日本古来からの東洋医学と同様に、皇室に対する国民の感情を包み隠さず発散させ、それに基づいて皇室のありかたについてを抜本的に検討していくことこそが、これからは求められていくのではないだろうか。

 

 


2021年12月13日号 週刊「世界と日本」第2211号 より

皇室の危機要因と改善試案

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所客員教授 所 功 氏

《ところ・いさお》

昭和16年(1941)、12月、岐阜県生まれ。41年名古屋大学大学院修士課程修了。法学博士(慶応大学、日本法制文化史)。平成24年(2012)から京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授(現在客員教授)。  著書に『歴代天皇の実像』(モラロジー研究所)、『天皇のまつりごと』(NHK新書)、『象徴天皇“高齢譲位”の真相』(ベスト新書)、共著『皇位継承』、『元号』(共に文春新書)など。

 

 今春発行の月刊『世界と日本』1322号で「皇室永続に必要な特例補正案の要点」と題して管見を提示する機会があった。  それを上品な冊子状にしてくださったので、学界・論壇の知友に差しあげたところ、幸い建設的な御批評を頂いた。  さて、4年前制定の「皇室典範特例法」付帯決議に関する有識者会議は、ようやく今春から動き出し、私も「学識者ヒアリング」で管見を公述したが、10月の政権交替により先送り状態にある。

 

眞子内親王の異常な結婚強行の波紋

 しかも、その間に秋篠宮家の長女眞子内親王は、ICUで出会って、小室圭氏との婚約を強行するため、御両親にも国民多数にも十分な理解をえられないまま、10月26日に皇族を離れ、一国民として婚姻届を出された。

 それを女性の自立貫徹と評価するむきもあるが、より多くの人々から異例・異常な独断専行と非難されかねない現状に、私も慄然(りつぜん)としている。

 その波紋は他の皇族を巻き込む渦となり、皇室を危機に晒(さら)す荒波となる恐れがある。

 

危機の要因は典範の無理を放置したツケ

 けれども、これは既に「眞子さん」と呼ばれる個人の問題ではない。

 いま必要なことは、このような危機をもたらした根本の要因が、現行の皇室典範に含まれる無理な規定であることを、要路の人々が長らく放置してきたからだ、という事実に思い至り、そのツケを支払うことであろう。

 その無理な規定は、前掲拙稿にほとんど指摘したので繰り返さない。ただ、それを端的に言い直せば、憲法の定める「象徴世襲天皇制度」を支える皇族の確保を、現行法が困難にしているのだ。

 すなわち㋑皇位の継承者も宮家の相続者も「男系の男子」のみとするが、一夫一婦のもとで必ず男子を得られるとは限らない。

 その上、㋺皇族間の養子を禁じ、㋩皇族妻子が一般男子と結婚すれば皇室から出なければならないから、皇族は減少するほかない。

 

令和の内廷と宮家の維持に必要な改善案

 そこで、当面必要な改善案を再提示させて頂こう。この当面とは、現在61歳の今上陛下が、上皇と同じく86歳ころ皇嗣に譲位されると想定すれば、あと25年ほど続く「令和」の御代である。

 その皇嗣は、実弟の秋篠宮文仁親王(56歳)が実在されるから、当面この継承順位を変更する必要がない。

 ただ、文仁親王は25年後に81歳で皇位を継ぐことは難しい、と自ら語られたと伝えられている。もしそうであれば、長男の悠仁親王(15歳)と皇嗣を交替されるかもしれない(現行典範でも継承順位の変更可能)。

 それより先に検討を要するのは、現行法のままならば、悠仁親王の結婚相手に男子を授からないと、皇統が途絶えてしまう。これを避けるために、今後は男子を優先としながら、女子も公認しておく必要がある。

 さらに、それより早く検討してほしいのは、皇室で最も重要な内廷(本家)に居られる敬宮愛子内親王(20歳)が、御両親を一番身近で支えておられるが、結婚されても皇族として両陛下を支え続けうる法的措置を実現することである。

 これは愛子内親王が皇位を継がれるのではなく、次代にも叔父か従弟が即位されてからも、令和の両陛下から学ばれた体験を活かして新天皇を支え続けられるためである。

 また、宮家(分家)に男子がなければ、女子の1人が当家を相続できるような道も開いておく必要があろう。


2021年6月21日号 週刊「世界と日本」第2199号 より

「女性宮家創設」の発想は安易

万世一系の皇統の断絶を避けよ

 

ジャーナリスト・俳優  葛城 奈海 氏

《かつらぎ・なみ》

東京都生まれ。東京大学農学部卒業。ジャーナリスト。防人と歩む会会長。防衛省オピニオンリーダー。予備三等陸曹。予備役ブルーリボンの会幹事長。日本文化チャンネル桜、レギュラー出演中。産経新聞『直球&曲球』連載中。近著に『戦うことは「悪」ですか』(扶桑社)。

 

 延期を重ねていた、安定的な皇位継承策を議論する政府有識者会議が、3月23日、ようやく初会合を開いた。本稿を執筆している5月末までに5回の会合がもたれ、計17名の専門家らからヒヤリングが行われている。結論はまだ見えてきていないが、最大の焦点は、女系天皇を認めるか否かということであろう。

 

 本紙読者のみなさんには改めて説明するまでもないだろうが、皇統は今上陛下に至る126代すべて、父親の父親……と辿っていけば、初代神武天皇に繋がる家系(男系)で継承されてきた。これを万世一系という。歴史上には、8方10代の女性天皇が存在したが、その女性天皇もすべて父親を辿れば神武天皇に繋がる男系の女性天皇だ。女性天皇は天皇もしくは皇太子の未亡人、あるいは生涯独身を通された方ばかりで、在位中にお子様をお生みになられた方はいらっしゃらない。次に天皇となられる方が幼少である、または適任者が見つからない場合など、基本的に中継ぎとして即位であった。

 女性週刊誌などを中心に「愛子天皇待望論」が散見されるが、そもそも今上陛下から秋篠宮殿下、そのご長男の悠仁親王殿下までは既に皇位の継承順は確定している。よって、それを覆そうというのであれば、甚だ不遜な話だ。が、仮に、「愛子天皇」が即位されたとすると、愛子内親王殿下の父は今上陛下なので、男系の女性天皇となる。しかし、「愛子天皇」が一般男性とご結婚され、そのお子様が即位されたとすると、父親を辿っていっても神武天皇には繋がらないため、お子様の性別を問わず、歴史上初の「女系天皇」が誕生する。これは万世一系で続いてきた皇統がぷっつりと途絶えること、すなわち、王朝の交代を意味する。そのような事態を避けるために、「愛子天皇」に「結婚するな」「子どもを産むな」と言えるだろうか。現代社会において、それこそ、人権上も道義的にも言えないであろう。したがって、皇室典範第1条の「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」を、そのまま守っていけばよいという結論に至るのである。

 しかしながら、男性皇族の数は先細りし、今上陛下、秋篠宮殿下の次の世代になると、悠仁親王殿下お一方のみだ。これでは、将来において、悠仁親王殿下に男の子が生まれなかった場合、そこで皇統が途絶することになる。また、こんなことはあってはならないが、悠仁親王殿下の身に万が一のことがあったら、どうするのか。本来であれば、そのような事態に備えて、宮家が存在した。つまり、直系が男子孫に恵まれなかった場合に、傍系である宮家から男系の血を受け継ぐ男子が皇位を継いだのだ。

 歴史を振り返れば、皇統の危機は何度もあった。もっとも顕著な例として、第25代武烈天皇から第26代継体天皇までは10親等も離れている。応神天皇まで5代遡り、そこから5世孫のヲホドノオオキミ(継体天皇)を探し出して、京都から越前までお迎えにあがったのだ。そこまでしても、男系の血を受け継ぐことで皇位の正統性を維持・継承してきたのが、皇統の歴史であった。

 本家という主柱が危機に瀕したときに、それを支柱、竹田恒泰氏の表現を借りれば「血の伴走者」として支えるのが宮家の役割だ。

 その宮家が、悠仁親王殿下と同世代の男子がいなくなるまで先細ってしまった直接的な原因は、戦後まもない昭和22年、GHQによって旧11宮家が臣籍降下させられたことにある。皇室財産に莫大な税金がかけられたことから、昭和天皇の実弟である秩父宮・高松宮・三笠宮という直宮3家を除くすべての宮家が、そこで皇籍離脱した。したがって、皇統の危機を回避するためには、旧11宮家の中から相応しい方に皇籍復帰して頂くのがもっとも自然な流れであろう。というよりも、むしろ、他国の圧力によって変えさせられたものは、日本人自身の意志と手によって、元に戻していくことが、日本が真の意味で自立国として再生する第一歩になると私は思う。

 戦後70年以上も民間人として生きてこられた方が皇族になることへ抵抗を感じる人がいるのは承知している。しかし、皇籍復帰して頂く方は、何も成人である必要はない。むしろ、子供が養子として現宮家に入る方が、法整備上も皇室典範の一部を改正するだけで実現でき、ハードルが低い。旧11宮家には、賀陽宮家に2名、久邇宮家に1名、東久邇宮家に6名、竹田宮家に1名の20歳以下、つまり悠仁親王殿下と同世代の御子息がいらっしゃる。歴史を振り返れば、臣籍降下していた元皇族や、その子供が皇籍に復帰し即位した例はある。平安時代の第59代宇多天皇や、その子供である第60代醍醐天皇だ。

 こうした先例に学ぼうとせず、安易に「女性宮家の創設」を唱えるのは、いかがなものか。前述のように、宮家とはそもそも皇統の危機にあたって皇位を継承できる血統を存続させるためにあるのだから、それができないならば意味がない。逆に、女性宮家から皇位を継承させるようなことが起きれば、女系天皇が誕生し、万世一系の皇統は断絶する。個人名を挙げて恐縮だが、仮に眞子内親王殿下と小室圭氏が結婚し、その子供が皇位に就くことを想像すれば、言わずもがなであろう。

 客観的に見れば、日本の皇室の126代、初代神武天皇の即位から約2680年という古さは、世界でも群を抜いている。君主国の中で2番目に古いデンマークでも55代、1080年と半分以下だ。あれだけメディアにもよく登場する英国王室でさえ、40代、950年と千年に満たない。しかも、両国とも女系が容認されているため王朝は一系ではない。起源が神話にまで遡り、一度の王朝交替や断絶もなく万世一系で受け継がれてきた日本の皇室は、世界史的に見ても、まさに奇跡のような存在なのだ。

 私たちは万世一系の皇統という幹のもとに、神話から繋がる歴史・文化を連綿と紡いできた世界に類を見ない幸せな国民なのだということを心に刻み、有識者会議のメンバーには、真摯に議論を進めて頂きたいと思う。

 


2021年1月4日号 週刊「世界と日本」第2188号 より

昭和天皇との「佳話」

天皇こそ日本安定の要

 

外交評論家  加瀬 英明 氏

《かせ・ひであき》

1936年、東京生まれ。慶応、エール、コロンビアの各大学で学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。著書は『グローバリズムを越えて自立する日本』『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』ほか多数。

 

 私にとって昭和天皇の存在は巨大なものだった。皇太子として摂政宮となられてから68年にわたる、日本にとってもっとも困難な時代に国民と苦楽を倶にされたからだった。

 陛下はあの時代の大多数の日本国民と同じように、愚直なほど真面目であられた。最良の日本人を一身に体現されておられたから、慕われた。

 

 天皇皇后両陛下が、昭和46年にヨーロッパを行幸啓された。

 その時にお召機がアラスカに給油のために降りると、ニクソン大統領がアンカレッジまで出向いて、お迎えした。

 私はアメリカの友人と、帝国ホテルのバーのテレビで、天皇がアメリカ軍の儀仗隊を観閲されるのを見た。

 陛下の足はこびがぎこちなかったので、「古来から定められたテンノー・ウォークなのか」とたずねられ、咄嗟(とっさ)に「いや、お眼鏡の度が合わないのではないか」と、答えた。

 数日後に、偶然、入江相政侍従長と赤坂見付から浅草まで、地下鉄で乗り合わせた。すいていたので隣に座った。

 私はアメリカの友人との遣り取りについて話した。

 すると、入江侍従長が一瞬姿勢を正して、「いや、お上(かみ)があのようにお歩きになるのは、皇太子殿下のころから、一歩一歩、全責任をこめてお歩きになるからです。万一、お転びになったら、全国民が日本の将来に不吉なものを感じたでしょう」といった。

 私は昭和天皇の宸襟(しんきん)をお悩ませしたことがあった。

 入江侍従長が昭和60年に在職中に亡くなった後に、朝日新聞社から『入江相政日記』が出版された。

 私は昭和50年に、高松宮宣仁親王殿下のお話を伺って、月刊『文藝春秋』2月号に「高松宮かく語りき」という題で、殿下が戦前、戦中をどのように生きられたのか、寄稿した。

 私は37歳だったが、文藝春秋の常連執筆者だった。

 入江相政日記の同年1月24日(土)は、「〈略〉そのあと拝謁、文春二月号を持つていつていろくお話する。二十六日の御対面〈注・高松宮との〉の時にはお手やはらかにといふことゝ、西園寺〈注・公望(きんもち)、元老〉はルツソーなどの影響を強く受けてゐて、高松宮が言つたのよりづつと進歩的だつたと仰せになつたのなどがきつかけで、一遍(いっぺん)よくお話を承(うけたまわ)ることになる。『さうすれば気も晴れる』と仰有(おっしゃ)つた。」と、記されている。

 陛下が「高松宮かく語りき」に、強いご不満をいだかれたのだった。

 昭和51年「四月十九日(月) 拝謁。『皇族団欒』にはいろく誤りがある。一々言はないが、あゝいふことは止めること。寛仁さんについては、身をつゝしむやうにと仰有つてはと申上げる。『さうしよう』と仰有つてゐた。」

 私は高松宮、喜久子同妃殿下、秩父宮勢津子妃殿下、三笠宮家の寛仁親王殿下にお願いして、皇室について座談会を行っていただき、「皇族団欒」という題で文藝春秋昭和51年3月号に掲載された。私が司会をつとめた。寛仁親王殿下には若手の皇族として、参加していただいた。

 この座談会も、陛下のご不興をかった。

 「六月二十八日(月) お召で拝謁。〈略〉そして又文春二月号(注・「高松宮かく語りき」)のこと。いつまでもあとを引くもの。〈略〉」

 「五月二十七日(月)〈略〉拝謁。又いろく皇族団欒についての仰せ。」

 「十二月二十二日(月) 十時四十分お召し。この間からのお話の追加。それにもうすつかり済んだのかと思ってゐたのに、また高松さんのことを仰有つてゐる。大変なものである。〈略〉」

 「十二月二十七日(月) 年末所感。(注・前年)一月十日に文春の二月号が出て、それに皇族団欒とかいふくだらない座談会の記事が乗つた。秩父妃、高松宮同妃、寛仁さんといふ顔ぶれ。司会は加瀬英明。つまり高松さんがひとりで誇りか(ママ)にしやべつておられるだけ。巳に昨年の同誌二月号にも加瀬君が書いてゐるが、それも高松宮からうかゞつたやうなことが多く、それによれば御自分は根つからの平和論者であり、太平洋戦争を止めたのも自分であるといふ意味のことが書いてある。これがお上は非常にお気に入らず、実に数へ切れない程度々お召があつた。このやうなことであつたのでそれでは思召(おぼしめ)されることを何でもおつしやつていたゞいたら如何(いかが)か、それによつてさつぱり遊ばすのならとお勧めし、それはさうすれば楽だと仰せになるのですつかりうかゞふことにする。拝聴録計九冊と結語とがこれを動機として出来上つた。なほ明年もおつゞけいたゞかうと思ふ。」

 昭和52年「四月十二日(火)お召といふことで吹上(注・御住居)へ行く。又高松さんのこと。皆ごもつともである。〈略〉」

 入江氏は私が陛下の御不興をかったことを、ひと言も洩らさなかったので気づかなかった。

 それにもかかわらず、天皇が昭和64年に崩御されると、私は新宮殿で行われた殯宮伺候(ひんきゅうしこう)の1人として選ばれて招かれた。

 古来から「あらきのみや」「もがりのみや」といわれたが、宮殿の一室に白い天幕のなかに、お棺(ひつぎ)が安置され、十数人がひと組となって椅子に正座して、交替して1時間お守りする。

 私は瞑目しながら、陛下のお怒りが解けたと思って恐懼した。

 天皇と皇室はその歴史によって培われた精神文化から発する力によって、日本国民を束ねてこられた。

 天皇こそ日本の安定の要であってきた。

 天皇が歴史によって蓄えられた徳の力がなければ、昭和20年の夏に先の大戦を終えることができなかった。これからも日本は皇室を尊ぶことによって、纏まってゆこう。

 


2020年5月11日号 週刊「世界と日本」第2172号 より

女系天皇容認 歴史の断絶招く
認識せよ 「不易」なるものを

 

学校法人上野学園 理事長 上野 淳次 氏

《うえの・じゅんじ》

1944年広島市生まれ。1966年広島商科大学(現広島修道大学)商学部卒業。同年、広島会計学院を創立。現在、広島会計学院専門学校のほか、コンピュータ・ビジネス・語学・美容・公務員など7校の専門学校を運営する学校法人上野学園理事長。

 芭蕉の俳諧用語に「不易流行」という言葉がある。

 「不易」は継続性・永遠性・伝統・不変の真理を指し、「流行」は変化・時代や環境の移り変わりによって革新されていくことを意味する。分かりやすく言い換えるならば、「変わらないもの・変えてはならないもの」と「変わっていくもの・変化させるもの」といったところだろう。

 「不易」と「流行」とは、一見、矛盾しているようで、根本において結びついているものであり、芭蕉はこれらを風雅の体とした。

 不変のものをベースにその時代に応じて変化していくという姿勢は、俳句の世界だけでなく、大局的にあらゆることに通ずる概念である。

 現代は変化のスピードが速く、その変化に柔軟に対応する力が求められるが、それと同時に、大切に守り変化することのない基盤も存在する。その変えてはならない「不易」の最たるものは、歴史や文化である。

 昨年、わが国は約200年ぶりに天皇のご譲位による御代替わりが行われ、4月1日から新元号「令和」がスタートした。半年余りに亘り、皇位継承に伴う儀式や行事が執り行われ、伝統にもとづく古式豊かな儀式の様は、私たち日本国民のみならず、世界を魅了した。なぜならば、私たちはそこに崇高な「不易」を感じたからに他ならない。

 わが国の皇室は「万世一系」で、世界最古の歴史を誇る。「万世一系」とは、記紀(『古事記』『日本書紀』)で初代天皇とされている神武天皇のご即位から今上天皇まで、父方の系統(ファーザーズライン)で血筋がすべて繋がっていることで、実に2680年の歴史を紡ぐ。現存する世界中の国で、日本ほど長い歴史を持つ国はない。

 トランプ大統領率いるアメリカはわずか200年余り、中国は今の中華人民共和国が誕生したのが1949(昭和24)年で、わずか70年足らずだ。中国は4000年の歴史と言うが、易姓革命で王朝が入れ替わっており、民族も言語も異なる。最も長い王朝でも300年足らずなのだ。

 つまり、皇室の歴史は日本の歴史といっても過言ではない。政治学者の故・坂本多加雄氏も、「歴史は事実の羅列ではなく、民族生成の物語である」と箴言(しんげん)を残す。皇室の伝統は、私たちが守っていかなければならない「不易」なのだ。

 心配なのは、天皇のご譲位を機に、またぞろ皇位継承問題が起き上がっていることだ。 にわかに、新天皇の内親王殿下であらせられる愛子様が後代の天皇候補に急浮上してきたとマスコミが騒ぐ。

 皇室典範では天皇に即位できるのは、父方に天皇の血を引く「男系」の男性皇族のみに限られている。

 令和の皇室で、今上天皇より若い皇位継承者は、秋篠宮様と秋篠宮様の第一男子である悠仁様のお二人となり、皇位継承者の先細りを危惧したようだが、マスコミは世論や憲法に照らして、女性天皇容認に肯定的な報道が目立つ。

 以前、小泉政権下でも皇位継承をめぐって女性天皇論が活発に議論されたことがあるが、平成18年9月に悠仁親王殿下がお生まれになられたことでその熱はおさまった。

 この期に及んでこの問題を蒸し返すのは、日本の皇室の伝統を壊そうとする一部の反日主義者の陰謀ではないかとさえ思える。女性宮家創設や愛子様に皇位継承を望む「愛子天皇擁立論」は、皇室典範の皇位継承を覆し、秋篠宮家を廃嫡するということを意味する。

 ちなみに、「女系天皇」は皇室史上これまで一度もないし、そういう言葉も存在しない。「女性天皇」は、皇位系統史上で8人(10代)が即位されている。即位されたいずれの「女性天皇」も男系であり、父親の系統を辿れば初代の神武天皇に繋がる。

 しかし、その「女性天皇」の子供(親王・内親王)が天皇に即位したケースは一度もない。後継は必ず父系の皇族が即位されている。

 皇位継承が男系に限ることを、女性蔑視だと意見する人もいるようだが、全く逆だ。よく考えればわかることだが、上皇皇后陛下の美智子様も今上皇后陛下の雅子様も民間から皇室にお輿入れされた。つまり、民間人から皇族となられたのだ。

 しかし、男性で民間人から皇族になった人はいない。男系継承とは、女性を締め出す制度ではなく、むしろ男性を締め出す制度なのだ。民間の女性は皇族との結婚で皇族となる可能性があるが、民間の男性が皇族になる可能性は100%ない。

 これまでも皇位継承の危機はあり、例えば第119代光格天皇にいたっては、先代の後桃園天皇とは2親等以上も離れた傍系だった。第26代継体天皇にいたっては第15代応神天皇の5世孫にあたる。

 このように直系のみに限らず、親戚の親戚など傍系に及んでまで男系の血統を守り抜いてきたのであり、現在の2680年に及ぶまで系統を貫徹された世界最古の血統であるということを重く捉えなければならない。

 昨年秋ごろに行われた世論調査によると女系天皇容認派が80%を超えたというが、その中で女性天皇と女系天皇の区別ができる人は半分にも満たない。女性天皇と女系天皇の違いや、2680年におよぶ皇統の歴史を理解していないまま、安易に「愛子天皇」を希望することは、わが国の歴史を途絶えさせる危険を孕んでいる。

 これらのことを踏まえたうえで皇室典範を変えようというのが国民の総意であれば、それは致し方のないことで日本の運命だろう。

 しかしながら、理解していないまま決めることは、後からわかったときにはもう取り返しがつかないのだ。単に皇室の「万世一系」の血筋が途切れるというに止まらず、日本人が民族としての精神的な根源を失ってしまうことになる。

 日本の歴史と日本語がわからない占領軍の素人が作った憲法など変えなければならないものを変えないで、いかに民主主義で選ばれた国会議員であろうと、変えてはならない2000年を超える世界最古の王朝の歴史と伝統、日本民族生成の「物語」を終焉させる権利はない。

 


2020年2月3日号 週刊「世界と日本」第2166号 より

「日本」それは君民一体の国
皇統を守ることが我々の責務

 

ジャーナリスト・俳優 葛城 奈海 氏

《かつらぎ・なみ》

東京都生まれ。東京大学農学部卒業。ジャーナリスト。防人と歩む会会長。防衛省オピニオンリーダー。予備三等陸曹。予備役ブルーリボンの会広報部会長。日本文化チャンネル桜、レギュラー出演中。産経新聞『直球&曲球』連載中。近著(共著)に『大東亜戦争 失われた真実』(ハート出版)。

 我々国民が気付くか気付かないかに関わらず、天皇陛下は、常に「国安かれ、民安かれ」と祈ってくださる存在である。「内閣総理大臣の任命」や「国会の召集」、「国賓へのご会見」なども確かに陛下のお務めであろうが、一番大切なのは、祈りによって国民を包み込んでくださる存在であることだろう。

 

 竈(かまど)に立ち上る煙がないことから民の生活を案じ、税を免じた仁徳天皇、貞観(じょうがん)の大地震の際に「責任は深く自分にある」とされた清和天皇、日清戦争時代、出征中の兵士を思い、広島の大本営で暖炉を使わなかった明治天皇など、歴代天皇が民を思うエピソードには枚挙に暇がない。

 元旦の四方拝では、「盗賊、毒、危難、害などあらゆる禍が国民にふりかからずわが身を通過しますように・・・」と祈りを捧げてくださっている。まさに親が子を思うがごとく、国民を「大御宝」として大切にしてくださるご存在を、国民もまた敬愛し、天皇と国民が「君民一体」となった国柄を受け継いできたのが、私たちの国「日本」なのである。

 昨年11月の「天皇陛下のご即位を祝う国民祭典」では、皇居前に集った3万人によって、「天皇陛下万歳」がいくたびも繰り返された。

 その場にいた私も、天皇という存在を中心に同時代の人とも過去や未来の人ともひとつになれる日本人であることへの、いいようのない喜びを感じた。「天皇陛下万歳」は、同様の思いを抱いた参列者から自然発生的に沸き上がった国民感情の発露であったように思う。

 そんなかけがえのないご存在である歴代の天皇は、今上陛下に至る126代すべて、「父親をたどっていけば初代・神武天皇に繋がる血統」、つまり男系で受け継がれてきた。これを、万世一系という。

 その皇統を巡って、憂慮すべき事態がある。産経新聞社とFNNの合同世論調査(11月中旬)によると、「女性天皇に賛成」が78.4%、「女系天皇に賛成」が61.7%に上る一方で、「女性天皇と女系天皇の違い」は、5割超が「理解していない」というのだ。

 歴史上には、10代8方の女性天皇が存在したが、次の天皇となるべき方が幼少であったり、なかなか決まらなかったことによる中継ぎとしての即位であった。

 どの女性天皇も、未亡人もしくは生涯独身を通され、在位中にお子様をお生みになることはなかったため、女系天皇(父親をたどっても神武天皇に繋がらない天皇)は存在していない。仮に愛子さまが天皇になられたとすると、父親は天皇なので「女性天皇」だが、愛子さまが一般男性とご結婚され、お子様が即位されたとすると「女系天皇」となり、これまでとは全く異なる皇統になる。

 極端な場合、父親が外国人、天皇が混血という事態も起こりうるのだ。果たして、そのような天皇に私達は、「天皇陛下万歳」と言えるのだろうか。悠仁さまと同世代の男性皇族が他にいないからと、曖昧な認識のままに女系天皇をよしとすることは、これまで連綿と受け継がれてきた万世一系の歴史の断絶を招く重大事なのだ。

 女性宮家も同様で、例えば、真子さま、佳子さまといった女性皇族との結婚で一般男性が皇族となれば、そのお子様は女系となる。

 宮家とは、本来、直系という主柱から男子が絶えたときに、傍系から男子を迎えて皇位を継がせるための支柱、竹田恒泰氏いうところの「血の伴走者」だ。女性宮家を認めることは、その大前提が変質し、やはり「女系天皇」への道を開くことになる。

 こうしたことは、現代の学校教育では全く教えられないため、多くの人が正しい知識を持たないのも無理はない。そもそも、そのようにしてゆるやかに国体を破壊し、日本を弱体化させることが戦後GHQによって進められたWGIP(War Guilt Information Program/戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)の目的であった。

 戦後、宮家の数が大幅に減じたのも、皇室財産没収により昭和22年に11宮家(伏見、閑院、久邇、山階、北白川、梨本、賀陽、東伏見、朝香、竹田、東久邇)が皇籍を離れたことが直接的な原因だ。その背景に、皇統を先細りさせることによって、将来的に断絶させようとする意図が透けて見える。こうしたことは、すべてしたたかに水面下で進められたため、当然ながら、GHQの意向に沿った戦後教育を受けただけの国民は知らないのである。

 大切なのは、知らない人を責めるのではなく、「知った人間」が、噛み砕いてわかりやすく伝えることで、同様の危機意識を持つ仲間を増やしていくことであろう。それはすなわち、GHQによる洗脳政策から覚醒した日本人を増やすことでもある。戦後レジュームからの脱却に欠くことのできない、重大な意味を持つ一歩でもあるのだ。

 歴史を振り返れば、皇位継承をめぐる危機は何度もあった。しかし、先人たちは、何代も遡り、男系の血を受け継ぐ傍系から適任者を探し出して皇統を維持した。

 もっとも顕著な例では、25代武烈天皇から26代継体天皇までは10親等も離れている。系図を応神天皇まで5代遡り、そこから5世の孫を探し出し、大伴金村が越前まで迎えに行った。その後も、48代称徳天皇から49代光仁天皇までは8親等、101代称光天皇から102代後花園天皇までも8親等、最後に、118代後桃園天皇から119代光格天皇までは7親等離れている。

 困ったときには、先人に学べばよいのだ。そして、現行法でそれが実現できないのであれば、それを変えていけばよい、いや、他国の圧力によって作られたものは、日本人自身の手であるべき姿に変えるべきなのだ。

 あるべき姿とは、現在、政府と国会が進めようとしている皇室典範の改定に際し、女性宮家や女系天皇を容認する一切の加筆修正を阻止することと、旧11宮家の中で男系の子孫がおられる然るべき方々の皇籍復帰を実現することに他ならない。

 子々孫々に至るまで、心から「天皇陛下万歳」と言える日本を受け継ぐことは、先人たちから受け継いだバトンを担って今を生きる、我々の責務でもある。

 


2020年1月6日号 週刊「世界と日本」第2164号 より

天皇は男女を超えた高貴な祭り主
正確な認識の議論が必要

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所教授 所 功 氏

 御代(みよ)替りの重要な儀式・行事が、盛大かつ厳粛に実施されたことは、国民の一人として慶びにたえない。それに前後して「皇室典範特例法」の付帯決議で国会から政府に求められている「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」に関する議論が始まった。その中には、傾聴すべき高説も少なくないが、誤解に基づく観念論も散見する。

 たとえば、「産経新聞」昨年十二月二日号に掲載された新田均氏(皇学館大学教授・61歳)の「古代人は『男系』=『祭り主』」には、いささか驚いた。同氏は『近代政教関係の基礎的研究』で神道学の博士号を取得した研究者であり、「神道政治連盟」の政策委員なども務めているから、斯界への影響力が大きいと思われるので、あえて問題点を指摘する。

天皇は氏姓を超えた格別な存在

 新田氏「日本には『血筋』に関して二つの考え方がある。・・・“氏”という考え方・・・“家”という考え方だ。憲法の皇位の『世襲』は前者のことだ」という。

 しかし、これは古代史の研究成果と異なる。日本の天皇は、列島国内の統一過程で諸豪族の王を統合した唯一最高の「大王」(おおきみ)と国内外から公認されるに至った。その成立時期には諸説あるが、私は三世紀前半と推定できる第十代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)から、五世紀中頃と確認できる第二十一代雄略天皇(オホハツセワカタケルノミコト)までの間あたりと考えている。

 その天皇・皇室には、臣民(有力な諸臣と一般の諸民)と異なり、「氏」(氏姓)も「家」(名字)もない。なぜなら、唯一最高の大王=天皇は、服従した諸臣に対して各々の職掌や所縁の地名に由来する氏の名や朝廷内の秩序種別を示す姓(かばね)を下賜する立場にあり、その格別な地位が古来一貫しているので、ご自身がそれを必要とされないからである。

 諸臣に下賜された「氏」の観念は、古代中国に由来する。彼らの氏は、父系絶対の血縁集団である姓から派生した父系集団の名称であり、のち氏も姓も同義となる。その氏姓では、父系の同姓不婚・異姓不養の原則が固守され、異姓の女子は結婚しても夫君の氏姓に入ることができない。そうした氏姓観念が日本に導入されたので、諸臣の氏族系譜では、父系(男系)を絶対視する慣習が定着するに至った。それが、諸臣の上に立つ天皇・皇室(皇統)の具体的な継承にも影響を与え、歴代の皇位が全て男系で殆ど男子により継承されてきた歴史的な事実は、重く受け止めなければならない。

 しかしながら、天皇の「世襲」を「“氏”という考え方」で論断することは、不正確不適切といわざるをえない。

 ちなみに、古代史家の吉村武彦氏(明治大学名誉教授・73歳)は「王(皇帝)もまた氏族に属していた中国とは異なり、日本では氏の名やカバネを賜与するのは王(天皇)である。こうした氏姓秩序をヤマト王権がつくったので、王(大王=天皇)自体が、氏の名を称することはなかった。王はいわば氏姓関係から超越した存在であった」(『蘇我氏の古代』岩波新書、平成二十七年)と説いている。

 また、一般の家は有力な氏から分かれて出来た例が多い。その家の名(苗字)は、ほとんど中世以降に成立するが、氏の名と異なって「下から自然発生的に成立した」「本来的には私称する名」「決して血族名ではない」とみられる(坂田聡氏『苗字と名前の歴史』〈吉川光文館、平成十八年〉所引の加藤晃氏論文解説。久禮旦雄氏の示教による)。従って、天皇・皇室の在り方は一般的な家の概念では論じえない。

天皇は俗性を超えた至高の存在

 新田氏「古代人は父系(男系)によって『祭り主の血筋』が伝わると考えた。記紀には天皇が祈ってもおさまらなかった疫病が、大物主の男系子孫が祈ったところおさまったという話がある。古代の感覚では神との父系のつながりがなければ祭り主としての資格は持ち得なかった。ゆえに天皇の祖先祭祀も皇統という父系以外は務まらないと考えられてきた」という。

 しかし、これは、理解困難な解釈である。論拠にあげられた「話」は、『古事記』の中巻にも『日本書紀』巻五にもみえる著名な伝承である。念のため、後者の書き下し文を抄出すれば、崇神天皇五年「國内に疾疫多く、民死亡する者有り、且大半」に及んだので、翌六年、従来「天照大神・倭大國魂(やまとのおおくにたま)の二神を、天皇の大殿(当時は磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや))内に並び祭」ってこられたが、神の勢ひを畏れられ、「天照大神を以て皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託(つ)けて倭の笠縫邑大神(かさぬいむらおおみわ)神社近く)に祭る。・・・亦、日本大國魂神を以て(皇女)渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託けて祭らし」められた。

 つまり、古来大王=天皇ご自身が宮殿内で皇祖神と地主の神を祀っておられたが、神威を畏れられ、上記の二神を皇女二方に託して殿外に祭らしめられたのだから「祭り主」の役割は天皇だけではなく皇女にも分担せしめえられたのである。

 ところが、渟名城入姫命は地主の神を祭ることが難しくなった。その後、あらためて崇神天皇は「大田田根子命(おおたたねこのみこと)(大物主の子)を以て大物主大神を祭る主と」し、また「市磯長尾市(いちしのながおち)(大倭氏祖)を以て倭大國魂神を祭る主とすれば、必ず天下泰平ならん」との「夢の辞」を受け、各々に祀らしめられたと伝えられる。

 つまり、神武天皇の東征以前から倭(大和)の広域を治めていた勢力(三輪氏など)の奉ずる地主の神は、在地の縁者を「祭り主」とすることがふさわしい、という古伝承であるが、ここから「古代人は父系(男系)によって『祭り主の血筋』が伝わると考えた」というような結論を導きだすことは難しい(男系女系以前に祖先の縁者であることが重要)。

 ちなみに、皇位継承に伴う即位式の礼服は、千三百年有余年前から唐風で男帝・女帝を区別するが、大嘗祭の御祭服には男帝女帝の別がなく古来の白い御装束である。祭祀を掌る天皇は、男女を超えた至高のスメラミコト(澄る命)にほかならないと思われる。

 


2019年6月17日号 週刊「世界と日本」第2151号 より

昭和天皇 そのご動静と苦悩
御聖断の故の終戦

 

外交評論家 加瀬 英明 氏

《かせ・ひであき》 1936年、東京生まれ。慶応、エール、コロンビアの各大学で学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。著書は『グローバリズムを越えて自立する日本』『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』ほか多数。


 私は先の大戦の最後の年の昭和20年の元日の夜明けから、対日占領が終わった1年前にマッカーサー元帥が罷免され離日するまでの昭和天皇のご動静を、『週刊新潮』に連載した。これは昭和49年5月から50週にわたって掲載された。天皇を囲んでいた皇族、政府・軍幹部、侍従、身のまわりをお世話する内舎人(うどねり)、祭祀を介添えする掌典(しょうてん)、巫女の内掌典など160人以上に克明なインタビューを行い、執筆したものである。

 空襲が激しくなるなか、天皇が皇居でどのように過されていたのか、徹底抗戦を叫ぶ軍と、現実との和戦の狭間(はざま)に立たれて、どのように苦悩されたか。連載が始まると、知られなかった真実があきらかにされたために、大きな反響を呼んだ。
 また、海軍軍令部に勤務されていた高松宮殿下が、開戦翌年に海軍がミッドウェー海戦で主力の機動艦隊を失った直後に、「兄宮」(天皇)に宛てて、「この戦争に勝てない」と私信を届けられた秘話を伺って書いたが、殿下がそれまで語られることがなかったので、大きな話題となった。
 昭和天皇は弟宮と会われても、その職責にない者の意見を、取り上げられなかった。
 昭和天皇は私たちとまったく違う時間の尺度を持っておられた。日本を2000年以上にわたる物差しで、考えておられた。
 昭和20年に戻ろう。天皇は軍がまだ勝利を収めることができると、信じられていた。
 2月に近衛文麿公が拝謁して、「日本は戦争に敗れた。今降伏しないと共産革命が起る」と上奏すると、「もう一度戦果を挙げたうえでないと難しいと思う」と、仰言せられた。
 天皇は幼少時から、乃木希典大将、東郷平八郎元帥などの薫陶を受けられて、軍を信頼されていた。梅津美治郎参謀総長が皇居内の防空舎に連日参内して、フィリピンにおける戦況を地図をひろげて上奏すると、「それで大丈夫か。兵站(へいたん)はどうなっておるか」と鋭く指摘されたが、命令されることはなかった。
 硫黄島が失陥し、4月に米軍が沖縄本島に上陸した6日後に、鈴木貫太郎海軍大将に組閣を命じられた。鈴木は木戸幸一宮内相から陛下が「終戦を考慮あそばしておられるように拝察する」ときかされた。
 天皇皇后は御住まいを兼ねた防空舎の御文庫で、しばしば夜、侍従、侍従武官、女官などを招かれて、かるたを楽しまれた。侍従武官が「夜ハ謡かるたノ御相手ニ興ズ。賑ヤカニ遊バサル」と、日記に記している。
 天皇は懊悩されていた。「あのあの」とか、「どうもどうも」とよく独り言をいわれ、朝晩歯ブラシをくわえられたまま、注意申し上げるまで呆然とされておられた。
 5月に木戸と連合国の和平条件について相談され、「和平は早いほうがよい。だが、鈴木は講和の条件についてどうも弱い。軍の完全武装解除について、何とか三千人か五千人残せないか」と仰言られた。木戸が「五千人残しても、有名無実です」とお答えした。
 7月に入ると、天皇は伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)と、熱田神宮にある草薙剣(くさなぎのつるぎ)が米軍に奪われることを、憂慮された。三種の神器のもう一つである勾瓊(まがたま)は、皇居にあった。天皇は木戸に、「万一の場合は、自分がお守りして運命を共にするつもりだ」と、いわれた。
 昭和天皇は、いつ終戦を決意されたのだろうか?
 天皇は前年10月に靖国神社の例大祭に御幸されたのを最後に、東京空襲が始まったので、皇居から出られなかったが、3月10日に東京大空襲によって十万人が死亡したと推計されると、被災地を視察されたいといわれた。
 軍は「一億玉砕」の本土決戦を決めていたから強く反対したが、3月18日に皇居を出られて、1時間以内に往復できる深川の富岡八幡宮に御幸された。
 天皇は神社の境内から四囲の焼け野原を見入られて、「こんなに焼けたか・・・」と絶句され、御料車へ促されるようにして戻られた。私は天皇がこの時に、終戦を決意されたにちがいないと確信した。だが、私の推測でしかなかったので、そう書くことができなかった。
 富岡八幡宮の大鳥居を潜ると、伊能忠敬の銅像がある。忠敬はここで成功祈願を行ってから、全国測量の第一歩を踏み出した。
 私は忠敬の玄孫(やしゃご)に当たるので、“江戸の三大祭”といわれた富岡八幡宮の例大祭が江戸時代を通じて、8月15日であることを知っていた。天皇が終戦を決意され、例大祭の日に大戦が終わったのは、御祭神の神威によるものだったと考えたが、これもオカルトのようだったので書けなかった。
 天皇はこの後空襲を恐れて、終戦まで皇居の外にお出になられなかった。
 8月に終戦を決定した御前会議が開かれ、天皇は「ほかに意見がないようだから、わたしの意見を述べる。わたしは国内の事情と世界の情勢を考え合せたうえで、これ以上、戦争を続けるのは無理だと思う」と仰言せられて、御聖断を下された。天皇は白手袋の指先で、頬を伝わる涙をしきりに拭われた。
 天皇は阿南惟幾陸相が号泣しているのを見られて、「阿南、阿南! わたしには国体を護る自信がある」と叫ばれた。
 軍人は天皇と軍が一体だと、信じていた。「特攻隊の父」といわれた大西瀧治郎軍令部次長をはじめ、「天皇は先頭に立たれず、皇居で女官と遊んでおられる」と批判する高級軍人がいたが、天皇は日本の最高祭司であられて、武家の棟梁ではなかった。
 貞明皇太后は御前会議の決定を知られると、かえって「皇室が明治維新の前に戻るだけのことです」と、毅然としていわれた。
 歴史によって蓄えられた天皇の大きな力なしに、昭和20年夏の未曽有の危機に当たって、大戦を終えることができなかったろう。
 (この連載は3月に『昭和天皇の苦悩』『昭和天皇の苦闘』に分けて、勉誠出版新書として復刻された。)

 

2019年6月3日号 週刊「世界と日本」第2150号 より

帝室は社外のものなり
福澤諭吉の中の天皇

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『決定版・脱亜論  今こそ明治維新のリアリズムに学べ』など多数。


 福澤諭吉の文章は、当代のいずれの論客に比べても抜群に豊かな表現力に満ちている。福澤の天皇論は、氏の文章のあちらこちらに散見されるが、本格的にこれを主題として論じたものが『帝室論』である。福澤自身が創刊した日刊紙「時事新報」の明治15年4月26日付から5月11日付まで12回にわたって掲載され、後に一書にまとめられたものである。近代社会における天皇と皇室のあり方を縦横に論じて、しかし重要な論点を逸することがまったくない。
 大日本帝国憲法が明治22年に公布され、第一回総選挙が翌明治23年に実施されることになった。国会が開設され、かつ総選挙が行われれば、国民はそれまでとは異なって自由を存分に謳歌できる、薩長藩閥政治の重苦しい時代からも解き放たれる、という期待感が社会に充満していた。
 この時期の社会思潮の中に身をおいて、福澤はかかる状況では天皇と皇室が政治利用されかねない、という深い危機感を抱くにいたったのであろう。本格的な帝室論を執筆すべきはこの秋(とき)だ、という切迫した気分が文章の端々から伝わってくる。私のつたない解説はできるだけ避け、福澤の言説そのものに目を落とすことにしよう。
 「帝室は社外のものなり。苟(いやしく)も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其(その)主義において帝室の尊厳と其神聖とを濫用(らんよう)す可(べか)らず」という一文からこの著作は始まる。というより、この最初の一文が論説のすべてを凝集しているといっていい。
 国会開設と総選挙の実施が交付されて以来、政党の議論がさまざまな問題について沸騰しているが、「抑(そもそ)も政党なるものは各自に主義を異にして、自由改進と云ひ保守々旧と称して互に論鋒(ろんぽう)を争ふと雖(いえ)ども、結局政権の授受を争ふて己れ自から権柄(けんぺい)を執(と)らんとする者に過ぎず」
 次いでこうもいう。
 「抑も一国の政治は甚(はなは)だ殺風景なるものにして、唯(ただ)法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、其約束に従ふ者はこれを許し、従はざるものは之を罰するのみ。畢竟(ひっきょう)形態の秩序を整理するの具にして人の精神を制する者に非(あら)ず」
 福澤はここで一国の政治というものは、所詮は法律を制定・交付し、人民をしてこれに従わせるという、つまりは形態の秩序を作り出すことだけを任務とする、そういう実に「殺風景」なるものだという。
 法律を制定・公布するだけで「社会の衆心の収攬(しゅうらん)」が可能かといえば、そう簡単なことではない。衆心収攬のためには、形態だけではなく、何より精神を欠かすことができない。精神を収攬するものが帝室に他ならない、というのが福澤の主張のポイントである。
 そして、帝室が国民精神を収攬するためには、帝室が「政治社外に在るに非(あら)ざれば行はる可(べか)らざる事なり」といって、帝室論の冒頭の一文に返る。
 さらに、福澤は論をこう進める。すなわち、政治とは政事のことごとくに対応してこれを処理し、社会の外形的秩序形成に資するものであるが、他方、「帝室は直接万機に当らずして万機を統(す)べ給ふ者なり」という。
 天皇や帝室などは、これが存在せずとも別に不都合はないといった考えをもつ人もいようが、思いちがいもはなはだしいと福澤はいう。
 「精神と形態と孰(いず)れが重きや。精神は形態の帥(すい)なり。帝室は其帥を制するものにして、兼(かね)て又その形態をも統(す)べ給ふものなれば、焉(いずく)んぞ之(これ)を虚位と云ふ可(べ)けんや」
 ここは少し読みづらいところかもしれないので、現代文に直しておこう。
 “精神と形態のいずれが重要か。精神こそが形態を定めるものである。帝室はまぎれもなく形態の中心に位置し、形態の全体を一つにまとめる役割をもつ。どうしてこれを虚位などということができようか”
 元号が平成から令和に変わった。この慶事に国論が湧いて、久方ぶりに日本人の多くが幸福感に浸っているかのように感じられる。なぜ改元が国民に幸福な感覚を呼び覚ますのか。この一事を考えてみるだけでも、「あゝやっぱり私どもの心底には天皇というものが大いなる存在として潜在しているのだ」という認識に改めて誘(いざな)われるのではないか。
 天皇は日本の長い歴史の中で権力とは無縁の存在であったが、それがゆえに高い権威をもって日本の社会と文化の「帥」でありつづけた。永遠にそうありつづけて欲しい。
 福澤の帝室論の最初の一文をもう一度を掲げておこう。いまなおまったく風化していない明治15年の文章である。
 「帝室は社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其主義において帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らず」

 

2019年5月6日・20日号 週刊「世界と日本」第2148・2149合併号 より

昭和から平成まで
天皇と皇室報道の変遷

 

株式会社テーミス 代表取締役社長 伊藤 寿男 氏

《いとう・としお》 昭和9年(1934)、静岡県生まれ。早稲田大学卒業後、講談社に入社。
『月刊現代』『週刊現代』『FRIDAY』編集長を経て取締役に。この間、日本雑誌協会編集委員会副委員長、取材委員長、雑誌記者会幹事長を務める。退社後、(株)テーミスを設立し、1992年に『月刊テーミス』を創刊。現在に至る。著書に『新マスコミとつき合う法』など。


連ねられた尊崇の言葉

 昭和に続き平成が終わったいま、その間の天皇陛下と皇室を巡るメディアの報道はどう変わったか。
 昭和20年8月15日までは陛下と皇族への尊崇を示す最大級の言葉が連ねられていた。
 それが終戦後一変して、平易な言葉が使われるようになったが、それでもこと陛下のことになると制約や自粛がされていた。新聞と唯一の放送局だったNHKのときは、宮内庁の発表する公式的事象が中心だった。それが民間放送の出現と週刊誌の跳梁によって、皇室を巡る芳しくない事件が報じられるようになったが、まだ注意と配慮は並み大抵ではなかった。
 戦後、まだ活字を1つずつ拾っていた時代、ある新聞が「天皇階下」としてしまった。すでに刷ったものを廃棄したことは勿論だが、以後は「天皇陛下」という4文字をひとつにまとめた特注の活字を作ったという。しかしその後、ある週刊誌が「天脳陛下」と誤植したため、慌てて回収したこともある。これはワープロの変換ミスだが、戦前はもちろん戦後も皇室を巡る報道では、国民の一部からの「不敬だ」という直接行動を伴った批判を恐れていたのである。
 戦前の小学校(戦中は国民学校)にあった陛下の写真を飾った奉安殿が火事で焼けたとき、校長が責任を感じ自殺したこともある。群馬県桐生市へ行幸したときは先導車の警官が予定の訪問先を1カ所外し、そのため陛下の車が一時行方不明となる大騒ぎがあった。当時の首相が宮内庁に陳謝するだけでは収まらず、警官が責任を痛感し自殺してしまった。
 これらを当時の新聞は賞讃こそしなかったものの、「責任を取った」と肯定的に報じたものだった。戦前の皇室報道は内務省(当時)と宮内庁の厳しい管理下にあった上に、一部の国粋団体が言葉遣いや表現を発見すると、強く抗議することがあったからである。

GHQ制約下の皇室報道

 それが昭和20年8月15日で一変した。それを端的に示す報道をあげよう。大正天皇と昭和天皇の崩御を伝える記事である。
 大正天皇の場合、大見出しが、「聖上崩御」であり、続けて「寶(ほう)算四十八歳に渡らせ給ふ」さらに「赤子の祈りも遂に空し」と最大級の敬語で伝えている。
 これに対し昭和天皇となると、「天皇陛下崩御」であり、年齢も病気も「87歳、十二指腸がんで」と平易な表現で報じた。天皇報道の戦前と戦後の明確な違いがここに表れている。では戦後は全く自由な報道が出来たかというと連合軍総司令部(GHQ)の管理下で、検閲や報道禁止が彼らの意志や都合で行われていたのである。
 戦後の国民に衝撃を与えた写真がある。連合軍総司令官だったマッカーサー司令官(以下、マ司令官)を天皇が訪問し、2人が並んだ写真が新聞に大きく掲載されたのである。マ司令官は戦勝国のトップとして厚木飛行場に降り立ったときの服装のまま、一方、天皇は正式なモーニング姿だった。背の違いもあって戦勝国と戦敗国の姿をまざまざと見せつけるような写真だった。
 この写真の掲載もGHQの指示によるものだったし、戦後まもなく始まった天皇の地方巡幸の様子を報じさせたのも同じだった。唯一の放送局だったNHKは国民に話しかける天皇の肉声をそのまま放送させられた。
 それは「人間宣言」した天皇の実像を伝える効果はあったが、天皇が発する「あっ、そう」は一種の流行語にもなった。GHQは日本統治に利用するために天皇戦犯論を排し、地方巡幸を奨励し報道させたのだった。
 その一方で、食糧難に不満を募らせた群衆が皇居に押しかけ「汝ら人民飢えて死ね、朕(ちん)はたらふく食っている」というプラカードを掲げたデモの模様や文言は自由に報道させたのだった。講和条約締結まで皇室報道はGHQの制約の中にあったといえよう。

問われる今後のメディアのあり方

 昭和35年頃まで天皇報道はもちろん皇室を巡る情報は大新聞とNHKによってほぼ独占されてきた。民間放送は大新聞がバックだから、彼らも加わった宮内庁記者会が、皇族の記者会見なども仕切ってきた。
 私が日本雑誌協会雑誌記者会幹事長だった40年前、雑誌代表も記者会見に参加したいと宮内庁の総務課長に申し入れた。そのとき記者会幹部が総務課長が言質を与えないよう面会している席の周囲をうろついていたものだ。その数年後、やっと記者会見に雑誌代表も出席できるようになったが、記者クラブの閉鎖性と既得権に縋る姿は「報道の自由」とはほど遠いものだった。
 新聞やNHKは天皇の公式行事や皇族の記者会見などは報じるが、不祥事に関してはタブー視している。それを破ったのが民間放送の情報番組であり、週刊誌である。
 昭和天皇や平成の天皇の国民に寄り添う姿勢や行動は尊崇に値する。平成の天皇・皇后両陛下が戦没者の霊を弔い、災害の被災地や地元の被災者を見舞う姿は国民の心に深く刻まれている。
 しかし皇族の言動の中には、国民が疑問や不安を抱くものも少なくない。いったいどうなっているのか、次世代皇室はこのままでいいのか―これらの疑問や不安に応えているのが雑誌メディアであるのが現実だ。
 民間放送や雑誌には、まだチェックというか検証機能がある。ところがネットの急速な発展は、天皇報道を含めて憶測を交えた無責任な情報を撒き散らしている。
 「令和」の時代を迎え、今上天皇と雅子皇后へは皇室の役割をどう考え実行して行くのかという課題が課せられている。新聞が相変わらず公式発表に安住し、ほほえましいエピソードばかり伝えていては国民に飽きられてしまう。また雑誌は事実に即して次世代皇室に正しい批判と提言が求められる。
 メディアは改めて皇室報道のあり方を再考する必要があるが、同時に皇族にも国民の代表として「ノブリス・オブリージュ(高貴な者に伴う義務)」に徹した言動が求められていると思う。

 

2019年4月15日号 週刊「世界と日本」第2147号 より

皇位継承
その来歴と意味を探る
諸行事は敬神崇祖の表れ

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所教授 所 功 氏

 まもなく、第一二五代の今上陛下(85歳)が4月30日で退かれ、翌5月1日から皇太子殿下(59歳)が新天皇の地位に即(つ)かれる。このような「譲位」による御代替りは、約二百年ぶりのことである。それに伴って、どんなことがどのように行われるのか。すでに政府と宮内庁では、基本的な日程と方針を内定し公表している。しかしながら、それぞれの来歴と意義は、まだ十分に説明されていないように思われるので、この機会に、その要点を簡略に説明させていただきたい。

《ところ・いさお》 昭和16年(1941)、岐阜県生れ。法学博士(慶応大学、日本法制文化史)。平成24年(2012)から上記の現職。
 著書に『歴代天皇の実像』(モラロジー研究所)、『天皇のまつりごと』(NHK新書)、『象徴天皇“高齢譲位”の真相』(ベスト新書)、共著『皇位継承』、『元号』(共に文春新書)など。


なぜ、何に基づいて「譲位」されるのか

 現在の天皇に関する制度は、昭和21年(1946)11月3日(明治節)に公布された「日本国憲法」により、「日本国の象徴」(国家の代表)、「日本国民統合の象徴」(国民の中心)と位置付けられている。
 しかも、その皇位は「世襲のもの」と定められ、神武天皇以来のご子孫により承(う)け継がれる。ただ、具体的な継承者の資格・順位などは、「皇室典範」で決められている。
 その第四条に「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」とあるため(明治以来の旧典範も同趣)、昭和天皇と同様、終身在位されるもの、と思い込んできた。
 ところが、国家・国民統合のために、象徴天皇のお務めを全身全霊で果たしてこられた平成の天皇陛下は、数年前からその責任と役割を、後継者の皇太子殿下に譲る決意をされていることが判明した。
 そこで、政府は慎重に検討を続け、また国会も超党派で協議を重ねた結果、1昨年6月「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が、衆参両院とも出席者全員の賛成により成立するに至った。
 これによって、現行典範の終身在位は原則的に残しながら、ご高齢を主な理由に「特例」として「退位」されることが可能になったわけである。

「退位の礼」と「剣璽等承継の儀」

 天皇が皇嗣(主に皇太子。それ以外の例もありうる)に「譲位」された例は、飛鳥時代の皇極天皇(女帝、645年)から江戸後期の光格天皇(1817年)まで、60近くみられる。
 しかし今回は、約二百年ぶりのことのため、政府と宮内庁で古記録などを参考にして、新時代にふさわしい儀式をかたちづくるため、各方面に協力を求め、ようやく大筋が決定した。
 まず憲法に配慮して「特例法」は「譲位」でなく「退位」と称している。しかし、それは「即位」に対応する重要なことであるため、4月30日夕方の儀式は「退位礼正殿(せいでん)の儀」と名付けられ、国事行為として実施される。
 その際、正殿(松の間)に両陛下が「剣璽(けんじ)」を伴って出御(しゅつぎょ)されると、内閣総理大臣から感謝の言葉を申し上げ、天皇陛下が「おことば」を述べられる。そこに皇太子同妃両殿下および成年皇族が供奉(ぐぶ)され、三権と地方の代表者などが参列する。
 ついで翌5月1日の午前、法的には午前零時に皇太子から天皇となられる新陛下が、正殿(松の間)に入御(にゅうぎょ)され、侍従の捧持(ほうじ)する「剣璽等」が承け継がれる。
 その「剣璽」は、古来「三種の神器」と称する中の「宝剣(ほうけん)」と「勾玉(まがたま)」であり、「等」というのは国事行為などで押さしめられる公印(金印)の「天皇御璽(ぎょじ)」「大日本国璽」である。
 これらは現行典範と同時に公布された「皇室経済法」の第七条で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣がこれを受ける」と定められている。つまり皇位と一体不離の「もの」扱いであるから、いわゆる政教分離に抵触しないと解され、これを承継する儀式も国事行為として実施されることになる。
 その儀場に出られるのは、皇位継承の資格を有する成年皇族(新天皇と秋篠宮と常陸宮)のみと伝えられている。しかし、それ以外の女性皇族も未成年皇族も、現皇室の構成者であるから、将来に備えて臨席されることが望ましいと思われる。

明治と大正・昭和の「御大礼」

 この「剣璽等承継の儀」により、名実ともに第一二六代の天皇として立たれる新陛下は、政府と宮内庁で諸準備を整えると、今秋の10月と11月に「即位礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」(併せて大礼という)を皇居において行うことになる。
 ちなみに、明治天皇は、慶応4年=明治元年(1868)8月、京都御所の紫宸殿(ししんでん)で盛大に「即位式」を挙げられ、東京へ遷られてから同4年11月、皇居の西御苑で「大嘗祭」を厳粛に行われた。
 ただ、今回の大礼は、大正と昭和の大礼を基本とし、前回(平成2年)に準じて若干の修正が加えられると報じられている。その基本が確立されたのは、明治天皇の御叡慮によるものにほかならない。
 それを承けて、明治22年(1889)制定の「皇室典範」第十一条に「即位の礼及び大嘗祭は、京都に於て之を行ふ」と決められ、同42年公布の「登極令」(同附式)に、より詳しい実施細則が作られた。
 そのおかげで、大正と昭和の御大礼は京都で行われ、それに準拠して前回も今回も東京で実施できるのである。

今秋の即位礼・大嘗祭と御親謁

 前回は、「即位礼正殿の儀」と「祝賀御列の儀」が行われ、同夜から15日まで、「饗宴の儀」が7回も実施され、ついで「大嘗祭」(悠紀(ゆき)殿の儀・主基(すき)殿の儀)および「大饗の儀」が3回、無事に催された。
 ただ、これは新天皇・皇后両陛下をはじめ関係者などに非常な負担となったことが反省され、今回はすこし緩やかな運びとなる。
 もちろん、それによって大礼の意義が変わることはない。むしろ大正大礼の際に貴族院書記官長で大礼使を務めた柳田国男氏は、即位を内外の人々に華々しく披露する即位礼と、毎年の新嘗祭を大規模にして神々に感謝し祈願する厳かな大嘗祭とは、間隔をあけて行うほうがよい、と提言したが、その趣意に叶うことになる。
 宮中では、これ以外にもたくさんの行事があり、その多くは敬神崇祖の表れにほかならない。一般国民の私共は、それらがすべて恙(つつが)なく執り行われることを祈念しながら、新しい御代にそれぞれの務めを果たしたいと思う。

 

2019年1月21日号 週刊「世界と日本」第2141号 より

皇位世襲の永続可能な典範改正

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所研究主幹 所 功 氏

 新年の平成31年(2019)には、4月30日限りで今上陛下が「退位」され、翌日から新天皇が「即位」される。 このような皇位の継承は、行われるのが当然であり、今後も必ず続いていく、と思われるかもしれない。しかし、現行の法制を改正しなければ、皇族の方々が次第に減少し、やがて皇位を継承しうる有資格者が不在となる恐れも少なくない。それはなぜだろうか。そうならないためには、どうすればよいのだろうか。

《ところ・いさお》 昭和16年(1941)、岐阜県生れ。法学博士(慶応大学、日本法制文化史)。平成24年(2012)から上記の現職。
 著書に『歴代天皇の実像』(モラロジー研究所)、『天皇のまつりごと』(NHK新書)、『象徴天皇“高齢譲位”の真相』(ベスト新書)、共著『皇位継承』、『元号』(共に文春新書)など。


現行憲法の定める象徴世襲の天皇制度

 昭和21年(1946)11月3日(明治節)に帝国憲法を改正する形で公布された現行憲法は、国柄を表す最も重要な第一章が、旧憲法と同じく「天皇」であり、八条にわたって、天皇の立場や任務などを規定する。
 その第一条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であって」と定められているから、“象徴天皇制”と称される。しかも、第二条で「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めにより、これを継承する」としていることこそ重要である。
 すなわち、象徴天皇は、時々の世論により勝手に選び出すのではない。過去・現在・未来に通底する「日本国民の総意」(いわゆる一般意志)として「皇位は世襲のもの」と確定し、具体的な継承方法などを法律の皇室典範で規定する“世襲天皇制”にほかならない。

皇室典範の定める厳しい3つの原則

 この皇室典範は、明治以来の旧典範を大筋そのまま承け継いでいる。それには、古代以来の歴史をふまえながら、近代的な立憲君主制の皇室に必要と考えられた厳しい規制が盛り込まれている。
 まず第一条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める。確かに皇位は、神武天皇以来の血統(皇統)に属する男性天皇(男帝)の子孫(男系)皇族のうち、ほとんど皇族身分の男子が継承されてきた。
 しかし、一二五代(及び北朝五代)のうち、八方十代(二方は2度即位)の女帝がおられ、各々に相応の治績をあげられたことも忘れてはならない。
 また第九条で「天皇および皇族は、養子をすることができない」と定める。これは旧典範の制定当時、宮家に男性皇族が多数おられたから、次男以下(庶子を含む)の養子縁組により、益々増加し混乱する傾向の抑制措置とみられる。
 しかし、皇位も宮家も長らく世襲できたのは、継嗣がなければ他家の皇族を養子に迎え、諸王でも天皇の養子(猶子)にすれば親王として当主になれたことも忘れてはならない。
 さらに第十二条で「皇族女子」は皇族以外の一般男子と婚姻する場合、「皇族の身分を離れる」と定める。
 これも明治以降、終戦ころまでは、男性皇族が多数おられたから、皇族女子の結婚相手はほとんど皇族身分の男性であり、皇籍を離れずにすんだ。
 しかし戦後は、GHQが皇室財産を凍結し過大な課税を命じたので、やむなく直宮家(昭和天皇の三弟と家族)以外、皇籍離脱を余儀なくされた。そのため、皇族女子は一般男子と結婚されるほかなくなった、という事情を忘れてはならない。

昭和天皇の崩御と今上陛下の譲位

 もう1つ、現行典範の第四条には「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と定める。これも旧典範を承け継いだものであり、それゆえ明治・大正・昭和の三代天皇は、終身在位されたのである。
 しかし、昭和天皇(明治34年〈1901〉生まれ)は、父君が病弱のため、大正10年(1921)から5年間、皇太子のまま「摂政」を務められた。そして満25歳で践祚(せんそ)され、戦前・戦中・戦後を通して辛苦を重ね、満87歳8カ月余で崩御された。
 その直後に践祚されたのが今上陛下である。当時すでに満55歳にして皇位を担われた。一般人ならば定年退職近くに就任され、以来30年間、日本国および国民統合の象徴としてのお務めに、全身全霊を尽くされたのである。
 とはいえ、80歳近くで心臓冠動脈バイパス手術のころから将来の在り方を熟慮されて、皇極天皇(645年)から光格天皇(1817年)まで60例近くある「譲位」の歴史も調査し尽くされていた。
 その上で、象徴天皇としての務め(責任と役割)を元気なうちに次世代の皇嗣(皇位継承第一人者)の皇太子へ譲るべきだと決意され、その御意向を平成28年(2016)示されたのである。
 それを承けて、政府も国会も慎重に論議を重ね、ようやく翌29年6月、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が、衆参両院の出席者全員賛成によって可決成立した。それは典範第四条の終身在位を原則的に残したまま、「特例」として御高齢による「退位」(譲位)を可能にしたもので、その意義は真に大きい。

「安定的な皇位継承」を可能にする智恵

 この「皇室典範特例法」は、明治以来の原則を当面変更しないで、現状にふさわしい特例を公認した。このような現実的改革を他の条項についても推進しなければ、皇位の世襲は行き詰まってしまう恐れがある。
 しかし幸い特例法を成立させた国会(衆参両院)で、次のような「付帯決議」を加えている。
 一、政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方(特に未婚女子)の御年齢からしても、先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の事情等も踏まえて、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を速やかに国会に報告すること。
 二、一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、立法府の総意が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。
 ※三、(新元号の施行時期への配慮)
 これは重要な決議であって、政府も国会も本年5月以降、すみやかに「安定的な皇位継承」を可能にする具体的な方策を十分に検討し、現行典範の現実的な改正を実現する責任がある。
 この課題解決に向けて必要なことは、「原理」と「原則」の区別である。原理は宗教でも科学でも絶対的なもので例外を認めない。しかし、原則は慣例や法則として重要なものながら、時代や状況の変化により例外を認めて本質を守り抜くことに特徴がある。
 それゆえ私は、現行典範の「男系男子」限定を原則としながら例外も認める男子優先とし、皇族の養子縁組も皇族女子の宮家養子も特例として容認するような改正を、大方の合意形成により実現することを念願している。

「天皇のお気持ちの表明」に私はこう思うチャンネルより

平成28年11月7日から「天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議」のヒヤリングが始まりました。その取組について解説していきます。

2016年11月21日号 週刊「世界と日本」第2089号 より

「天皇のお気持ちの表明」に
私はこう思う 

第二回

 

高齢化社会に伴う例外的な譲位容認を

 

国士舘大学大学院 客員教授 百地 章 氏

 11月7日から「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」のヒアリングが始まった。筆者にも意見陳述の機会が与えられることになったが、この問題については、7月13日のスクープ報道時と8月8日に陛下のお言葉を拝した後では、多少見解が変化している。

《ももち・あきら》 昭和21年、静岡県生まれ。京都大学大学院修士課程修了。法学博士。専門は憲法学。平成28年10月、日本大学法学部教授を退任、現在、国士舘大学大学院客員教授、比較憲法学会前理事長、「民間憲法臨調」事務局長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」幹事長、産経新聞「正論」執筆メンバー。著書に『憲法の常識 常識の憲法』、『憲法と日本の再生』、『新憲法のすすめ』、『女子の集まる憲法おしゃべりカフェ』など多数。


 当初、筆者は陛下の譲位に反対であった。なぜなら譲位制度には様々な問題があり、明治の皇室典範制定の際にも、戦後、現在の皇室典範が制定された時にも、譲位制は否定されているからである。

 その歴史の重みを踏まえるならば、一時的な国民感情やムードで終身制を否定しまうことには慎重でなければならない。そう考えた。

 それに、立憲君主制のもと「憲法遵守」を明言され、皇位継承についても「国会と内閣の判断に委ねます」と仰しゃってこられた陛下が、まさかそのようなご発言をなさるはずがないとの疑念があった。

 しかし陛下のお言葉を拝し、少し考えが変わった。それは陛下が「高齢化社会の到来に伴う譲位制」のことを問題提起されたからである。

 超高齢化社会の現在、100歳といっても決して珍しくない。そのような中で、もし陛下が100歳になられてもお元気な場合、現在の皇太子殿下は74歳になられる。それでも即位できないとなると、これは考えざるを得ないだろう。

 そこで陛下の問題提起を受けて、筆者も例外的に譲位を認めても良いのでは、と考えるようになった。

 そこで、改めて「譲位」の問題点について考えてみると、125代の天皇のうち約半数が譲位しておられる。その背景には、権力を持った臣下の者たちが、天皇に譲位を強要したりしたことがあった。

 また、天皇が自ら上皇となって院政を敷いたりといった弊害もみられる。さらに天皇による恣意的な譲位といった問題もあった。

 この点、天皇が政治的権能を有しない現行憲法下では、そのような弊害は少ないかもしれない。しかし、天皇の権威を利用すべく、恣意的に天皇を退位させたり即位させたりする者が出てくる恐れはある。

 さらに、天皇が崩御された時は、皇嗣(こうし)が直ちに即位することになっており(皇室典範4条)、皇位継承者には「即位するかしないか」自由意志の介在する余地はない。にもかかわらず、退位についてのみ自由意志を認めることになれば、これと矛盾する。

 そこで現皇室典範制定の際、金森徳次郎憲法担当国務大臣は「天皇に私なし、すべてが公事である」との理由で、譲位規定を設けなかったと答弁している。

 加えて、譲位制度を採用した場合には、「国民統合の象徴」に分裂を招きかねないであろう。

 譲位制度のもと、先帝と新帝が同時にいらっしゃるという事になれば、先帝を敬慕する国民と新帝を歓迎する国民の間に、微妙な心理的溝が生じたり、「国民統合の象徴」が分裂したりしてしまわないか、懸念される。

 このように、「譲位制」の問題点は解消したわけではない。しかし「超高齢化社会の到来」に伴う新たな問題について対応するため、「終身制」を原則としつつ、例外的に「譲位制」を認めるための法的措置を取るのであれば、支持してもよいのではないか。

 この点、譲位をお認めするための方法として現在主張されているのは、以下の3つである。

 第1に、皇室典範とは別の特措法を制定し、それによって陛下の退位をお認めする方法である。

 第2は、皇室典範の中に何らかの根拠規定を置き、それに基づいて特措法を制定する方法であるが、こうすれば特措法は皇室典範と一体のものと見ることができる。

 そして第3が、皇室典範の改正による譲位の容認である。

 このうち、第1の皇室典範とは別の特措法を制定して生前退位を認める方法であるが、これは「皇位は、・・・皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めた憲法2条の明文に違反するだけでなく、あえて憲法が「皇室典範」によると定めた重みを無視することになる。

 さらに、皇室典範4条は「天皇が崩じた時は、皇嗣が、直ちに即位する」と定め、「終身制」を採用、譲位制を否定している。にもかかわらず、皇室典範以外の法律で、勝手に終身制を否定するのは矛盾であり、認められない。

 次に、第3の皇室典範そのものの改正であるが、これは簡単ではないし、時間もかかる。

 そこで浮上してくるのが第2の方法であり、現在、筆者は以下のような条文を構想している。

 まず、皇室典範の「附則」第4項に「第4条にかかわらず、天皇は特別措置法の定めるところにより、譲位することができる。」といった規定を置く。

 その上で「皇室典範に関する特別措置法」を制定し、以下の趣旨の規定を定める。「天皇は、高齢により公務をみずからすることができないときは、皇室会議の儀を経て、譲位できる。譲位があったときは、皇嗣が直ちに即位する。」

 このような規定であれば、終身制が原則であり、譲位制はあくまで高齢で天皇としての務めが果たせない時に限定される。

 また、恣意的な譲位を如何にして排除するかという点が最大の問題だが、このような規定であれば「高齢により公務をみずからすることができないとき」という客観的条件、「天皇の意思に基づく」という主観的条件が示されおり、しかも皇室会議の儀を経ることになるから、かなり問題は解消するのではなかろうかと思う。

 その上で、皇室典範の改正を、その是非も含めて慎重に審議すべきであろう。

(10月29日、記)

2016年9月19日号 週刊「世界と日本」第2085号 より

「天皇のお気持ちの表明」に
私はこう思う

 

皇室の存続を第一に考えた判断を

 

麗澤大学教授 八木 秀次 氏

 「我帝室は日本人民の精神を収攬(しゅうらん)するの中心なり」―。こう述べたのは福澤諭吉である(『帝室論』1882年)。日本人は普段は強く意識しないが、皇室を頼りにして生きている。自らの「精神を収攬するの中心」がぐらつくと途端に不安になる。私には、ご生前での退位のご意向を強く滲まされた、8月8日の「天皇陛下のビデオメッセージ」を拝した国民の反応はそのように見えた。

《やぎ・ひでつぐ》 1962年、広島県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程中退。高崎経済大学教授などを経て2014年より現職。専門は憲法学。第二回正論新風賞受賞。教育再生実行会議提言FU会合委員、法制審議会民法(相続関係)部会委員、フジテレビジョン番組審議委員など。『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など著書多数。


 

  街では足を止めて、ビルのスクリーンに映し出された陛下のお言葉に耳を傾ける若者の姿が多く見られた。その後の世論調査で8割、9割の人たちが、陛下のご生前での退位に好意的な姿勢を示したのも不安な気持ちの反映と思えた。

 今、皇位が不安定になろうとしている。天皇陛下は退位の意向を強く滲まされたが、実現には大きな困難が伴い、時間も掛かる。皇太子殿下が皇位を継承されることは明らかであるが、確実に継承されるまでは不安定な時代が続く。そればかりではない。

 ご生前での退位を制度的に、あるいは今回に限ってであれ、認めてしまえば、皇位自体が不安定になる。日本国民の精神を収攬する中心である皇位が不安定になれば、日本国民の精神はどのようになるのか。歴史上、このような場合には必ずと言っていいほど「まがごと」が起きている。

 現在の皇室典範(昭和22年)も、その基になった明治の皇室典範(明治22年)も、ご生前での退位の規定を設けていない。皇位継承は前の天皇の崩御に限定されており、天皇のご存命中は次の天皇に継承できなくなっている。

 これは法の欠缺(けんけつ)ではなく、敢えて積極的にご生前での退位を排除した結果である。皇位継承に関して当時者のご意思を関与させず、厳格なルールを決めてその通りに行うことにした。

 主な理由は2つ。

 1つは、過去に上皇や法皇という退位した元・天皇が政治的影響力を行使したり、時の権力者などによって天皇が退位させられるなど、天皇が政治利用されたり、自ら政治的に動く例が見られたことから、そのような混乱を排除するためだ。

 明治の皇室典範の起草を主導した伊藤博文は、退位・譲位は皇室の伝統ではなく、出家を求める仏教の悪弊によるものであるとし、混乱の代表例として南北朝を挙げている。

 もう1つは、より本質的な問題で、現在の皇室典範の制定時においても議論されたことだが、ご生前での退位を認めることは、当事者の意思によって皇位継承を行うことを意味する。

 退位が可能であれば、即位についても当事者の意思が関わることになる。つまり、即位しないこと、即位拒否も当時者の意思次第ではあり得ることになる。皇籍離脱も可能になる。

 それでなくても皇位継承資格者が限定されている中で、次々に即位を拒否されれば天皇・皇室は存立し得なくなる。このような配慮から、当事者である皇族方の意思に関わりなく、継承の順位にしたがって皇位が継承されるという厳格なルールを確立しているのである。

 このようなルールは、天皇陛下や皇族方には窮屈なものであることに違いない。当事者の意思が関与できないからだ。今回、天皇陛下は、ご高齢やご病気を理由に、「象徴の務め」が全身全霊でできなくなったことから退位のご意向を示された。

 お気持ちは大変尊くありがたい。しかし、たとえ陛下のご意向であっても、皇位継承の厳格なルールを変更することには慎重でなければならない。

 敢えて排除した、ご生前での退位を可能にすることは、皇位継承に当事者の意思を関与させることなり、そのことが皇位を不安定にさせ、皇室の存立基盤自体を否定することにもつながる。明治以降、封印してきた「パンドラの箱」を開けることになり、次々に「災い」が飛び出してくる可能性がある。

 皇室典範改正であれ、今回限りの特別立法であれ、ご生前での退位を可能にすれば、次世代の即位辞退、皇籍離脱も可能にすることになる。そうしなければ法理論として整合性が取れない。皇室の消滅を惹起することにもなりかねない。

 皇室の存在しない日本を私たちは歴史上知らない。日本国家は皇室とともに始まり、国民は皇室を常に心のよりどころとしてきた。その皇室がなくなってしまったとき、どのような世の中になるのか、見当も付かない。今回の陛下のご意向が皇室や日本国家の「終わりの始まり」につながらないような慎重な対応が求められる。

 陛下は、在位された上でのご公務の大幅な縮小や摂政の設置、国事行為の臨時代行に消極的なご意向も示されている。しかし、それらの解決策は、皇位を安定させるために慎重に考え抜かれた上での制度である。これを排除されれば、上述のように皇位は確実に不安定になる。

 陛下は天皇としての「務め」を強調され、「務め」ができなくなれば、その地位から退くべきと考えておられるように思われる。「務め」を重視される陛下の強い責任感は尊くありがたいが、天皇には「務め」の大前提としてご存在自体の尊さがある。

 神話に由来し、神武天皇以来一貫して男系継承されてきた、誰も代わりのいないご存在が天皇陛下である。そのようなご存在が「務め」をなさることに意義があり、尊く、人心に安定をもたらすのである。「務め」が先にあって、その「務め」ができれば他の誰かでもよい、ということではない。

 この上は、天皇陛下のご意向をよく理解しつつも、皇室の存続を第一に考えた判断が求められる。

 ご生前での退位を認めることの長短を示しながら、最後は陛下や皇族方に納得していただく他はない。

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