地方創生特集
人口減少、超高齢化社会という世界でも未だ直面したことのない社会へと日本は向かいつつあります。自立的で持続可能な社会を創生するために、岸田政権では地方創生を最重要課題として位置づけております。内外ニュースでは「地方創生チャンネル」において、週刊・月刊「世界と日本」の執筆者、東京・各地懇談会の講演、専門家のインタビュー記事等の情報を掲載して参ります。
2023年10月2日号 週刊「世界と日本」第2254号 より
ナショナルパーク講座&検定への誘い
~国立公園を学び、国立公園に行こう~
(一社)ONSEN・ガストロノミーツーリズム 推進機構理事長
(一社)ネイチャホスピタリティー協会理事長
小川 正人 氏
《おがわ まさと》
1954年東京生まれ。78年慶應義塾大学経済学部卒業、全日本空輸(株)入社
2009年執行役員営業本部副本部長、11年より上席執行役員名古屋支店長中部東海地区担当。15年(株)ANA総合研究所代表取締役会長として地域活性化を担当。16年から一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構理事長。20年一般社団法人ネイチャーホスピタリティー協会設立理事長、「ナショナルパーク講座&検定」を開始。
日本の国立公園の素晴らしさをより多くの皆様に知っていただき、ファンになっていただこうと2022年から、オンライン講座と検定試験を一気通貫で行う「ナショナルパーク検定」を始めた。日本の34カ所の国立公園の中から、毎回2つずつを取り上げて、地元の専門家やガイドさんなど、国立公園に直接携わっておられる方々で構成された講師陣が、ライブで受講者に語り掛ける。都合が合わなかった方には見逃し配信もある。最後にウェブ検定で知識を確かめていただく。地元で自然に直接触れている方々の情熱あふれる講義は、情熱や迫力が感じられ着実に愛好者が増えている。
(https://nationalpark.learning-ware.jp/)
前職のANA総合研究所は、地域活性化を大きな使命の一つとしていた。私は、地域活性化を推進するため、2015年に一般社団法人ONSEN・ガストロノミーツーリズム推進機構を創設し、全国の温泉地を拠点に地元の食・景観・歴史・文化等をウォーキングの目線で楽しむONSEN・ガストロノミーウォーキングを足掛け8年にわたって主催してきた。北は北海道から南は沖縄まで、60カ所以上の温泉地でのONSEN・ガストロノミーウォーキングを実施し、「めぐる・たべる・つかる」をキーワードに約2万3千人の方に楽しんでいただいた。その経験から、日本には、まだ知られていない素晴らしい自然がこんなにも多くあるのかという事に感動を覚えた。日本全国にある約3000カ所の温泉地は、多くが国立公園の中や近接地域にある。国立公園の自然や人々の営み素晴らしさをもっと多くの人に知って貰いたいと考えた。(https://onsen-gastronomy.com/)温泉と国立公園を所管する環境省にも背中を推して貰い、活動の母体として、一般社団法人ネイチャーホスピタリティー協会を設立し、環境省と国立公園オフィシャルパートナーシップ協定を締結し、「ナショナルパーク講座&検定」を開始した。
世界初の国立公園である、米国のイエローストーン国立公園は、手付かずの自然を国有地として保護している。こうした国立公園は、営造物型自然公園と言われ、基本的に全てが国有地で政府等が国の財産として直営管理している。私共の会長である涌井史郎先生によれば、イエローストーン国立公園等は1枚の写真で分かるとの事である。確かに同公園の間欠泉や渓谷等、それだけで強い印象を残す。これに対し我が国等の国立公園は、私有地や現に人が住んでいる地域を含めて、国立公園として指定する地域性自然公園と言われている。日本では、里山の維持や森林の管理など、人の営みを含めて国立公園を構成している。里山の美しさに代表されるようにまさに、日本の自然は「人が作り、人が営む」ものと言える。このような経緯から、日本の国立公園の管理・運営には、官民を問わず、地元の様々な人々が関わっている。一方で、日本の地方は、どんどん人口が減少し、このままでは、里山の維持も困難になってくる。先ずは、1人でも多くの方に関心を持っていただき交流人口を増やしたいと考えた。そこで、始めたのが、オンラインで地元の方々が、国立公園の魅力を自ら講義し、受講者と直接ライブ配信で結びつける、臨場感のある「ナショナルパーク講座&検定」である。
これまで次の4回を実施し、8国立公園を取り上げた。
第1回検定(霧島錦江湾国立公園、磐梯朝日国立公園)
1.開催期間:2022年2月〜4月
2.申込者数:143名
第2回検定(中部山岳国立公園、上信越高原国立公園)
1.開催期間:2022年7月〜9月
2.申込者数:201名
第3回検定(伊勢志摩国立公園、山陰海岸国立公園)
1.開催期間:2023年3月〜5月
2.申込者数:106名
第4回検定(屋久島国立公園、やんばる国立公園)
1.開催期間:2023年7月〜9月
2.申込者数:148名
連続で、受講者されているリピーター受講者も増えて来ていて、ある受講者は、「なかなか知ることがなかった国立公園や温泉について学ぶことができ、とても視野が広がり、学んでいてとても楽しかった。」「コロナ禍ということもあり、講義も検定も自宅で受けられるのもよかった。」「分かりやすく引き込まれる楽しい講義もあり、日本の事を学べる良い機会をいただきました。」と語るなど意欲の高い方が増えている。
これまで登壇された、いずれの講師も魅力的だったが、第1回霧島錦江湾国立公園の講師 姥(うば)千恵子先生(桜島ジオサルク事務局長・桜島錦江湾ジオパーク認定ガイド)は、桜島の魅力を火山の凄さのみならず、火山の恵みとともに暮らす人々の営みも余すことなく伝えていただいたし、第4回の屋久島国立公園での大野睦先生(元屋久島観光協会ガイド部会会長、日本ウミガメ協議会理事)のウミガメへの思い、臨場感あふれる産卵の風景などにも胸に迫る物があった。
こうした講師の皆様へは、講義を聞いてファンになった多くの受講者から、ぜひ、国立公園へ実際に行き、直接お話を聞き、案内をしていただきたいとの声をいただいている。
1934年に我が国で、初の国立公園指定(瀬戸内海、雲仙、霧島、大雪山、阿寒、日光、中部山岳、阿蘇)が指定されてから、今年で90年になる。
そもそも、国立公園が設立された理由の一つが、外国人旅行客を呼び込み外貨を獲得する事だった。今後は、日本人のみならず、世界の方々にも国立公園の魅力を発信していきたい。一人でも多くの方に、国立公園の魅力を知っていただき、ファンになっていただいて、その方が更にファンを作る国立公園のコミュニティを作りたいと思っている。
次回は、日光国立公園・尾瀬国立公園を取り上げ、11月1日に募集を開始する。魅力的な講師の方々に参加頂ける見通しの他、講師の方に会いに行くツアーやフォトコンテストを併せて実施するつもりである。皆様に奮ってご参加いただき、日本の国立公園のサステナブルな維持と発展の取り組みに参加していただきたい。
2023年8月7日号 週刊「世界と日本」第2250号 より
災害で思い出された原風景
日本カツオ学会会長 川島 秀一 氏
《かわしま しゅういち》
1952年宮城県気仙沼市生まれ。法政大学社会学部卒。文学博士。東北大学附属図書館、気仙沼市史編纂室、リアス・アーク美術館、東北大学教授などを経て、現職。専門は海洋民俗学。著書に『魚を狩る民俗—海を生きる技』(三弥井書店)、『津波のまちに生きて』(冨山房インターナショナル)など多数。
宮城県気仙沼市の魚町で育った私の原風景は、小学校への通学路であった。港に面した道に沿って、全国各地からの漁船が、折り重なるように繋留(けいりゅう)されている風景である。それは同時に、人間の生活がともなった港の、音と匂いのある風景でもあった。
全国から集まってきた漁船のラウドスピーカーからは、都はるみの「アンコ椿は恋の花」を繰り返し流していた。ときには「太陽はひとりぼっち」などの映画音楽も、魚町中に響いていた。私たち子どもらは、近くの神社で「忍者ごっこ」をしながら、これら大人の音楽を、からだに受け入れていた。
魚町では、道路を挟んで両側から大声で会話をしている大人が多かった。犬も放し飼いにされ、相性の悪い大きな犬と突然対面することを怖れていた。道路の上で仲良くなり過ぎたオス犬とメス犬を引き離そうと、大人たちが何人も犬にバケツで水をかけ続けている光景もあった。ときに心を失われた男が、町中を空のリヤカーを引き続けている姿も見た。
道路のカーブの陰では、物売りのばあさんが立小便をしていた。同じカーブでは、あふれんばかりのサンマを積んだトラックが、ぼたぼたとサンマを道にこぼし、港のカラスだけでなく、われわれ子どもたちも、歓声を上げながら拾いに行った。それは、そのまま夕飯の食卓に焼かれて並べられた。
1960年代の港町は、どこもそうであったと思われるが、喧噪と雑然のなかにも、人が生きている証が見られた。いつの頃からか、船からの音声は規制され、路傍(ろぼう)の犬も、心を失った男も、排泄する場所も隔離され、人間や動物たちのしぐさも、社会から遠ざけられていった。それが〈清潔〉を標榜する、日本の近代化や西欧化を進める指標となったからである。
しかし、人間社会の変化は、大自然の変化には及ばなかった。2011年の東日本大震災では、当時の気仙沼だけでなく、その歴史の積み重ね自体が否定され、破壊された。
震災当時は、わが家も津波に流されたが、当日の夜は平地に下りることも叶わず、町の丘陵部を通って迂回しながら、立っているはずの家にたどり着こうとした。それは、リアス海岸でもある気仙沼の近世からの道でもあった。近世初期から埋め立てによって、成立してきた気仙沼港であったが、その人間によって埋め立てられたところだけが、見事なまでに津波で被災された。
まるで、海が、かつての領分を取り戻してきたかのような有様であった。私は、震災の翌日、丘陵から被災した気仙沼を望見しながら、近世初期の風景が現出したように思われた。
その災害はまた、1960年代の、私ら子どもの時代にも戻った感があった。アスファルトの道路はめくれて、以前のでこぼこの、水たまりのできる、ほこりが立つ道が現れた。津波では海産物が町中へ流れたので、震災の年の夏は、その腐る臭いと、ハエの大量発生に見舞われた。
かつては、気仙沼に魚の粕工場があって、天候や風向きにより、同様の臭いが、勉学をする学校の窓辺にも流れてきたものである。ハエ取り紙は、夏の生活には欠かせないものであったが、それも、争うように各家庭で吊るしはじめ、見かけるようになった。
久しぶりの土の道で、轍(わだち)に入らないように運転をしていたのだが、一度だけ古釘が刺さってパンクをした。忘れられていた運転技術や、どの場所にハエ取り紙を吊るしたらよいかの判断力などを、思い起こしながらの対応に迫られたわけである。
震災前までは当たり前だった快適な生活が奪われてみてはじめて、逆に便利な生活で失われたのは、人間そのものの持っていた力であったということも考えざるを得なかったのが、東日本大震災という災害だった。
突然に自己の外部にある目の前のものが失われることも恐怖であるが、少しずつ、知らないうちに、自分の体に本来あるべきものが、老いが来るように失っていくのも怖しいことである。
震災後、更地の上に建っていったのは、もちろん、昔の気仙沼の「町」ではなかった。魚町や南町の界隈は、観光客を意識した、小ぎれいなカフェなどが並ぶ「街」に変貌した。いつのころからか、この国では「町づくり」とか「村おこし」という言葉が、一人歩きを始めて、口を開けば、その言葉が出てきた。
「まち」は人間が造るものではあるが、その風土と生活に合致しながら、おのずから形成された、たたずまいそのものが、風景としての魅力も与えていたはずである。
それが「自然」と同様に、「社会」さえもが、人間の力でどうにもなると思いこんだところから、実は次の自然災害への準備をしていることになるわけである。それは歴史が繰り返している、証明済みの事実である。
この震災は結果的に、私を気仙沼の地から切り離すことになったが、その後、各地をあるきながら、突如として、気仙沼の原風景が喚起され、よみがえった体験も多かった。
たとえば、高知県土佐清水市の清水港は、最初に足を踏み入れたときから、気仙沼の魚町があった「内湾」に似た風景だと思っていた。海辺にたたずむ神社の森が、漁船が繋がれている入り組んだ湾に影を落としている、まさしく私の原風景である。
東日本大震災後の2013年に同地を訪ね、以前にお世話になった、カツオ一本釣り船の元漁労長と再会したときは、自宅で二人、酒を酌み交わした。少し酔ったのもかもしれなかった。帰りの宿まで歩く道すがら、清水港の夜景は、以前の内湾の夜と勘違いするようだった。震災から二年目のこと、懐かしさと無念さで、涙が浮かんできたことを覚えている。
震災や復興のありように関わらず、原風景だけは心の中に生き続けていることは、気仙沼に育ったことの、私の一つの誇りでもある。
2023年8月7日号 週刊「世界と日本」第2250号 より
大阪暮らし、ぼやきまくり
生命科学者・大阪大学名誉教授 仲野 徹 氏
撮影:松村琢磨
《なかの とおる》
1957年、大阪市生まれ。大阪大学医学部卒業、内科医として勤務の後、京都大学助手・講師(本庶佑研究室)などを経て、1995年から大阪大学教授。2022年3月から現職。専門は、いろいろな細胞の作られ方。2019年から読売新聞の読書委員を務める。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)など。趣味はノンフィクション読書、僻地旅行、義太夫語り。
「大阪暮らし」と言っても、どのあたりに住んでいるかによって、地元に対する愛着や感情はずいぶんと違いそうだ。たとえば、長年勤めていた大阪大学医学部は北摂と呼ばれる場所にある。比較的高級な住宅が多い地域で、東京から越してきた人にいわせると、大阪に住んでいる気がしないという。大阪市とその南にある堺市は大和川で隔てられているのだが、それを越えるとずいぶんとディープ感が漂うといったイメージだ
生まれてこの方66年、大阪市内に住んでいる。それも、いまだに生まれた場所に居続けているのだから、今ごろの都会暮らしでは珍しいほうだろう。場所は大阪市旭区千林、といってもおわかりにならないだろうが、大阪の中心・梅田から電車で10分あまり、市の北東部のはずれである。ニュースなどに登場する時は、必ずといっていいほど「ダイエー発祥の地」が枕詞として使われる街だ。
「日本でいちばん物価が安い」といわれた昔に比べるとずいぶん寂(さび)れてきてはいるが、いまでも大阪有数の商店街がある。高齢化率が高く、「大阪都構想」の投票でも反対票が多かった。そんな地域に住んでいる老人のぼやきにお付き合い願いたい。
大阪も立派になったと思うことがある。大阪駅北側の「グランフロント大阪」や多くの外国人観光客をひきつける「梅田スカイビル」(原広司設計の空中庭園展望台があるビル)、天王寺駅近くにある今のところ日本でいちばん高いビル「あべのハルカス」など、本当に立派である。しかし、そういうのはごく一部のことであって、下町の暮らしなど昔のままのような気がする。
とはいえ、変わったこともある。マンションが増え続けているし、個人商店が閉店になりチェーン店に置き換わっていく。こういったことはおそらく日本中で進行しているだろう。そんな中、大阪が特徴的かと思うことのひとつは、外国人観光客が激増したことだ。
小学生の頃は外国人などほとんど見かけることがなかった。テレビで見る大阪弁を上手に操るイーデス・ハンソンくらいしか記憶にないくらいだ。街で外国人を見た初体験は1970年の大阪万博の時だった。外国人がいたらとりあえずサインをせがむ子どもまでいたくらいだから、どれだけ珍しかったかがわかるだろう。まだ円相場が固定相場で1ドル360円だった時代、外国はむちゃくちゃに遠かった。
2025年に開かれる二回目の大阪万博、他の地域の人はどれくらい興味があるのだろう。いや、大阪でさえあまり話題になることはない。時折ニュースで流れてくるのは、建物の入札が不成立とか、海外のパビリオンの建設許可申請がゼロとか、どう考えてもよろしくない話ばかりだから、盛り上がらないのも仕方なかろう。
半世紀前、10回も会場には足を運んですべてのパビリオンを制覇した万博少年だった。外国というだけで胸が高鳴ったし、月の石はいうに及ばず、いまでは信じられないが、四則演算しかできない電子式計算機にまで興奮した。はて、今度の万博にそんなものがあるのだろうか。
それに、1970年は『人類の進歩と調和』がテーマだったのに対し、今回は『いのち輝く未来社会のデザイン』。ケチをつける訳ではないが、ずいぶんと格調が違うし、ちっこくはないか。
目玉として必ず登場するのは「空飛ぶクルマ」である。つい思ってしまう。それって別に万博を開かなくても遠からず実現するんちゃうんか、と。寡聞(かぶん)なだけかもしれないが、一日あたりどの程度の人数を運べるのかは報道されていないはずだ。どのように計算されたかは不明だが、来場者の見積もりは2820万人なので、一日あたりにすると15万人ほどになる。はたしてそのうちのどれだけの割合が利用できるのか。誰も気にしてそうにないのが不思議でたまらない。
万博会場のすぐ近くに作られる予定のIRも同じように、いや、こちらはそれ以上に心配だ。どちらも「夢洲(ゆめしま)」という埋め立て地なのだが、儚(はかな)き夢に終わってしまいはしないことを願うばかりだ。面積でいうとIRのうち3%でしかないのだから、IR=カジノではないと大阪府も大阪市も強調する。ぼんやりと聞いていたら、そうなのかと思ってしまうが、売り上げの8割はカジノなのだから、銭金勘定でいうとIR≒カジノやないのか。ちょっと考えたらわかりそうな詭弁が通用してしまっているのが今の大阪だ。
大阪人は勘定高いとよく言われる。確かにそういったところもある、いや、あった、と言うべきか。昨今の万博やIRの皮算用を見ると、どう考えてもまともに計算できているとは思えない。大阪経済の地盤沈下や東京への対抗意識によって頭がいささか麻痺してしまっているのではないだろうか。地盤沈下といえば、経済だけじゃなくて夢洲のリアル地盤沈下も心配だ。
グランフロントやハルカスは立派だけれど、大阪全体をみれば、東京とは比ぶべくもない。めったに上京することのない妻をつれて東京観光をしたとき、大阪の人ってちゃんと東京を見て対抗意識を持ってるんやろかとため息をついていた。たまにはええことを言うやないか。「大阪都構想」がらみで大阪を副首都にとか言いだされたころからだろうか、大阪人が前のめりになりすぎているような気がしてしかたがない。
なんかモヤモヤするなぁと思っていたところへ、日経新聞の大阪版『関西のミカタ』に大阪出身の小説家・津村記久子さんの記事を見つけた(令和5年6月29日付け大阪版夕刊)。“大阪、「ローカル都市」の道を 元々の街のよさ生かして”というタイトルの記事は、“いまの大阪は「生き急いでいる」”と苦言を呈したうえで、「大阪には個性ある『巨大なローカル都市』でいてほしい“と結ばれている。さすが芥川賞作家、うまいこと言うてくれたはるわ。
生きている間に、大阪はどう変わっていってしまうんやろか。こんな大阪になってしもてと嘆かんとあかんようになってしまわへんやろか。市内に住む孫ふたりを見ていると、ついそんなことをぼやいてしまうこの頃である。
2022年1月4日号 週刊「世界と日本」第2212号 より
「ともに創る ともに育む」
元気に輝くための北杜市のまちづくり
山梨県北杜市長 上村 英司 氏
《かみむら えいじ》
1970年山梨県生まれ。慶應義塾大学卒。1993年、サントリー株式会社入社。2000年、株式会社上村商店入社。2012年から4年間、北杜市議会議員を務め、2017年、株式会社富士ジネンテックファーム取締役に就任。2020年より北杜市長に就任し現在に至る。
北杜市は、八ヶ岳、南アルプス、金峰山、瑞牆山、茅ヶ岳などの世界に誇る山々に抱かれ、山の麓から湧き出る素晴らしい名水に恵まれた「名水の郷」です。名水百選に認定された水質の異なる三水系の水が流れるのは、日本中でも北杜市だけです。
この名水は田畑を潤し、飲料水としてはもちろんのこと、企業活動にも大いに活用されております。北杜市から産出されたミネラルウォーターは、ウイスキーや日本酒、お菓子など幅広い分野で活用されております。コロナ禍においては、森や清流の癒しを求めて多くの方が都会から訪れています。
また、日照時間も長く、南西斜面が広大に広がり、ブドウや野菜の適地として、最近特に注目を浴びています。特にワインは世界品質のものが産出されており、続々と北杜市でワイン造りをしたいという方が参入してきています。
里山が残っているということも北杜市の特徴です。戦前から里山は、薪を取り、落ち葉を集め、田んぼに撒いたり、炭を作り、キノコや山菜を採取したりと生活になくてはならない場所でした。戦後、住宅用木材にするために広葉樹から杉や檜といった針葉樹に植え替えられた場所もありますが、広葉樹が残る地域では蝶や虫などの珍しい生物の宝庫となっています。北杜市は国蝶である「オオムラサキ」が日本一舞う地域として知られていますが、オオムラサキの生息に必要なエノキなどの広葉樹の森、いわゆる「里山」が今なお残されていることが大きな要因です。
北杜市は約76%が森林で占められておりますが、森林の管理は大変であり、アカマツの森は松くい虫の被害により枯れ、枯れた木が建物を壊すなどの被害も出ております。しかし、コロナ禍においては森林の価値が高まり、大自然の中でのキャンプや森を活用した癒しの体験などの観光、また、地産地消の木材の需要などが高まっており、以前とは様相が変化しています。
また、森は豊かで清らかな水を育むために無くてはならないものです。このことを小中学生に知ってもらうため、環境教育に取り組むなど、森林や水を守り、育て活用できるように民間企業とも連携しながらこれからも取り組んでいきたいと考えています。
北杜市は豊かな水による水関連や半導体関連、また農業などの産業が盛んな地域であります。水産業では酒類の企業が業績を伸ばしており、ウイスキー、焼酎、ワイン、ビール、日本酒とあらゆる酒類が揃っているのは北杜ならではだと思います。世界レベルの賞を受賞するような商品が北杜から生まれており、これも素晴らしい水の恩恵だと感じます。
また、新しいイノベーションを起こす起業家も北杜市で生まれています。結晶を作る企業などが上場を果たし、今後の成長が楽しみな分野です。
農業においては、北杜市は元来、お米の一大産地でありますが、食生活の変化によるお米離れにより、お米の価格が下落しており対策が急務となっています。市では、お米のブランド価値を上げる対策を行っています。まず、企業と連携し清里地区の牛から得られる糞を、科学的な知見に基づく優良な堆肥にする取り組みを行っています。その堆肥を使い、農家の方に安心安全で体に良いお米の栽培をしてもらっています。そして、そのお米を企業の特別な精米技術によって栄養価が高く、旨味が多い部分を残したおいしい金芽米を作り、ブランド米として売り出す取り組みを始めました。まずは保育園、小中学校の給食に導入し、子ども達に安心で栄養価の高いお米を提供しています。今後は栽培農家を増やし、北杜のブランド米として全国に名前が知れ渡り、販売価格は上がり、農家の収入に貢献できるように努力していきます。
また、その取り組みと並行して、農家の方の栽培技術向上を図るため、お米のコンクールを開催いたしました。令和6年には米の食味国際コンクール開催を予定しており、北杜市から世界一のお米が生まれることを心から願っています。
北杜市には誇れる偉大な先人が二人います。
一人は清里の開拓の父と言われた「ポールラッシュ博士」です。清里のような標高が高い地域は、米作りには適さない地域ですが、博士は農業や酪農を中心とした高原の農村モデルを作り、北杜市を日本中の手本となるような田園都市へと導いてくれました。ポールラッシュ博士の教えは、「DO YOUR BEST and IT MUST BE FIRST CLASS 〜ベストを尽くせ、そして一流であれ〜」です。私たちは博士の教えを忘れることなく、一流を追及してまいりたいと考えています。
もう一人は「浅川巧」氏です。浅川巧は、戦争中の朝鮮に渡り、差別することなく朝鮮人の心に寄り添い友情を育んだ方です。韓国の方々は、今でも浅川巧が育んでくれた友情を忘れることなく、偉大な日本人として尊敬しています。北杜市は、浅川巧の縁で抱川市と姉妹都市を結んでいます。私達は浅川巧の精神を引き継ぎ、韓国と日本が固い友情で結ばれるように取り組んでいきたいと思います。
北杜市は移住人気が高く、特に文化芸術に秀でた方が多く移住しています。モダンアートの「中村キースヘリング美術館」やシルクロードと関わりの深い作品が多く展示されている「平山郁夫シルクロード美術館」、ルオーをメインとする吉井画廊が集めたコレクションを展示する「清春芸術村」など優れた美術館が多くあります。市内のホールでは、クラシックコンサートや歌舞伎、能などの伝統芸能が民間主体で盛んに行われています。市では基金を作り、芸術文化活動を後方から支援しております。アートは地域を元気にできる起爆剤だと考えています。あらゆる世代の方が芸術に親しみ、世界から北杜の芸術を目指して訪れるような場所にしていきたいと思います。
また、北杜の山々に魅せられて登山家、クライミングのプロの方が移り住んできています。世界レベルのアウトドアマンが集う聖地であり、山や川などの様々なフィールドを楽しめる場所として、山やアウトドアの魅力を世界中に発信していきます。
私は、大変欲張りなので世界に誇る芸術、アウトドア、ワイン、食など、北杜の魅力をこれからもどんどん発信し、多くの方に何度も訪れていただく場所にしていきたいと考えています。
皆様も北杜に是非ともお越しいただけたら幸いです!
山梨県北杜市公式サイトhttps://www.city.hokuto.yamanashi.jp/
2021年2月15日号 週刊「世界と日本」第2191号 より
15年迎えた銀座ミツバチ
IT介し拡がる地域連携
NPO銀座ミツバチプロジェクト理事長 田中 淳夫 氏
《たなか・あつお》
1957年東京生まれ。79年日本大学法学部卒業、(株)紙パルプ会館に入社。2011年専務取締役。2006年「銀座ミツバチプロジェクト」を立ち上げ、10年に農業生産法人(株)銀座ミツバチを設立、代表取締役に就任。著書に『銀座ミツバチ物語』『銀座ミツバチ物語part2』(時事通信出版)など多数。
コロナ禍だから見えてきた地域の力
2020年は銀座の屋上でミツバチを飼い始めて15年目の春、コロナウイルスの広がりで緊急事態を伝えるメッセージが出て、シーズン前に企画していたすべての活動がストップ。つい数カ月前にはオリンピック前の高揚感と共にインバウンドはじめ多くの人が行きかう銀座通りから人が消えた。地下鉄銀座線のホームに降りたとき自分一人だったのは驚きの風景だった。百貨店、ホテル、レストランからバーに至るまで、ほぼ全ての店が扉を閉めた。見事に社会の要請に応えるのが銀座の街である。
全国のミツバチ仲間とネットワークが誕生
こうして下界では経験したことがない世界が広がるが、樹木には花が咲き屋上ではミツバチ達がたくさんの花粉や花蜜を運ぶいつもの風景が広がっていた。人間以外の生き物たちは普通に命の営みを続けている。不要不急が叫ばれる中、私達は密にならないように限られたスタッフのみで養蜂作業を続けていた。
そんな中、たまたま名古屋長者町ハニカムプロジェクトの友人がこの春も作業をしている様子を知って嬉しくて久しぶりに電話した。次々に電話するとこの環境下でも全国の仲間たちが屋上で作業していることが分かった。そこで様々な悩みや課題をオンラインで語り合おうと5月から毎月定期にWEB会議を呼びかけた。今まで私の携帯でつながっていたそれぞれのプロジェクトが、画面を通して20を超える団体が次々と網の目状につながった。こうして全国ミツバチプロジェクト会議がスタートした。
会議を受けて同志社大学ミツバチプロジェクトの服部篤子先生は、大学院生達を使って全国のプロジェクト調査を開始。誰がどんな思いでどんな仲間たちと始めたかをまとめてくれた。
梅田ミツバチでは、Tシャツを購入することで全国ミツバチプロジェクトへ支援金が入る仕組みを作ってくれて、更に12月のお歳暮シーズンに大阪梅田の阪急本店で全国ミツバチプロジェクト仲間たちの蜂蜜販売イベントも共催できた。
ある時は、熊本ハニープロジェクト代表がボランティアを多数集めて豪雨災害の被災地に入るので会議に参加できないと連絡してきた。そこで全国の仲間たちに募金を呼びかけると直ぐに寄付が集まり高圧洗浄機などの資材を購入して活用していただくこともできた。こうして、今まで点で活動していた仲間たちが、つながることで日本全国を俯瞰して面で考えることができるようになった成果は大きい。地域の課題に向き合って自ら動くプレーヤー達のネットワークは、今後様々な形で動き出すと楽しみにしている。
再生可能エネルギーの扉が開く
このオンライン会議の活用は、地域の仲間たちと再エネという別の扉も開いてくれた。
東日本大震災から奇しくも10年。震災以前から福島と縁を作ってきたが、原発事故で理不尽な困難を受けてきた様子を見て、福島から再エネで次の社会を作るべきと考えた。そこで2018年に福島市荒井の農地を購入して高さ3.5メートルの高さに間をあけてパネルを設置し、その下で農産物を作るソーラーシェアリング事業を開始。翌2019年には会津美里町の高齢者施設屋根を借りて発電所を作った。屋根を借りた家賃は、ソーラー下で作る農産物等で支払う。100人の入居者と職員100人で食べていただく仕組みで電気と農産物をつなげている。
この実績から会津電力、飯館電力、徳島地域エネルギー、宝塚すみれ発電等ご当地電力と再エネを販売するみんな電力がNPO会員となった。その1つ徳島地域エネルギーではソーラーシェアリングの下で農薬を使わないコメ作りから養蜂も始めて、再エネ収入の一部で村中に花の苗を配りミツバチと再エネの村として売り出そうと動く。ミツバチ、農薬を使わない農業、そして再エネはとても相性が良かった。
宝塚すみれ発電所では、ソーラーシェアリング下で作った芋で私たちの芋焼酎「銀座芋人」の仲間になって「宝塚芋人」もできる予定で、今春からは養蜂と共に荒れた里山の間伐材をバイオマスボイラー活用して豊かな森へ再生する事業も走り出す。兵庫県、宝塚市、神戸生協、地元の大学など参加する地域循環共生圏構想にミツバチはぴったりだ。
最後は、岩手県ジオファーム八幡平。馬術でオリンピックを目指していた30代の船橋慶延氏は10年前に縁のない岩手山の麓で馬牧場を開いた。人に育てられ言葉を理解し30歳まで生きるのにも関わらず、走れなくなると3、4歳で殺処分されて食肉になる現実を見てきた船橋氏は、こうした状況を変えたいと馬のセカンドライフを実現するために馬を連れて家族と移住する。隣の温泉から熱を引いて馬ふんから堆肥を作り、更に植菌してマッシュルームを栽培する事業を開始した。
当初は全く出荷できずに資金も底をついていつ辞めるかハラハラしていたが、技術が向上して昨年は年間8000万円まで売り上げを伸ばすことができたそうだ。
この秋から冬にかけて生産が需要に追い付かない状態で、この春4棟あるマッシュルーム棟を更に2棟増設し、また馬ふん堆肥を増やすため、引退馬のみならず競走馬も餌代付きで預かるようになると25頭まで増えてくる。この馬のための厩舎も増設するという計画を聞き、銀座ミツバチではこの屋根にソーラーパネルを設置してマッシュルーム棟に電気を送る自家消費型の事業を提案し進めている。
東北は冬に仕事が少ないが、ここでは若いママたち20人が働いていて選別、箱詰めに忙しい。今後の需要を見越して障がい者雇用も進めようと話し合っている。馬とミツバチのコラボは多くの人の興味をそそる。彼は2~3年後、近所の耕作されていない広大な場所でも同じ様に牧場、堆肥場、マッシュルーム棟を作り、将来売上10億円を目指すと夢を語る。
仮に売り上げが10億円を超えると馬420頭の馬厩肥が必要で、東北中の牧場から馬ふんを集めて一大サプライチェーンを作ると壮大な構想を練っている。
コロナ禍は、突然人々の行動を制限して心を閉ざしてしまったように思う。しかしITの力を得て今までにない連携ができることを証明してくれた。
会えないからこそ見えてきたネットワークと地域の宝。地球温暖化のみならず早く手を尽くせばよみがえっていく地域社会の風景も見えてきた。
厳しい状況の今だからこそ、新年に復活する日本の風景を夢見て行動したい。
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