特別企画
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2023年7月3日号 週刊「世界と日本」第2248号 より
南海トラフ巨大地震
— 犠牲者数はどれだけになるか、今もわからない —
関西大学特別任命教授・社会安全研究センター長
京都大学名誉教授 河田 惠昭 氏

《かわた よしあき》
関西大学特別任命教授・社会安全研究センター長、人と防災未来センター長。京都大学名誉教授。国連SASAKAWA防災賞、防災功労者内閣総理大臣表彰など受賞。日本自然災害学会および日本災害情報学会会長を歴任。主な著書に『これからの防災・減災がわかる本』『にげましょう』『日本水没』『津波災害(増補版)』『河田惠昭自叙伝』等。
28年前、阪神・淡路大震災を起こした兵庫県南部地震は、南海地震が活動期に入った証拠であるという多くの地震学者の意見に従って、政府は中央防災会議に専門調査会を立ち上げ、科学的な検討を加えてきた。
そして、2011年東日本大震災をきっかけとして、南海地震の想定震源域が拡大され、具体的に南海トラフ巨大地震として特徴がまとめられ、それに従って2013年に筆者が座長となって、従来の方法に従って被害想定が実施された。その結果、犠牲者数は32万3千人(その後、23万1千人に減少)、社会経済被害は220兆円と試算された。その後、この地震への対処方法は、2016年熊本地震がきっかけで変更された。なぜなら、熊本地震よりも被害が大きくなった場合、現在の災害救助法や災害対策基本法などでは対処できないことが、筆者が座長を務めた検証作業で明らかになったからである。だから、地震学者の多数の同意を得て、東海地震を含む南海トラフ巨大地震(これ以降、南海地震と呼ぶ)は予知できないことになった。予知できなければ、現行の法律は不作為とはならないからである。これは緊急とはいえ、やむを得ない対処だった。問題はその後である。1978年に議員立法で成立した「大規模地震対策特別措置法」は予知ができることを前提としていたので廃案にしなければならなかった。しかし、すぐにはできないので、とりあえずそれまでの首相の警戒宣言に代わって、気象庁長官が臨時情報を発表するという代替案に置き換わった。筆者はこのような対処方法に反対した。その理由は、南海地震は何の前触れもなく、突然発生するという最悪の前提で対処しなければならないと考えたからである。歴史に残る9回の内、安政と昭和の2回の確実な「半割れ」の前例など役に立つわけがない。その証拠に1707年宝永地震は東西の「半割れ」が同時に起こる「全割れ」で、49日後に富士山が爆発した。
この代替案の根拠となったのは、この前例と、世界各地で発生した同様の巨大地震の起こり方を参照すれば、そこに何等(なんら)かの法則性が見出され、それを利用できるという仮定である。そこでは、長年にわたる静岡県各地での各種観測データの蓄積を利用できるということも考慮されている。しかし、それでも南海地震は不意打ちで、かつ前例のないパターンで発生するという特徴を無視してはいけないだろう。なぜなら、南海トラフにおけるユーラシアプレートの下に北上するフィリピン海プレートが潜り込むというプレートテクトニクス説に従えば、この運動は過去数10万年以上継続しているはずである。南海地震の平均発生間隔を150年と仮定すれば、すでに千回以上も発生したことになる。ほとんどすべての起こり方は未知なのである。
さて、南海地震の被害想定の実施から10年を経過し、当時、たとえば災害関連死の問題はまったく考慮されていなかった。そこで手法の見直しなどの作業が2023年度から内閣府防災で始まった。まず、現在の被害想定結果はどうなのかを示そう。南海地震による人的被害は、地震の揺れ、津波、火災、土砂崩れなどによる前述の値である。社会経済被害に関しては、住宅・建物被害のほか、各種ライフラインなどの定量化できる被害であり、当時、算定できない経済被害の項目はその約2倍あった。したがって、被害額は現行の220兆円どころではなく500兆円を超える可能性があった。このような莫大な経済被害額でも国難災害となろう。筆者は、その後、大災害では社会現象としての『相転移』が起こることを見出し、これを南海地震に適用するように進言してきた。相転移とはどういうものか。たとえば、阪神・淡路大震災で直後に犠牲になった約5千人は、「古い木造住宅の全壊・倒壊」という相転移で発生した。それまでは100年前の関東大震災の事例から、都市で地震が起きても、火災さえ発生しなければ大きな被害は発生しないと誤解されてきた。東日本大震災では、津波で約1万6千人が犠牲になったが、その主たる原因は、避難する時間があったにもかかわらず浸水域の住民の約27%が「避難しない」という相転移である。それでは、地震マグニチュード9の南海地震ではどのような最悪のシナリオが考えられるのか。ここでは人的被害に的を絞って紹介しよう。それは「避難遅れ」という相転移の発生が懸念される。高さ3m以上の大津波の来るところでは、例外なく震度6弱以上の強い揺れが1分以上、下手をすると3分以上継続すると予想されている。これでは高さが1m以上の家具類はすべて転倒し、家の中は足の踏み場もなくなる。そうすると屋外に容易に脱出できなくなり、避難も遅れる。しかも、このような激しい揺れを初めて経験する住民は、恐怖ですぐに身動きできなくなるだろう。その上、南海トラフ地震防災対策推進地域(震度6弱以上、津波高さ3m以上)に指定された707市町村(全国の40%強)を数える。全国に避難行動要支援者が約800万人存在しているので、100万人単位の要支援者が早期に家を脱出して安全な避難所、津波避難タワーや命山などへの避難はとても困難であると考えられる。さらに、避難に要する十分な時間がある大阪市や名古屋市では、ゼロメートル地帯の水没で、危険に晒される100万人単位の住民は、指定済の津波避難ビルに整然と避難するのかとか、地下鉄や地下街などの日中の万単位の利用客や滞在者が地上に上がり、避難できるのかについても十分検討されているとはいえない。すでに大阪府が2015年に実施した被害想定では、大阪市で住民が東日本大震災のように避難しなければ、現状では11万人を超える津波犠牲者の発生を予想している。しかも、この地震後、有感の余震は1年以上継続することがわかっている。そうなると、災害関連死の増加も心配であり、現状でもおよそ8万人の関連死の犠牲者がさらに増えそうである。