特別企画
内外ニュースでは「特別企画チャンネル」において、週刊・月刊「世界と日本」の執筆者、東京・各地懇談会の講演、専門家のインタビュー記事等の情報を掲載して参ります。
2024年10月7日 週刊「世界と日本」2278号 より
《かわくぼ つよし》
1974年生まれ。東北大学大学院博士課程単位取得。専門は日本思想史。現在、麗澤大学教授。論壇チャンネル「ことのは」代表。(公財)国策研究会幹事。著書に『福田恆存』(ミネルヴァ書房)、『日本思想史事典』(共著、丸善)、『ハンドブック日本近代政治思想史』(共著、ミネルヴァ書房)など多数。
これまで保守の思想の歴史を勉強してきて、改めて、保守の思想の本質は何かと考えると、それは、人間という生き物を愛することに尽きるといえそうだ。保守とは人間を愛することである。言い換えると、人間という、不可思議で、なんとも割り切れない存在に深く目を向け、そうしたありようを愛情と愛着をもって深く受け容れること、そしてそこから出発して、人間世界のあり方を考え、様々な問題に対応していくこと、それこそが保守の根本的な立場といえる。
人間は、実に、割り切れない、両義的な存在である。善と悪を同時に抱え持ち、敬虔であるとともに猥雑であり、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信じる、矛盾と逆説とアイロニーに徹頭徹尾貫かれた存在、それが人間であろう。複雑で、非合理で、不可知で、ときに驚くほど多面的である、それが人間の姿である。他者のことどころか、自分のことだって、その真の姿を見通すことはできない。自己内省したところで、自分という存在の本質が見えるものでもないだろう。それゆえにまた人間は内省しようとするのだろうが。一体自分を突き動かしているものは何なのか、自分が追い求めているものは何なのか、いくら自問自答しても確かな自己認識には決して到達しえない。人間は誰しも、人間知性そのものの限界を感じながら生きている。神や仏・天のように全てを見通し達観したいが、人間に見えるものはほんの一部に過ぎない。その一部も、朧げな姿をまとって、あきれるほどに時間をかけて徐々に見えてくるだけである。人間は有限であるのに、核心的なものを理解、了解するためには無限の時間を要するかのようだ。こうした人間の姿は、まさに人間の自然の姿、宿命の姿であり、否定したくても否定しようのない、まさに絶対肯定の態度で受け入れるほかない、人間の根源的事実そのものであろう。であるならば、その事実を愛情をもって受け入れ、そこから、良い意味での人間らしい世界のありかたを模索する生き方こそが健全であるといえよう。
保守思想が立脚するのは、こうした自然で無理のない、健全な人間観である。というよりも人間の矛盾した姿をありのままに見るならば、保守の立場に立たざるをえないのである。保守は、そんな人間を愛し、そんな人間の可能性を信じ、そんな人間の歴史に敬意を払う思想なのである。それに対し、保守を反動呼ばわりして攻撃する革命派や進歩派、左派・社民リベラルは、どこか人間を軽んじている。だから、人間よりも自分達の信じる理念や信念、正義、理論を上位に置こうとする。そこから人間世界を管理・支配・指導しようとする。そこに無理が生じる。理論と人間の実際とがかみ合わないのだ。人間の世界は、主義やイデオロギーよりも、もっと広く、そして深い。単一の視点から掴めるような底の浅いものではないのだ。それでも彼らは、自分たちの主義主張・イデオロギーを押し通そうとする。そこで何が起こるかは、共産主義革命運動によってもたらされた粛清の歴史を見れば明らかである。左翼だけではない、右翼の革命運動でも、同じことは指摘できる。どちらにもしても、自分達が信じる一面的な正義だけで人間・社会を管理・支配しようとすれば、人間・社会の自然な姿は崩壊・解体してしまう。現代の西側諸国では、日本も含め、社民リベラルが推進するポリコレ、キャンセルカルチャー、Wokism(過激な反差別主義)が自然な人間世界を破壊しようとしている。彼ら・彼女らの中には不健全で、歪んだ知的エリート主義があり、自分達の知的優位性・特権性の誇示のために運動を展開しているような側面があるから、人間の現実の姿など最初から関心がないのかもしれない。そこには、人間存在に対する愛情の眼差しが全く見られない。それどころか「知的エリート」たちの権力基盤である大学や出版、メディア、教育などの領域を総動員して、人間世界の自然・摂理を無視するかのような破壊活動に血道をあげている。反差別と人間の自然な姿を肯定することとは決して対立するものではない。人間という生き物の宿命に愛着を持ちながら、反差別運動を展開することはできるはずだ。
国際情勢に眼を転じても、冷戦崩壊後のアメリカが主導してきた国際政治は、あまりにも善・悪の二元論・二分法に支配された、非人間的なものだった。アメリカ型のリベラルデモクラシーこそ人類の正義とばかりにイデオロギーで世界を支配し、その覇権主義に対する反感、脅威を抱いたスラブ・ロシアはウクライナ侵略戦争という手段を用いてアンチテーゼの挙に出た。人間が多面的であるように、国家・国民・民族もまた多面的であり、それぞれの個性・感性・価値観・文化・美意識を持って生きている。それらに対する敬意と配慮、関心こそが国際社会の基盤にならなければならない。人間の多元的な世界を破壊・解体する帝国主義・植民地主義・選民主義は、国際政治の世界から一掃しなければならない。
そして、それが出来るのは、日本という文明・国家ではないだろうか。少なくとも日本には、そのための思想的貢献が出来るはずだ。日本にはヘゲモニズムや選民思想とは対極的な平等思想を育んできた歴史がある。その平等の範囲は人間以外の生き物を含み、自然全体に及ぶ。生きとし生けるものが皆それぞれの個性と特徴を活かしながら共にこの世界で調和しながら暮らしていくことを理想と考える共生・共存の思想が連綿と流れている。強者を主体とするヒエラルキーを設定しない日本の「多様性の哲学」を世界に広く訴え、それによって平和で友好的な国際世界を樹立すること。そのような人類の未来像を描き出し、その実現に向けて行動していくこともまた、日本の保守が今なすべき責務であるといえよう。
2024年10月7日 週刊「世界と日本」2278号 より
『国際収支から日本経済を展望する』
-産業力強化と共に運用力強化も重要-
東洋大学 元教授
益田 安良 氏
《ますだ やすよし》
東洋大学・成蹊大学兼任講師、博士(経済学)。1958年生まれ。81年京都大学経済学部卒業後、富士銀行入行。88年、富士総合研究所に転出し、ロンドン事務所長、主席研究員等歴任。2002〜23年、東洋大学経済学部・大学院経済学研究科、情報連携学部教授。16〜18年、国立国会図書館専門調査員。専門は金融、国際経済。
「国際収支」というエコノミストしか見ない統計の名が、最近、総合月刊誌にも登場する。財務省の神田眞人前財務官が主催する「国際収支から見た日本経済の課題と処方箋」懇談会の報告書が7月2日に発表されたからであろう。
神田前財務官は、「国際収支に国の経済力が表れる」と考え、国際収支統計から日本経済の課題を読み取ろうということで懇談会を開催したとのことである。もっともな問題意識である。以下、この財務省の報告書の内容を踏まえて「日本経済の課題」を筆者なりに考えてみた。
貿易・サービス収支の赤字が定着
日本は、1996年以降30年近く経常収支の黒字を計上してきた。2023年度も過去最大の25兆円の黒字を計上し、これは世界では中国、ドイツに次ぐ第3位の大きさである。しかし、2018年度からは貿易・サービス収支が赤字に転じる一方で、第1次所得収支の黒字が急拡大して経常収支を支える構図になっている。これを「貿易立国から投資立国に変わった」「クローサーの国際収支の発展段階説における『成熟債権国』の段階に入った」と捉える論者が多い。
まず、日本のお家芸のモノの輸出の衰えは明らかである。神田氏が「自動車の一本足打法」と嘆くとおり、今や巨額の資源・食料品の輸入を自動車関連の輸出では賄えず、2021年度から貿易収支は赤字となっている。
サービス貿易についても、サービス輸出にカウントされる訪日外国人(インバウンド)増加により旅行収支黒字は急拡大したが、コンピュータサービス、著作権等使用料、専門・経営コンサルティングサービスからなるデジタル分野では巨額の赤字を計上している。その結果、2018年度以降、貿易・サービス収支は赤字が定着してしまった。巨額の貿易・サービス収支黒字を計上していた2010年までに比べ、日本産業の国際競争力が低下したことは明らかである。競争力を高め、再び貿易・サービス収支を黒字にすることが第一の課題である。その為には、生産性向上、労働市場柔軟化、人的資本拡充等、多様な課題がある。
巨額の所得収支黒字を大事に育てよう
他方で、日本の個人・企業等が保有する対外純資産が生み出す第一次所得収支の黒字が経常収支黒字を支えている。第一次所得収支の黒字は、2021年度から増加ペースを速め2023年度には36兆円に上った。主因は、円安と海外金利上昇による日本の投資収益受取の急増である。
日本の所得収支は、長期的に黒字である。長年にわたる経常収支黒字が累積して対外純資産(資産—負債)が世界最大に膨らんでいるからである。一部に「所得収支黒字の約3割を占める直接投資収益再投資は日本に還流せず、これを除いて経常収支を考えるべき」という論調があるが、これはおかしい。たとえ日本に還流しない再投資でも、対外直接投資の収益は日本居住者の所得であることに違いはない。
貿易・サービス収支が赤字だが、巨額の所得収支黒字が補い経常収支が黒字を維持するという国際収支構造を見て、「過去に汗水たらして稼いだ貿易黒字で貯金をため込み、今はその利子・配当の金融所得を頼りに生活する資産家」と否定的に捉える論者がいる。しかし、筆者は恥ずべきではないと考える。20世紀初頭まで覇権を握っていた英国は、戦後産業が衰えても長らく海外からの金融所得に頼って高い所得水準を維持できた。日本も今後長らく、所得収支黒字で所得水準を維持できると期待される。
むしろせっかく保有している巨額の対外資産から、できるだけ大きな投資収益を得て所得収支黒字を拡大することが肝要であろう。そのカギは、日本の金融機関の運用力と、対外直接投資の質の向上が握る。これが第二の課題である。
経常収支黒字を保つには財政再建が不可欠
なお、何が何でも経常収支が黒字でなければならないわけではない。企業は赤字が続けば存続できないが、国は対外ファイナンスさえできれば経常収支が赤字でも繁栄できる。米国が好例である。そもそも世界の経常収支の合計はゼロサムであり、すべての国が黒字なることはできない。
経常収支が赤字でも、ファイナンスに支障が生じないように国債の信用力を保ち、対日投資が活発になされる環境を整備し、円を国際化し、海外から円滑に資金流入がなされることが重要である。特に貧弱な対内直接投資を活性化することは不可欠である。これが第三の課題である。
とはいえ、できれば経常収支は黒字であった方が良い。その為には、前述の稼げる産業を育てること(第一課題)も重要だが、財政赤字をこれ以上拡大させないことも重要である。経常収支は、家計・企業・政府の各部門の純貯蓄(貯蓄—投資=資金余剰)の合計である国内部門の資金余剰と等しい。現在は、政府部門の資金不足を、家計・企業部門の膨大な資金余剰で補って余るので経常収支は黒字になっている。今後、企業利益は縮小し、家計の貯蓄率は高齢化に伴い低下し、家計・企業の資金余剰は縮小する。その時、政府の資金不足を縮小しておかねば、日本は経常収支赤字国に転落する。財政再建が必要であり、これが第四の課題である。
経常収支から為替レートを論ずるのは元々無意味
経常収支の細かい分析を基に円の需給、ひいては為替レートを語る論を最近よく目にする。「経常収支のうち収益再投資分は為替の需給に影響せず、これが経常収支黒字でも円安が進む原因だ」といった説明がなされる。しかし、国際収支は事後的な取引結果を記すだけであり、為替レートに影響する事前的な売買意欲は示さない。
また、経常収支は、理論上、対外資本流出入を示す金融収支と一致する。例えば、輸出で得た外貨を売れば円高要因となるが、その資金は必ず対外純投資(資本純流出)となりこれは円安要因となる。経常収支と、これに一致する金融収支は為替レートに逆方向に作用するのである。
経常収支が為替レートを決めるという「フロー・アプローチ」は、各国が変動相場制に移行した1973年直後には信じられていたが、その後経常収支よりも資本流出入の方が重要なファクターであることがわかり、神通力を失った。国際収支で為替レートを語る論はもっともらしいが、根本的に理屈が伴っていない。