特別企画
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2025年1月6日号 週刊「世界と日本」2284号 より
《まつうら みつのぶ》
1959年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部国史学科教授。博士(神道学)。皇學館大学を卒業後、大学院博士課程に学ぶ。専門は日本思想史。歴史、政治、教育に関する評論、随筆など幅広く執筆。著書に『新訳 留魂録 吉田松陰の「死生観」』〈PHP研究所〉など多数。最新刊は『神道学博士が語る 日本に生れたことが嬉しくなる 日本史11話』上・下(経営科学出版)、『不朽の人 吉田松陰と安倍三晋』(明成社)
いわゆる「自由主義」の国々は、「選挙」で政治家を選んでいます。わが国も、もちろんそうで、したがって「選挙」は、すべての国民の生命・財産に直接関わる、極めて重要なもののはずです。
しかし、わが国では、近ごろ「投票率の低下」が止まりません。つまり「棄権」が多発しているわけですが、いったいなぜ、そういうことになってしまったのでしょう?
私は、「日本思想史」という学問をしてきた研究者の端くれですが、近ごろ、“どうやらその遠因は、近代日本の学者・思想家にあるのではないか”と思いはじめています。
つまり、明治維新からあとの欧米の学問や思想の“輸入の仕方”に、大きな欠陥があって、それが、いまの「投票率の低下」の遠因になっているのではないか、と考えるようになったのです。
「人権」という言葉は、現在、耳にしない日はないほど聞かれる言葉ですが、それを広めたのは、明治の「啓蒙思想家」と呼ばれる人々です。福沢諭吉(一八三五―一九〇一)や加藤弘之(一八三六―一九一六)などが有名ですが、二人とも“もとは幕臣”というところが共通しています。
つまり、安政の大獄から戊辰戦争まで、次々と「悲しきいのち」を積み重ねて、新しい時代を切り開いていった“幕末の志士”とは、無関係の立場にいた人々です。ですから彼らには、“幕末の志士”たちに対する“思い入れ”など、ほとんどありません。
ですから、明治の「啓蒙思想家」たちは、新しい時代を、まるで“天から降ってきたもの”のように感じていたのではないでしょうか。一方、洋学者であった彼らから見れば、「和漢」が「開化未然」の国々であること、「欧州」が「文明各国」であることなどは“自明のこと”であったようです (加藤弘之『国体新論』)。
こうして、明治の「啓蒙思想家」たちは、“幕末の志士”の「悲しきいのち」などは、ほぼ一切無視しつつ、新しくおとずれた時代の上に、自分たちの、いわば“新しい信仰”の対象である欧米の制度や思想を、そっくり輸入してしまおう、としはじめたわけです。そのような彼らにとって、「神々の、ご事業」を説く、そのころの「国学者流の論説」などは「愚論」(同前)にすぎないものでした。
しかし、「神々の、ご事業」を否定する明治の「啓蒙思想家」たちは、自分たちの主張のなかにある、ある大きな矛盾に気づいていません。
例えば、加藤弘之は、「人権」を「天賦」のものと書いています(同前)。いわゆる「天賦人権説」です。福沢諭吉も、よく知られている一文ですが、「天は人の上に人を造らず」(『学問のすゝめ』)と書いて、「平等」を説いています。
つまり、明治の「啓蒙思想家」にしても「天」という存在を仮定しなければ、「人権」や「平等」を説くことはできなかったわけです。現在の「学習指導要領」には、「人間の力を超えた者に対する畏敬の念をもつ」(小学校・道徳)ということが謳われていますが、その点から見れば、「天」も「神々の、ご事業」も、それほど違うものではないでしょう。
そういえば、明治になって「議会政治」を導入するさい、わが国の古典の学識をもつ人々は、それを「神代の物語」にあらわれる「神議」(かむはかり/神々の会議)というものの延長線上に理解しようとしていました。
例えば、岩倉具視は「天皇国・日本において、何ごとも公の議論を尊重して、それによってものごとを決めていく…ということは、すでに神代からはじまっていることです」(明治二年の意見書)と書いています。
外来の「議会政治」という制度も、そのように考えれば、わが国の古来の思想をもとに消化できるのですから、それと一体の「選挙権」も、さらに、そのもとにある「人権」、「平等」などという概念も、明治の初年、そのような日本古来の思想にもとづいて消化しようと思えば、できたはずなのですが、明治の「啓蒙思想家」たちは、儒学や皇学(国学)など“古い思想”を排斥したいという気持ちが、よほど先にたっていたのか、そういう知的な作業を、ほとんどしていません。ある意味で、知的に「怠慢」であったともいえるでしょうが、そのことが、じつは今日まで、わが国の学界や思想界に、悪い意味で長く尾を引いているような気がします。
私は、かつて、「本居宣長なら『選挙権』をどう説明するか」という一文を書いたことがあります(拙著『龍馬の「八策」』)。宣長は、わが国の統治権は、アマテラス大神から、天皇に委任(「みよさし」)されたもので、天皇から委任されて徳川将軍が政治を行っている…と主張していました(『玉くしげ』)。
その理論を応用すれば、アマテラス大神から、天皇に委任(「みよさし」)された統治権を、天皇から国民一人一人に委任(「みよさし」)されたものが、私たちの「選挙権」ということになるでしょう。とすれば…、もとをたどれば、私たちの「投票権」は、「アマテラス大神さまから、お預かりしたもの」ということになります。ですから、「棄権」はいうまでもなく、“バチあたりな行い”ということになりますし、さらにいえば「公」の意識に基づかない、私情や私欲に基づく投票行動も、また“バチあたりな行い”ということになるでしょう。“私たちの投票権は、わが国の神々からお預かりしたもの”という意識を、私は今後、広めるべきではないか、と思っています。
そうすれば、わが国は「投票率の低下」に悩むこともなくなるでしょう。八割~九割の人々が投票所に足を運び、あくまでも「公」の意識にもとづいた投票行動をとるようになる時、わが国の未来は、きっと明るいものになるはずです。
2025年1月6日号 週刊「世界と日本」2284号 より
《むらた こうじ》
1964年、神戸市生まれ。同志社大学法学部卒業、米国ジョージ・ワシントン大学留学を経て、神戸大学大学院博士課程修了。博士(政治学)。広島大学専任講師、助教授、同志社大学助教授を経て、教授。この間、法学部長・法学研究科長、学長を歴任。現職。専攻はアメリカ外交、安全保障研究。サントリー学芸賞、吉田茂賞などを受賞。『大統領たちの五〇年史』(新潮選書)など著書多数。
アメリカの歴史で、連続せずに大統領を2期務めたのは、19世紀末のクローバー・クリーブランドただ一人である。その不屈の精神から、彼は「鉄の男」と呼ばれた。ドナルド・トランプがこれに続く。ただし、トランプの不屈の精神には、再選しなければ逮捕され、トランプ王朝が崩壊するとの危惧感が強く働いていたであろう。
だから、トランプ前大統領は圧勝できたのか。
共和党の大統領候補は暗殺未遂事件を乗り超え、高齢批判やタカ派批判もものともせずに、圧勝して再選を果たした。他方、民主党の大統領候補は弱い政権の継承者というイメージを払拭できず、女性擁立の効果も乏しく惨敗した。
いかにも通俗的な解説だと思われるかもしれない。しかし、これは1984年の米大統領選挙の話である。共和党のロナルド・レーガン大統領は1期目の早々に暗殺未遂事件に遭遇するが、これを乗り超えて人気を確固たるものにした。だが、彼は史上最高齢の大統領で、ソ連を「悪の帝国」と呼ぶタカ派として知られた。世界中、反核運動が展開されていた。これに対して、民主党はカーター前政権の副大統領だったウォルター・モンデールを大統領候補に選んだ。そのモンデールはジェラルディン・フェラーロ下院議員を女性初の副大統領候補にした。この戦いでレーガンは実に525人の大統領選挙人を獲得して、文字通り圧勝した。モンデールは地元のミネソタ州とワシントンDCで勝てたにすぎない。今回の大統領選挙でトランプが得た大統領選挙人は312人であり、4年前にジョー・バイデン大統領が獲得した306人と大差はない。これに比べれば、トランプ「圧勝」は大げさである。
さて、今後に目を転じよう。トランプ再選のみならず、上下両院も共和党が制した。いわゆるトリプル・レッドである。これで、誰もトランプ次期大統領を牽制できなくなるのか。もちろん、そうではあるまい。上下両院とも、共和党はわずかに多数にすぎない。しかも、米国の連邦議会議員たちに、党議拘束はない。彼らは選挙区の事情や自分の信条から、トランプの意向に反するかもしれない。 また、米建国250周年に当たる2025年には、中間選挙が待っている。もしこれで上下両院の一方でも多数を失えば、一期限りのトランプ大統領が勢いを盛り返すことは難しい。移民問題や環境問題では、リベラルな州や都市はトランプ政権に反抗しよう。
より重要なことは、2029年1月にトランプ大統領は82歳で退任するが、後任が50歳代なら30歳ほどの世代交代が生じる。これはドワイト・アイゼンハワーからジョン・F・ケネディへの世代交代(27歳)よりも、おそらく大きい。当然、大統領の世代交代は、政界や官界、財界、メディアにも大きく影響しよう。
国際情勢では、ウクライナ戦争と中東での紛争の帰趨が注目される。トランプが言うように、前者は終息に向かうのか。それとも、後者がサウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)にも飛び火して拡大していくのか。ロシアと中国、イランと北朝鮮という反米「四人組」(リチャード・ハース)が協力を強めれば、二つの紛争は一層危険に結びついていこう。
また、トランプはアメリカの優越した立場を利用して、二国間での「ディール」を好む。だが、グローバルなマルチ外交でなければ対処できない課題が、国際社会には数多く存在する。地球温暖化問題はその代表例であり、人工知能(AI)の技術規制もそうであろう。AIには巨大な潜在力と利便性があるが、暴走すれば大きな危険が待ち構えている。だが、トランプは手間暇のかかるマルチ外交には無頓着で、彼に取り入ったイーロン・マスクに至っては、規制緩和と技術至上主義の権化である。
では、日米関係はどうなるのか。トランプ大統領と石破茂首相の「相性」もさることながら、前者は「強い」指導者を好む。だからこそ、彼は「シンゾー」とはうまくいったのである。だからこそ、トランプはロシアのウラジーミル・プーチン大統領にすら好感を抱けるのである。ところが、石破首相の権力基盤は脆弱である。来年夏の参議院選挙までに、いかに日本の内政を安定させるかが、日米関係にとっても死活的に重要であろう。首相が交代するのか、世論の風向きが変わるのか、連立の枠組みが変わるのか、それとも、政権そのものが交代するのか―四つの変数の組み合わせが日本政治を規定しよう。まずは、来年3月の予算成立の駆け引きが、一つの山場であろう。ここで首相が交代し、新首相が衆参ダブル選挙を挑むといったシナリオも、あながちないわけではない。その結果次第では、自公連立政権に国民民主党や日本維新の会を迎えなければならなくなるかもしれない。
先述のように、トランプ次期大統領は「第二のレーガン」を演じ切った。「タカ派」レーガン政権の二期8年の後に待っていたのは、核戦争ではなく冷戦の終焉であった。1980年代を通じて、民主党は敗北を重ねたが、その後には中道路線に舵を切ってビル・クリントン政権を誕生させた。アメリカにしても日本にしても、歴史は一筋縄では読み解けない。
他方で、レーガンの盟友だった中曽根康弘首相は、ソ連の中距離核ミサイルのヨーロッパ配備をめぐって、「平和は不可分」と力説した。今や北朝鮮兵がウクライナで戦っている。中曽根氏の言葉は、ますます真理となりつつある。ところが、石破首相が唱えるアジア版NATO(北大西洋条約機構)どころか、NATOそのものにも、トランプは懐疑的で批判的な目を向けている。われわれがヨーロッパの安全保障に関与し、ヨーロッパをアジアの安全保障に参画させる―この協力なしに、「またトラ」の荒波は乗り越えられまい。そのためにも、防衛費の倍増や反撃能力の保有など、岸田文雄内閣での公約を、石破首相が実行できるかどうかが、試金石になろう。その上で、日本の首相は誰であれ、トランプに了解可能な日米同盟の「物語」を語れなければならないのである。