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特集

「安定的な皇位継承」を可能にする具体的な方策を十分に検討し、現行典範の現実的な改正を実現することを考えるチャンネルです。

2019年6月17日号 週刊「世界と日本」第2151号 より

昭和天皇 そのご動静と苦悩
御聖断の故の終戦

 

外交評論家 加瀬 英明 氏

《かせ・ひであき》 1936年、東京生まれ。慶応、エール、コロンビアの各大学で学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。著書は『グローバリズムを越えて自立する日本』『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』ほか多数。


 私は先の大戦の最後の年の昭和20年の元日の夜明けから、対日占領が終わった1年前にマッカーサー元帥が罷免され離日するまでの昭和天皇のご動静を、『週刊新潮』に連載した。これは昭和49年5月から50週にわたって掲載された。天皇を囲んでいた皇族、政府・軍幹部、侍従、身のまわりをお世話する内舎人(うどねり)、祭祀を介添えする掌典(しょうてん)、巫女の内掌典など160人以上に克明なインタビューを行い、執筆したものである。

 空襲が激しくなるなか、天皇が皇居でどのように過されていたのか、徹底抗戦を叫ぶ軍と、現実との和戦の狭間(はざま)に立たれて、どのように苦悩されたか。連載が始まると、知られなかった真実があきらかにされたために、大きな反響を呼んだ。
 また、海軍軍令部に勤務されていた高松宮殿下が、開戦翌年に海軍がミッドウェー海戦で主力の機動艦隊を失った直後に、「兄宮」(天皇)に宛てて、「この戦争に勝てない」と私信を届けられた秘話を伺って書いたが、殿下がそれまで語られることがなかったので、大きな話題となった。
 昭和天皇は弟宮と会われても、その職責にない者の意見を、取り上げられなかった。
 昭和天皇は私たちとまったく違う時間の尺度を持っておられた。日本を2000年以上にわたる物差しで、考えておられた。
 昭和20年に戻ろう。天皇は軍がまだ勝利を収めることができると、信じられていた。
 2月に近衛文麿公が拝謁して、「日本は戦争に敗れた。今降伏しないと共産革命が起る」と上奏すると、「もう一度戦果を挙げたうえでないと難しいと思う」と、仰言せられた。
 天皇は幼少時から、乃木希典大将、東郷平八郎元帥などの薫陶を受けられて、軍を信頼されていた。梅津美治郎参謀総長が皇居内の防空舎に連日参内して、フィリピンにおける戦況を地図をひろげて上奏すると、「それで大丈夫か。兵站(へいたん)はどうなっておるか」と鋭く指摘されたが、命令されることはなかった。
 硫黄島が失陥し、4月に米軍が沖縄本島に上陸した6日後に、鈴木貫太郎海軍大将に組閣を命じられた。鈴木は木戸幸一宮内相から陛下が「終戦を考慮あそばしておられるように拝察する」ときかされた。
 天皇皇后は御住まいを兼ねた防空舎の御文庫で、しばしば夜、侍従、侍従武官、女官などを招かれて、かるたを楽しまれた。侍従武官が「夜ハ謡かるたノ御相手ニ興ズ。賑ヤカニ遊バサル」と、日記に記している。
 天皇は懊悩されていた。「あのあの」とか、「どうもどうも」とよく独り言をいわれ、朝晩歯ブラシをくわえられたまま、注意申し上げるまで呆然とされておられた。
 5月に木戸と連合国の和平条件について相談され、「和平は早いほうがよい。だが、鈴木は講和の条件についてどうも弱い。軍の完全武装解除について、何とか三千人か五千人残せないか」と仰言られた。木戸が「五千人残しても、有名無実です」とお答えした。
 7月に入ると、天皇は伊勢神宮にある八咫鏡(やたのかがみ)と、熱田神宮にある草薙剣(くさなぎのつるぎ)が米軍に奪われることを、憂慮された。三種の神器のもう一つである勾瓊(まがたま)は、皇居にあった。天皇は木戸に、「万一の場合は、自分がお守りして運命を共にするつもりだ」と、いわれた。
 昭和天皇は、いつ終戦を決意されたのだろうか?
 天皇は前年10月に靖国神社の例大祭に御幸されたのを最後に、東京空襲が始まったので、皇居から出られなかったが、3月10日に東京大空襲によって十万人が死亡したと推計されると、被災地を視察されたいといわれた。
 軍は「一億玉砕」の本土決戦を決めていたから強く反対したが、3月18日に皇居を出られて、1時間以内に往復できる深川の富岡八幡宮に御幸された。
 天皇は神社の境内から四囲の焼け野原を見入られて、「こんなに焼けたか・・・」と絶句され、御料車へ促されるようにして戻られた。私は天皇がこの時に、終戦を決意されたにちがいないと確信した。だが、私の推測でしかなかったので、そう書くことができなかった。
 富岡八幡宮の大鳥居を潜ると、伊能忠敬の銅像がある。忠敬はここで成功祈願を行ってから、全国測量の第一歩を踏み出した。
 私は忠敬の玄孫(やしゃご)に当たるので、“江戸の三大祭”といわれた富岡八幡宮の例大祭が江戸時代を通じて、8月15日であることを知っていた。天皇が終戦を決意され、例大祭の日に大戦が終わったのは、御祭神の神威によるものだったと考えたが、これもオカルトのようだったので書けなかった。
 天皇はこの後空襲を恐れて、終戦まで皇居の外にお出になられなかった。
 8月に終戦を決定した御前会議が開かれ、天皇は「ほかに意見がないようだから、わたしの意見を述べる。わたしは国内の事情と世界の情勢を考え合せたうえで、これ以上、戦争を続けるのは無理だと思う」と仰言せられて、御聖断を下された。天皇は白手袋の指先で、頬を伝わる涙をしきりに拭われた。
 天皇は阿南惟幾陸相が号泣しているのを見られて、「阿南、阿南! わたしには国体を護る自信がある」と叫ばれた。
 軍人は天皇と軍が一体だと、信じていた。「特攻隊の父」といわれた大西瀧治郎軍令部次長をはじめ、「天皇は先頭に立たれず、皇居で女官と遊んでおられる」と批判する高級軍人がいたが、天皇は日本の最高祭司であられて、武家の棟梁ではなかった。
 貞明皇太后は御前会議の決定を知られると、かえって「皇室が明治維新の前に戻るだけのことです」と、毅然としていわれた。
 歴史によって蓄えられた天皇の大きな力なしに、昭和20年夏の未曽有の危機に当たって、大戦を終えることができなかったろう。
 (この連載は3月に『昭和天皇の苦悩』『昭和天皇の苦闘』に分けて、勉誠出版新書として復刻された。)

 

2019年6月3日号 週刊「世界と日本」第2150号 より

帝室は社外のものなり
福澤諭吉の中の天皇

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『決定版・脱亜論  今こそ明治維新のリアリズムに学べ』など多数。


 福澤諭吉の文章は、当代のいずれの論客に比べても抜群に豊かな表現力に満ちている。福澤の天皇論は、氏の文章のあちらこちらに散見されるが、本格的にこれを主題として論じたものが『帝室論』である。福澤自身が創刊した日刊紙「時事新報」の明治15年4月26日付から5月11日付まで12回にわたって掲載され、後に一書にまとめられたものである。近代社会における天皇と皇室のあり方を縦横に論じて、しかし重要な論点を逸することがまったくない。
 大日本帝国憲法が明治22年に公布され、第一回総選挙が翌明治23年に実施されることになった。国会が開設され、かつ総選挙が行われれば、国民はそれまでとは異なって自由を存分に謳歌できる、薩長藩閥政治の重苦しい時代からも解き放たれる、という期待感が社会に充満していた。
 この時期の社会思潮の中に身をおいて、福澤はかかる状況では天皇と皇室が政治利用されかねない、という深い危機感を抱くにいたったのであろう。本格的な帝室論を執筆すべきはこの秋(とき)だ、という切迫した気分が文章の端々から伝わってくる。私のつたない解説はできるだけ避け、福澤の言説そのものに目を落とすことにしよう。
 「帝室は社外のものなり。苟(いやしく)も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其(その)主義において帝室の尊厳と其神聖とを濫用(らんよう)す可(べか)らず」という一文からこの著作は始まる。というより、この最初の一文が論説のすべてを凝集しているといっていい。
 国会開設と総選挙の実施が交付されて以来、政党の議論がさまざまな問題について沸騰しているが、「抑(そもそ)も政党なるものは各自に主義を異にして、自由改進と云ひ保守々旧と称して互に論鋒(ろんぽう)を争ふと雖(いえ)ども、結局政権の授受を争ふて己れ自から権柄(けんぺい)を執(と)らんとする者に過ぎず」
 次いでこうもいう。
 「抑も一国の政治は甚(はなは)だ殺風景なるものにして、唯(ただ)法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、其約束に従ふ者はこれを許し、従はざるものは之を罰するのみ。畢竟(ひっきょう)形態の秩序を整理するの具にして人の精神を制する者に非(あら)ず」
 福澤はここで一国の政治というものは、所詮は法律を制定・交付し、人民をしてこれに従わせるという、つまりは形態の秩序を作り出すことだけを任務とする、そういう実に「殺風景」なるものだという。
 法律を制定・公布するだけで「社会の衆心の収攬(しゅうらん)」が可能かといえば、そう簡単なことではない。衆心収攬のためには、形態だけではなく、何より精神を欠かすことができない。精神を収攬するものが帝室に他ならない、というのが福澤の主張のポイントである。
 そして、帝室が国民精神を収攬するためには、帝室が「政治社外に在るに非(あら)ざれば行はる可(べか)らざる事なり」といって、帝室論の冒頭の一文に返る。
 さらに、福澤は論をこう進める。すなわち、政治とは政事のことごとくに対応してこれを処理し、社会の外形的秩序形成に資するものであるが、他方、「帝室は直接万機に当らずして万機を統(す)べ給ふ者なり」という。
 天皇や帝室などは、これが存在せずとも別に不都合はないといった考えをもつ人もいようが、思いちがいもはなはだしいと福澤はいう。
 「精神と形態と孰(いず)れが重きや。精神は形態の帥(すい)なり。帝室は其帥を制するものにして、兼(かね)て又その形態をも統(す)べ給ふものなれば、焉(いずく)んぞ之(これ)を虚位と云ふ可(べ)けんや」
 ここは少し読みづらいところかもしれないので、現代文に直しておこう。
 “精神と形態のいずれが重要か。精神こそが形態を定めるものである。帝室はまぎれもなく形態の中心に位置し、形態の全体を一つにまとめる役割をもつ。どうしてこれを虚位などということができようか”
 元号が平成から令和に変わった。この慶事に国論が湧いて、久方ぶりに日本人の多くが幸福感に浸っているかのように感じられる。なぜ改元が国民に幸福な感覚を呼び覚ますのか。この一事を考えてみるだけでも、「あゝやっぱり私どもの心底には天皇というものが大いなる存在として潜在しているのだ」という認識に改めて誘(いざな)われるのではないか。
 天皇は日本の長い歴史の中で権力とは無縁の存在であったが、それがゆえに高い権威をもって日本の社会と文化の「帥」でありつづけた。永遠にそうありつづけて欲しい。
 福澤の帝室論の最初の一文をもう一度を掲げておこう。いまなおまったく風化していない明治15年の文章である。
 「帝室は社外のものなり。苟も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其主義において帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可らず」

 

2019年5月6日・20日号 週刊「世界と日本」第2148・2149合併号 より

昭和から平成まで
天皇と皇室報道の変遷

 

株式会社テーミス 代表取締役社長 伊藤 寿男 氏

《いとう・としお》 昭和9年(1934)、静岡県生まれ。早稲田大学卒業後、講談社に入社。
『月刊現代』『週刊現代』『FRIDAY』編集長を経て取締役に。この間、日本雑誌協会編集委員会副委員長、取材委員長、雑誌記者会幹事長を務める。退社後、(株)テーミスを設立し、1992年に『月刊テーミス』を創刊。現在に至る。著書に『新マスコミとつき合う法』など。


連ねられた尊崇の言葉

 昭和に続き平成が終わったいま、その間の天皇陛下と皇室を巡るメディアの報道はどう変わったか。
 昭和20年8月15日までは陛下と皇族への尊崇を示す最大級の言葉が連ねられていた。
 それが終戦後一変して、平易な言葉が使われるようになったが、それでもこと陛下のことになると制約や自粛がされていた。新聞と唯一の放送局だったNHKのときは、宮内庁の発表する公式的事象が中心だった。それが民間放送の出現と週刊誌の跳梁によって、皇室を巡る芳しくない事件が報じられるようになったが、まだ注意と配慮は並み大抵ではなかった。
 戦後、まだ活字を1つずつ拾っていた時代、ある新聞が「天皇階下」としてしまった。すでに刷ったものを廃棄したことは勿論だが、以後は「天皇陛下」という4文字をひとつにまとめた特注の活字を作ったという。しかしその後、ある週刊誌が「天脳陛下」と誤植したため、慌てて回収したこともある。これはワープロの変換ミスだが、戦前はもちろん戦後も皇室を巡る報道では、国民の一部からの「不敬だ」という直接行動を伴った批判を恐れていたのである。
 戦前の小学校(戦中は国民学校)にあった陛下の写真を飾った奉安殿が火事で焼けたとき、校長が責任を感じ自殺したこともある。群馬県桐生市へ行幸したときは先導車の警官が予定の訪問先を1カ所外し、そのため陛下の車が一時行方不明となる大騒ぎがあった。当時の首相が宮内庁に陳謝するだけでは収まらず、警官が責任を痛感し自殺してしまった。
 これらを当時の新聞は賞讃こそしなかったものの、「責任を取った」と肯定的に報じたものだった。戦前の皇室報道は内務省(当時)と宮内庁の厳しい管理下にあった上に、一部の国粋団体が言葉遣いや表現を発見すると、強く抗議することがあったからである。

GHQ制約下の皇室報道

 それが昭和20年8月15日で一変した。それを端的に示す報道をあげよう。大正天皇と昭和天皇の崩御を伝える記事である。
 大正天皇の場合、大見出しが、「聖上崩御」であり、続けて「寶(ほう)算四十八歳に渡らせ給ふ」さらに「赤子の祈りも遂に空し」と最大級の敬語で伝えている。
 これに対し昭和天皇となると、「天皇陛下崩御」であり、年齢も病気も「87歳、十二指腸がんで」と平易な表現で報じた。天皇報道の戦前と戦後の明確な違いがここに表れている。では戦後は全く自由な報道が出来たかというと連合軍総司令部(GHQ)の管理下で、検閲や報道禁止が彼らの意志や都合で行われていたのである。
 戦後の国民に衝撃を与えた写真がある。連合軍総司令官だったマッカーサー司令官(以下、マ司令官)を天皇が訪問し、2人が並んだ写真が新聞に大きく掲載されたのである。マ司令官は戦勝国のトップとして厚木飛行場に降り立ったときの服装のまま、一方、天皇は正式なモーニング姿だった。背の違いもあって戦勝国と戦敗国の姿をまざまざと見せつけるような写真だった。
 この写真の掲載もGHQの指示によるものだったし、戦後まもなく始まった天皇の地方巡幸の様子を報じさせたのも同じだった。唯一の放送局だったNHKは国民に話しかける天皇の肉声をそのまま放送させられた。
 それは「人間宣言」した天皇の実像を伝える効果はあったが、天皇が発する「あっ、そう」は一種の流行語にもなった。GHQは日本統治に利用するために天皇戦犯論を排し、地方巡幸を奨励し報道させたのだった。
 その一方で、食糧難に不満を募らせた群衆が皇居に押しかけ「汝ら人民飢えて死ね、朕(ちん)はたらふく食っている」というプラカードを掲げたデモの模様や文言は自由に報道させたのだった。講和条約締結まで皇室報道はGHQの制約の中にあったといえよう。

問われる今後のメディアのあり方

 昭和35年頃まで天皇報道はもちろん皇室を巡る情報は大新聞とNHKによってほぼ独占されてきた。民間放送は大新聞がバックだから、彼らも加わった宮内庁記者会が、皇族の記者会見なども仕切ってきた。
 私が日本雑誌協会雑誌記者会幹事長だった40年前、雑誌代表も記者会見に参加したいと宮内庁の総務課長に申し入れた。そのとき記者会幹部が総務課長が言質を与えないよう面会している席の周囲をうろついていたものだ。その数年後、やっと記者会見に雑誌代表も出席できるようになったが、記者クラブの閉鎖性と既得権に縋る姿は「報道の自由」とはほど遠いものだった。
 新聞やNHKは天皇の公式行事や皇族の記者会見などは報じるが、不祥事に関してはタブー視している。それを破ったのが民間放送の情報番組であり、週刊誌である。
 昭和天皇や平成の天皇の国民に寄り添う姿勢や行動は尊崇に値する。平成の天皇・皇后両陛下が戦没者の霊を弔い、災害の被災地や地元の被災者を見舞う姿は国民の心に深く刻まれている。
 しかし皇族の言動の中には、国民が疑問や不安を抱くものも少なくない。いったいどうなっているのか、次世代皇室はこのままでいいのか―これらの疑問や不安に応えているのが雑誌メディアであるのが現実だ。
 民間放送や雑誌には、まだチェックというか検証機能がある。ところがネットの急速な発展は、天皇報道を含めて憶測を交えた無責任な情報を撒き散らしている。
 「令和」の時代を迎え、今上天皇と雅子皇后へは皇室の役割をどう考え実行して行くのかという課題が課せられている。新聞が相変わらず公式発表に安住し、ほほえましいエピソードばかり伝えていては国民に飽きられてしまう。また雑誌は事実に即して次世代皇室に正しい批判と提言が求められる。
 メディアは改めて皇室報道のあり方を再考する必要があるが、同時に皇族にも国民の代表として「ノブリス・オブリージュ(高貴な者に伴う義務)」に徹した言動が求められていると思う。

 

2019年4月15日号 週刊「世界と日本」第2147号 より

皇位継承
その来歴と意味を探る
諸行事は敬神崇祖の表れ

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所教授 所 功 氏

 まもなく、第一二五代の今上陛下(85歳)が4月30日で退かれ、翌5月1日から皇太子殿下(59歳)が新天皇の地位に即(つ)かれる。このような「譲位」による御代替りは、約二百年ぶりのことである。それに伴って、どんなことがどのように行われるのか。すでに政府と宮内庁では、基本的な日程と方針を内定し公表している。しかしながら、それぞれの来歴と意義は、まだ十分に説明されていないように思われるので、この機会に、その要点を簡略に説明させていただきたい。

《ところ・いさお》 昭和16年(1941)、岐阜県生れ。法学博士(慶応大学、日本法制文化史)。平成24年(2012)から上記の現職。
 著書に『歴代天皇の実像』(モラロジー研究所)、『天皇のまつりごと』(NHK新書)、『象徴天皇“高齢譲位”の真相』(ベスト新書)、共著『皇位継承』、『元号』(共に文春新書)など。


なぜ、何に基づいて「譲位」されるのか

 現在の天皇に関する制度は、昭和21年(1946)11月3日(明治節)に公布された「日本国憲法」により、「日本国の象徴」(国家の代表)、「日本国民統合の象徴」(国民の中心)と位置付けられている。
 しかも、その皇位は「世襲のもの」と定められ、神武天皇以来のご子孫により承(う)け継がれる。ただ、具体的な継承者の資格・順位などは、「皇室典範」で決められている。
 その第四条に「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」とあるため(明治以来の旧典範も同趣)、昭和天皇と同様、終身在位されるもの、と思い込んできた。
 ところが、国家・国民統合のために、象徴天皇のお務めを全身全霊で果たしてこられた平成の天皇陛下は、数年前からその責任と役割を、後継者の皇太子殿下に譲る決意をされていることが判明した。
 そこで、政府は慎重に検討を続け、また国会も超党派で協議を重ねた結果、1昨年6月「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が、衆参両院とも出席者全員の賛成により成立するに至った。
 これによって、現行典範の終身在位は原則的に残しながら、ご高齢を主な理由に「特例」として「退位」されることが可能になったわけである。

「退位の礼」と「剣璽等承継の儀」

 天皇が皇嗣(主に皇太子。それ以外の例もありうる)に「譲位」された例は、飛鳥時代の皇極天皇(女帝、645年)から江戸後期の光格天皇(1817年)まで、60近くみられる。
 しかし今回は、約二百年ぶりのことのため、政府と宮内庁で古記録などを参考にして、新時代にふさわしい儀式をかたちづくるため、各方面に協力を求め、ようやく大筋が決定した。
 まず憲法に配慮して「特例法」は「譲位」でなく「退位」と称している。しかし、それは「即位」に対応する重要なことであるため、4月30日夕方の儀式は「退位礼正殿(せいでん)の儀」と名付けられ、国事行為として実施される。
 その際、正殿(松の間)に両陛下が「剣璽(けんじ)」を伴って出御(しゅつぎょ)されると、内閣総理大臣から感謝の言葉を申し上げ、天皇陛下が「おことば」を述べられる。そこに皇太子同妃両殿下および成年皇族が供奉(ぐぶ)され、三権と地方の代表者などが参列する。
 ついで翌5月1日の午前、法的には午前零時に皇太子から天皇となられる新陛下が、正殿(松の間)に入御(にゅうぎょ)され、侍従の捧持(ほうじ)する「剣璽等」が承け継がれる。
 その「剣璽」は、古来「三種の神器」と称する中の「宝剣(ほうけん)」と「勾玉(まがたま)」であり、「等」というのは国事行為などで押さしめられる公印(金印)の「天皇御璽(ぎょじ)」「大日本国璽」である。
 これらは現行典範と同時に公布された「皇室経済法」の第七条で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣がこれを受ける」と定められている。つまり皇位と一体不離の「もの」扱いであるから、いわゆる政教分離に抵触しないと解され、これを承継する儀式も国事行為として実施されることになる。
 その儀場に出られるのは、皇位継承の資格を有する成年皇族(新天皇と秋篠宮と常陸宮)のみと伝えられている。しかし、それ以外の女性皇族も未成年皇族も、現皇室の構成者であるから、将来に備えて臨席されることが望ましいと思われる。

明治と大正・昭和の「御大礼」

 この「剣璽等承継の儀」により、名実ともに第一二六代の天皇として立たれる新陛下は、政府と宮内庁で諸準備を整えると、今秋の10月と11月に「即位礼」と「大嘗祭(だいじょうさい)」(併せて大礼という)を皇居において行うことになる。
 ちなみに、明治天皇は、慶応4年=明治元年(1868)8月、京都御所の紫宸殿(ししんでん)で盛大に「即位式」を挙げられ、東京へ遷られてから同4年11月、皇居の西御苑で「大嘗祭」を厳粛に行われた。
 ただ、今回の大礼は、大正と昭和の大礼を基本とし、前回(平成2年)に準じて若干の修正が加えられると報じられている。その基本が確立されたのは、明治天皇の御叡慮によるものにほかならない。
 それを承けて、明治22年(1889)制定の「皇室典範」第十一条に「即位の礼及び大嘗祭は、京都に於て之を行ふ」と決められ、同42年公布の「登極令」(同附式)に、より詳しい実施細則が作られた。
 そのおかげで、大正と昭和の御大礼は京都で行われ、それに準拠して前回も今回も東京で実施できるのである。

今秋の即位礼・大嘗祭と御親謁

 前回は、「即位礼正殿の儀」と「祝賀御列の儀」が行われ、同夜から15日まで、「饗宴の儀」が7回も実施され、ついで「大嘗祭」(悠紀(ゆき)殿の儀・主基(すき)殿の儀)および「大饗の儀」が3回、無事に催された。
 ただ、これは新天皇・皇后両陛下をはじめ関係者などに非常な負担となったことが反省され、今回はすこし緩やかな運びとなる。
 もちろん、それによって大礼の意義が変わることはない。むしろ大正大礼の際に貴族院書記官長で大礼使を務めた柳田国男氏は、即位を内外の人々に華々しく披露する即位礼と、毎年の新嘗祭を大規模にして神々に感謝し祈願する厳かな大嘗祭とは、間隔をあけて行うほうがよい、と提言したが、その趣意に叶うことになる。
 宮中では、これ以外にもたくさんの行事があり、その多くは敬神崇祖の表れにほかならない。一般国民の私共は、それらがすべて恙(つつが)なく執り行われることを祈念しながら、新しい御代にそれぞれの務めを果たしたいと思う。

 

2019年1月21日号 週刊「世界と日本」第2141号 より

皇位世襲の永続可能な典範改正

 

京都産業大学名誉教授 モラロジー研究所研究主幹 所 功 氏

 新年の平成31年(2019)には、4月30日限りで今上陛下が「退位」され、翌日から新天皇が「即位」される。 このような皇位の継承は、行われるのが当然であり、今後も必ず続いていく、と思われるかもしれない。しかし、現行の法制を改正しなければ、皇族の方々が次第に減少し、やがて皇位を継承しうる有資格者が不在となる恐れも少なくない。それはなぜだろうか。そうならないためには、どうすればよいのだろうか。

《ところ・いさお》 昭和16年(1941)、岐阜県生れ。法学博士(慶応大学、日本法制文化史)。平成24年(2012)から上記の現職。
 著書に『歴代天皇の実像』(モラロジー研究所)、『天皇のまつりごと』(NHK新書)、『象徴天皇“高齢譲位”の真相』(ベスト新書)、共著『皇位継承』、『元号』(共に文春新書)など。


現行憲法の定める象徴世襲の天皇制度

 昭和21年(1946)11月3日(明治節)に帝国憲法を改正する形で公布された現行憲法は、国柄を表す最も重要な第一章が、旧憲法と同じく「天皇」であり、八条にわたって、天皇の立場や任務などを規定する。
 その第一条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であって」と定められているから、“象徴天皇制”と称される。しかも、第二条で「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めにより、これを継承する」としていることこそ重要である。
 すなわち、象徴天皇は、時々の世論により勝手に選び出すのではない。過去・現在・未来に通底する「日本国民の総意」(いわゆる一般意志)として「皇位は世襲のもの」と確定し、具体的な継承方法などを法律の皇室典範で規定する“世襲天皇制”にほかならない。

皇室典範の定める厳しい3つの原則

 この皇室典範は、明治以来の旧典範を大筋そのまま承け継いでいる。それには、古代以来の歴史をふまえながら、近代的な立憲君主制の皇室に必要と考えられた厳しい規制が盛り込まれている。
 まず第一条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める。確かに皇位は、神武天皇以来の血統(皇統)に属する男性天皇(男帝)の子孫(男系)皇族のうち、ほとんど皇族身分の男子が継承されてきた。
 しかし、一二五代(及び北朝五代)のうち、八方十代(二方は2度即位)の女帝がおられ、各々に相応の治績をあげられたことも忘れてはならない。
 また第九条で「天皇および皇族は、養子をすることができない」と定める。これは旧典範の制定当時、宮家に男性皇族が多数おられたから、次男以下(庶子を含む)の養子縁組により、益々増加し混乱する傾向の抑制措置とみられる。
 しかし、皇位も宮家も長らく世襲できたのは、継嗣がなければ他家の皇族を養子に迎え、諸王でも天皇の養子(猶子)にすれば親王として当主になれたことも忘れてはならない。
 さらに第十二条で「皇族女子」は皇族以外の一般男子と婚姻する場合、「皇族の身分を離れる」と定める。
 これも明治以降、終戦ころまでは、男性皇族が多数おられたから、皇族女子の結婚相手はほとんど皇族身分の男性であり、皇籍を離れずにすんだ。
 しかし戦後は、GHQが皇室財産を凍結し過大な課税を命じたので、やむなく直宮家(昭和天皇の三弟と家族)以外、皇籍離脱を余儀なくされた。そのため、皇族女子は一般男子と結婚されるほかなくなった、という事情を忘れてはならない。

昭和天皇の崩御と今上陛下の譲位

 もう1つ、現行典範の第四条には「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と定める。これも旧典範を承け継いだものであり、それゆえ明治・大正・昭和の三代天皇は、終身在位されたのである。
 しかし、昭和天皇(明治34年〈1901〉生まれ)は、父君が病弱のため、大正10年(1921)から5年間、皇太子のまま「摂政」を務められた。そして満25歳で践祚(せんそ)され、戦前・戦中・戦後を通して辛苦を重ね、満87歳8カ月余で崩御された。
 その直後に践祚されたのが今上陛下である。当時すでに満55歳にして皇位を担われた。一般人ならば定年退職近くに就任され、以来30年間、日本国および国民統合の象徴としてのお務めに、全身全霊を尽くされたのである。
 とはいえ、80歳近くで心臓冠動脈バイパス手術のころから将来の在り方を熟慮されて、皇極天皇(645年)から光格天皇(1817年)まで60例近くある「譲位」の歴史も調査し尽くされていた。
 その上で、象徴天皇としての務め(責任と役割)を元気なうちに次世代の皇嗣(皇位継承第一人者)の皇太子へ譲るべきだと決意され、その御意向を平成28年(2016)示されたのである。
 それを承けて、政府も国会も慎重に論議を重ね、ようやく翌29年6月、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が、衆参両院の出席者全員賛成によって可決成立した。それは典範第四条の終身在位を原則的に残したまま、「特例」として御高齢による「退位」(譲位)を可能にしたもので、その意義は真に大きい。

「安定的な皇位継承」を可能にする智恵

 この「皇室典範特例法」は、明治以来の原則を当面変更しないで、現状にふさわしい特例を公認した。このような現実的改革を他の条項についても推進しなければ、皇位の世襲は行き詰まってしまう恐れがある。
 しかし幸い特例法を成立させた国会(衆参両院)で、次のような「付帯決議」を加えている。
 一、政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、皇族方(特に未婚女子)の御年齢からしても、先延ばしすることはできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の事情等も踏まえて、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を速やかに国会に報告すること。
 二、一の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、立法府の総意が取りまとめられるよう検討を行うものとすること。
 ※三、(新元号の施行時期への配慮)
 これは重要な決議であって、政府も国会も本年5月以降、すみやかに「安定的な皇位継承」を可能にする具体的な方策を十分に検討し、現行典範の現実的な改正を実現する責任がある。
 この課題解決に向けて必要なことは、「原理」と「原則」の区別である。原理は宗教でも科学でも絶対的なもので例外を認めない。しかし、原則は慣例や法則として重要なものながら、時代や状況の変化により例外を認めて本質を守り抜くことに特徴がある。
 それゆえ私は、現行典範の「男系男子」限定を原則としながら例外も認める男子優先とし、皇族の養子縁組も皇族女子の宮家養子も特例として容認するような改正を、大方の合意形成により実現することを念願している。

「天皇のお気持ちの表明」に私はこう思うチャンネルより

平成28年11月7日から「天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議」のヒヤリングが始まりました。その取組について解説していきます。

2016年11月21日号 週刊「世界と日本」第2089号 より

「天皇のお気持ちの表明」に
私はこう思う 

第二回

 

高齢化社会に伴う例外的な譲位容認を

 

国士舘大学大学院 客員教授 百地 章 氏

 11月7日から「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」のヒアリングが始まった。筆者にも意見陳述の機会が与えられることになったが、この問題については、7月13日のスクープ報道時と8月8日に陛下のお言葉を拝した後では、多少見解が変化している。

《ももち・あきら》 昭和21年、静岡県生まれ。京都大学大学院修士課程修了。法学博士。専門は憲法学。平成28年10月、日本大学法学部教授を退任、現在、国士舘大学大学院客員教授、比較憲法学会前理事長、「民間憲法臨調」事務局長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」幹事長、産経新聞「正論」執筆メンバー。著書に『憲法の常識 常識の憲法』、『憲法と日本の再生』、『新憲法のすすめ』、『女子の集まる憲法おしゃべりカフェ』など多数。


 当初、筆者は陛下の譲位に反対であった。なぜなら譲位制度には様々な問題があり、明治の皇室典範制定の際にも、戦後、現在の皇室典範が制定された時にも、譲位制は否定されているからである。

 その歴史の重みを踏まえるならば、一時的な国民感情やムードで終身制を否定しまうことには慎重でなければならない。そう考えた。

 それに、立憲君主制のもと「憲法遵守」を明言され、皇位継承についても「国会と内閣の判断に委ねます」と仰しゃってこられた陛下が、まさかそのようなご発言をなさるはずがないとの疑念があった。

 しかし陛下のお言葉を拝し、少し考えが変わった。それは陛下が「高齢化社会の到来に伴う譲位制」のことを問題提起されたからである。

 超高齢化社会の現在、100歳といっても決して珍しくない。そのような中で、もし陛下が100歳になられてもお元気な場合、現在の皇太子殿下は74歳になられる。それでも即位できないとなると、これは考えざるを得ないだろう。

 そこで陛下の問題提起を受けて、筆者も例外的に譲位を認めても良いのでは、と考えるようになった。

 そこで、改めて「譲位」の問題点について考えてみると、125代の天皇のうち約半数が譲位しておられる。その背景には、権力を持った臣下の者たちが、天皇に譲位を強要したりしたことがあった。

 また、天皇が自ら上皇となって院政を敷いたりといった弊害もみられる。さらに天皇による恣意的な譲位といった問題もあった。

 この点、天皇が政治的権能を有しない現行憲法下では、そのような弊害は少ないかもしれない。しかし、天皇の権威を利用すべく、恣意的に天皇を退位させたり即位させたりする者が出てくる恐れはある。

 さらに、天皇が崩御された時は、皇嗣(こうし)が直ちに即位することになっており(皇室典範4条)、皇位継承者には「即位するかしないか」自由意志の介在する余地はない。にもかかわらず、退位についてのみ自由意志を認めることになれば、これと矛盾する。

 そこで現皇室典範制定の際、金森徳次郎憲法担当国務大臣は「天皇に私なし、すべてが公事である」との理由で、譲位規定を設けなかったと答弁している。

 加えて、譲位制度を採用した場合には、「国民統合の象徴」に分裂を招きかねないであろう。

 譲位制度のもと、先帝と新帝が同時にいらっしゃるという事になれば、先帝を敬慕する国民と新帝を歓迎する国民の間に、微妙な心理的溝が生じたり、「国民統合の象徴」が分裂したりしてしまわないか、懸念される。

 このように、「譲位制」の問題点は解消したわけではない。しかし「超高齢化社会の到来」に伴う新たな問題について対応するため、「終身制」を原則としつつ、例外的に「譲位制」を認めるための法的措置を取るのであれば、支持してもよいのではないか。

 この点、譲位をお認めするための方法として現在主張されているのは、以下の3つである。

 第1に、皇室典範とは別の特措法を制定し、それによって陛下の退位をお認めする方法である。

 第2は、皇室典範の中に何らかの根拠規定を置き、それに基づいて特措法を制定する方法であるが、こうすれば特措法は皇室典範と一体のものと見ることができる。

 そして第3が、皇室典範の改正による譲位の容認である。

 このうち、第1の皇室典範とは別の特措法を制定して生前退位を認める方法であるが、これは「皇位は、・・・皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めた憲法2条の明文に違反するだけでなく、あえて憲法が「皇室典範」によると定めた重みを無視することになる。

 さらに、皇室典範4条は「天皇が崩じた時は、皇嗣が、直ちに即位する」と定め、「終身制」を採用、譲位制を否定している。にもかかわらず、皇室典範以外の法律で、勝手に終身制を否定するのは矛盾であり、認められない。

 次に、第3の皇室典範そのものの改正であるが、これは簡単ではないし、時間もかかる。

 そこで浮上してくるのが第2の方法であり、現在、筆者は以下のような条文を構想している。

 まず、皇室典範の「附則」第4項に「第4条にかかわらず、天皇は特別措置法の定めるところにより、譲位することができる。」といった規定を置く。

 その上で「皇室典範に関する特別措置法」を制定し、以下の趣旨の規定を定める。「天皇は、高齢により公務をみずからすることができないときは、皇室会議の儀を経て、譲位できる。譲位があったときは、皇嗣が直ちに即位する。」

 このような規定であれば、終身制が原則であり、譲位制はあくまで高齢で天皇としての務めが果たせない時に限定される。

 また、恣意的な譲位を如何にして排除するかという点が最大の問題だが、このような規定であれば「高齢により公務をみずからすることができないとき」という客観的条件、「天皇の意思に基づく」という主観的条件が示されおり、しかも皇室会議の儀を経ることになるから、かなり問題は解消するのではなかろうかと思う。

 その上で、皇室典範の改正を、その是非も含めて慎重に審議すべきであろう。

(10月29日、記)

2016年9月19日号 週刊「世界と日本」第2085号 より

「天皇のお気持ちの表明」に
私はこう思う

 

皇室の存続を第一に考えた判断を

 

麗澤大学教授 八木 秀次 氏

 「我帝室は日本人民の精神を収攬(しゅうらん)するの中心なり」―。こう述べたのは福澤諭吉である(『帝室論』1882年)。日本人は普段は強く意識しないが、皇室を頼りにして生きている。自らの「精神を収攬するの中心」がぐらつくと途端に不安になる。私には、ご生前での退位のご意向を強く滲まされた、8月8日の「天皇陛下のビデオメッセージ」を拝した国民の反応はそのように見えた。

《やぎ・ひでつぐ》 1962年、広島県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程中退。高崎経済大学教授などを経て2014年より現職。専門は憲法学。第二回正論新風賞受賞。教育再生実行会議提言FU会合委員、法制審議会民法(相続関係)部会委員、フジテレビジョン番組審議委員など。『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など著書多数。


 

  街では足を止めて、ビルのスクリーンに映し出された陛下のお言葉に耳を傾ける若者の姿が多く見られた。その後の世論調査で8割、9割の人たちが、陛下のご生前での退位に好意的な姿勢を示したのも不安な気持ちの反映と思えた。

 今、皇位が不安定になろうとしている。天皇陛下は退位の意向を強く滲まされたが、実現には大きな困難が伴い、時間も掛かる。皇太子殿下が皇位を継承されることは明らかであるが、確実に継承されるまでは不安定な時代が続く。そればかりではない。

 ご生前での退位を制度的に、あるいは今回に限ってであれ、認めてしまえば、皇位自体が不安定になる。日本国民の精神を収攬する中心である皇位が不安定になれば、日本国民の精神はどのようになるのか。歴史上、このような場合には必ずと言っていいほど「まがごと」が起きている。

 現在の皇室典範(昭和22年)も、その基になった明治の皇室典範(明治22年)も、ご生前での退位の規定を設けていない。皇位継承は前の天皇の崩御に限定されており、天皇のご存命中は次の天皇に継承できなくなっている。

 これは法の欠缺(けんけつ)ではなく、敢えて積極的にご生前での退位を排除した結果である。皇位継承に関して当時者のご意思を関与させず、厳格なルールを決めてその通りに行うことにした。

 主な理由は2つ。

 1つは、過去に上皇や法皇という退位した元・天皇が政治的影響力を行使したり、時の権力者などによって天皇が退位させられるなど、天皇が政治利用されたり、自ら政治的に動く例が見られたことから、そのような混乱を排除するためだ。

 明治の皇室典範の起草を主導した伊藤博文は、退位・譲位は皇室の伝統ではなく、出家を求める仏教の悪弊によるものであるとし、混乱の代表例として南北朝を挙げている。

 もう1つは、より本質的な問題で、現在の皇室典範の制定時においても議論されたことだが、ご生前での退位を認めることは、当事者の意思によって皇位継承を行うことを意味する。

 退位が可能であれば、即位についても当事者の意思が関わることになる。つまり、即位しないこと、即位拒否も当時者の意思次第ではあり得ることになる。皇籍離脱も可能になる。

 それでなくても皇位継承資格者が限定されている中で、次々に即位を拒否されれば天皇・皇室は存立し得なくなる。このような配慮から、当事者である皇族方の意思に関わりなく、継承の順位にしたがって皇位が継承されるという厳格なルールを確立しているのである。

 このようなルールは、天皇陛下や皇族方には窮屈なものであることに違いない。当事者の意思が関与できないからだ。今回、天皇陛下は、ご高齢やご病気を理由に、「象徴の務め」が全身全霊でできなくなったことから退位のご意向を示された。

 お気持ちは大変尊くありがたい。しかし、たとえ陛下のご意向であっても、皇位継承の厳格なルールを変更することには慎重でなければならない。

 敢えて排除した、ご生前での退位を可能にすることは、皇位継承に当事者の意思を関与させることなり、そのことが皇位を不安定にさせ、皇室の存立基盤自体を否定することにもつながる。明治以降、封印してきた「パンドラの箱」を開けることになり、次々に「災い」が飛び出してくる可能性がある。

 皇室典範改正であれ、今回限りの特別立法であれ、ご生前での退位を可能にすれば、次世代の即位辞退、皇籍離脱も可能にすることになる。そうしなければ法理論として整合性が取れない。皇室の消滅を惹起することにもなりかねない。

 皇室の存在しない日本を私たちは歴史上知らない。日本国家は皇室とともに始まり、国民は皇室を常に心のよりどころとしてきた。その皇室がなくなってしまったとき、どのような世の中になるのか、見当も付かない。今回の陛下のご意向が皇室や日本国家の「終わりの始まり」につながらないような慎重な対応が求められる。

 陛下は、在位された上でのご公務の大幅な縮小や摂政の設置、国事行為の臨時代行に消極的なご意向も示されている。しかし、それらの解決策は、皇位を安定させるために慎重に考え抜かれた上での制度である。これを排除されれば、上述のように皇位は確実に不安定になる。

 陛下は天皇としての「務め」を強調され、「務め」ができなくなれば、その地位から退くべきと考えておられるように思われる。「務め」を重視される陛下の強い責任感は尊くありがたいが、天皇には「務め」の大前提としてご存在自体の尊さがある。

 神話に由来し、神武天皇以来一貫して男系継承されてきた、誰も代わりのいないご存在が天皇陛下である。そのようなご存在が「務め」をなさることに意義があり、尊く、人心に安定をもたらすのである。「務め」が先にあって、その「務め」ができれば他の誰かでもよい、ということではない。

 この上は、天皇陛下のご意向をよく理解しつつも、皇室の存続を第一に考えた判断が求められる。

 ご生前での退位を認めることの長短を示しながら、最後は陛下や皇族方に納得していただく他はない。

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