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憲法特集

私の憲法論チャンネルは、第3次安倍政権の重要テーマでもある「憲法改正」に焦点を当て、その必要性を論ずる特設チャンネルです。

2017年6月19日号 週刊「世界と日本」第2103号 より

<私の憲法論 第十一回>

知的に誠実な「9条論議」を望む
「平和のための軍事力、自衛隊」を明記せよ

 

防衛大学校教授 神谷 万丈 氏

 安倍晋三首相が憲法9条に、自衛隊の存在を明記することを提唱したことで、9条の改正論議がにわかに現実味を帯びてきた。私は、憲法9条をこれまで通りに残したい、という意見もあって当然だと考えている。日本は、成熟した自由民主主義国家だ。国のあり方の根幹にかかわる問題について、全国民が一致した立場をとるはずはなかろう。

《かみや・またけ》 1961年京都市生まれ。東大教養学部卒。コロンビア大学大学院(フルブライト奨学生)を経て、92年防衛大学校助手。2004年より現職。この間、ニュージーランド戦略研究所特別招聘研究員等を歴任。専門は国際政治学、安全保障論、日米同盟論。現在、日本国際フォーラム理事・上席研究員、日本国際問題研究所客員研究員、国際安全保障学会理事。主な著作に『新訂第4版安全保障学入門』『新段階の日米同盟のグランド・デザイン』『日本の大戦略』など。


 戦後の日本人は、国策の手段として軍事力を否定するという「国の姿」を選びとり、それを原点として今日の繁栄を築いてきたのだから、その姿を変えようとすることは認められない。私は、そのような意見もあり得ると思う。
 だが同時に、私は、そうした意見を持つ人たちを含めて、全ての日本の国民に対し、9条を今後どうすべきかを考える際には、知的に不誠実な態度はとって欲しくないと思う。
 平和主義を掲げる日本には軍事組織は不要だ。国民の安全と繁栄は自衛隊ではなく、非軍事的な手段によって達成すべきものだ。憲法に自衛隊を明記するようなことがあれば、そうした日本の平和主義の理想が壊れてしまう。だから、安倍首相の提案に反対する。私はこのような考えには与しないが、論理的に筋が通っていることは認める。
 あるいは、より素朴に、軍隊が嫌いなので自衛隊も認めない、だから憲法に自衛隊の存在を書き込むなど論外だ、と考える人もいるだろう。こうした意見も、論理的には成り立ち得るものだと思う。
 だが、現実には、このような論理で安倍首相の提案に反対できる国民は、ごくわずかしかいないはずだ。なぜなら、今や日本には、自衛隊が国民の安全や暮らしを守る上で果たしている役割を否定する人は、ほとんど存在しないからだ。
 2015年1月に内閣府が実施した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」によれば、92.2%の回答者が自衛隊によい印象を持っていると答えている。
 また、日本と中国、北朝鮮、ロシアなどの周辺諸国との軍事力の規模を示した上で、今後の自衛隊をどうすべきか尋ねたところ、「縮小した方がよい」との回答がわずか4.6%だったのに対し、「増強した方がよい」が29.9%、「今の程度でよい」が59.2%だった。
 さらに、自衛隊の災害派遣活動を評価する者は98.1%、国際平和協力活動などの海外での活動についても、評価する者が89.8%にのぼっている。
 これらの数字が示しているのは、今の日本には自衛隊が嫌いだという人はわずかで、約9割の国民が、自衛隊の活動が自分たちの平和や繁栄のためになっている、とみている事実に他ならない。
 自衛隊をこのような目で見ている人たちが、自衛隊の存在を憲法に明記することには反対や躊躇を示す。私が知的に不誠実というのは、そうした態度のことだ。
 国の防衛のためであれ、大地震や洪水などの際の救護のためであれ、あるいは国際平和のためであれ、自衛官は、この国に暮らす全ての人々のために、苦しい危険な任務にも立ち向かってゆく。
 自衛隊のそうした活動が、自らも含めた日本の人々のために役立っていると考えるのであれば、自衛隊の存在が憲法上はっきりと位置づけられておらず、憲法学者の多数がそれを違憲と主張し続けているというような状況に、目を閉ざし続けてよいはずはない。
 自衛隊は違憲だから自分には必要ないと考えるのか、自衛隊は必要だから合憲でなければならないと考えるのか。このいずれかをはっきりと選ぶのが、知的に誠実な態度というものだろう。
 だが、安倍首相の提案を受けて実施された各種世論調査の結果をみると、相当数の国民が、自衛隊の存在を憲法に明記することに対して前向きではない。
 たとえば、5月20~21日の毎日新聞の調査では、首相の提案への賛成が28%であったのに対し、反対が31%、わからないとの回答が32%を占めた。国民の9割が自衛隊の活動に肯定的評価を与えているという現実と、安倍提案に対する国民の、こうした反応の間には明らかに齟齬(そご)がある。
 その原因は日本人の間に、平和と軍事力を180度対極にある、相容れない概念ととらえる傾向が今なお強いことにある。確かに軍事力は人を殺傷する危険な装置だ。それは、使い方によっては平和を壊す。だが一方、軍事力には平和を築き、守る上で不可欠な役割もある。
 戦後の日本人は、軍事力の持つこうした二面性を十分に認識してこなかった。平和を求める国家には、時として軍事力を「使う」意思も求められるのだという現実を直視できている日本人は、今でも多くはない。そのため、日本人の多くは、「平和のための軍事力の役割」を認めることに今なお強い抵抗を示す。
 日本人の多くは、自衛隊を国民の安全と繁栄に役立つ組織だと認めると同時に、戦後の平和主義に誇りを感じている。そして、日本人の間には、自衛隊に対する肯定的評価と、平和と軍事力を相容れない概念とみる傾向が、奇妙な形で並存している。
 こうした複雑な心理構造があるがゆえに、多くの日本人にとっては、平和主義の象徴たる憲法9条に軍事組織たる自衛隊の存在を明記することが、矛盾した行為として認識されてしまうのだ。
 だが、そのような見方は間違っている。現実の世界では、軍事力に支えられない平和は存在し得ないのだ。私は、自衛隊が自分たちの助けになる組織だと考えている9割の日本国民には、この点を理解した上で、自衛隊は必要だが、その合憲性については、あいまいなままでもしかたがない、というような知的誠実さを欠く立場をとらないことを望みたい。

2017年6月5日号 週刊「世界と日本」第2102号 より

内外ニュース「創業45周年記念特集号」憲法インタビュー

 

未来に生きる世代が頑張れる国創りを

 

拓殖大学学事顧問・前総長 渡辺 利夫 氏
インタビュアー 内外ニュース・取締役(企画担当) 紺田 康夫

渡辺利夫氏(右)と紺田康夫
渡辺利夫氏(右)と紺田康夫

 内外ニュース「創業45周年記念特集号」の第3弾として、「教育対談」「エネルギー座談会」に続き、「憲法インタビュー」を実施した。いま日本を取り巻く国際環境は、多極化、多様化のなかで、極東アジアはもちろんのこと、まさに混迷を深めている。また今年は、憲法施行70年目の節目にも当たり、次なる70年に向かって自らの手で切り拓く「未来に生きる世代が頑張れるような国創り」をめざし、「国の道筋を明確にする」「家族、共同体、国家の尊厳とは何か」などを中心に、拓殖大学学事顧問の渡辺利夫氏に、特に憲法と国体(国柄)の在り方についてインタビューをした。

《わたなべ・としお》 1939年6月甲府市生まれ。慶応義塾大学、同大学院修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学総長を経て現職。外務省国際協力に関する有識者会議議長。外務大臣表彰。正論大賞。著書は『成長のアジア 停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)、『西太平洋の時代』(アジア太平洋賞大賞)、『神経症の時代』(開高健賞正賞)、『放哉と山頭火―死を生きる』(ちくま文庫)など多数。

紺田康夫

憲法には「守るべき日本の国柄」明記を 日本は「同質性」「連続性」の唯一の国家

 紺田 最初に、昨年9月に成立しました、平和安全法制について、ご感想をお聞かせください。
 渡辺 大騒ぎの末にようやく成立。多少、安堵はしています。
「集団的自衛権行使容認」により、これまでの懸案が解決の方向に向けてハーフステップ前進できました。ただし、ここでの集団的自衛権は極めて限定的な行使容認で、日本の存立が根底から覆される「存立危機事態」のような場合に初めて発動できるものとされています。
 しかし、それがどのような事態なのか、少々不鮮明です。しかも、あのように限定的に条文を設定してしまうと、実際に事が起こった時に、現に今、その状態がやってきそうですが、官邸も自衛隊も極めて動きにくいのではないかと思います。
 ところで問題は、個別的自衛権や集団的自衛権の議論においては、そのテーマが「いかに国を守るか」ばかりに集中して、「何を守るのか」という議論が全くなされていないことです。こんなことでいいわけがない。
 紺田 憲法の前文には、何を守るのか、国体が書かれていないということですか。
 渡辺 日本の歴史、文化、伝統を含め、「国体」というよりは「国柄」です。どういう国柄の日本をつくるべきか、その国柄をどのように守るかということです。しかし、憲法の前文には、国体はもとより国柄も書かれていません。ほとんどの国の憲法には、「守るべき祖国とは何か」が書いてあります。憲法は、そのためにこそ存在するわけですからね。
 ところが我が国の憲法は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。
 日本を守るために日本人は、自分の手は汚さずに、「あなた任せ」になっています。独立自尊の精神が、全く見られません。まことにひどい「他力本願」で、これが憲法の全体系の精神をうたうはずの前文にあることが、いかに大きな制約になっているか。
 紺田 日本の国柄をどのように考えていけばとお考えですか。
 渡辺 私はそのことを考えるにあたって、「同質的」と「連続的」という2つのキーワードをあげたい。
 日本ほど同質的な国家は、世界のどこにもありません。その「人種的同質性」は科学的にも論証されています。
 アイヌのようなマイノリティもありますが、それを除けば全く同じ人種が一民族になり、一国家になっています。他の国はみんなパッチワーク、多人種の混交なのです。
 次に、「言語的同質性」もあります。日本語の起源はどこかについて、さまざまに論じられてきましたが、結局、日本語の起源はどこなのかは分からない。起源は不明なのですが、日本列島の中だけで使われつづけたことは間違いないことが立証されています。
 さらには「宗教的同質性」です。日本には唯一絶対の神がいると考えている人は、ほとんどいません。
 むしろ、山、川、草、木といった、生きとし生けるものの全てに神が宿っている、神だらけの国と言ってもいいでしょう。宗教を原因とする戦いは世界のどこでもみられますが、日本にだけは宗教戦争はありません。
 私は、同質的という言葉で、まずは日本の国柄を語ることができるのではないかと。
 紺田 もう1つの「連続的」というキーワードは、どのように考えればよいのでしょうか。
 渡辺 同質的であるがゆえに、連続的である。連続的であったがゆえに、同質的であるとも言えます。
 連続的と言われた場合に、私がすぐに思い浮かべるのは、伊勢神宮の式年遷宮です。20年に1回、隣の敷地に、全く同じ素材を使い、同じ技術により宝物を造って移し変えます。これが690年の持統天皇の時代から62回繰り返されてきました。
 これはもう日本の歴史の連続性を示すもの以外の何ものでもありません。
 もう1つは天皇です。今上天皇は125代の陛下です。世界の中で、王様にしろ、皇族、皇帝にしろ、万世一系の天皇というものはどこにもいません。日本の天皇は、連綿としてつづく日本の歴史の連続性の象徴なのです。
 紺田 憲法の第1条に、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」と書かれていますね。
 渡辺 これ自体はいいでしょうね。象徴は目に見えないものを「見える化」することなので、例えば日の丸を見た時に、君が代を歌う時に、「ああ、これが日本なのだ」と思ったりしますよね。それが象徴です。
 日本の天皇は他の誰しも持つことのできない権威そのものです。権力と権威を分離して、権威のみがずっと持続されてきたのは、これは日本人の相当な知恵だと思います。
 紺田 先生は以前から、「憲法第13条と第24条が、共同体と家族の崩壊をもたらした最悪のリベラリズム思想の、憲法上の根拠である」とおっしゃられていますね。まず憲法第13条には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれていますが。
 渡辺 個人は英語では「インディビデュアル」ですが、福沢諭吉はこの英語を見て、訳すに訳せなかったと言っています。日本には存在しない観念ですから。それで彼は、「独一個人」と訳したのです。もうこれ以上分けることができない「個」というわけです。
 「個人」というのは絶対的存在であり、権力者が個人の自由や権利を侵すことができないようにしなければならない。これがフランス革命の思想です。個人が何にも勝り、尊重されなければならないという思想です。
 しかし、このような伝統が日本にあったでしょうか。日本では全ての人間は家族、血縁の成員なのです。つまり「個人として尊重される」という考え方は、今なお日本人の中に根付いていません。
 にもかかわらず、個人を尊重し、共同体を破壊しつづけています。「個人の生存権」ばかりがうたわれ、「家族の生存権」がないがしろにされ、家族が崩壊し、少子高齢化という取り返しのつかない人口構造に日本はなってしまいました。

日本人は「個体至上主義」から脱却せよ 「憲法9条改正」が安倍政権の正念場

 紺田 次に、憲法第24条には「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と書かれています。
 渡辺 自由なる個人と個人が、誰の介入もなく結びついてできあがるものが婚姻であり、同時に両性は平等であるというわけですね。
 しかしこの中には「婚姻とは、家族という共同体の一番基礎的なベースである家族をつくるものだ」という感覚が、どこにもありません。
 出生率の低下が著しいですね。昨年は出生数がついに100万人を割りました。日本の人口は2004年の1億2708万人をピークに、いずれ8000万人になるということですが、これでは日本という国家が存立できません。自衛隊は成り立たない。警察は機能不全になる。周辺諸国との国力の差が大きくなり、二流国から三流国に落ちてしまいます。第13条と第24条は、「我が内なる敵」なのです。
 東日本大震災の時の廃棄物の問題は、今なお残る大問題です。大地震発生間もない段階で、がれきは発生地、つまり県内処理という原則が立てられました。そして県内処理できない分を、公域処理と言って、他県が引き取ることになったのですが、各県の反勢力が「俺のところでは絶対に受け入れない」と、大騒ぎになりました。
 自分が困っている時に、他に助けを求めるのは当然なのに、他人が困った時には自分は関係ない、助けようとはしない。
 このような激しいエゴイズムが、蔓延しています。私は日本人の言う個人主義は、「個体至上主義」だと思っています。生きている自分だけが大事であるという意味で、個体至上主義だと思うようになりました。こうした観念をつくり出したのが、憲法の第13条と第24条にあると私は見ています。
 紺田 憲法第9条に移りますが、この第2項が問題であると。
 渡辺 憲法第9条第1項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というのは、このままでいいと思います。
 問題は憲法第9条第2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」にあります。これでは自衛隊の存在は明らかに違憲となってしまいますし、集団的自衛権の行使が容認されたといっても、自衛隊にできることには限りがあります。
 米ソ冷戦の中で日本は、アメリカの核の傘の下で経済成長をし、国防のことなど考えもせずに豊かな生活を享受してきました。
 しかし、冷戦が崩壊して以降、人種や宗教、言語を要因とする対立が、すさまじいものになってきました。そのうえ、朝鮮半島が危うくなり、中国の海洋膨張もあります。
 集団的自衛権は保有するが行使できないという政府解釈だけでは、とてもやっていけないという状況になり、平和安全法制ができたわけですが、残念ながらこれでは急場には間に合わないだろうと思います。
 紺田 憲法第9条を改正できるかどうかにかかっているわけですね。
 渡辺 ここが安倍政権の最大の力の見せどころになってくるでしょう。第9条第2項を変えないで、この解釈をもう一歩出たら、憲法違反になりかねません。だから安倍さんも「9条を守る。変えない」という前提で、憲法解釈のマキシマムをやってみせたというのが平和安全法制です。
 しかし、もうこれも限界であり、やはり9条2項を変えて、「戦力を持った国軍を保有する」ということにしないと、どうにもならないと思います。最近は第1項、第2項はそのままにして、第3項をつくりたいと安倍さんは言っていますね。
 紺田 憲法第9条第2項を変えるために必要なことは何ですか。
 渡辺 今の極東アジア地政学は非常に危ういのですが、この危うさの中で、日本をどうするかという選択を究極的に国民に迫る状況が出てこないと、第9条を変えるという方向に舵が取れないのでしょうね。困った国論ですよ。
 日本という国は、国際的利益は享受しながら、国際的な協力や自分の犠牲を払うことに対しては、非常に強く逡巡する国家という意味で、エゴイストです。
 現実となった今の軍事的脅威、例えば北朝鮮の金正恩が核ミサイルの発射ボタンを押す可能性はあるわけです。そのための議論がなされないでいいわけがありません。
 「策源地攻撃」について、これから国会で議論しようという空気がようやく出てきたのですが、北朝鮮が今にもボタンを押そうと思っているのに、今から議論していたのでは間に合いません。しかも議論したところで、次の制約があります。
 それは、策源地攻撃をしてもよいという法律をつくっても、攻撃するための実際のハードウェアがありません。「専守防衛」という考え方は今も生きているので、そのための対地ミサイルや攻撃機などのハードウェアを持とうとなっても、4、5年はかかるのではないでしょうか。
 だから、「対米従属」などという自虐的な物言いはやめて、日米同盟の信頼関係をより深め、その抑止力により、敵の行動を抑止することが目下の最重要命題です。日本が生き延びていくために、日米同盟の抑止力を最大限有効に使いながら、その間に、日本の自主防衛力を高めていくという決断を今、選択しなかったら、将来の日本は危ないと思います。
 紺田 今日は本当に多岐、多方面に亘ったお話をありがとうございました。


2017年3月6日号 週刊「世界と日本」第2096号 より

<私の憲法論 第十回>

憲法が危うくする日本の安全保障

 

日本大学法学部教授 東 裕 氏

 トランプ大統領の登場という「外圧」が、憲法九条改正の扉を開ける後押しとなるかもしれない。駐留米軍経費問題より、憲法制度の「構造の改革」要求に備えるべきではないか。2月に来日したマティス米国防長官は、稲田防衛相との会談で駐留経費には触れず、日米安保条約第五条の尖閣諸島への適用を言明した。だが、この第五条には要注意である。

《ひがし・ゆたか》 昭和29年、和歌山県生まれ。早稲田大学政経学部卒業、同大学院政治学研究科博士後期課程満期退学。専門は憲法学・太平洋島嶼地域研究。苫小牧駒澤大学教授等を経て、平成27年4月より現職。著書に『太平洋島嶼国の憲法と政治文化』(成文堂)、『日本国憲法講義』(成文堂)、『人権の条件』(嵯峨野書院)など。


 日米安保条約第五条は次のように規定する。

 「各締約国は、日本国の施政下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和と安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」。

 ポイントは2つだ。

 第1は、各締約国が「自国の平和と安全を危うくする」と認めなければ共同行動は発動されないこと。我が国に対する武力攻撃が行われても、米国が自国の平和と安全を危うくするものでないと判断すれば、米国は共同行動をとる義務はないのだ。

 第2は、各締約国は「自国の憲法上の規定及び手続に従って」行動すること。我が国は憲法九条を盾に消極的行動にとどまることも法的には可能なのだ。

 その前提で、「アメリカ・ファースト」で解釈すればどうなるか。答えは自ずと明らかだ。日本に対するあらゆる武力攻撃に対して米国が共同行動をとる義務はない。いかなる場合にも米国が日本を守ってくれる保証はないということだ。

 一方、日本が憲法の制約を理由に、米国が必要と考える措置を拒否したとき、瞬時に相互安全保障関係は崩壊する。では、どうすればいいか。あまりにも自明のことだが、自国の存立と安全を自国で守る気概をもち、それを可能にする体制を構築することではないか。国軍の保有と自衛権の行使を明文化する憲法改正の実現ということだ。

 今や憲法は実効的な安全保障の阻害要因となっている。憲法九条二項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と定める。

 素直に読めば、自衛隊は違憲、自衛戦争もできない、となる。昭和21年の第九〇帝国議会で吉田茂首相は、九条は一切の軍備の不保持と自衛戦争の放棄をも定めたものと答弁した。我が国に主権がない占領下の解釈だった。

 それが昭和27年4月28日の平和条約の発効により主権を回復した後に政府解釈は変わる。「戦力」とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えるものと政府は答弁したのだ。同年11月、時の内閣は第四次吉田内閣だった。

 自衛隊発足から5年後の昭和34年には、最高裁が「砂川事件判決」で自衛権・平和主義・自衛の措置について解釈を示した。

 (1)憲法九条により、我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではない。

 (2)我が憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたのものではない。

 (3)自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは国家固有の権能の行使として当然のこと。

 政府解釈の変更や最高裁の判断は、状況の変化に応じて憲法の現実的妥当性を確保するためになされてきたものだろう。

 平成27年の集団的自衛権の限定的行使を容認した政府解釈も同様である。激変する安全保障環境の中で国家の存立と安全を維持するための法制度を整備し、かつ憲法規定と整合性を確保するための苦肉の解釈といえた。

 しかるに、衆議院憲法審査会での自民党推薦を含む3人の憲法学者の「違憲」発言をきっかけに、メディアでは「立憲主義破壊」や「違憲法案」の大合唱が起きた。世論も同調したが、法案を成立させた安倍政権への支持率は60%前後で推移している。これは我が国の「トランプ現象」なのだろうか。とはいえ、憲法解釈の変更が限界に来ていることは否定できない。

 さて、ここで論点を整理しよう。

 第1に、憲法九条は我が国の実効的な安全保障政策の実施を阻害している。護憲派はこれを「歯止め」と呼ぶが、「歯止め」は日本国政府ではなく、九条を改正して近隣の某国に掛けた方が安全というものだ。

 第2に、憲法九条の前提にある国際社会観は時代に適合していない。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」(前文二項二文)は一体どこにあるというのか。その実現には一定の軍事力が不可欠である。

 第3に、憲法の掲げる安全保障方式は国家の安全を危うくする。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文二項一文)のは占領下。戦後の歩みをみれば、日本ほど平和を愛する国民に満ちた国はない。国際社会の安全を脅かしてきた「諸国民」は、旧連合国の中にこそいたのではないか。

 かくして憲法九条および前文の改正こそ、最大の安全保障の強化策であり、憲法改正の眼目となる。トランプ大統領を誕生させたこの時代は、我が国の安全と国際社会の安定に寄与する憲法に改める千載一遇の好機かもしれない。

 自衛隊を国軍と位置づけ、その統制と行使の限界を定め、緊急事態を想定した規定をおいた憲法の創造。「戦後レジーム」を超克する主権独立国家日本の憲法的表現である。

 70年前の昭和22年、美濃部達吉は『新憲法概論』でこう記している。「独立国としての生存を維持するには軍備は欠くべからざる必要であるが、敗戦国としての日本はその独立を失い、憲法前文に言明せるごとくにその安全と生存をあげて世界諸国の公正と信義とに委ねるほかなきに至ったのである」。

 ポツダム宣言の受諾・敗戦・占領という現実を前に「新憲法」を解説する憲法学者の無念さと諦観が滲む。主権独立国家であって憲法はその効力をもつ。国家あっての憲法。その逆は真ならずだ。

 

2016年7月18日号 週刊「世界と日本」第2081号 より

<私の憲法論 第九回>

改憲プラグマテイズムが必要だ

時代適合性を反映した改正を

 

防衛大学校名誉教授 佐瀬 昌盛 氏

 日本国憲法についてまず確認を要するのは、それが敗戦の翌年、昭和21年11月3日に公布された事実である。わが国の敗戦から1年2カ月余の歳月が経っていたとはいえ、戦後初期のことであった。無論、日本の主権はまだ回復されていなかった。主権なき下で国家の骨格に関わる憲法が設立されたというのは、どうみても異常なことである。

《させ・まさもり》 昭和9年、大連生まれ。東大教養学部卒、同大学院(国際関係論専攻)修了。ベルリン自由大学に留学したのち、成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。著書は『チェコ悔恨史―かくて戦車がやってきた』『戦後西ドイツ社会民主党史―政権の歩み』『集団的自衛権―論争のために』など多数。第25回正論大賞受賞。


 異常さはそれだけではない。新憲法の原案、すなわち草案をつくったのは日本人ではなく、連合国最高司令官たるマッカーサー将軍と、補佐したGHQ官僚たちであった。ここに後年まで論争の的になった「押しつけ」憲法是非論の発端がある。

 日本政府は、昭和21年2月13日にGHQが日本政府に提示した「マッカーサー草案」をもとに、新しく自身の憲法草案を起草し、これが旧憲法の定める手続きを経て、日本国憲法として成立したのである。

 日本国憲法のこのような成立過程は、第二次大戦におけるもう一つの敗戦国であったドイツ―と言っても、西ドイツのことだが―のそれと大きく異なっている。

 ドイツの憲法に相当する「基本法」は1949年(昭和24年)5月23日に制定されたが、今日までの67年間に計58回も改正されている。いわゆる硬性憲法を持つ国で、これほどの改憲を経験した例は他に見られない。この事実は、戦後の日独両国民の憲法観が大きく違っていることを物語っていると言えよう。

 ドイツは第一次大戦後の1919年7月末に制定された「ワイマール憲法」の苦い歴史から多くを学んだ。当時、最も民主的と謳われた同憲法は、形式的には第二次大戦後の1945年6月まで存続したものの、実質的には1933年1月末のナチス政権の成立とともに失効したも同然であった。

 第二次大戦後のドイツは、この過去から多くの教訓を引き出した。憲法は改正されないことに、その価値があるのではない。社会の現実に合わなくなることが危険である、と言うのだ。

 このため、1968年6月、猛烈な社会的反対にも拘らず非常事態規定(正確には「第10a章・防衛事態」)全12条が基本法に盛り込まれた。他面、時代適合性の疑わしい条項は続

々と消去されるので、今日の基本法は文字どおりズタズタ状態である。

 それは今日のドイツの憲法観がきわめて実用主義的であることを示している。制定以来、文字どおり一字一句も変更されていない日本国憲法とは、あまりにも好対照と言わねばなるまい。

 わが国では憲法前文に見られる、あまりにも翻訳調(一例として「・・・政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し・・・」傍点引用者、以下同じ)である欠点をはじめとして、九条および「第九章改正」の規定に時代適合性を疑われる個所が少なくない。

 同章第九六条によると、衆参両院の「總議員の三分の二以上」の賛成と「特別の国民投票」における過半數の賛成票なくしては、憲法改正は不可能である。しかし、この二重のハードルをもってしては、憲法改正を禁じているに等しいと言うことになろう。

 また従来、指摘されることは少なかったが、現行憲法は旧仮名づかいで書かれている。たとえば前文中の「・・・この法則に従ふことは、自國の主權を維持し、他國と對等関係に立たうとする各國の責務であると信ずる」はその一例である。

 が、この旧仮名づかいは1946年にGHQの方針によって戦後教育では教えられないこととなった。もっとも故・福田恒存氏や小堀桂一郎氏は、「現代かなづかい」に対する批判論者として知られてきた。

 しかし、今更、旧仮名づかいに戻すすべもない。また、私が「旧仮名づかい」と書くのも、厳密に言えば「旧假名遣い」でなければなるまい。しかし、旧仮名づかいは今となっては「沈んでしまった夕日」であり、それをもう一度、呼び戻すことはできない。

 それにつけても滑稽なのは、世の進歩主義的護憲論者であろう。彼らは憲法の一字一句たりとも改憲すべからずと主張するくせ、他面、さもなくば反対する旧仮名づかいの延命に手を貸している。その馬鹿気た姿に気付いていないのである。私は無論、改憲論者であり、その第一歩として現行憲法をまず最低限、現代仮名づかいで書き変える必要があると考える。

 現行憲法には非常事態への対処規定の欠落を始めとして幾多の問題がある。それらを如何に扱うべきかについては、田久保忠衛氏を始めとして合計5名のメンバーが「産経」新聞社から『国民の憲法』を出版した(平成25年7月刊)。私はそれに参画したが、5人が5人、この共同著作に100%満足したとは思えない。私の場合、85点程度は付けてよいと考えている。

 なお、主要な複数の戦後民主主義国のうち、米国、フランスは大統領制を採っている。英国は議院内閣制ではあるが、わが国とは違って、いわゆる軟性憲法を持つ国である。改憲という概念がこの国にはない。

 したがって、われわれが改憲問題を議論するうえでは、これら3国はあまり参考にはならないと考えられる。

 とすれば、日本の参考になるのはドイツであろう。先述したようにこの国は50回を超える基本法修正、非常事態規定を盛り込むうえでの血の滲むような苦闘を重ねてきた。そのプラグマティズム(編集註=真理、信念、習慣も全て、実験・実践・行動を通して形成され、修正され、破棄される、という考え方)と不屈の努力には、わが国にとり参考になるものが少なくないと考える。

 

2016年5月2日号 週刊「世界と日本」第2076号 より

<私の憲法論 第八回>

憲法誕生の“秘史”に触れる

安全保障では「半国家」の特異性

 

国際ジャーナリスト 古森 義久 氏

 日本国憲法の改正の是非が国政の主要課題となってきた。この課題と正面から取り組むには、憲法誕生の経緯と憲法自体の特異性をまず考えることが欠かせない。歴史の大きな潮流のなかでの日本国憲法とは、そもそもなんだったのか、という考察である。

《こもり・よしひさ》1941年東京生まれ。慶大卒、ワシントン大留学。毎日新聞サイゴン、ワシントン両特派員を経て産経新聞に転社。ロンドン、ワシントン両支局長、中国総局長を歴任。ボーン国際記者賞、日本記者クラブ賞などを受賞。現在、産経新聞ワシントン駐在客員特派員、国際教養大学客員教授。著書に『ベトナム報道1300日』『いつまでもアメリカが守ってくれると思うなよ』『中・韓「反日ロビー」の実像』『迫りくる米中新冷戦』ほか多数。


 日本国憲法は、日本がアメリカをはじめとする連合国の占領下にあった1946年(昭和21年)2月はじめ、10日間ほどで米軍の将校十数人により一気に書かれた。

 その草案は、拒否をする自由のない日本側にそのまま付与された。その意味では押しつけだった。日本のいまの護憲勢力は、憲法のこの起源には奇妙なほど触れようとしない。

 私はその憲法の起草作業の実務責任者だったチャールズ・ケーディス氏に4時間ほどインタビューして、憲法作りの実態を詳しく問うたことがある。同氏は、起草当時は陸軍大佐で、その以前からアメリカの弁護士だった。私が彼にニューヨークで会ったのは1981年4月だった。憲法起草から35年、彼は75歳だったが、往時をよく記憶していて、すべての質問に細かに答えてくれた。

 私は当時、帰属していた毎日新聞社を休職して、アメリカの研究機関「カーネギー国際平和財団」の上級研究員という立場だった。日米安全保障関係を研究しており、その一環としてケーディス氏に取材したのだった。それからまた35年が過ぎたが、同氏との一問一答の英語の記録はいまもすべて持っている。

 憲法起草時に米軍のGHQ(総司令部)の民政局次長だったケーディス氏は、最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥と、民政局長のコートニー・ホイットニー将軍の直接の指揮下にあった。

 日本国憲法については、アメリカ本国政府やGHQの大まかな指令こそあったが、具体的な内容は実務責任者のケーディス氏の裁量に驚くほど多く任されていた。憲法草案の核心となる第九条はとくに重要とあって、同氏自身が条文を書いたという。

 ケーディス氏の回想全体で最も衝撃的だったのは、憲法九条の目的はなんだったのか、という私の質問への同氏の答えだった。

 「日本を永久に非武装のままにおくことでした」

 憲法九条は周知のように「戦争の放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の禁止」をうたっている。厳密には「国際紛争を解決する手段」としての戦争や武力行使の禁止だから、自衛のための戦争などは認められる、という解釈の下に戦後の日本の防衛政策は築かれてきた。

 だが、ケーディス氏は、米側の意図はあくまで「日本の永久の非武装」だったと明かしたのである。しかも、同氏が最初に上司から受け取った指針には「自国の防衛のためでさえも戦争を放棄する」という記述が明記されていたのだという。まさに完全な非武装、無抵抗、降伏主義という趣旨だった。だがこの点はケーディス氏自身が非合理だと感じたという。

 「すべての国は自己保存のための固有の自衛の権利を持っています。だからこの部分は草案では私の一存で、あえて削除しました。そして上司のホイットニー将軍に『一国が他国から侵略を受けて、自衛もできないというのはあまりに道理に合いません』と説明すると、削除を了承してくれました」

 日本国憲法はこんな粗雑な作業を経て書かれたのだった。しかもその本来の趣旨はあくまで日本の永久の非武装なのだから、その後に日本の防衛を縛りつけても当然だった。自衛隊の違憲論が出てもおかしくないわけだ。

 当時のアメリカ側は日本の軍事強国としての再登場をなによりも恐れ、どの国も持つ自衛の権利までを奪おうとしたのだ。主権国家にとっての自衛は自明の権利である。自国の利益や安全のための戦争や武力行使も、どの国家もが保有する固有の権利なのだ。

 だが当時のアメリカは、日本からその基本的な権利を奪うことを最大目的として憲法を作成し、日本に押しつけたのだ。ケーディス氏の判断で「日本の自衛戦争の否定」が削除されてもなお憲法九条は、日本の防衛や軍事を全世界でも例外的に自縄自縛の状態としてきたといえる。

 その結果としての日本は、こと安全保障に関しては主権の一部を縛られた半国家、あるいはハンディキャップ国家となってきたのである。ケーディス氏が淡々と、そして率直に明かした憲法起草事情は、日本へのそうした制約をいやというほど明示していた。

 その後も私はアメリカ側の識者たちから「日本の憲法の国家主権制約」という見解をたびたび聞いてきた。

 1992年5月、歴代政権で軍備管理の大統領顧問などを務めたポール・ニッツェ氏は「日本の憲法九条は明白に日本の自衛行動を抑えるという点で、日本の国家主権の一部を制限しています」と語った。私の質問に答えての言明だった。

 2011年9月にはワシントンのシンポジウムで、日米関係研究学者のベン・セルフ氏が、日本の防衛、軍事の活動への憲法上の制約に対して「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけには許してならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族だと暗に断じて、永遠に信頼しないという偏見です」と述べた。

 ケーディス氏の述懐から長い歳月を経てのアメリカ側のこうした識者たちの言葉は、いずれも日本の現行憲法が結果として、日本自身の防衛に関する主権の重要部分を国際基準からみて例外的に、そして不自然に抑えつけているという認識の発露だった。

 日本の憲法のあり方はもちろん日本自身が決めるわけだが、アメリカ側のこうした認識も、その決定プロセスでは有力な指針となるだろう。

2016年3月21日号 週刊「世界と日本」第2073号 より

<私の憲法論 第七回>

憲法に「家族条項」の創設を

最大の問題は、日本人の思考だ

 

政治ジャーナリスト 細川 珠生 氏

 日本の憲法の問題点は、挙げればきりがないくらいたくさんあるが、私が現憲法を維持することによる最大の問題と考えるのは、憲法に関心がなくても、日々生きていくことができると思っている日本人の思考である。

《ほそかわ・たまお》 平成3年、聖心女子大学卒。平成7年、『娘のいいぶん〜がんこ親父にうまく育てられる法』で、日本文芸大賞女流文学新人賞受賞。平成7年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本、毎土7時5分)に出演中。千葉工業大学理事。星槎大学非常勤講師(現代政治論)。文部科学省、警察庁、国交省等で有識者会議等委員を務める。元品川区教育委員長。


 いろいろな分野の現場を取材していると、報道から知りうることの大部分は“幻想”だと思うことが多い。実態は、あまりにも違うということだ。あるいは、多くの事象はもっと複雑な要素が絡み合っており、物事を多面的にとらえる思考力や想像力がなければ、事実を正しく理解することはできないということを思い知らされる。

 憲法に当てはめて言うのならば、「平和憲法」というスローガンを掲げてさえいれば、日本は未来永劫、どんな世界の危機にも巻き込まれないという“幻想”は、あまりにも単純な思考と思わざるを得ない。しかし、それがなかなか多くの国民には、実感できないことでもあるのだ。

 安倍総理はこのところ、憲法改正についても、堂々と発言する機会が増えた。「憲法については国民的な論議を起こして欲しい」と国会で答弁することは、今までの政治では考えられなかったことでもある。

 大臣の「憲法順守義務」を盾に、それまで積極的に憲法改正について発言していた政治家でも、大臣になった途端、持論を引っ込めることが、いわば“普通”であった。それを思うと、政治も、社会も変わりつつあることを実感する。

 一方で、国民の政治への関心事では、経済や年金、介護、子育てなど、近視眼的なテーマが常に上位にあり、憲法など国の根幹にかかわることについては、ほとんど関心がない。

 そこで、いかに憲法が近視眼的なテーマになるかということが重要であるのだが、そのためには、今の日本で起こる数々の事件や事象、日本を取り巻く国際社会での出来事が、現憲法にその原因の一端があるということと結びつけて考えるのが重要ではないだろうか。

 頻発する児童虐待についても、私は憲法の行き過ぎた個人主義にその原因の一端があると考えている。心中を含め、児童虐待による子供の死は年間約100人。そのうち0歳児が4割、さらにそのうちの9割は生後1か月以内である。児童相談所への相談件数は、統計を取り始めてから約20年で67倍の7万件以上となった。

 これだけ増加した背景には様々な要因があるが、虐待の7割は若年期や望まない妊娠によるケースが占めている。離婚後の母子家庭による精神的・物理的不安定からくる母親によるもの、同居や交際相手によるものなどがその実態である。恋愛や結婚、妊娠についての価値観の多様化といえば聞こえはいいが、つまりは親の身勝手な行動ゆえに起こっていることと言える。

 私も一児の母として、仕事をしながらの出産・育児の大変さは、人並みには経験してきたつもりである。しかし、家族や周囲の温かさの中で多くの精神的・物理的助けを得ることができたし、また、それ以前に、親として、我が子を大切にしていくのは当然のことであると考えてきた。

 夫婦は、いついかなる時も、子供のために家族のために、努力してその関係を維持する責任を負っているという強い覚悟も、家庭を崩壊させずにこられた理由であったとも思う。それだけ結婚や出産は、大きな責任を伴うものであり、仮に不意のことであったとしても、覚悟を持って受け止めなければいけないのである。

 しかし、現憲法は、第24条で結婚については「相互の努力により維持されなければならない」とはしながらも、「両性の合意にのみ基づく」、つまり当人同士さえよければよいという「自由」を強調しすぎている。このような点に、終戦直後に、それまでの価値観の転換を促す意志が読み取れるが、70年経ってしまうと、それが浸透しすぎて弊害も出てきているというのが、実態ではないのだろうか。

 あるいは、学校教育を考えてみると、外国語や情報、道徳やキャリア教育など、教育内容は増える一方で、学校の負担は相当なものである。先生に求められる能力も多岐にわたり、教員の質的向上は喫緊の課題でもある。

 しかし、現状は、そもそも有能な人材が教育現場に集まらないという深刻な問題がある。

 その背景にあるのが、過剰な保護者によるクレーム、いわゆるモンスターペアレントの増加である。保護者対応に骨を折り、精神疾患も増加が止まらない。虐待とは相反する親の態度ではあるが、「我が子(だけの)可愛さ」が行き過ぎ、学校教育が疲弊、質も低下するのである。

 それも行き過ぎた個人主義、我が子しか見えない個人主義に起因する社会の質的低下と言っていいだろう。教育力が下がれば、国力も下がるのである。

 それらを考えると、親の責任は極めて重要であり、もっと意識をしながら、家庭や親のあり方を健全なものにしていかなければならないのである。憲法改正の箇所は多々ある中で、あえて1つを挙げるとすれば、「家族条項」の創設を主張したい。

 そこでは、親の、子の養育に対する責任と健全な家族を維持する努力を今より強く謳うべきと考える。しかしそれは決して、戦前の家族制度を復活させるものではなく、社会の中ではいかなる立場や境遇であっても、それぞれが健全な社会を形成する責任を負っていることの1つであることとして表現すべきであろう。

 とかく、目の前のことにしか興味を持たない女性の特性に照らし合わせても、憲法と我が子の境遇とを結び付けて考えられれば、自ずと憲法に関心を持たざるを得なくなるはずだ。国民的論議には、そのような“素材提供”が必要と考える。

2015年11月2日号 週刊「世界と日本」第2064号 より

<私の憲法論 第六回>

日本人にだけ通じる「9条解釈」

安全保障法制を柔軟に活用せよ

 

平和・安全保障研究所理事長 西原 正 氏

 新しい安全保障法制が成立して安倍政権は、これから安全保障上の役割を拡げて、日本の安全および国際安全保障に役立てたいとしている。

 そして政府は、中国の軍事的海洋進出など国際情勢が厳しくなっている今日、憲法第9条の解釈を修正することによって、いくつかの事態における自衛隊の役割を拡大したが、同時に自衛隊の役割に対する重要な法的制約もいくつか設けた。

 政府は、こうして切れ目のない安全保障法制を作ることができたとしている。

 しかしこれらの制約を、国際社会はどう見ているだろうか。とくに同盟国の米国人はどう見ているだろうか。日本としての独りよがりの憲法解釈に縛られていないだろうか。

制約し過ぎる集団的自衛権の行使

 例えば、自衛権。新しい法制は、日本は個別的自衛権を中核において国の安全を守り、「存立危機事態」においてのみ集団的自衛権を行使するとしている。

 しかし米国人の多くは、自衛隊はなぜ存立危機事態においてのみ集団的自衛権を行使する(米軍や日本と密接な関係にある他国部隊と肩を並べて武力行使する)のかという疑問を抱く。

 日本が国連憲章で認められている集団的自衛権を限定的にしか使用しないで、自国の安全を確保することができるのかと思うだろう。彼らにとっては、朝鮮半島や台湾海峡、あるいは南シナ海の緊張は、日本の安全に直接影響を与えるのに、自衛隊が米軍と共に闘わないのは理に合わないと思うであろう。

 一般の米国人は、「日本は集団的自衛権を行使できるようになった」ということで、3要件を伴う限定的な行使だとは理解していない。厳しい3要件を知って、多くの人は、これでは自衛隊が集団的自衛権を行使できるとは思わないであろう。

 そしてその人たちは、日本の存立が危ぶまれるとき、そして国民の生命、財産に深刻な影響を与えるような事態に、日本が集団的自衛権を行使するとしても、そういう事態が滅多に起きないだろうから、自衛隊が集団的自衛権を行使することも滅多にないだろうと考える。

あいまいな存立危機事態と重要影響事態

 さらに日本政府は、「日本の存立にとってきわめて危機的な事態であれば肩を並べて戦う(前述の存立危機事態で集団自衛権の行使が可能)が、それほどの危機事態ではないが、放置すれば日本の安全に重要な影響を及ぼす事態(重要影響事態)と判断されれば、自衛隊は『非戦闘地域』で『後方支援』をすることとなる」という。

 そして新法制は、自衛隊は「非戦闘地域」で「後方支援」をして食糧、水、燃料、弾薬などの補給、輸送を行うこととした。

 さらに、非戦闘地域に戦闘が及んできて戦闘地域になってきた場合には、自衛隊は速やかに後方支援活動を中止して、撤退することとした。

 しかし、米国人にしてみれば、存立危機事態と重要影響事態という、そんな区別をする必要が分からないであろう。米国人は、紛争相手国は日本が何らかの形で戦闘に関わっていると判断するならば、日本を攻撃するだろうと考える。

 自衛隊が他国の戦闘部隊よりも後方にいることで安全だとは考えない。とくに後方にいて装備が軽ければ、紛争相手国の部隊にとっては攻撃しやすいと考えるかもしれない。したがって自衛隊にとっては、かえって危険な状態におかれるかもしれない。

 同時に多国籍軍が戦っている相手は、自衛隊が「後方で燃料や食糧、弾薬の補給はするが、兵器の補給はしない」という法的制約下で任務を遂行しているとは採らないであろう。相手は、自衛隊はむしろ戦闘に参加すると想定するだろう。

 自衛隊は「自分たちは兵器の補給、輸送はしないことになっている」といっても、相手は信じるだろうか。

 となると、日本が国内の政治的機微の問題として細かく後方支援の内容を規定しても、ほとんど意味がないことになる。

 また、米国その他の国の部隊は、自衛隊が他国の軍隊と肩を並べて武力行使をしないのは「腰抜け」「臆病者」と取るだろう。そして国際平和のために皆が責任を果たそうとしている時に、日本がそれを拒否するのは、非協力あるいは集団的自衛権の放棄だと烙印を押すかもしれない。

非戦闘地域と武器の使用も

 これと関連して「戦闘地域」と「非戦闘地域」との区別も、実際の現場で明確にできるのか疑問である。両地域が急に重なる場合があったりもするであろう。その際に、自衛隊が撤退することが実際に可能なのか。むしろ友邦軍と共に闘うことが期待されるのではないか。

 同様に「武力行使」と「武器使用」の区別も敵対勢力にとっては意味がないだろう。日本の法制では、自衛権の行使の際には武力行使、自衛権の行使ではない場合には後方支援のための武器使用といっているが、両者に現場での相違はあるだろうか。敵対勢力から見れば、部隊の装備の相違はあるだろう。武器使用は部隊の隊員の自己防衛のためとされているからである。

 したがって、装備の相違は隊員を危険な状況に落とし入れるかもしれない。しかし自衛隊が攻撃を受ければ、反撃するのであるから、武器の使用ではなく、武力の行使である。

結び

 これらの制約はすべて、集団的自衛権行使を必要以上に厳しく制約したことによる。

 日本は、集団的自衛権行使に厳しい3要件をつけているが、他の多くの国連加盟国と同様に集団的自衛権を国の安全のためにより柔軟に使えるようにすれば、これらの問題はずっと容易に解決できる。

 日本の憲法解釈、自衛権の考え方の特殊性を一日も早く克服すべきである。

 日本は、独自の憲法解釈ではなく、現在の国際安全保障環境の中で望ましい役割とはなんであるかを考え、国際的基準による憲法解釈を基に安全保障法制を柔軟に活用して進むべきである。


2015年8月17日号 週刊「世界と日本」第2059号 より

<私の憲法論 第五回>

憲法は国の生存に優先するのか

国際情勢に無頓着な論争はやめよ

 

杏林大学名誉教授 日本会議会長 田久保 忠衛 氏

 国際情勢を50年ほど観てきて、つくづく島国と、戦略眼を持った国々との言動の差が、とてつもなく開いていると思う。とりわけ、東シナ海に緊張感が高まっているにもかかわらず、国会審議は集団的自衛権の限定的容認は憲法違反かどうかに明け暮れている。

 イスラエルは、サダム・フセイン大統領全盛時代の1981年6月7日にイラクの原子炉を、2007年9月6日にはバッシャール・アサドが君臨するシリアの核施設をいずれも急襲し、完全に破壊してしまった。

 イラクもシリアもイスラエルの存在を認めていない。その両国が核を持つことは自国の生存にかかわるから先制攻撃をしたのだと、イスラエルの指導者は公言した。いわゆる「先制的自衛」である。

 もちろん国際法に違反して他国の主権を侵害したことに疑問の余地はない。世界のほとんどの国はイスラエルを非難した。しかし、イスラエルは生存を犠牲にしてまで国際法を守ろうとはしない。

 日本がイスラエルだったら、おそらく生存を犠牲にしても国際法を遵守するであろう。とくに、最近の安全保障関連法案の国会審議を観察していると、国の安全などおかまいなしに、憲法を優先の議論がまかり通っている。例を見ない倒錯した議論に国民の多数がのめり込んでいる。

 憲法論議は大いに結構だが、国際社会に全く無頓着な論争を繰り返しているうちに、国家がつぶれる例はいくつもある。マンモスがいまとは反対に地球が冷却化しているのを知らずに死滅したように、ソ連は24年前に崩壊した。

 共産主義の矛盾が極限に達したのと、滅茶苦茶な軍拡にブレーキがかからず経済が支えきれなくなったのが原因だ。ゴルバチョフ大統領もエリツィン大統領もそうなることは知っていたが、勢いがつくと人知ではどうにもしょうがなくなる。

 野党議員にいくら説明しても納得してもらえないだろうが、国際情勢の中で戦後初めてと言っていい地殻変動が生まれている。

 一つは、中国の領土的膨張がとどまるところを知らない事実である。もちろん世界第2のGDP(国内総生産)と最大の人口を有する中国との経済関係は、いかなる国も無視できないのだが、安全保障面では、はっきりした脅威になりつつあるこの国とどう向き合うかを日本は曖昧にしてきた。

 第二は、米国とりわけオバマ政権第2期から米国には、安全保障面で他国の紛争になるべくかかわりを持ちたくないとの「内向き」の傾向が濃厚になってきた。問題は米中両国の間にある日本はどうするのか。劇的な国際情勢の変化にどう対応するかを考えると、異常なほどの緊張感を抱かないわけにはいかなくなる。

 戦後の日本は日米安全保障条約が国家の安全を維持する基盤であった。米国によって軍事的に支えられ、ユーラシア大陸から受ける軍事的圧力に対抗してきたのである。ロシア、北朝鮮、中国の脅威である。

 その脅威の中で、とくに中国は異常なほど軍事面、経済面で勢力を増大させてきた。南シナ海で人工島の建設、東シナ海でプラットホームの仮借のない構築を続け、そこを軍事的に利用しようとしている。その近くを日本が使用しているシーレーンが通っている。

 中国政府は繰り返し、航行自由の原則は犯さないと言明しているが、近くに軍事的プレゼンスがあるだけで、日本側は中国に気を使わなければならない状況に追い込まれることに気付かなければならない。

 頼みの綱は米国だが、オバマ大統領は、「米国は世界の警察官にはならない」と宣言し、中東、ウクライナ、アジア太平洋地域でのトラブルに「話し合い」を強調してきた。「イスラム国」との戦いにも地上戦闘部隊の投入は回避し、米軍事顧問はイラク軍の訓練、作戦の指導にあたるだけで、攻撃は無人機に頼っている。

 2年前に訪日したときにも、尖閣諸島について、「日米安保条約第五条は日本の施政権の及ぶところに適用する」と述べはしたが、領土問題解決はあくまでも当事者間で平和的に行うべきだとの原則論から一歩も前進していない。

 集団的自衛権の行使は憲法違反だと連日国会で大騒ぎしていられる国際情勢か。日本に迫りくる危機は中国、北朝鮮であって、安倍首相ではないだろう。日米関係の強化は日本の生存のため必要不可欠で、日本が米国の「内向き」で空いた部分の役割を演じなければならないのは当然ではないのか。

 集団的自衛権の行使を違憲だという憲法学者たちは、その論理の続きに、「だから憲法改正が必要」と主張すれば整合性はあるが、ほとんどの人々は護憲派だというのだから、話のつじつまが合わない。

 九条を改め、「国の独立と安全を守り、国民を保護するとともに、国際平和に寄与するため」国軍をつくらなければ日本は危ない。

 外部からの武力攻撃だけでなく、内乱、大規模テロ、すでに予想されている直下型大地震などの自然災害、これまで夢にも考えられなかった重大なサイバー攻撃などを想定して、内閣総理大臣には緊急事態を宣言して対応できる権限を与える緊急事態条項を憲法に盛らなければ日本の安全は確保できない。

 六法を片手に合憲か違憲かを口角泡を飛ばして国会で議論する日本を笑っている国は、ユーラシア大陸の国々だけではないと思う。


2015年6月1日号 週刊「世界と日本」第2054号 より

<私の憲法論 第四回>

憲法9条の改正 まったなし!

戦後70年国民の明確な意思を問え

 

駒澤大学名誉教授  西 修 氏

 通常国会の後半に入り、安全保障法制の整備に関する論議が本格化する。衆参両院に設置されている憲法審査会では、改正項目の絞り込みに向けた実質審議に入る。いずれも、「戦後レジームからの脱却」という視点から、重大な局面を迎える。

《にし・おさむ》 1940年、富山県生まれ。

早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了、専攻は憲法学、比較憲法学。駒澤大学法学部教授を経て、2011年より現職。博士(政治学)、博士(法学)。著書に『いちばんよくわかる! 憲法第9条』『図説日本国憲法の誕生』『憲法改正の論点』ほか多数。


 5月7日に行われた衆議院憲法審査会では、自民党が、優先項目として、国家緊急事態、環境権などの新しい権利、および財政規律条項の導入を提案した。

 共産党を除く、民主、公明、維新、次世代の各党は、これらの項目を議論する必要性を認めたが、維新の党は、それに加えて、道州制、一院制、首相公選制、改正手続きを定める96条の緩和を主張した。

 同審査会で、民主党は、安倍総理の憲法観を問題にし、慎重審議を唱えたが、筋違いである。憲法改正原案の発議は、国会議員のみに与えられており、また国会の議決によって決せられる。同党は、憲法改正をめぐって意見の対立があり、党内の意見集約ができない事情を一総理の憲法観に転嫁するのは、見苦しい感じさえする。

 公明党からは、「国民的合意に向けて冷静かつ慎重に議論を進めていくべきである」ことが強調された。両院に総合的な調査をするために憲法調査会が設置されたのは、2000年1月のことである。

 そして07年8月に、改正原案の審査等の機関として憲法審査会が発足した。それから何年にもわたって、何度も審議が積み重ねられてきた。いまだ改憲項目の絞り込みがなされていないのは、国会の怠慢といわなければならない。

 ところで、憲法審査会の最大の特色は、憲法9条に関する議論が当面、封印されていることである。自民党や公明党の幹部は、まずは賛同の得やすい項目から手をつけ、本丸というべき憲法9条は、いわば「お試し改憲」を行ってからにしたい旨の発言をくり返している。

 私は、いい加減、憲法9条に決着をつけるべきだと考える。周知のように、憲法9条については、さまざまな解釈がある。

 自衛のためであれば戦争や武力の行使が可能であるとする立場から、自衛のためといえども戦争や武力行使ができないという立場まで、180度違う解釈が存在する。

 政府は、世界的にも有数な実力集団である自衛隊を、憲法解釈上、「戦力」とはみなしていない。

 平和と安全という、国家と国民にとってきわめて重要な課題であるにもかかわらず、このような著しい解釈の隔たりが並存したままというのは、異常な状況であると言わざるを得ない。

 憲法9条の改正論者は、「国際紛争を解決する手段としての戦争と、武力による威嚇又は武力の行使の放棄」を定めている1項の趣旨は残し、2項の「戦力の不保持、交戦権の否認」につき、自衛のための戦力の保持を明記すると同時に、意味不明ともいうべき「交戦権の否認」の削除を求めている。

 これに対して、護憲派は、憲法9条に一指たりとも触れさせまいとしている。その基調は、自衛隊と日米安保条約は、本来、憲法違反であり、解体・廃棄すべしという点にある。もっとも、ただちに解体・廃棄とまでは叫んでおらず、ここに矛盾がある。

 現在は護憲を掲げる共産党は、憲法制定議会において、「憲法9条は、一個の空文であり、民族独立のため、反対しなければならない」と明言していた。

 そこで私は、憲法9条を明確化するために、自衛戦力の保持を可能にする改正案と、非武装としか読めない改正案の択一を迫るべき、国民投票の実施を提案したいと思う。

 近年、わが国を取り巻く国際環境は厳しさを増すばかりである。

 中国は、沖縄県の尖閣諸島を自国の領土に組み込み、同国の「核心的利益」と位置づけている。

 米国防総省が5月8日に発表した年次報告書によれば、中国は南シナ海で岩礁の埋め立てを進め、その面積はこの4カ月で4倍にまで拡張した。いまや「永続的な軍民の活動拠点」となりつつあるという。国防力の飛躍的な増大は、その不透明さと相まって、近隣諸国に深刻な軍事的脅威を拡大させている。

 北朝鮮は、核開発と弾道ミサイルの発射など、挑発的な行動をとり続けている。5月9日には、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の水中発射実験を成功させ、近く実戦配備をすると報じた。実戦配備されれば、核の脅威は一段と増すことになる。

 北方領土を不法占拠しているロシアは、クリミアの併合にあたり、欧州への臨戦態勢として、核兵器の使用を準備していたことを明らかにした。5月9日には、「対独戦勝70年」を記念して、ソ連邦崩壊後、最大の軍事パレードを挙行し、その軍事力の強大さを内外に誇示した。

 このような現状を直視すれば、憲法9条をめぐる非生産的な論争に終止符を打つべきである。私自身は、「憲法9条の改正、まったなし!」と考える。

 スイスの現行憲法(2000年1月1日施行)は、軍隊の設置と兵役の義務を明記しているが、これらの規定の是非に関し、国民投票が実施された。その結果、軍隊の廃棄については、2000年12月に行われた国民投票で賛成がわずか22%しか得られなかった。

 また兵役の義務規定の削除に関しては、13年9月に実施された国民投票において、賛成が27%で否決された。圧倒的多数が軍隊の保持と兵役の義務規定の存続に賛成したのである。永世中立を維持していくためのスイス国民の国防意識の高さを読み取ることができる。

 戦後70年を迎えるに際して、日本国民自身の安全保障に関する明確な意思が、問われてしかるべき時期に来ているのではないかと考える次第である。

2015年5月18日号 週刊「世界と日本」第2053号 より

<私の憲法論 第三回>

憲法の制定過程を踏まえた議論を

 

大阪大学大学院法学研究科教授  坂元 一哉 氏

 憲法と憲法改正に関する議論は、憲法の制定過程をよく踏まえた議論であってほしいと思う。産経新聞の記事(4月18日)によれば、安倍晋三首相が日本国憲法を「GHQ(連合国軍総司令部)の素人がたった8日間でつくった代物」と評したことについて、野党のなかに、その首相の憲法観は問題だ、と反発する声があるという。

《さかもと・かずや》 1956年福岡県生まれ。京都大学法学部卒業。京都大学大学院法学研究科博士前期課程修了。米国オハイオ大学留学。京都大学助手、三重大学助教授などを経て97年より現職。京都大学博士(法学)。著書は『日米同盟の絆』(有斐閣、サントリー学芸賞受賞)『日米同盟の難問』(PHP研究所)など多数。


 首相の言葉が産経新聞の記事のとおりだとすると、憲法は8日間でできたわけではないので、首相の表現には誇張があったかもしれない。

 だが日本国憲法の草案は、まさに首相が言うとおり、総司令部が日本専門家でもなければ憲法の専門家でもない部員―皆それなりに優秀な人たちだったが―を動員して、秘密裏に8日間でつくったものである。誰もその事実を否定することはできない。

 昭和21(1946)年の2月13日、天皇象徴や戦争放棄を盛り込んだその憲法草案を、外務省公邸で日本政府に手交したGHQのホイットニー准将は、政府内で憲法改正問題を担当していた松本烝治国務大臣と、吉田茂外相に対して、天皇の身の安全を守りたかったら、この草案を受け入れなさい。GHQがつくったとは言わず、日本政府自身の草案として、これをもとに憲法をつくりなさい、と要求している。

 新憲法が発布されたとき、日本国民は歓呼の声をあげたと言われる。だがもし、当時の国民がこの日のことをよく知らされていたらどうだったか。歓呼の声もずいぶんと複雑なものになっていただろう。講和独立後の国民の憲法観にも、大きな影響を与えていたのではなかろうか。

 私がこの話をするのは、昨年実現した集団的自衛権に関する政府憲法解釈の変更に関して、この変更は、立憲主義から見て問題がある、というような批判があったことを思い出すからである。なかには解釈変更の閣議決定がなされた日は、日本の立憲主義の歴史おいて「最も不名誉な日」だと書いた新聞コラムもあった。

 しかし、昨年の政府憲法解釈の変更は、自国の「平和と安全を維持し存立を全うするために必要な自衛のための措置」は合憲、とする最高裁の憲法解釈(1959年の砂川事件差し戻し判決)の範囲内でなされたものである。政府の統治を憲法に基づいて行うという、立憲主義の原則に反するものではない。

 ただそのことよりも、私が立憲主義を持ち出す批判に引っかかりを感じたのは、いったいそういう批判をする人たちは、いまの憲法の制定過程を、立憲主義の観点からどう評価するのか、いぶかしかったからである。

 政府が政府の判断で、政府の憲法解釈を変えるのはよくない。だが政府が、外国人の判断で外国人に憲法草案を書いてもらって、憲法改正を進めたのは、とくに問題がない、ということになるのだろうか。

 私は後者のようなことになった日こそ、日本の立憲主義の歴史において「最も不名誉な日」というべきではないかと考える。

 憲法と憲法改正の議論は憲法制定過程のことをよく考えたものであるべきだ、と思うもう一つの例は、憲法96条の改正問題である。

 安倍首相は政権発足当初、憲法改正の発議は衆院、参院それぞれ総議員の3分の2以上の多数を必要とする、という96条の規定をまず改めることに積極的な姿勢を見せた。私はここではそのことの是非を論じないが、憲法学者の批判のなかに、そもそも改正条項を改正するというのは立憲主義のルールに反する、という批判があったのには驚かされた。

 というのも、日本国憲法は形式的には大日本帝国憲法(明治憲法)を改正してできた憲法であり、その改正の際に改正条項も改正しているからである。

 日本国憲法は明治憲法73条の規定にしたがい、天皇が勅令により明治憲法の改正を発議し、衆議院、貴族院それぞれ出席議員の3分の2以上の賛成を得て改正され、その結果できあがったものである。

 改正された憲法の新しい改正規定、つまり日本国憲法96条は改正前の規定、すなわち明治憲法73条に比べて、改正の発議も簡単ではないし、国民投票も必要になって、改正のハードルは大きく引き上げられている。

 実はそのことは、この憲法の正統性にかかわる問題点の一つといえるかもしれない。

 日本国憲法は連合国が日本を占領するなか、すなわち日本国民に主権がないなかで制定された憲法である。そのこと自体がもちろん問題だが、未曽有の敗戦というきわめて特殊な事情もあり、やむを得なかったところはある。

 講和独立後に主権を取り戻してから、再検討すればよいだけ、と割り切る考えもあったかもしれない。

 ただその場合、改正された憲法の改正規定が改正前より、かなりハードルが高いというのはどう考えるべきだろうか。

 実際のところ、その新しい改正規定は、主権のない時代にできた現行憲法の固定化を助ける役割を果たした。そうなると、占領下において、そこまでの改正をやってよかったのかどうか、という問題が生じるだろう。

 私は、憲法の制定過程にこうした問題がある、という理由だけで、ともかく何でもいいから、コンセンサスが早く得られるものを先に憲法を変えていく、という考え方には与(くみ)しない。そういう考え方は、改正の議論を混乱させるだけなのでは、と懸念するからである。

 憲法改正は、多少時間がかかっても、たとえば自衛隊を憲法のなかに位置づけるといった、どうしても必要なことから、しっかり議論してやるべきだろう。

 ただその一方で、憲法制定の経緯にかかわる問題をすっかり忘れ、憲法はこうあるべきだとの理想論で改正の是非を論じるような議論には小さくない違和感を覚える。バランスのとれた議論が必要だと思う。

2015年4月20日号 週刊「世界と日本」第2051号 より

<私の憲法論 第二回>

憲法とは「国体」の言語化だ

天皇は日本の歴史の象徴である

 

拓殖大学総長  渡辺 利夫 氏

 個別的であれ集団的であれ、問題の中心は「衛」であります。国を「いかに」衛るかは、もちろん重要なことですが、それより前に「何を」衛るかが、徹底的に議論されねばなりません。何を衛るかが合意されれば、いかに衛るかは、おのずと合意されるのではないか、というのが私の問題提起です。

 視点のポイントは、日本という国家がどういう存在か、つまり日本の「国体」についてです。

 ちなみに憲法とは、英語でいえばConstitutionです。Constitutionとは、体質のことです。英和辞典でConstitutionと入力しますと、(1)憲法、(2)体質、と出てきます。“I have a strong constitution.”という例文がまず書いてあります。「私は強い体質をもっている」という意味です。

 つまり、憲法とは「国体」のことです。少なくとも指導者といわれる人間であれば、この国体のことを明示的に意識化しなければなりません。その意識を言語化したものが、すなわち憲法なのですから。

 そうであれば、憲法に日本という国家の成り立ちや国柄を示し、つまり日本という国家は何を受容し何を排除する存在なのか。この「国体」のことが、明示的にせよ黙示的にせよ、記されていなければ、それは日本の憲法とはいえません。この最も重要な観点からみて、現憲法はとても日本国憲法といえるものではないと私は考えます。

 それでは、日本とは、他国とは異なるどんな国体をもつ国家なのでしょうか。私は日本の国体は3つのキーワード、1つは「同質的」(homogeneous)、2つは「自成的」(自ら成る=autogeneous)、3つは「連続的」(continuous)、という形容詞で語るのが適切だと考えます。

 日本は四方を海で囲まれた「海洋の共同体」です。同一の国土の中でほとんど同種の人々が、他国では使われていない、その意味で孤立的な言語である日本語を用いながら生を紡いできました。また宗教上の争いが日本に亀裂を生じさせることはありませんでした。

 同種の人々が孤立的言語の日本語を用い、宗教上の亀裂もない「同質社会」、これが日本の大きな特質です。こういう「同質社会」は世界で、日本以外に探し出すことはなかなか難しいのではないでしょうか。

 日本が同質社会であることは、中国と比較してみれば歴然とします。中国の歴史を彩るものは、王朝の反復転変史です。易姓革命と呼ばれます。徳を失った皇帝は、新たに天命を授かった支配者によって命を革(あらた)められます。これが革命です。

 また、皇帝の姓もまた易(あらた)められるのですが、これが易姓です。革命の「革」も、易姓の「易」も、いずれも「あらためる」という意味です。

 中国では、北方の遊牧民族や騎馬民族による征服王朝さえ、しばしば出現しました。近くはモンゴルによる元朝、満州族による清朝がそうです。つまり、多様な民族の混淆(こんこう)する「異質社会」が中国です。

 人類学の用語法でいいますと、同質社会である日本の発展が「自成的」、つまり自ら成ったものである一方、異質社会である中国の発展は「他成的」(allogenic)、つまり他文明の影響を徹底的に受けて成ったものだということができます。

 ですから、中国の歴史が「非連続的」(discontinuous)である一方、日本の歴史は「連続的」であります。先ほど、私が日本のことを「海洋の共同体」だといったのも、そういう私の歴史意識のゆえです。

 この大いなる共同体、同質的で自成的で、かつ連続的な歴史をもつ日本という国のありようを、目にみえる形で私どもの前に現出させてくれるものが、「万世一系」の天皇です。

 現憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」となっています。確かにそういってもいいのですが、それだけでは足りません。むしろ、天皇は日本という国家と民族の連綿としてつづく歴史の象徴だといった方が的確であろうと、私は考えます。

 平川祐弘先生は、あるエッセイの中で次のようにいっていますが、これが私の胸には響きます。

 「天皇は敗戦後の憲法の定義では国民統合の象徴だが、歴史に形作られた定義では民族永続の象徴である。個人の死を超え、永世を願う気持ちこそ天皇と国民を結ぶ紐帯である」

 かねて私の胸の中にあって形にならなかった感覚が、平川先生のこの卓抜な言語化によって霧が晴れたように感じています。

 しかし、ものにはすべて両面があります。同質的な日本の社会には対外的な危機意識が育ちにくかったのです。日本は国家観念を希薄化させたままで、長らく打ち過ごしてきたのです。

 この日本に向けて、18世紀、血なまぐさい抗争を繰り返してきた欧州の各国が、市民革命を経て近代国家を成立させ、産業革命を通じて国力と軍事力を格段に強化し、市場と領土を求めてアジア、そして日本へと進出してきたのです。他方、平和を享受する江戸時代の日本は、軍事技術の発達に関心を寄せることがありませんでした。

 イギリスが庄倒的な軍事力により清国を屈服させて香港島を奪取したのがアへン戦争です。このアへン戦争の報に接し、日本の指導者は強烈な衝撃を受けました。アヘン戦争から10年後に米国の黒船が来航、日本は開港を余儀なくされました。

 また同時に、英米仏蘭露の間で、不平等条約、つまり関税自主権がもてず治外法権をも許す屈辱的な不平等条約を結ばされるはめになったのです。

 しかし、それにもかかわらず、アジアのほとんどすべてが欧米列強の隷属下におかれる中にあって、ひとり日本のみが独立を守りえたことは特記されねばなりません。

 同質的で自成的な日本は、ひとたび急迫の事態に直面するや、これに抗する力を一気に凝集する高い政治的能力をみせつけたのです。

 中国の膨張を前にして、この凝集力の回復こそが、現在、再び日本人の最も喫緊のテーマとなっています。

 日本文明の同質性、自成性、連続性に改めて思いをいたそうではありませんか。


2015年4月6日号 週刊「世界と日本」第2050号 より

<私の憲法論 第一回>

戦後70年  なぜ今、憲法改正が必要か

 

日本大学法学部教授  百地 章 氏

 憲法改正がいよいよ現実味を帯びてきた。来年の参院選と同時に憲法改正国民投票を目指す国民運動が始まり、自民党の平成27年の運動方針にも、国民投票を視野に「賛同者の拡大運動を推進する」ことが謳われた。

《ももち・あきら》 昭和21年、静岡県生まれ。京都大学大学院修士課程修了。法学博士。専門は憲法学。現在、日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授、比較憲法学会理事長、「民間憲法臨調」事務局長、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」幹事長、産経新聞「正論」執筆メンバー。著書に『憲法の常識 常識の憲法』、『憲法と日本の再生』、『新憲法のすすめ』など多数。


 日本国憲法は、制定されてから今年で69年になる。しかも制定後、一度も改正されていない。そのため、憲法と現実との間にさまざまなギャップが生じていることは、多くの国民が感じているところである。

 また現行憲法は、当初からさまざまな不備や欠陥を抱えている。それゆえ、各種世論調査でも憲法改正を支持する声が上回っている。また、現行憲法は連合国の占領下にあって、GHQが日本を弱体化し無力化するために強制したもの、つまり占領憲法である。

 それゆえ、内容だけではなく手続き的にも重大な欠陥があるから、わが国を真の独立国家として再生させるためには、どうしても憲法を抜本的に見直す必要がある。

 日本国憲法に決定的に欠けているのが「国家観」と「家族観」である。つまり「個人」を絶対視し、「国家」も「家族」も無視ないし軽視してきたのが、日本国憲法であるといっても過言ではなかろう。これでは、国が混乱し、家族が崩壊するのも当然であろう。

 現在の憲法には、「政府」は登場しても歴史的、伝統的な「国民共同体としての国家」とか「運命共同体としての国家」は見当たらない。

 建国以来、皇室を中心に2000年以上にわたって発展を遂げてきた国家、歴史・文化・伝統を共有する「国民共同体としての国家」はどこにも出てこない。

 つまり、日本国憲法の最大の問題点は「国家不在」「国柄不在」にある。したがって憲法に、誇りある日本の国柄を盛り込み、国民に自信と誇りを取り戻させる必要がある。

 現行憲法の最大の欠陥は、国家的な緊急事態に対処するための規定、つまり緊急事態条項が存在しないということである。例えば、大規模テロや大規模自然災害に対する備えが何もない。

 先般、ISIL(アイシル)いわゆる「イスラム国」において、日本人の人質2人が殺されるという痛ましい事件があった。ISILは、日本におけるテロまで予告しており、今後いつテロが起こるか分からない。

 2001年、アメリカの同時多発テロを起こしたのがアルカイダであったが、オサマ・ビンラディン容疑者が殺害された2011年、アルカイダは世界に向けて復讐テロを宣言した。その時、懸念されたのが、わが国の原発テロであった。

 東日本大震災のダメージを受けたことで、当時、福島第1原発は世界中で最も攻撃が容易なターゲットとなっていたからである。しかも発電所の周辺住民は皆すでに避難していたし、周辺の警備も手薄だったから、テロリストたちが復旧作業員に紛れて侵入することも可能であった。

 もし原発テロが行われていたら、どうなったか。幸い、この時は何事もなく済んだが、現在でも危険な状況は変わっていない。原発は、自衛隊の警護対象にもなっていないからである。

 他方、大規模自然災害であるが、あの平成23年3月の東日本大震災の時にも、さまざまな問題が浮上した。

 例えば、ガソリンが不足したため、緊急車両が動けなくなり、助かるはずの多くの命が失われている。また、津波に流されたガレキの処理をめぐって、所有者の了解を得ないまま処理したら、憲法の保障する財産権の侵害に当たり、憲法違反であるなどといった議論もあり、なかなか処理が進まなかった。

 これらは、いずれも憲法に緊急時のための特別の規定がないからで、速やかな改正が必要である。各国とも、国家的な緊急事態に備え、危機を乗り切るための規定を憲法に定めている。先進国で、緊急権の認められてない憲法は存在しない。

 今回のような緊急事態、あるいはそれ以上の緊急事態、例えば首都直下型大地震はいつ起こるか分からない。そのような緊急事態の中で、もし、国会が集会できないような大混乱が生じた場合どうするのか。

 さらに、憲法第9条は1項で侵略戦争を放棄し、いわゆる平和主義を宣言、さらに第2項で「一切の戦力の保持を禁止」している。

 その結果、憲法上、自衛隊はあくまで「軍隊」ではなく、警察組織に過ぎないとされている。「軍隊」の権限は「ネガティブ・リスト」方式で規定される。

 つまり、やってはいけない事柄、例えば非人道的兵器の使用禁止、捕虜の虐待禁止、あるいは非軍事施設への攻撃の禁止、こういった事柄を国際法に列挙して禁止し、これに反しない限り「軍隊」は、主権と独立を守るため自由に行動できる。

 これに対して警察の権限行使は「ポジティブ・リスト」方式で行われる。

 つまり、法律に書かれていることしかできない。原則として制限的なものとされており、警察権の発動は、その障害を除去するため必要最小限度にとどめられなければならない。

 この点、現在の自衛隊はあくまで「軍隊」ではないとされているから、ポジティブ・リスト方式を採用している。そのため、自衛隊法で認められた「防衛出動」の場合を除けば、外国の武装ゲリラが強行上陸してきても、自衛隊は出動できない。これでは、尖閣諸島も守れないであろう。

 したがって、速やかに第9条2項を改正して、自衛隊を「軍隊」とすることが不可欠である。これが自衛隊を正式に「軍隊」としなければならない最大の理由である。

 今年は終戦70年という節目の年である。戦後70年もたって占領憲法を一字一句改正できないようでは、英霊に申し訳ないと思う。その意味でも、今こそ、憲法改正が必要である。

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