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教育特集

人づくりは、国づくり。21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生への取組を解説していきます。

2024年8月19日号 週刊「世界と日本」第2275号 より

 

生涯現役でいるための「論語指導士」のすゝめ

 

大阪大学名誉教授
加地 伸行

《かじ のぶゆき》

昭和11年大阪生まれ。同35年京都大学文学部卒業、高野山大学、名古屋大学助教授、大阪大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授。文学博士。儒教を中心とする中国哲学史の研究とともに現代世相について批判・提言をしている。著書に『儒教とは何か』『マスコミ偽善者列伝』『令和の「論語と算盤」』など。

 

 老生、もとよりいわゆる高齢者。八十八歳など、とっくの昔に越えたわな。そしてなにもかにも無縁となってきたものの、一つだけは心配でまだ関心が強い。

 それは何かと言うと、現代日本における高齢者の生活の心配。というところで、本紙読者諸氏(多くは経営者)に申しあげたい。

 

 皆様の経営上、働いている社員も、一定年齢に達すると、いわゆる定年退職となる。

 これに例外はまずない。もちろん、神業的技術を持つ特別な人以外、すべて退職となる。では、それからどうなるのか。

 今春、拙宅の庭木の剪定を依頼したが、その担当者三人はすべて退職者。その仕事の依頼先は、近くのシルバーセンター。いわゆる専業植木職人ではない。

 わずかの会話を通じてではあったが、その雰囲気から察するに、デスクワークの仕事をしていた人たちではなかろうか。

 この方々は、しあわせである。植木が好きであったことと、つながっているから。

 しかし、仄聞するところでは、ほとんどの退職者の場合、退職後の仕事については、我慢第一とのこと。

 そういう話を聞くと、つらいなあ。人生、一生懸命働いてきたのであるから、経済的にはともかく、心情的には明るく楽しい〈場〉でその生涯を結びたいのではなかろうか。

 そこで老生は、本紙読者諸氏に、お願い申しあげたい。

 すなわち、貴社の定年退職予定者に対して、退職後に、収入を得られる職業訓練をされてはいかがか、と。

 

 退職後、もちろん高額の収入はありえない。

 しかし己れ一人ならば、年金にプラス月に十万円の収入でいかがであろうか。

 普通人の年金実収入は、そう多くはない。例えば、一般公務員ならば、月額手取りが平均二十五万円前後ではなかろうか。

 しかし、退職者は高齢であるから、子女の教育費は不要、家居も自宅であれば不動産関係費用以外は不要…とあれば、夫婦二人が食べてゆく費用だけで十分。

 とすると、二十五万円にプラス十万円、すなわち月収三十五万円あれば、慎ましく老人二人が生きてゆけよう。

 老生、米寿はとっくに過ぎた。身体はもうガタガタじゃが、口は達者ぞ。学会で、老生が睨んで発言すると、若造大学教員など、震えてヘイコラしおるわな。

 

 ま、ま、それはともかく、そういうふうに見てくると、本紙読者すなわち会社経営者諸氏に提案申しあげたい。

貴社の定年退職予定者に対して、月額十万円を得られるような仕事の技術的精神的訓練を退職前にされてはいかがか、と。

 もちろん、そういう訓練を受けずとも、自身の実力—例えば英会話が達者であるならば、それを生かす。

 しかし、そういう人は、意外と数少ない。ということで、あまり期待できない。

 そこで、ふつうなら目をつけるのは、資格取得である。よく見かけるものに、この資格を取って使いますと、高収入が得られますよ、という宣伝。

 これ、ほとんどはウソ。そんなに簡単に〈もうかりまっかいな〉?にもかかわらず、いろいろと多くの資格取得を宣伝している。

 この意味は何か。

 答は決っている。資格取得のための費用を取るのが多いが、この費用取得によって(高額)、もうけるのである。商売なのである、大半は。もちろん、まとものものもあるが。

 だから、資格取得をすると、あとはウハウハなどということはない。

 すなわち、まともな資格を得て、その後、しっかりと己れを鍛えてゆく覚悟がなくてはならないシンドサはある。

 

 例えば、英検などはすぐれた資格であり、世界的レベルでもある。というふうな資格は、有用である。

 そこで、例えば老生がいま進めつつある〈論語指導士〉という資格について言えば、これは、本紙第2260号(令和6年1月1日号)に詳しく述べているので、読まれたい。

 老生が発案した〈論語指導士〉の最大特色について述べておこう。それは、ただ一つ。しかも他の諸資格とは、決定的に異なる。それはなにか。

 論語指導士有資格者は、資格取得後、私を中心として中国思想専門研究者たちが協力して、オンラインで(論語指導士のみに限定)論語についての講義をし、その受講ができるようにしている。

 その受講費はすべて無料にしている。すなわち質の向上が第一、お互いの将来が第一、……という趣旨からである。

 この論語指導士資格取得者は、私としては、定年退職者をイメージしていたが、現実には、四十代、五十代の方々がかなりおられる。

 それは、退職後、自力で生活してゆこうとされている意志ではなかろうか。私としては、嬉しい〈意外〉である。

 

 話をもどす。会社経営者の方々には、近く退職を予定している自社社員に対して、次の職場の配慮をなさって下さるのは第一であるが、一方、有効な資格取得といった方面からの援助(金銭的、時間的…)もまた、お考えになられてはいかがであろうか。

 あるいは、思いきって、農村への移住という方向もある。もちろん、医療方面に問題がある人の場合は別であるが、一応の健康な人であれば、農村に住むというのはいかがか。

 まず、生活費が安く、簡単な助農作業をすれば、喜ばれるし、若干の収入にもなる。農村は人口減で苦しんでいる。空き家は多いので、住まいは問題なし。もちろん、空気はいい。健康にとっていい。そういう田舎に慎ましく住むというのも美事。

 

※論語指導士ホームページhttps://rongokikou.com/

 


2024年8月19日号 週刊「世界と日本」第2275号 より

 

『子供たちの未来に希望を与える教育再生に取り組む』

 

 

全日本教職員連盟委員長
渡辺 陽平

《わたなべ ようへい》

茨城大学卒業。平成八年、栃木県公立学校教員採用。栃木県宇都宮市立城東小学校、全日本教職員連盟事務局次長、事務局長を経て、全日本教職員連盟委員長。

 新聞記事やネット等の影響により「学校現場=ブラック」との認識が定着しつつあるが、それは真実なのだろうか。

 現在の学校現場の状況を見ると、令和4年度教員勤務実態調査の結果から、平均の時間外在校等時間が小学校で約41時間、中学校で約58時間となった。いわゆる過労死ラインの月80時間に達する教師も一定数存在し、未だ長時間勤務が解消したとは言い難い状況が続いている。

 また、令和3年度に行われた「教師不足」に関する実態調査では、全国で2056人の教師不足が明らかとなり、また、令和6年度には都道府県・政令市への調査を行い、約32%の団体が「教師不足が悪化した」と回答しており、依然として教師不足が解消されていない現状がうかがえる。

 更に、教員採用試験の状況に目を向けると、東京都では令和6年度の応募者数そのものは増えているが、応募倍率は小学校で一・七倍と、前年度の一・八倍を下回り、依然として倍率の低下が続いている状況である。このまま倍率の低下が続くと、それに伴い教師の質が低下することも懸念される。

 このような学校現場の現状はもちろんそれぞれに要因がある。

 

 まず、長時間勤務については、本来教師が担うべき、子供たちへの指導に関わる業務や保護者への対応等に加え、校務分掌上の業務(特に調査・統計への回答等については、同様の調査が様々な主体から依頼がある等、学校現場からは負担感が強い業務の一つとして声があがっている)について、国、地方公共団体、学校において、スクラップアンドビルドが適正に行われなかった結果、様々な業務が積み重なってしまったと考えられる。また、学習指導要領に示されている指導内容の多さも長時間勤務の原因の一つである。

 教師不足については、産育休や傷病休暇に伴う臨時的任用教員等の講師の確保ができず、欠員が生じている状態を指すが、前述の教員採用試験の受験倍率の低下も要因の一つである。受験倍率が下がれば講師の登録者数も減少してしまうからである。この結果、教育委員会だけではなく学校も巻き込み講師捜しに奔走することになる。しかし、この教師不足についてはそもそも教師の欠員等を見越してゆとりのある定数を設定し、また、地方公共団体においても、加配定数等の配置を十分に措置していれば避けられた問題である。

 教員採用試験の倍率低下については、まさに「学校現場=ブラック」という報道ばかりが目立つようになり、教職のやりがいを含めた良さの部分に焦点が当てられなくなったことも大きな原因であると考えられる。

 

 このような学校現場の状況を見れば確かに様々な問題を抱え、「学校現場=ブラック」と言われても仕方が無い状況であろう。

 しかし、このような中でも多くの教職員は、誇りをもって仕事を続けることを選択している。それは、教師の仕事が、将来の日本を担う子供たちの成長に関わる素晴らしい職業であることを実感しているからである。例えば、子供たちと成人式等で再会し、当時の授業の内容を覚えてくれていたり、当時の教師からの言葉かけが、キャリア選択に影響を与えたことを知らされたりしたとき、それは教師としてこのうえない喜びである。教師を目指す人の多くは、大学を卒業して就職する際、他の業種と比較し、まさに「子供たちの成長に関わる素晴らしい職業」であることが教師を選んだ大きな理由となっているのではないだろうか。

 しかし、その一方で、前述のような膨大な業務と教師不足のために学校現場は疲弊し、もはや限界に達している。誇りだけではこの状況を打破することは困難である。そして何より、教職員が余裕を失い、更には、教師の質が低下してくることにより、一番被害を受けるのは子供たちである。

 「教育は国家の根幹であり、国家百年の大計である」と言われるように、教育は国の最も重要な施策であるべきで、絶対に置き去りにされるようなことがあってはならない。しかし、現状を見てみると、地方公共団体によっては、教育の予算を十分に確保することができず、地域による教育格差が生じている。例えば、教師の負担軽減を図り、教師が児童生徒への指導や教材研究等により注力できるよう、様々な業務をサポートするための教員業務支援員を今年度は全小・中学校へ配置できるように予算化しているが、教員業務支援員が未だ配置されていない地方自治体がある。

 

 今年5月に中教審の特別部会において取りまとめられた「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)」では、全ての子供たちへのより良い教育の実現に向けて、学校における働き方改革の更なる加速化、学校の指導・運営体制の充実、教師の処遇改善について、総合的かつ抜本的な改革がパッケージとして示された。また、6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2024」、いわゆる骨太の方針にも、この審議のまとめを踏まえた公教育の再生のための政府の方針が示された。これらの施策が国で予算化され、各地方公共団体で確実に推進されれば「ブラック」と言われてしまう今の学校現場の教育環境改善への第一歩になると確信している。

 全ての教職員が教育環境が改善されていることを実感できるようになり、そして、ゆとりをもって自らの研修に励み、教育専門職としての矜持をもって日本の未来を担う子供たちの成長のために邁進できるように、私たちは全力で活動を推進しなければならない。

 


2024年5月20日号 週刊「世界と日本」第2269号 より

 

『常(つね)なきもの』と『窮(きわま)りなきもの』

 

皇學院大学教授
博士(神道)
松浦 光修

《まつうら みつのぶ》

1959年熊本市生まれ。皇學館大学文学部国史学科教授。博士(神道学)。皇學館大学を卒業後、大学院博士課程に学ぶ。専門は日本思想史。歴史、宗教、政治、教育に関する評論、随筆など幅広く執筆。著書に『新訳 留魂録 吉田松陰の「死生観」』 (PHP研究所)、『新編 いいかげんにしろ日教組』・上巻『いいかげんにしろ日教組』・下巻『まだ懲りないか日教組』各(経営科学出版)など多数。

 

江戸時代からある「国体」という言葉

 

 「白駒(はつく)、隙(げき)を過(す)ぐ」(『荘子』)という言葉がある。「速く走る白馬が、ものの隙間を、アッという間に通り過ぎていく」という意味で、「速く走る白馬」というのは、歳月の流れをいう。つまり、人生とは一瞬のもの…といっているわけで、なるほど、私のように六十歳代半ばになると、その感は、いよいよ深くなる。しかし、何もそれは人の“命”のみをあらわす言葉とはかぎるまい。

 

 古今東西の歴史をふりかえる時、それは、国家や民族の“命”についても、いえる言葉であろう。悠久の過去より、現代にいたるまで、亡びた国家、消えた民族は、それこそ数かぎりなくある。つまり、仏教の教えを引くまでもなく、この世とは“無常”…つまり“常なきもの”の世界なのである。しかし、その“常なきもの”の世界のなかで、その国家と民族がはじまった時点で、その“命”が“無窮(むきゅう)”…つまり“窮まりなきもの”であることを宣言し、そして、その宣言どおり、今も巨大な近代国家として続いている国が、世界には一つだけある。

 

 それが、わが国である。『日本書紀』には、アマテラス大神が、皇孫のニニギの命の「天孫(てんそん)降臨(こうりん)」にさいして、授けられたお言葉が記されている。「天皇の位が繁栄することは、天地とともに変わることがない」というもので、これが、いわゆる「天壌(てんじよう)無窮(むきゆう)の神勅(しんちよく)」である。そのニニギの命の曽孫が、初代の神武天皇で、以後、悠久の歴史を通じて、皇位は正しく男系で継承され、今上陛下が百二十六代目の天皇にあたるのであるが、「反日(はんにち)自虐(じぎゃく)史観(しかん)」の教育によって、徹底的に歴史洗脳されてしまった戦後の日本人でも、さすがにそれくらいのことは知っている…と信じたい。

 

 皇統こそが、わが国の「国体」の根幹なのであるが、その「国体」という言葉も、GHQが軍事占領中、その言葉の使用を禁止して以来、わが国の人々にとっては、なじみのない言葉になってしまった。「国体」の意味を、簡単に言うと「日本が日本である理由」とでもいったらよかろうか。もとは漢籍に由来する言葉であるが、わが国において、その言葉を、先のような意味で最初に使ったのは、江戸時代の天才学者、栗山(くりやま)潜鋒(せんぽう)(一六七一—七〇六)である。潜鋒は若くして亡くなるが、その学問思想は、「水戸学」に継承されていく。そして、その「国体」という言葉は、昭和戦前期の日本にまで受け継がれる。たとえば「ポツダム宣言」の受諾に際し、「国体の護持」が可能か否か…という一点が、御前会議の焦点であったことは、広く知られていよう。

 

 

国史には、「汚隆(おりゅう)」(衰えたり・栄えたり)がある。   

 

 わが国の「国体」は、今も堅持されている。ただし、幕末の水戸藩の学者であり、志士の魁(さきがけ)ともいえる藤田(ふじた)東湖(とうこ)(一八〇六—五五)は、「正気の歌」という、わが国の歴史を、愛と誇りをこめて詠んだ漢詩のなかで、こういうことも書いている。「長い歴史の中では、『汚隆』があった」と。「汚隆」とは「衰えたり、栄えたりすること」で、その点、東湖は、わが国の歴史を軽々しく「美化」するような人ではない。しかし東湖は、わが国の場合、「衰えた時代」にこそ、必ず「正気」を発する人物があらわれる…とも詠んでいる。「正気」とは“時間も空間もこえ、道義の心が積み重なってできた気”で、東湖は、それが現象世界にあらわれると、例えば、楠木正成のような傑出(けつしゅつ)した人物となって、わが国は支えられてきた…というのである。それが東湖の、そして「水戸学」の歴史観なのであるが、そのような江戸時代以来の、いわば正統派の歴史観を、戦後の日本人は、ほとんど忘れている(あるいは、忘れさせられている)。

 

 昨年(令和五年)、私は、経営科学出版から『神道学博士が語る 日本人に生まれたことが嬉しくなる 日本史11話』上・下という本を出版した(上巻は『日本の心に目覚める五つの話』・下巻は『日本の心を思い出す六つの話』)。江戸時代以来の正統派の歴史観を、今の世に呼び覚ますための“大河の一滴”ともなれば…との思いで出版したものであるが、もとより浅学(せんがく)菲才(ひさい)の身であるから、どれほどのことが書けているかは、賢明なる読者のご判断にお任せするしかない。

 

 その本には、「神代の物語」の話、神武天皇の話、伊勢神宮の話、楠木正成の話、幕末の孝明天皇と吉田松陰や坂本龍馬などの志士たちの話、「五箇条の御誓文」の話、また、皇位継承の伝統を、今後も護る方策などについても書いており、上・下巻をあわせると、七百ページほどにもなる。これまでの講演録を集めたものであるから、いささか重複もあり、中高生に語ったものも収めているので、あまりにも“平易にすぎる”という部分もあるかもしれない。

 

 そのため、現代の歴史学者たちからは、「そのような本を出して、いったい何になるのか」などというお叱りも受けそうであるが、私は、歴史とは、それぞれの時代で、“正しく語り直されなければならないもの”と思っている。したがって、大学の教員などの職にあって研究環境に恵まれている歴史学者は、専門の学術研究とは、また別に、そのようなかたちで“社会貢献”をすることが、ある意味では一つの義務であろう…と考え、そのため私は、その種の本を、しばしば書いているのである。

 

 そういえば、吉田松陰も、こう書いている。「自分が知っている正しいことを、正しいと知っていながら黙っていることは、とてもできません。どうしても言いたくなってしまうのが、人というものです。先人たちは同じことを、はるか昔に言っています。そして私は今、それと同じことを、あらためて言おう…と思っているのです」(「士規七則」)。

 

 戦後は、学校でもメディアでも「反日自虐史観にあらざれば、日本史にあらず」というような風潮が、長く続いている。そのような時代のなかで、江戸時代以来の正統派の歴史観を継承しようと志している私の本など、まさに「蟷螂(とうろう)の斧(おの)」ほどの力しかあるまい。しかし、松陰ではないが私も、「自分が知っている正しいことを、正しいと知っていながら黙っていること」など、とてもできない。そうであるからこそ私は、たぶん今も、いろいろと言い続け、書き続けているのであろう。 

 


2024年5月6日号 週刊「世界と日本」第2268号 より

 

人生百年時代、リベラルアーツを身につけるべき

 

生命科学者・大阪大学
名誉教授
仲野 徹

《なかの とおる》

1957年、大阪市生まれ。大阪大学医学部卒業、内科医として勤務の後、京都大学助手・講師(本庶佑研究室)などを経て、1995年から大阪大学教授。2022年3月定年退職。現在は「隠居」を名乗る。専門は、いろいろな細胞の作られ方。2019年から読売新聞の読書委員を務める。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)など。趣味はノンフィクション読書、僻地旅行、義太夫語り。

 

 人生、70歳に近くもなると、さすがに来し方を振り返ることが多くなる。医学部を出て40年近く基礎研究に従事してきた。完全に身をひいた今、あれだけ一生懸命だった研究なのに、興味をまったく失ってしまっている。そう考えると、何だかすこし空しい気がしないでもない。

 沢木耕太郎の『世界は「使われなかった人生」であふれてる』は映画批評の本なのだが、「使われなかった人生」という言葉がなんとも好きで、最近出版した拙著『仲野教授の この座右の銘が効きまっせ』(ミシマ社)でも、このタイトルを座右の銘のひとつとして取り上げているほどだ。あの時に違った決断をしていたら「使われなかった人生」がありえたはず。実際の人生は一本道だけれど、ありえた枝道の人生はものすごく多い。絶版になっているが、梅棹忠夫に『裏返しの自伝』という本がある。「わたしは大工」とか、「わたしは極地探検家」、「わたしは芸術家」など、そうならなかった人生について書かれている。詮無(せんな)いことだが、もし研究者の道を歩んでいなかったら、どんな人生がありえただろうかと考えてみたりする。

 

 大学で何を学ぶかが、自分の人生における選択でいちばん大きかったものだった。医学部の入試面接では、受験生に必ず「どうして医学部を目指しましたか」と尋ねる。「親が医師で」とか「小さい頃に祖母がなくなった時のお医者さんが素晴らしくて」とかいう答えが多い。陳腐やなぁと思いながら、さて自分はどうだったのかと考える。思い浮かぶのは三つだ。「成績がいい」、「なんとなく格好がよさそう」、「お金に困らなさそう」。我ながら最低である。三つとも面接の回答として聞いたことがない。そんなことを言えば減点されそうだから当然だろう。

 

 さて、いま18歳だと仮定して進路を決めるとなると、医学部を選ぶだろうか。医学を学び、その基礎研究に長年従事したので、後出しジャンケンみたいなところがあるが、答えはノーだ。

 成績云々はさておき、「なんとなく格好がよさそう」は今も通用するかもしれない。しかし、半世紀前とでは、医師に対する尊敬の念がずいぶんと違う。昔は「聖職」などと言われたが、最近はとんと耳にすることがなくなった。あくまでも主観だが、社会的地位—そういったものがあるとしたらだけれど—も、ずいぶんと低くなったように思う。「お金に困らなさそう」というのはどうだろう。しばらくは大丈夫だが、予断を許さないところもある。医師の需給予測は、地域や専門科による偏りが大きいので難しいのだが、人口が減少し続けていくのだから、いずれは医師過剰になる可能性が高い。2060年代には人口が8千万人台にまで減少すると予測されている。絶対に安心とは言いにくかろう。

 医学部を出たからといって医師にならねばならぬというわけではない。しかし、医学知識の膨大化、医療技術の進歩により、いまや医学部は、学部の6年と卒後初期研修の2年をあわせた8年制の高度職業専門学校になってしまっている。順調にいっても26歳、現実として他の道を歩むのは難しい。医学部を目指す高校生たち、そこまで考えているだろうか、いささか疑問である。ヨーロッパは日本と同じく、高校を卒業して医学部に進学して医師となるシステムだ。米国やカナダは違っていて、四年制の大学で学士号を取得してからメディカルスクールに進学する。これは日本での法科大学院をイメージすると理解しやすい。メディカルスクール制はとりもなおさず高度専門職業人養成システムなのである。高校卒業時に決めるより、日本でもこのほうがいいのではないかと思うが、あまりに問題が多すぎておそらく実現不可能だろう。

 

 どんな「使われなかった人生」を歩んでみたいかを考えてみた。研究をするにしても、医学や生命科学は選ばない。私が研究を始めたころの生命科学研究は牧歌的なところがあったし、本当に何もわかっていなかったが、この半世紀に驚くほど進歩した。そうなると、あまり面白くない。それに、研究の方法論もビッグデータ中心となり、目利きのような面白さがなくなってしまった。なので、もし選ぶとしたら、地球レベルでの課題、環境問題かエネルギー問題だ。何学部に進むかと問われたら、とりあえずリベラルアーツとして様々な学問分野を4年間学びたい。そして、じっくりと一生を懸けるにふさわしい分野を選びたい。世の中はものすごく複雑になっている。将来を決めるにはそれくらいの期間の勉強、受験勉強以外の勉強が必要ではないか。現在の学校制度が施行された時代に比べると、平均寿命は20年以上伸びている。人生最大の決定に4年くらいかけても悪くはあるまい。

 だが、残念ながら日本では明らかにリベラルアーツ教育が軽視されている。米国には、さまざまな教養を身につけるためのリベラルアーツ・カレッジが数多く存在するが、日本にはほとんどない。それどころか、かつては存在した大学の教養部が廃止され、専門教育の前倒しがおこなわれている。もちろん医学部も例外ではない。医学知識や技術は当然必要である。しかし、医師として働くには幅広い教養こそが必要ではないかと思う。

 

 ある分野の知識が膨大になった状況に対し、取り得る道は二つだろう。一つは、旧来と同じように、できるだけ知識を頭にいれていこうとする方法。しかし、知識はどんどん増えていくし、どんどん古びていく。だから、このやり方ではまかないきれない。もう一つは、あっさりと降参して、必要最小限のプリンシプルのみをしっかりと頭にいれるだけに留め、それを元に必要に応じて個別案件に対応する方法だ。知識は外付けできる時代になっているのだから、どう考えてもこちらが望ましい。そのために、まずはリベラルアーツを学び、さまざまな出来事に対応できる能力を身につけておきたい。

 もし高校生だったらと夢想してみた。さて、あなたはどんな「選ばれなかった人生」を思い浮かべられるだろうか。

 


2024年2月19日号 週刊「世界と日本」第2263号 より

 

『包括的家族政策』に根ざした

 

異次元の少子化対策への取り組み

 

麗澤大学特別教授 モラロジー道徳教育財団教授
髙橋 史朗

《たかはし しろう》

昭和25年生まれ。早稲田大学大学院修了後、スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員。臨時教育審議会(政府委嘱)専門委員、明星大学教授などを経て、現職。『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』『WGIPと「歴史戦」』ほか著書多数。

 

 令和5年度から5年間の教育振興基本計画が策定され、「持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウエルビーイングの向上」が二大基本コンセプトとして掲げられた。ウエルビーイングについては「骨太の方針」にも明記され、こども家庭庁の教育政策でも重視されている。

 縦軸の「不易」な価値観と横軸の「流行」の価値観を統合する教育振興基本計画が求められるが、ウエルビーイングについても、伊勢神宮の式年遷宮に象徴される「常若(とこわか)」思想に基づく「日本的ウエルビーイング」という縦軸の価値観と国連やWHOなどで議論されている横軸の流行の価値観を統合する視座が求められる。

 

 日本私立大学協会は「日本社会に定着したとは言い難い外来語の使用については抑制的であることが望ましい」、保守系の教職員団体である全日本教職員連盟は「教育基本法第1条の理念、特に『我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人の育成』について、「グローバル人材の育成」と併せて記述すべきだという意見書を文科省に提出した。

 これらの意見書に応えるためには、「日本社会に根差したウエルビーイング」とは何か、グローバルと日本的な価値観の関係を明らかにする必要がある。このような問題意識から、私は「ウエルビーイング教育研究会」(事務局はモラロジー道徳教育財団道徳科学研究所)を立ち上げ、「日本的ウエルビーイング」の「日本的世界性」について共同研究を進めてきた。

 京都学派の西田哲学を継承する京都大学哲学科に新たに設置される「哲理数学」、東京大学大学院で「四則和算」によってウエルビーイングを数式化し、「ロボットに最高道徳を搭載する」研究に取り組む「道徳感情数理工学」講座などは、道徳の科学的研究の視点から、日本的ウエルビーイングの「日本的世界性」の解明に役立つであろう。

 詳細については、毎朝連載しているnote拙稿を参照してほしいが、第一次安倍政権下の政務官会議「あったかハッピーPT」が指摘したように、「経済の物差しから。幸福の物差しを取り戻す」必要がある。4期8年務めた男女共同参画会議有識者議員として、首相官邸で開催された同会議で、菅官房長官を含む全大臣に向かって、経済優先策を厳しく糾弾したことがあるが、少子化対策や子育て支援策、高等教育無償化などの施策についても、この「幸福」「ウエルビーイング」の視点から根本的に見直す必要がある。

 また、私はかつて政府の少子化対策重点戦略会議の「家族と地域の絆」分科会委員として少子化対策について提言してきたが、我が国の少子化の主要因は未婚化・晩婚化・出生力の低下であり、晩婚化によって出産年齢が上昇し、「子供が欲しいができないから」と答えた者が74%を占めている。

 その要因の背景には、経済的に不安定な若者の増大、結婚観や価値観の変化、母親の精神的・身体的負担などがある。これらの問題に対処するには「少子化対策」という従来の政策では限界がある。

 持続可能な社会を築く上で、家庭に焦点を当てた政策が重要であり、子育てや子育て家庭に対する社会的支援、家庭機能の維持・強化を目的とする家族政策に切り替える必要がある。

 家族政策とは、家族機能を維持していくために、家族や家庭内の問題を未然に防ぐこと、あるいは解決することを目的として、家計や生活面に対して、社会的に家族を支援する政策である。家族政策には、①出産や子育てなどの生活面の支援、②家計の経済的支援、③就労支援、④家族法に関する分野や意識改革・啓発などに関する分野が含まれている。

 

 従来の「日本型福祉社会」の議論では、「個人の自助努力」が第一で、次に家族・地域などの部門による福祉供給に依拠し、それらが及ばない部分に公的福祉の手を差し伸べるという残余的な福祉制度の構築が目指された。しかし福祉の補完性原則によれば、自助・共助・公助はそれぞれ完全に分離できるものではなく、かつすべてが補完的である。

 すなわち、3つのうちどれもが単独では成立せず、自助・共助・公助の適正なバランスを図り、「誰一人取り残さない」福祉社会を実現していくことが求められている。

 これまでの家族と子供の福祉に関わる政策の変遷史を辿ると、1980年代までは家庭の意義と役割を重視する傾向が強く、80年代には配偶者特別控除や国民年金の第3号被保険者制度が作られ、家庭の福祉機能を支援するような制度体系であった。

 しかし、90年代に入ると変化が生じ、少子化対策に舵が切られ、女性の就労と家庭生活・育児の「両立支援」に主軸を置いた政策立案が行われるようになった。西岡晋『日本型福祉国家再編の言説政治と官僚制一家族政策の「少子化対策」化』(ナカニシヤ出版,2021)によれば、「両立支援」は「脱家族化」(家族と福祉の分離)を志向する「女性活躍推進」の観点から立案された。

 そのため、従来の少子化対策では、家族のライフサイクルを十分に考慮に入れておらず、少子化の主因である未婚化、晩婚化への対応ができていなかった。この点については、衛藤晟一少子化担当大臣の下で少子化対策検討会議をリードした中京大学の松田茂樹教授が『[続]少子化論一出生率回復と〈自由な社会〉』(学文社,2021)に詳述している。

 私も松田教授の「典型的家族」論を引用し、内閣府の男女共同参画会議や少子化対策重点戦略会議「家族と地域の絆」分科会で同様の問題提起をし、内閣府の月刊誌『男女共同参画』の巻頭言でも問題提起を行い、大きな反響があった。

 また、子供の成育環境への影響も十分に検討されておらず、規制緩和による保育の量的拡大は子供の健全育成との齟齬(そご)を生んでいる。未婚化・晩婚化は両性に関わり、親の働き方は家庭生活を介して子供の成育と深くかかわる。従って、少子化の緩和・克服と子供の成育環境の改善は不可分であり、それらの実現のためには、個人だけでなく夫婦関係・親子関係を含めた家族全体を視野に入れて支援する「包括的家族政策」が必要不可欠である。

 増田雅暢東京通信大学教授によれば、家族政策とは、「家族機能を維持していくために、家族や家庭内の問題を未然に防ぐこと、あるいは解決することを目的として、家計や生活面に対して、社会的に家族を支援する政策」である。家族機能とは「家族により構成される世帯の維持や、育児、教育、介護などに関する機能」である。

 

 様々な状況にある家族が、それぞれの状況においてウエルビーイングを高めることができるようにすることが時代の要請といえよう。

 未婚化の主要因は、①非正規労働や低賃金など若者の雇用環境の劣化、②出会いの機会の減少であり、若者の雇用環境の改善、結婚や子育ての良さに気づかせる「ライフデザイン(ライフプラン)教育」「親になるための学び」や出会いの機会の創出が課題。

 「デジタル田園都市国家構想」の5カ年総合戦略に明記されている、若い世代を中心とした結婚の希望をかなえるための支援施策を実現し、「異次元の少子化対策」を強力に推進する必要がある。

 


2024年1月1日号 週刊「世界と日本」第2260号 より

 

『論語』を読み学び、余生を楽しく生きる

 

大阪大学名誉教授
加地 伸行

《かじ のぶゆき》

昭和11年大阪生まれ。同35年京都大学文学部卒業、高野山大学、名古屋大学助教授、大阪大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授。文学博士。儒教を中心とする中国哲学史の研究とともに現代世相について批判・提言をしている。著書に『儒教とは何か』『マスコミ偽善者列伝』『令和の「論語と算盤」』など。

 

 謹賀新年。老生、八十八歳。おう、高齢者。と思いおるうち、この二月、若い衆(老生からみれば)らが、愚妻ともどもその祝宴に御招待下さると。有り難く、鬼の老生も涙こぼれこぼれ落つる日々。

 

 ま、そういう幸せな老生はそれとして、高齢者になられても、心に落ち着きの乏しい方々は、世にかなりいらっしゃる。

 もちろん、経済的問題が第一ではあろう。しかし、こればかりは、各人の諸事情によるので、万人に通ずるその解決方法を、老生、特に持っているわけではない。

 ただし、その生涯を懸命に生きてきた方であれば、年金や貯蓄を基礎にすれば、経済的問題は、最小限に抑えられよう。

 ならば、それで良いではないか、ということになろう。確かに、それはそうである。

 しかし、生涯を懸命に生きてこられた方々の場合、年金生活者となったとき、なにか心にポッカリと穴があいたような気持になるのも事実である。

 それに、再就職と言って探して、会社のワンノブゼンとして働らくのも、なんだか気分に充足感が不十分。それはそうだ。部下を指揮していた栄光の日々と比べて。

 となってゆくと、夫婦二人で暮す日々となることであろう。もちろん、それは最善。しかし、そうなると、一日の大半をただ茫然とテレビを見ることにもなりかねない。果たしてそれでいいのであろうか。

 惜しい。有能な定年退職者なのに、そのままでは惜しい。

 そういう方々に対して、なにか御協力できないかと、老生、考えに考えた。その結果、一案を考え出し、それを実践している。そのことを、本紙を借りて申しあげたい。

 

 この案、御本人でも、あるいは部下に対しても、御理解下さり。できれば、実行してくださることを心よりお願い申しあげる。

 それは、論語指導士という資格を取得し、自宅で、論語塾を開くことである。

 あくまでも自宅のリビング。そうすれば、会場の費用はゼロ。投下資本は、小さな白板一台。

 クラスは、①幼児クラス、②小学生クラス、③老人クラス、の三つが基本。中高生はお受験で来ない。その三クラスを、例えば、月曜㈰、水曜㈪、金曜㈫とし、それぞれ五時から六時までの一時間(幼児は三十分)、というふうに。月に四回として、月額千五百円。幼児は千円。一クラス六人とすると、月収の総額は三万円前後。もちろん、ノータックス。月に十二時間労働。それで約三万円ならば、実質勤務は在宅で一日半。

 なお、近くの教育委員会に講師登録をしておくと、講師委嘱もある。

 この論語塾、外出しないので、身体は楽。服装もネクタイはまず不要。老人クラスは雑談会になるので、聞き役でいい。いやそれに徹するのがいい。幼児クラスは、終了後、幼児らが一斉に隣室になだれこむ。そこには自由に食べていい駄菓子(値段安し)を、置いておく。幼児はそれが楽しみ。

 そういった論語塾を運営する。金銭的には十分ではないが、精神的には、楽しい。幼児の菓子奪い合い、老人愚痴の聞き役、小学生への勉学補習—。そこには、自身の人生のプロセスがあり、それぞれ己れが、そこに係わってきた〈楽しさ〉がある。

 これを軸として、生活をされてはいかがかというのが老生の提案である。

 そこで、その具体的方法を建てた。すなわち〈一般社団法人論語教育普及機構〉という団体を設立し、認可を得た。その際、〈論語指導士〉という称号を付与できる認可を得て、すでに登録済みである。

 そして、論語指導士試験を行ない、現在、全国で約二百人の合格者がいる。

 驚いたことに、滋賀医大教授の合格者がみられる。そこで、彼と対談もし、ネット上にそれが出ている。医学教育において、論語の精神性を重視したいと語っておられたのが印象的。

 論語指導士合格者は、多種多様の方々で、光栄である。

 もちろん、諸会社が開く社内講座の講師として出講される方もおられる。そうした講義経験者から、その体験を中心に講義していただくことを本会の研修会において、行なっている。

 そのように、論語指導士試験合格者に対して、その後ずっと研修会を開き、老生ら諸中国思想研究者(もちろん大学教授・名誉教授)の講義をそこに加えて、質の向上に努めている。

 世間には〈なんとか士〉の称号試験と称して大金を取るのがいるようだし、合格後は、なんの研修もしないのが多いようだ。

 しかし、当論語指導士の場合、そのようなことはしない。合格後も、がっちりと研修を行ない、レベルが下がらないように、努力しているので、安心されたい。

 その論語指導士資格取得者に限定して、研修会、体験発表会、会紙発行等を重ね、有資格者の質を高めている。費用は無料。

 

 そうした論語指導士研修費用、ならびに会費等は、すべて無料にしているが、なぜ無料でできるのかと言うと、一般社団法人今井光郎文化道徳歴史教育研究会に申請して、そこから研修会諸費等をいただいているからである。この今井氏からの援助がなければ、そのときからは、研修費をはじめ、諸費について有料にせざるをえない。しかし、現在のところ、今井氏の御高配に感謝申しあげている日々。なお、論語指導士合格者の方々から、自発的御寄付をいただいている。ありがたく、万一に備えて、現在、全額をそのまま蓄積させていただいている。

 以上が、老生がいま運動している論語普及活動の大筋である。

 現在、会社に御勤務の方々にお伝えいたしたい。人生、いずれは退職し自由となる。その後の人生が大切である。論語を幼児と歌い、小学生には教え、老人たちとは論語を酒の肴(さかな)に「いや、ちごた」、論語を祭って、静かに、しかし楽しく余生を送ってはいかが。

 

※論語指導士ホームページhttps://rongokikou.com/

 


2024年1月1日号 週刊「世界と日本」第2260号 より

 

今年は少し勇気を出して

 

ウェルビーイングな自分を目指す

 

生命科学者・大阪大学
名誉教授
仲野 徹

《なかの とおる》

1957年、大阪市生まれ。大阪大学医学部卒業、内科医として勤務の後、京都大学助手・講師(本庶佑研究室)などを経て、1995年から大阪大学教授。2022年3月定年退職。現在は「隠居」を名乗る。専門は、いろいろな細胞の作られ方。2019年から読売新聞の読書委員を務める。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)など。趣味はノンフィクション読書、僻地旅行、義太夫語り。

 

 昨年まで長い間、大学で教鞭を執っていた。先生の言うことをよく聞いてと、教え、教えられてきたものだが、いまやそんな説教は時代遅れもいいところだ。かつては時の流れが遅かった。だから、教える人の経験をしっかりと学んで真似て活かすのが効率的だった。しかし、時代が違う。ものごとの進み方がスピードアップしている現代、前の世代の人と同じようなやり方では対処できないことが激増している。

 

 スピードアップという言葉すら正しくないかもしれない。ある段階でいきなり変化して、一気に景色が変わってしまうことすらある。たとえば、生成AIだ。昨日までできなかったことが急にできるようになったとき、それをどう取り入れるか。こういったことには若い方が得意である。経験を活かしにくい時代、あるいは、安定性が低下した時代になっているのである。

 これからは、ますます短期間で変化していきそうだから、それに対応する能力を身につけておくべきだ。最近出版された『SWITCHCRAFT(スイッチクラフト)切り替える力』(NHK出版)のプロモーション関係で、著者の心理学者であるアデレード大学エレーヌ・フォックス教授と対談する機会があった。本のサブタイトルはズバリ、『すばやく変化に気づき、最適に対応するための人生戦略』である。

 フォックス教授によると、なによりも大事なのは「すばやく柔軟に対応する」ことだという。そのためには、「自分を知る」こと、「感情への気づき」、そして「状況をつかむ」ことが必要であると説く。納得の内容なのだが、普段からこういったことに向けてのトレーニングをしておかないと、いざという時に対処できないらしい。身体を鍛えるためにジムに通うように、しっかり時間をかけてメンタルな能力を意図して鍛えなければならないという。なかなかにしんどいことだ。

 不易流行という言葉がある。もともとは松尾芭蕉の「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」に由来する。不易とは世の中が変わっても変化しない本質的なこと、流行とは世の中の変化とともに変わっていくことで、いずれもが大切なのだ。流行に対処しながら人が生きていくうえで、普遍的に大事なものとは何なのだろう。今様の言葉でいくと、最近よく耳にするウェルビーイングということになりそうだ。

 適当な日本語がないからカタカナ英語のままなのだろうが、いささかわかりにくい言葉ではある。それに、政府が「各政策分野におけるKPI(重要業績評価指標)へのWell-being指標の導入」を進めたりしているので、大きなお世話だという気がしないでもない。しかし、概念としてはなかなか良さげである。

 意味としては、世界保健機関(WHO)が定義するところの健康、すなわち「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」(日本WHO協会)が適切とされている。それなら単に健康という言葉でもいいような気がするが、それだとどうしても肉体的な意味に限定されそうなのでウェルビーイングなのだろう。たしかに、精神的はともかく、社会的に満たされた状態というのは一般的な「健康」という概念に含まれてはいなさそうだ。

 ポジティブ心理学では、ウェルビーイングの5つの要素として「ポジティブな感情」、「エンゲージメント(積極的な関わり)」、「良好な人間関係」、「人生の意義」、「達成感」の5つがあげられている。そりゃそうだろうとは思うが、これとて実行するには、流行に対応して切り替える力を身につけるのと同じくらい難しそうだ。

 しかし、ウェルビーイングに詳しい予防医学研究者・石川善樹さんによると、「複数のコミュニティに異なるアイデンティティで参加」している人はウェルビーイングな状態に到りやすいことが知られているという。身体的な健康は個人的なものだが、社会的に満たされた状態というのは人間同士の関係性が基盤になる。精神的な満足度というのは、その中間といったところだ。そう考えると、ウェルビーイングにおいて「複数のコミュニティに異なるアイデンティティで参加」することの重要性は明らかだ。

 いくつかのコミュニティ—グループやレイヤー(階層)としては、家族と親戚、近所の幼なじみ、高校時代の友人、大学時代の友人、仕事仲間あるいは専業主婦ならば近所付き合いやママ友、といったあたりは多くの人に当てはまりそうだ。ただ、これらはすべて似たようなアイデンティティの人たちの集まりである。そうではなくて、年齢やら地縁、血縁やらが違う人たちとの付き合いをどれくらい持っているかが大事なのではないか。

 意図した訳ではないのだが、50歳を越えてから、そういうグループにいくつも属するようになった。毎月一回ノンフィクションのレビューをアップしているHONZ(@HONZ.jp)、来年4月に大名跡である豊竹若太夫を襲名される豊竹呂太夫師匠の素人義太夫弟子仲間、そして、武道家・思想家である内田樹先生の甲南麻雀連盟(月に一回集まって麻雀をするだけの会)をはじめ、それこそアイデンティティの異なる人たちの集まる会に5つ6つ所属している。そのどれもが面白い。というよりも、面白いから続けて参加している。

 定年して隠居の身だが、どこへ行っても相変わらず先生と呼ばれるので、完全に違うアイデンティティで参加している訳ではない。それでも、どのグループの仲間からも異なった刺激を受けられるのがいい。イヤな経験などしたことはないが、あるコミュニティでそのようなことがあったとしても、別のところで癒やしてもらえるに違いない。

 今年はぜひ、ちょっと勇気を出して、ひとつでもいいから新しいコミュニティに属することを試みられてはいかがだろうか。隠居したとはいえ、たくさんのコミュニティに参加しているので、時間的にいっぱいで、私はもう増やせそうにありませんけど。

 


2023年7月17日号 週刊「世界と日本」第2249号 より

 

教育の未来を切り拓く

 

全日本教職員連盟
委員長
前田 晴雄

《まえだ はるお》

高知大学卒業。平成14年、徳島県公立学校教員採用。徳島県那賀町立阿井小学校、全日本教職員連盟事務局長、副委員長を経て、全日本教職員連盟委員長。

 

 先日、教え子が大学に進学し、私に会いに来てくれた。小学校卒業以来、実に6年ぶりである。獣医になるという夢をもち、そのスタートラインに立った喜びに満ちた教え子の顔を見て、教師という仕事の素晴らしさを改めて実感した。ところが、今、学校及び教師は、危機を迎えているのである。

 

『持続不可能』な学校?

 

 『持続可能性』という言葉が巷間に広がって久しいが、この言葉は今、学校に対しても用いられている。「『持続可能』な学校にするためには…」といったものである。つまり、現在の学校は『持続可能』ではなく、このままでは『持続不可能』になってしまうという文脈で用いられているのだ。それでは一体、学校のどこが『持続不可能』なのであろうか。

 

教師という業務の特殊性

 

 まず第一は、教師の過酷な勤務環境にある。先日公表された教員勤務実態調査においても、指針で示された時間外在校等時間(いわゆる残業時間)45時間の上限を約7割強が超えて勤務している実態が明らかとなった。

 次に、このいわゆる残業時間に、対価が支払われてない状況がある。これは、教師独自の給与を定めた給特法において、月給の4%(月8時間相当)を「教職調整額」として一律支給する代わりに残業代を支払わないと規定されているからである。

 そして、最後はこのような過酷な勤務環境の問題や、その他の学校に対する「ブラックな職場」といったマスコミ報道等も影響してか、教師志望者の減少に伴う『教師不足』である。この『教師不足』は、志望者減少だけが理由では無く、退職者の増加に伴う採用増や、民間の業績が好調であること、また産・育休取得者及び病気休職者の大幅増加等、様々な要因が重なり、定数を満たさないまま教育活動を行わざるを得ない状況が全国各地で見られる。令和3年5月の調査では全国の小・中・高合わせて2558人が不足していることが明らかとなっており、このような学校は、教頭が担任をしたり、別の免許保有者に対して臨時免許を授与して指導させたりするといったように、直接児童生徒に影響が出ている状況に陥っている学校もある。

 これら複数の要因が複合した結果が、現在の学校が『持続不可能』だと指摘されている所以である。

 

「持続可能」な学校にするための方策①

 

 それでは、どうすれば学校は『持続可能』となるのか。以下にその方策について述べる。

 まず一つ目は、業務改善である。これまでも働き方改革という名の下に行事の効率化やICTの活用等の業務改善が進められてきたが、劇的な変化は見られなかった。一体なぜか。それは我々教師の業務は、その多くが子供の成長に直結する内容であるからである。つまり、私たちが業務を削減する、もしくは効率化するということは、児童生徒の力が伸びないことにつながることを教師が肌で感じているからである。そのために教師は、ある意味では、自らの意思で業務を減らすことを拒んでいるのだ。これが給特法成立時に、教師の業務が「自発的行為」として位置付けられた理由である。

 今回の勤務実態調査においても、ほぼ全ての業務の削減が進んだものの、学習指導のみは増加していた。つまり、教師は子供にとって必要な学習指導や生徒指導の部分は、どうしても業務を削ることができないばかりか、これからも児童生徒を取り巻く問題が複雑化・困難化することに伴い、更に増加することが予想される。しかしながら、これは減らしてはいけない業務であり、我々はこの部分を減らすつもりは全く無い。それは、我々教師が、子供たちと学習や生徒指導で関わることで教え導くことが使命としているからである。そのため我々は、自分たちを労働者ではなく、教育専門職として位置付けている。

 そうすると、教師の業務改善でできる方策は只一つ、いかに教師でなくともできる仕事を手放すかに尽きる。具体的には、中教審が業務を三分類したものがあり参考になる。まず一つは「基本的には学校以外が担うべき業務」として、登下校対応や放課後・夜間の見回り、学校徴収金の徴収・管理等である。次に「学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要のない業務」として調査・統計等への回答や、児童生徒の休み時間における対応、校内清掃、部活動がこれにあたる。これらを、学校以外、もしくは学校内において教師以外に移行できれば、教師は、本来の業務である学習指導及び生徒指導に専念することができるのだ。

 

「持続可能」な学校にするための方策②

 

 次は、処遇改善である。給特法における教職調整額について先述したが、これを10%程度に引き上げることが必要だと考える。なぜ残業代支給ではないのか。それも先述した私たち教師の仕事の特殊性にある。授業構想や教材準備の時間を残業時間としてどう換算するのか、また、帰宅が遅い保護者への連絡のための待機時間や夜間の問題行動への対応等、厳密な時間管理が困難な業務が多い。もし単純にこれらを時間管理するとなると、残業代抑制のために授業準備が不十分になったり、児童生徒の少しの変化を見逃す可能性もある。そのため、給特法成立時の趣旨を引き続き尊重し、教職調整額の引上げという形での処遇改善が必要不可欠である。同時に、学級手当の新設等、それぞれの業務に応じた給与の仕組みを取り入れる必要がある。

 

教育への投資は未来への投資

 

 教育は「国家百年の大計」であり、国づくりは即ち人づくりである。日本の未来を担う子供たちのため、思い切った投資が今こそ必要である。

 そして、その責任を担うのが、我々学校現場の最前線に立つ教師であるという矜持(きょうじ)と責任をもって業務に臨みたい。

 

 


2023年3月6日号 週刊「世界と日本」第2240号 より

「1本の襷」が日本人の心を動かす

 

 

尚美学園大学教授
佐野 慎輔

《さの しんすけ》

1954年富山県生まれ。早大卒。産経新聞編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを経て現職。産経新聞客員論説委員、笹川スポーツ財団理事・スポーツ政策研究所上席特別研究員、日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員などを務める。近著に『西武ライオンズ創世記』(ベースボールマガジン社)など。

 

 今年初頭、NHK総合テレビ『チコちゃんに叱られる!』に出演、駅伝のルーツである「東海道五十三次駅伝徒歩競走」について解説した。改めて駅伝の人気に驚かされた。

 

 番組に出演した後、友人、知人から連絡が相次いだ。「駅伝って、そんな昔からやっているのか」―彼らはこぞって駅伝の歴史を話題にした。「チコちゃん―」の影響力の大きさを伺い知るとともに、いまにつながる「駅伝」への関心の高さを思った。

 「東海道五十三次駅伝」は大正6(1917)年、東京奠都(てんと)50年を記念して読売新聞社が主催。東西両チームが4月27日に京都三条大橋をスタートし、東軍は紫、西軍は赤とそれぞれ1本の襷をつないで29日に東京上野の不忍池にゴールしたリレー競走である。

 走行距離約516㎞、23区間。選手が襷をつないで走るレースを「駅伝」と命名したのは当時の大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)副会長で神宮皇學館館長、武田千代三郎だ。武田は古代律令に定められた「駅馬」「伝馬」制にならい、この名称を発案した。

 それから3年後、「五十三次駅伝」東軍アンカーを務めた日本初のオリンピック代表、金栗四三らによって東京高等師範(現・筑波大学)、早稲田、慶應義塾、明治の4校が出場した「4大校駅伝競走」が創設された。後に「東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)」となる第1回大会である。箱根には「駅伝」の名とともに「1本の襷をつなぐ」行為も受け継がれた。

 日本テレビが中継した今年の第99回箱根駅伝の世帯平均視聴率は、1月2日の往路が27・5%、3日の復路は29・6%(いずれも「ビデオリサーチ」調べ)と相変わらず高い数値を誇る。関東学生陸上競技連盟によれば、新型コロナウイルス感染による応援自粛が解除された沿道の人出は約91万人。自粛前の100万人台復活はならなかったが人出は戻った。

 お茶の間でも沿道でも、なぜ、これほど箱根駅伝に代表される駅伝人気は高いのか。じつは「五十三次駅伝」も物珍しさからスタート、沿道、中継所、そしてゴールの不忍池には大勢の人出があったと伝えられる。いったい駅伝の何が、日本人に好まれるのか。

 かつて箱根駅伝で山登りの5区を走り、「山の神」と称された東洋大学OBの柏原竜二さんがこんな風に話したことがある。「駅伝はチーム競技だけれども、1人で走るので野球、サッカーのようなチームプレーとは異なる。とくに1本の襷をつないでいくことで、よりチームへの思いが強くなっていく」

 駅伝はチームで速さを競うリレー、団体競技である。出場した1人ひとりがベスト記録で走ればチームはより良い成績を得ることができる。バトンを手渡しする陸上競技のリレーや、タッチによる競泳やスキーのリレーも同じだ。しかし駅伝は「1本の襷をつなぐ」という行為で、ほかの競技種目と異なる。そこに日本人の琴線に触れる機微を思う。

 スタートした直後は乾いていた襷も、レースが進行していくと選手の汗を吸い込み重さを増していく。リレーされるたびに襷は重くなり、それがチームの勝利という重圧とともに受け継がれていく。言い換えれば、1人ひとりの重さの継承だと日本人は受け止める。

 時にそれは、残酷な光景を出現させる。ブレーキを起こしてはならないと自らを叱咤、鼓舞する選手がいる。交通規制のために設けられた時間制限、繰り上げスタートが輪をかける。必死な形相で中継地点に駆け込んできた走者が、設定時間に間に合わず、立ち尽くす。すでに襷をつなぐべき走者は走り出していた。茫然とする姿、悔しさをかみしめる表情…泣き崩れてしまうことも珍しくない。そんな光景に、見る者までが胸を締めつけられる。せつなさの共有にほかならない。

 私たちはしばしば「チーム一丸」と口にする。個人それぞれが責任を果たし、一体となってチーム全体の勝利をめざす決意を表す。駅伝では「1本の襷」が象徴する。襷は選手だけのものではない。出場は果たせなかったが一緒に練習を続けた仲間たち、練習や食生活、健康面を支えるスタッフの思いも背負う。

 「1本の襷」をかけて走ることとは、彼らの思いも重ねること。だからこそ「襷をつなぐ」意味は重たい。そこに生まれる悲壮感が、みる者の日本人としての心をつき動かすのである。

 こうした悲壮感は大学駅伝、とりわけ長い伝統の箱根駅伝により色濃く漂う。襷に縫い込まれた大学名を胸にかける名誉は、部員以外の在学生、そしてOB・OGたちの誇りをも背負う。近年希薄になったと言われる「カレッジアイデンティティ」である。箱根駅伝には、いまだ圧倒的な価値として残る。

 すっかり正月の風物詩となった本大会の順位は当然、シード権争いは手に汗握る。出場枠を競う予選会の当落には悲喜こもごものドラマが生まれる。それが在校生、OB・OGに限らず、大学の垣根を越えた共感を現出する。今年、立教大学の55年ぶり箱根路復活が大きな話題になった理由にほかならない。

 大学駅伝の選手たちは18歳から22歳。成人はしていても社会的には未完であり、危うさとともに可能性を秘めた存在でもある。大学駅伝を応援する人には、監督の指導にも寄り添いながら未熟な存在を見守り、育んでいこうとする意識も働く。古来、完成形よりも完成手前を好み、乱調にすら美学を見出してきた日本人特有の意識のように思われる。

 選手たちはより未熟な高校生から大学生となり、4年間の経験を経て社会人に進む。テレビの駅伝中継はそうした成長過程を、お茶の間の私たちに届けてくれる。世代別の大会がある仕組みは駅伝人気の一助となる。

 駅伝はまたスポーツツーリズムである。自然や寺社仏閣、街並みは旅情を誘う。箱根駅伝は冬枯れの箱根温泉街を活性化する願いを込めて創設された。五十三次駅伝自体が奠都記念として観光促進の側面を担った。話題、人気にならなければ逆に困ったのである。

 東海道五十三次駅伝の成功から生まれた箱根駅伝は、人々の関心、人気にも支えられて、来年100回大会を迎える。

 


2023年1月16日号 週刊「世界と日本」第2237号 より

新型コロナで学校・教育現場が受けた影響と日本の課題を探る

 

社会に必要な人材を育てていく役割

 

政治ジャーナリスト
細川 珠生

《ほそかわ たまお》

1968年生まれ。聖心女子大学英文科卒。三井住友建設(株)社外取締役。内閣府男女共同参画会議民間議員。(公財)国家基本問題研究所理事。熊本藩主・細川忠興と明智光秀の娘・玉夫妻の直系卑属。1995年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演。2021年3月番組終了まで、放送通算1337回、延べ768人のゲストが出演。同年4月よりPodcast放送で世界に配信中。著書に『明智光秀10の謎』(本郷和人共著)ほか多数。聖心女子大学大学院博士課程前期人間科学専攻在学中。

 

 新型コロナウイルスの脅威にさらされたこの3年間は、これほどまでの世界的なパンデミックの中に置かれたことは誰もが未経験であり、正に「未知の脅威」との戦いであった。現在も継続中とはいえ、フェーズが変わったことを実感している人も多いであろう。「Withコロナ」から、すでに「コロナ後」として動き出している中で、教育はどのような影響を受け、どう変わったのか、日本の課題を探る。

 

1.学校現場での「コロナ」の影響

 今年度になって、少しずつ行事や学習活動も、コロナ以前に近づいてきているが、2年間の学校現場でのコロナによる影響は計り知れない。例えば、運動会や宿泊行事などの大規模な行事は、コロナ初年度の2020年度は中止、昨年の2021年度で分散開催や日数を減らすなどの規模縮小で何とか実施したところが多かった。ようやく今年度になり、「コロナ以前」に近づいてきている。例えば、運動会も小学校であれば6学年を2分割(低学年と高学年に分ける)などしながらも、保護者の観覧を解禁したり、宿泊行事も近場で期間を短縮しながら、大部屋での就寝を禁止するなど、陽性者が出ることへの警戒ではなく、感染を広げないための対策をしながら、活動自体は実施できるような工夫や検討が行われるようになった。また、多くの大学では2年間、リアルな学祭(文化祭)が行われず、大学4年生は、1年生の時に経験して以来、卒業間近でようやく再度文化祭を経験することができたのである。また3年生は一度も経験しないまま文化祭を仕切る最高学年になった。

 学校での音楽会が「停止」されたことにより、合唱や合奏を行うハードルは今でも高いが、2年間練習ができなかったことで、「声の出し方も(子ども自身の体が)忘れてしまった」と都内某小学校の教師は言う。

 学校行事には、教育的意味があるからこそ行われているのである。リーダーシップを育て、下級生は上級生に憧れをもつことによって、将来像を自然とイメージしたり、異学年の交流による自己の再認識や協調性、他者理解の力を養うことなど、教育的効果は多岐にわたる。それでもリアル実施ができなかった分、オンラインや他のツールを用いてでも実施してきたことも多く、それはそれで、これまで見落とされていた教育的な意義を再認識するという「副産物」が生まれるとすれば、教育活動が全く「停止」されていたということではない。

 私たち社会にいる大人が留意しなくてはいけないことは、私たちが育った時代に、かのような「例年通り」の教育活動が「停止」されたことは皆無に等しく、私たちが経験してきたことを同じように経験してきた「はずだ」と思わないようにしなくてはいけないということである。加えて、オンラインでの授業に慣れ親しんだ子どもたちにとって、リアルとオンラインの区別はシビアであり、働き方においても、旧来型の業務や職場環境を継続していると、若い世代からは「選ばれない」会社になる。この3年の間のパンデミックが子ども達の成長にどのような正負の影響があったのか、それを踏まえた上でのこれからの教育と社会のありようを検討していくべきであると考える。

 

2.子どもたちの主体的な学び

 この間、日本の教育の問題点がいくつか浮かび上がった。当初、ICT化の遅れは深刻であったが、それ以上に深刻であったのは、集団に対する一斉の授業方法が、コロナパンデミックのように、「集団」を避けなければいけない時に大きな障害となっていた点である。「集団での一斉の授業」が日本の主とした学習スタイルであるということは、学習においても生活面においても、「集団」の枠にはまることが重視され、「個性の尊重」や「得意なものを伸ばす」といった、個人の能力を活かし、伸ばしていくという教育にはなかなかなり得ないという課題が強調されたのである。コロナパンデミック以前も、国際競争力の低下などを踏まえ、これまでの平均的で平準化された人間の育成に対する課題は指摘され、危機感をもつ教育関係者や学校現場では、教師からの一方的な教授方法による学習から、教科教育においても「話し合い」を重視する、子ども達が主体的に考え、学ぶ学習方法へ転換し、実践する動きが始まっていた。

 中央教育審議会の2021年1月26日に提出された答申「『令和の日本型学校教育』の構築をめざして〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現」でも、次のような指摘がされている。

 「我が国の経済発展を支えるために、『みんなと同じことができる』『言われたことを言われたとおりにできる』上質で均質な労働力の育成が高度経済成長期までの社会の要請として学校教育に求められてきた中で、『正解(知識)の暗記』の比重が大きくなり、『自ら課題を見つけ、それを解決する力』を育成するため、他者と協働し、自ら考え抜く学びが十分なされていないのではないかという指摘もある。」

 コロナパンデミックを契機に、集団に対する一斉の教育により、正解を教え込む教育の、いわば「限界」が表面化したことは、今後の日本の教育を考える上で見逃してはいけない点である。「未知との戦い」はもちろんのこと、「戦い」の後の社会でも、これまでの価値観や常識が通用しなくなる状況下で、個々人が自ら考え抜く力を持っているかということと、相互に考えを尊重しながら、より良い「解」を求めて「対話」をする力を持てるかということこそが、これから教育や人材育成の場で考えていかなければならない重要な点であるということを指摘したい。

 コロナパンデミックにより、世界中のほとんど全ての人が、それぞれの立場や境遇の中で、苦しい3年間を強いられていた。多くの命も犠牲になった。しかし、それを少しでも次世代につなげる経験とするならば、それ以前の社会には戻さないということであろう。教育は、社会に必要な人材を育てていくという役割もある。そうであるならば、まずコロナ後の社会では、個々の考えによって主体的に行動できる人材を活かす社会を作っていかなければならない。そのためには、まずは頭で「理解」することと日常の行動や考えが乖離しないことが、極めて重要であると、指摘したい。

 

 


2023年1月2日号 週刊「世界と日本」第2236号 より

専門職大学院のススメ

 

 

昭和女子大学
グローバルビジネス学部長 今井 章子

《いまい あきこ》

英文編集者を経て、ハーバード大学にて行政学修士。英文出版社、シンクタンク常務理事を経て現職。労働経済学者ロバート・ライシュの翻訳も手がける。

 

 岸田総理大臣は22年10月の臨時国会における所信表明演説の中で、個人のリスキリングに対する公的支援として5年間で1兆円の「人への投資」を行うことを表明した。2030年には450万人規模でミスマッチが発生しうる(三菱総研)という、Dx領域や脱炭素経済(Gx)領域を推進する人材を増やすとともに、新たに取得したスキルを活かせる職に人々が移動(異動)できるよう、報酬も年功序列給から職務給へ転換して、日本全体の雇用の流動性を高めていくという。

 

 社会人に狙いを定めて能力開発をし、ジョブ型雇用を促進してミスマッチの解消を図る政策は、労働力人口が激減する中、大きな意味があると思う。しかし、問題はその方法である。企業内に「働かないおじさん・おばさん」を作らないようにしよう、手に職をつけさせて一人でも生きていけるようにしようという職業安定的な発想では、せっかくのエンパワメントも限定的となろう。

 働き盛りの30代、40〜50代のキャリア円熟期の人々が、それまでの殻を破ることができるような魅力ある機会にしてこそ、人的資本への投資といえるのではないだろうか。

 

リスキリングとしての専門職大学院

 

 そこで社会人にはぜひ専門職大学院を活用することをお薦めしたい。専門職大学院とは、「高度専門職業人」を養成するため、2003年に新しくできた、主として社会人を対象とする教育課程で、法曹(法科大学院)、会計、ビジネス・MOT(技術経営)、公共政策、公衆衛生、教職などの様々な専攻分野での開設が進んだ。

 研究者養成を旨とする従来の大学院教育と大きく異なり、理論と実務の両方を重視している点が特徴で、事例研究・現地調査などを多用し、少人数による討論など双方向的・多方向的な授業が行われる。

 筆者が「大人」のリスキリングに専門職大学院を勧める理由は三つある。第一に「修士(専門職)」という学位が獲得できる点である。スキル習得を目指す職業訓練では学位は付与されないが、大学での学びの成果は学位として「見える化」される。仕事と大学院の両立は容易ではないが、苦労して獲得した学位は、所属組織とは無縁に本人だけに与えられる「勲章」だ。

 第二の理由は、人脈と新たなコミュニティーを開拓できるからである。「トータル・リーダーシップ」を提唱する米国ウォートン・スクールのスチュワート・フリードマン教授は、現代のリーダーには、①仕事②家庭③コミュニティー④自分自身の四つの領域において、自分らしいビジョンを持ち行動する力が必要だと述べている。社会が複雑化・高度化する中で、「仕事一筋」だけでは魅力あるビジネス・リーダーにはなれないということなのだ。

 専門職大学院には年齢も肩書も職種も業種も異なる人々が集う。すべての鎧を取り払った「私」だけでの勝負である。互いの実務経験を持ち寄り、共に課題解決をめざすことで、新たな人脈ばかりでなく、仕事以外のコミュニティーを手中にでき、「私」を一段と強化するチャンスとなろう。

 第三の理由、これが最大の魅力なのだが、専門職大学院で学ぶ内容は、単なる新スキルの習得だけではない。大学には、脱炭素経済、持続可能性など最近の社会課題を研究している人々が往来しているため、スキルを超えた深い学びを経験できる。

 PC(人間)に新しいアプリ(新スキル)をインストールするだけではなく、それを動かすOSそのものを刷新するようなトランスフォーメーションを可能にするのが、専門職大学院なのである。

 

現役世代が創る日本の未来

 

 閉塞感がぬぐえない日本に今必要なのは、職業人としての「大人」たちを元気にすることではないだろうか。

 いつまでも低い投票率、常に誰かを貶すキャンセルカルチャー、放置される財政赤字の拡大など「大きな難題」は自分ではない誰かがやってくれるだろうという、当事者意識の欠如は、民主主義にとっては危機である。

 米国の労働経済学者ロバート・ライシュは、近著『Common Good』の中で、「勝ちさえすれば何をやってもいい」という風潮が20世紀後半から米国社会に蔓延し始め、他者への共感や共同体に対する良識が失われた。世間の大半の人が持つ共通理解(良識)が崩壊すると、ルールを破る、人を裏切るなどの欺瞞が増え、公正な社会の維持コストが余計にかかって全体が疲弊すると警告する。

 社会を構成する一員として、大人たちがその能力と責任を発揮するためにも、社会人向けの大学院には、個人の功利を超えた市民社会の強化という役割があると思うのである。

 いささか手前味噌ではあるが、昭和女子大学では23年4月から専門職大学院を発足させ、最短一年で専門職修士号が取れる「福祉共創マネジメント専攻」を開設する。「競争から共創へ」を合言葉に、社会イノベーションをけん引するチェンジメーカー育成や、需要の拡大にも関わらず離職者の多い高齢者介護施設や保育施設における新しい経営、消費者を巻き込むマルチステイクホルダー経営の在り方などを研究する、男女共学の社会人向けコースである。平日の夜間と土曜、夏休みをフルに活用し、オンデマンド主体の講義も組み込むことで、地方の在住者でも仕事との両立を図れる。自身の職務経験に基づく課題を設定し解決策を研究して報告書にまとめるゼミも選択できる。すでに医療、介護、保育、金融、ITなどさまざまな職種の人々が集い、豊かなコミュニティーを形成しはじめている。

 教育とは人づくり。「中高年が食べていくための手立て」に終わることなく、リスキリングによって、社会や世界に対する感度の高い市民として活躍するための推進力を提供することが重要だ。

 それが、人任せで、閉塞感や分断意識が強くなっている「安い日本」を脱却する起爆剤になることを願っている。

 


2022年8月15日号 週刊「世界と日本」第2227号 より

静かな音読の再評価を

 

—自分の言葉を見つめ直すために—

 

慶應義塾大学
日本語・日本文化教育センター教授 木村 義之

《きむら よしゆき》

1963年青森市生まれ。早稲田大学大学院博士後期課程修了。十文字学園女子短大専任講師、大正大学准教授を経て、2008年慶應義塾大学日本語・日本文化教育センター准教授、2010年同教授。編著書に『斉東俗談の研究』『隠語大辞典』(小出美河子と共編)『わかりやすい日本語』(野村雅昭と共編)など。

 

 昨今の言葉づかいで気になることがある。きっかけは、受講生が各自調査結果を発表する演習形式の授業においてである。ここで、ある学生が複数の辞書を調査した結果を報告するのに、「ショバン・サイバン・サンバン」のように発音したのである。もちろん「ショハン(初版)・サイハン(再版)・サンパン(三版)」とするのが自然である。ただ、「三版」は、最近の大学生のほとんどが「サンハン」と発音する。現代日本語ではふつう、撥音「ン」や促音「ッ」の後にハ行音が来ると、発音するときの唇の構えから、「先輩・審判・鉄板・立派・熱波」など、パ行音になることが多い。しかし、「版」は単独で「ハン」と発音するから、近ごろの若い人はまじめに「サン—ハン」として読んでいるのだろう。こうした傾向は以前から見られたのでもはや驚かないが、「バン」で一貫して発音する例は衝撃的だった。「新書版(バン)・復刻版(バン)」などからの類推だろうか。いずれにしても、耳から得た情報がともなわず、文字からの類推読みだろうということは想像にかたくない。それ以来、耳から情報を得ていないことに原因する誤用に聞き耳を立ててみると、至るところでそうした例が耳につくようになる。これも学生が発表の際に「主(おも)として…」という言葉が聞こえた。私の内省では「主(シュ)として」だけと思っていたので、「おもとして」という言い方にとまどった。さて、過去にはそうした言い方も用例があるのかと種々調べてみたが、管見の限り、見つけられなかった。推測するに、「主(おも)に」「主(おも)な」→「主(おも)として」という類推から出たのではないだろうか。この伝で行くと、「主(シュ)たる」を「主(おも)たる」とする読みが出来する可能性はゼロではない。「主」という漢字だけを読み、使用語彙として未消化だった例と位置づけられよう。実は、有料朗読サービスの語り手からも、「おもとして」と読む例に遭遇している。学生ばかりを責めるわけにもいかない。

 ほかにも影響力絶大というユーチューバーの語りから「サイダイテ」という言葉が聞こえてきた。「最大手(さいおおて)」を指しているらしい。時を置いて地上波のニュースを見ると、ある弁護士がコメント中で「サイダイテ」を用いていた。特定個人の思い込みではなく一定の広がりがある誤用なのだろう。そもそも言葉の組み立ては「最+大手」で、「最大+手」ではない。先の学生の読み間違いよりも深刻だろう。日本語で字を読むことは単語を考えることにつながるのである。

 それでは日本語母語話者でこのような現象が見られるのはなぜだろう。原因の一つに、教育現場で音読の軽視があるのではないかと思う。小、中では今も重要な教室活動として位置づけられていると思うが、高校、大学となると外国語科目以外で音読をする機会が減るのではないだろうか。私の経験では、高校の古文・漢文はもちろんのこと、現代国語の授業でも音読の機会があり、そこであれこれ注意を受けた記憶がある。今もあの昔気質の先生の授業を思い起こすと感謝の気持ちでいっぱいである。大学の専門の授業でも、大学院生の演習でも、授業で文献を音読させられたことで多くの思い違いや知識の不足を補うことができた。この春に旅立った恩師が「理論だ何だと言っても、字が読めなきゃしょうがないでしょう」とおっしゃったことが今も印象深く心に残る。そこで自分も、学部・大学院の授業で学生に文献を音読させる。読ませてみると、人名、地名、歴史的名辞、書名の読み癖など、読めない部分が続々。口頭発表でも引用部分の読み飛ばしや、ごまかしが判明するので、いちいちチェックする。学生はいやがるだろうが、大切なことだと考えて実践している。

 もう一つの原因を考えてみよう。近年は読み聞かせや朗読ボランティアなどの活動が活発で、だれもが自由に童話や小説を朗読した自身の音声をインターネット上にアップすることができる時代となった。プロ芸人顔負けの動画配信者が自説を開陳したり、参加者が肉声で意見を戦わせたりすることも、総体的には好ましい。ただ、言葉の面から考えると、彼らが自らの言説を公に音声で伝えるにあたり、耳から得た情報の蓄積に欠けるのではないかと思うことがある。その一端が先に挙げた種々の例なのである。

 かつて、テレビ・ラジオから流れる落語、講談などの話芸、完成度の高いドラマ、町角の大人の会話など、子供にとって大人の言葉を知るのに恰好の情報源があった。それらは今ももちろん失われていないが、現代の若い世代は、一人ひとりが発信用ツールを獲得したことで、テキストを目にして検討もなく直ちに音声化したり、未知の言葉をどこかで確かめることなく口から発することで、不自然な日本語を無自覚に流通させる手助けをしているのではないかと懸念する。少し前にコミュニケーション論や身体論の立場から音読が注目を集めたが、ネット配信全盛の時代にあって、自らの日本語を点検、内省を目的とした、静かな音読に光を当てたいと考えている。

 


2022年1月17日号 週刊「世界と日本」第2213号 より

ウィズコロナ時代の「留学」

 

昭和女子大学グローバルビジネス学部
ビジネスデザイン学科・教授 今井 章子 氏

《いまい あきこ》

英文編集者を経て、ハーバード大学にて行政学修士。英文出版社、東京財団常務理事を経て現職。労働経済学者ロバート・ライシュの翻訳も手がける。

 

 2020年の2月からあれよあれよと拡大したコロナ禍は、大学生の留学をも直撃した。各国が独自の水際対策を展開する中、これからの「留学」について考えてみたい。

 

オンライン留学に踏み切る

 私が所属する昭和女子大学グローバルビジネス学部ビジネスデザイン学科では、卒業に必要なカリキュラムとして、2年次の前期に全員が参加する「ボストン留学」が組み込まれている。MBAホルダーの米国人教員から、経済学、経営学、マーケティング、ファイナンスの入門編を英語で学ぶのである。郊外の高級住宅街にある小高い丘に完全警備の寮で生活して勉学と、異文化交流やボランティアをも体験する。自立心と自律心を養うことができるこの留学を目標に入学してくる学生も多い。

 ところが、である。コロナ禍の拡大で20年3月には本学を含む多くの大学で留学派遣が延期となった。すでに住まいを解約したりサークル活動を休止したりして、ボストン行きを10日後に控えた当時の1年生たちの落胆ぶりは気の毒なほどであった。

 翌21年に入ったが、コロナ禍は終息しない。再び留学延期することはカリキュラム運営に支障をきたすため、2学年約230名が同時に「オンラインで」学ぶ「ボストン留学」に踏み切った。学生たちは日本にとどまり、昭和ボストンの米国人教員が、日本時間に合わせて毎日5カ月間、リモートで授業を行うのである。

 

オンラインの悩み

 グローバル教育の中核としての渡航留学が、オンラインになったことで、私たちは図らずも「そもそも留学とは何か」を自問することとなった。

 政府のグローバル人材の概念には、I 語学力・コミュニケーション能力、II 主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感、III 異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティの3要素が挙げられている。

 本学の「ボストン留学」の魅力は、これら3要素のすべての増強ができる点にある。ボストンで暮らし学習することでIは当然養われるし、同級生と相部屋で寮生活を送ることで II が鍛えられ、米国人教員や近隣のボストニアンとの交流によって III も必然的に自覚することになる。

 オンライン留学での懸念は、 II や III の学びがどうなるかという点であった。Iだけならば「英会話学校のオンライン授業」と変わらない。オンラインコミュニケーションというデジタル能力でどこまで II や III に挑めるかが、コロナ禍での大きな課題であった。

 

COILへの挑戦

 1988年に開校した昭和ボストンには、地元コミュニティーとの30余年にわたる交流がある。そこで、日本時間朝8時過ぎから昼12時過ぎまでは授業とし、さらに週に何度かは夜8時頃から、ボストンの社会人らとビジネス・アイデアを練るプロジェクト「BIG」を開始した。

 学生たちは、対面でしか分からない温度感や、身振りでカバーできない言語の壁、時差、自宅から出られない孤独感などの問題を抱えながらも、なんとか3カ月間後には、「米国の人も味わえる豚汁メニューの開発」「日本のアニメコスプレの現地展開」など様々なアイデアを英語で発表することができた。

 さらに21年2〜3月にかけては、コロラド大学ボールダー校のビジネススクールと、完全オンラインによる合同ワークショップが実現した。米側37名、日本側16名が参加して、「ポストコロナ時代のニューノーマル」という主題の下、高齢化、若年失業率、脱炭素経済、多様性と包摂性、起業などについて、日米それぞれの現状と課題を調査発表するのである。

 渡航を伴わない分経済的には安価に、またZ世代ならではの共感力とデジタル・スキルを生かして、SNSやGoogleドライブ、時には自動翻訳・通訳ソフトをも動員して、意志疎通を図り、全チームが15分間のプレゼンテーションを完成させることができた。

 これらCOIL(国際協働オンライン学習プログラム)を体験した学生の反応は、「5カ月間規則正しい生活を送れた」「ネットでもしっかり学べた、外国人と友達になれた」「隣に級友がいないので寂しかった」「終日PCの生活で疲れた」などさまざまであったが、総じて肯定的に締めくくる声が多かったのは、 II の主体性・協調性や III のアイデンティティを体得した実感が持てたからだと思う。

 

語学力を補う技術の発展

 「世界のオンライン留学1期生」ならではの経験から、我々教員も多いに学ぶところがあった。とくに「I道具としての語学力」において自動翻訳技術の飛躍的発展は、無視できないものがあった。日米合同のグループワークでは「伝えなければならないこと」が存在しており、それを言葉の壁のせいにして放置することは許されない。そこで学生たちは、自動翻訳アプリの助けを借りてでも、なんとか米国人と交渉したというのである。

 語学力やデジタル能力などの「道具」によって「参入のハードル」が下がってくると、そもそもの外国の人々とつながる理由や動機、すなわち内発的な推進力が極めて重要になってくる。

 今後のグローバル教育においては、 II や III に代表される「自らの内実」がますます不可欠になってこよう。

 

全人教育がもたらすグローバル市民社会の可能性

 OECDは技術革新とグローバル化が進む社会において、次世代が身に着けるべき3つのキー・コンピテンシーとして、①言語や技術など道具を相互作用的に用いる力②自律的に活動する力③異質な集団で交流する力を上げているが、①や②は、グローバル人材概念の II や III とも符合する。

 貧困・格差、人権、温暖化などの社会課題は、グローバルに、そして構造的に絡み合っており、「誰か」の命令で対処できるものではなくなっている。解決には「全員参加」しか手がなく、そこでは、豊かな内実を持つ個々人が、集合的な社会資本として求められているのである。

 このように考えると、「留学」はもはや「日本から見たグローバル人材」育成の機会というよりも、「地球市民」育成という大きな公益を担っているように思う。

 日本社会ではいまだにウチとソトを区別する感覚が強く、留学といえば「外国語がペラペラ」のようにスキル面の成果で語られがちだ。そろそろ「留学」の主要な価値を、内実のある人間、コンテンツを持つ人物の育成に置くことが重要なのではないだろうか。

 


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