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教育特集

人づくりは、国づくり。21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生への取組を解説していきます。

2024年2月19日号 週刊「世界と日本」第2263号 より

 

『包括的家族政策』に根ざした

 

異次元の少子化対策への取り組み

 

麗澤大学特別教授 モラロジー道徳教育財団教授
髙橋 史朗

《たかはし しろう》

昭和25年生まれ。早稲田大学大学院修了後、スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員。臨時教育審議会(政府委嘱)専門委員、明星大学教授などを経て、現職。『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』『WGIPと「歴史戦」』ほか著書多数。

 

 令和5年度から5年間の教育振興基本計画が策定され、「持続可能な社会の創り手の育成」と「日本社会に根差したウエルビーイングの向上」が二大基本コンセプトとして掲げられた。ウエルビーイングについては「骨太の方針」にも明記され、こども家庭庁の教育政策でも重視されている。

 縦軸の「不易」な価値観と横軸の「流行」の価値観を統合する教育振興基本計画が求められるが、ウエルビーイングについても、伊勢神宮の式年遷宮に象徴される「常若(とこわか)」思想に基づく「日本的ウエルビーイング」という縦軸の価値観と国連やWHOなどで議論されている横軸の流行の価値観を統合する視座が求められる。

 

 日本私立大学協会は「日本社会に定着したとは言い難い外来語の使用については抑制的であることが望ましい」、保守系の教職員団体である全日本教職員連盟は「教育基本法第1条の理念、特に『我が国の伝統と文化を基盤として国際社会を生きる日本人の育成』について、「グローバル人材の育成」と併せて記述すべきだという意見書を文科省に提出した。

 これらの意見書に応えるためには、「日本社会に根差したウエルビーイング」とは何か、グローバルと日本的な価値観の関係を明らかにする必要がある。このような問題意識から、私は「ウエルビーイング教育研究会」(事務局はモラロジー道徳教育財団道徳科学研究所)を立ち上げ、「日本的ウエルビーイング」の「日本的世界性」について共同研究を進めてきた。

 京都学派の西田哲学を継承する京都大学哲学科に新たに設置される「哲理数学」、東京大学大学院で「四則和算」によってウエルビーイングを数式化し、「ロボットに最高道徳を搭載する」研究に取り組む「道徳感情数理工学」講座などは、道徳の科学的研究の視点から、日本的ウエルビーイングの「日本的世界性」の解明に役立つであろう。

 詳細については、毎朝連載しているnote拙稿を参照してほしいが、第一次安倍政権下の政務官会議「あったかハッピーPT」が指摘したように、「経済の物差しから。幸福の物差しを取り戻す」必要がある。4期8年務めた男女共同参画会議有識者議員として、首相官邸で開催された同会議で、菅官房長官を含む全大臣に向かって、経済優先策を厳しく糾弾したことがあるが、少子化対策や子育て支援策、高等教育無償化などの施策についても、この「幸福」「ウエルビーイング」の視点から根本的に見直す必要がある。

 また、私はかつて政府の少子化対策重点戦略会議の「家族と地域の絆」分科会委員として少子化対策について提言してきたが、我が国の少子化の主要因は未婚化・晩婚化・出生力の低下であり、晩婚化によって出産年齢が上昇し、「子供が欲しいができないから」と答えた者が74%を占めている。

 その要因の背景には、経済的に不安定な若者の増大、結婚観や価値観の変化、母親の精神的・身体的負担などがある。これらの問題に対処するには「少子化対策」という従来の政策では限界がある。

 持続可能な社会を築く上で、家庭に焦点を当てた政策が重要であり、子育てや子育て家庭に対する社会的支援、家庭機能の維持・強化を目的とする家族政策に切り替える必要がある。

 家族政策とは、家族機能を維持していくために、家族や家庭内の問題を未然に防ぐこと、あるいは解決することを目的として、家計や生活面に対して、社会的に家族を支援する政策である。家族政策には、①出産や子育てなどの生活面の支援、②家計の経済的支援、③就労支援、④家族法に関する分野や意識改革・啓発などに関する分野が含まれている。

 

 従来の「日本型福祉社会」の議論では、「個人の自助努力」が第一で、次に家族・地域などの部門による福祉供給に依拠し、それらが及ばない部分に公的福祉の手を差し伸べるという残余的な福祉制度の構築が目指された。しかし福祉の補完性原則によれば、自助・共助・公助はそれぞれ完全に分離できるものではなく、かつすべてが補完的である。

 すなわち、3つのうちどれもが単独では成立せず、自助・共助・公助の適正なバランスを図り、「誰一人取り残さない」福祉社会を実現していくことが求められている。

 これまでの家族と子供の福祉に関わる政策の変遷史を辿ると、1980年代までは家庭の意義と役割を重視する傾向が強く、80年代には配偶者特別控除や国民年金の第3号被保険者制度が作られ、家庭の福祉機能を支援するような制度体系であった。

 しかし、90年代に入ると変化が生じ、少子化対策に舵が切られ、女性の就労と家庭生活・育児の「両立支援」に主軸を置いた政策立案が行われるようになった。西岡晋『日本型福祉国家再編の言説政治と官僚制一家族政策の「少子化対策」化』(ナカニシヤ出版,2021)によれば、「両立支援」は「脱家族化」(家族と福祉の分離)を志向する「女性活躍推進」の観点から立案された。

 そのため、従来の少子化対策では、家族のライフサイクルを十分に考慮に入れておらず、少子化の主因である未婚化、晩婚化への対応ができていなかった。この点については、衛藤晟一少子化担当大臣の下で少子化対策検討会議をリードした中京大学の松田茂樹教授が『[続]少子化論一出生率回復と〈自由な社会〉』(学文社,2021)に詳述している。

 私も松田教授の「典型的家族」論を引用し、内閣府の男女共同参画会議や少子化対策重点戦略会議「家族と地域の絆」分科会で同様の問題提起をし、内閣府の月刊誌『男女共同参画』の巻頭言でも問題提起を行い、大きな反響があった。

 また、子供の成育環境への影響も十分に検討されておらず、規制緩和による保育の量的拡大は子供の健全育成との齟齬(そご)を生んでいる。未婚化・晩婚化は両性に関わり、親の働き方は家庭生活を介して子供の成育と深くかかわる。従って、少子化の緩和・克服と子供の成育環境の改善は不可分であり、それらの実現のためには、個人だけでなく夫婦関係・親子関係を含めた家族全体を視野に入れて支援する「包括的家族政策」が必要不可欠である。

 増田雅暢東京通信大学教授によれば、家族政策とは、「家族機能を維持していくために、家族や家庭内の問題を未然に防ぐこと、あるいは解決することを目的として、家計や生活面に対して、社会的に家族を支援する政策」である。家族機能とは「家族により構成される世帯の維持や、育児、教育、介護などに関する機能」である。

 

 様々な状況にある家族が、それぞれの状況においてウエルビーイングを高めることができるようにすることが時代の要請といえよう。

 未婚化の主要因は、①非正規労働や低賃金など若者の雇用環境の劣化、②出会いの機会の減少であり、若者の雇用環境の改善、結婚や子育ての良さに気づかせる「ライフデザイン(ライフプラン)教育」「親になるための学び」や出会いの機会の創出が課題。

 「デジタル田園都市国家構想」の5カ年総合戦略に明記されている、若い世代を中心とした結婚の希望をかなえるための支援施策を実現し、「異次元の少子化対策」を強力に推進する必要がある。

 


2024年1月1日号 週刊「世界と日本」第2260号 より

 

『論語』を読み学び、余生を楽しく生きる

 

大阪大学名誉教授
加地 伸行

《かじ のぶゆき》

昭和11年大阪生まれ。同35年京都大学文学部卒業、高野山大学、名古屋大学助教授、大阪大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授。文学博士。儒教を中心とする中国哲学史の研究とともに現代世相について批判・提言をしている。著書に『儒教とは何か』『マスコミ偽善者列伝』『令和の「論語と算盤」』など。

 

 謹賀新年。老生、八十八歳。おう、高齢者。と思いおるうち、この二月、若い衆(老生からみれば)らが、愚妻ともどもその祝宴に御招待下さると。有り難く、鬼の老生も涙こぼれこぼれ落つる日々。

 

 ま、そういう幸せな老生はそれとして、高齢者になられても、心に落ち着きの乏しい方々は、世にかなりいらっしゃる。

 もちろん、経済的問題が第一ではあろう。しかし、こればかりは、各人の諸事情によるので、万人に通ずるその解決方法を、老生、特に持っているわけではない。

 ただし、その生涯を懸命に生きてきた方であれば、年金や貯蓄を基礎にすれば、経済的問題は、最小限に抑えられよう。

 ならば、それで良いではないか、ということになろう。確かに、それはそうである。

 しかし、生涯を懸命に生きてこられた方々の場合、年金生活者となったとき、なにか心にポッカリと穴があいたような気持になるのも事実である。

 それに、再就職と言って探して、会社のワンノブゼンとして働らくのも、なんだか気分に充足感が不十分。それはそうだ。部下を指揮していた栄光の日々と比べて。

 となってゆくと、夫婦二人で暮す日々となることであろう。もちろん、それは最善。しかし、そうなると、一日の大半をただ茫然とテレビを見ることにもなりかねない。果たしてそれでいいのであろうか。

 惜しい。有能な定年退職者なのに、そのままでは惜しい。

 そういう方々に対して、なにか御協力できないかと、老生、考えに考えた。その結果、一案を考え出し、それを実践している。そのことを、本紙を借りて申しあげたい。

 

 この案、御本人でも、あるいは部下に対しても、御理解下さり。できれば、実行してくださることを心よりお願い申しあげる。

 それは、論語指導士という資格を取得し、自宅で、論語塾を開くことである。

 あくまでも自宅のリビング。そうすれば、会場の費用はゼロ。投下資本は、小さな白板一台。

 クラスは、①幼児クラス、②小学生クラス、③老人クラス、の三つが基本。中高生はお受験で来ない。その三クラスを、例えば、月曜㈰、水曜㈪、金曜㈫とし、それぞれ五時から六時までの一時間(幼児は三十分)、というふうに。月に四回として、月額千五百円。幼児は千円。一クラス六人とすると、月収の総額は三万円前後。もちろん、ノータックス。月に十二時間労働。それで約三万円ならば、実質勤務は在宅で一日半。

 なお、近くの教育委員会に講師登録をしておくと、講師委嘱もある。

 この論語塾、外出しないので、身体は楽。服装もネクタイはまず不要。老人クラスは雑談会になるので、聞き役でいい。いやそれに徹するのがいい。幼児クラスは、終了後、幼児らが一斉に隣室になだれこむ。そこには自由に食べていい駄菓子(値段安し)を、置いておく。幼児はそれが楽しみ。

 そういった論語塾を運営する。金銭的には十分ではないが、精神的には、楽しい。幼児の菓子奪い合い、老人愚痴の聞き役、小学生への勉学補習—。そこには、自身の人生のプロセスがあり、それぞれ己れが、そこに係わってきた〈楽しさ〉がある。

 これを軸として、生活をされてはいかがかというのが老生の提案である。

 そこで、その具体的方法を建てた。すなわち〈一般社団法人論語教育普及機構〉という団体を設立し、認可を得た。その際、〈論語指導士〉という称号を付与できる認可を得て、すでに登録済みである。

 そして、論語指導士試験を行ない、現在、全国で約二百人の合格者がいる。

 驚いたことに、滋賀医大教授の合格者がみられる。そこで、彼と対談もし、ネット上にそれが出ている。医学教育において、論語の精神性を重視したいと語っておられたのが印象的。

 論語指導士合格者は、多種多様の方々で、光栄である。

 もちろん、諸会社が開く社内講座の講師として出講される方もおられる。そうした講義経験者から、その体験を中心に講義していただくことを本会の研修会において、行なっている。

 そのように、論語指導士試験合格者に対して、その後ずっと研修会を開き、老生ら諸中国思想研究者(もちろん大学教授・名誉教授)の講義をそこに加えて、質の向上に努めている。

 世間には〈なんとか士〉の称号試験と称して大金を取るのがいるようだし、合格後は、なんの研修もしないのが多いようだ。

 しかし、当論語指導士の場合、そのようなことはしない。合格後も、がっちりと研修を行ない、レベルが下がらないように、努力しているので、安心されたい。

 その論語指導士資格取得者に限定して、研修会、体験発表会、会紙発行等を重ね、有資格者の質を高めている。費用は無料。

 

 そうした論語指導士研修費用、ならびに会費等は、すべて無料にしているが、なぜ無料でできるのかと言うと、一般社団法人今井光郎文化道徳歴史教育研究会に申請して、そこから研修会諸費等をいただいているからである。この今井氏からの援助がなければ、そのときからは、研修費をはじめ、諸費について有料にせざるをえない。しかし、現在のところ、今井氏の御高配に感謝申しあげている日々。なお、論語指導士合格者の方々から、自発的御寄付をいただいている。ありがたく、万一に備えて、現在、全額をそのまま蓄積させていただいている。

 以上が、老生がいま運動している論語普及活動の大筋である。

 現在、会社に御勤務の方々にお伝えいたしたい。人生、いずれは退職し自由となる。その後の人生が大切である。論語を幼児と歌い、小学生には教え、老人たちとは論語を酒の肴(さかな)に「いや、ちごた」、論語を祭って、静かに、しかし楽しく余生を送ってはいかが。

 

※論語指導士ホームページhttps://rongokikou.com/

 


2024年1月1日号 週刊「世界と日本」第2260号 より

 

今年は少し勇気を出して

 

ウェルビーイングな自分を目指す

 

生命科学者・大阪大学
名誉教授
仲野 徹

《なかの とおる》

1957年、大阪市生まれ。大阪大学医学部卒業、内科医として勤務の後、京都大学助手・講師(本庶佑研究室)などを経て、1995年から大阪大学教授。2022年3月定年退職。現在は「隠居」を名乗る。専門は、いろいろな細胞の作られ方。2019年から読売新聞の読書委員を務める。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)など。趣味はノンフィクション読書、僻地旅行、義太夫語り。

 

 昨年まで長い間、大学で教鞭を執っていた。先生の言うことをよく聞いてと、教え、教えられてきたものだが、いまやそんな説教は時代遅れもいいところだ。かつては時の流れが遅かった。だから、教える人の経験をしっかりと学んで真似て活かすのが効率的だった。しかし、時代が違う。ものごとの進み方がスピードアップしている現代、前の世代の人と同じようなやり方では対処できないことが激増している。

 

 スピードアップという言葉すら正しくないかもしれない。ある段階でいきなり変化して、一気に景色が変わってしまうことすらある。たとえば、生成AIだ。昨日までできなかったことが急にできるようになったとき、それをどう取り入れるか。こういったことには若い方が得意である。経験を活かしにくい時代、あるいは、安定性が低下した時代になっているのである。

 これからは、ますます短期間で変化していきそうだから、それに対応する能力を身につけておくべきだ。最近出版された『SWITCHCRAFT(スイッチクラフト)切り替える力』(NHK出版)のプロモーション関係で、著者の心理学者であるアデレード大学エレーヌ・フォックス教授と対談する機会があった。本のサブタイトルはズバリ、『すばやく変化に気づき、最適に対応するための人生戦略』である。

 フォックス教授によると、なによりも大事なのは「すばやく柔軟に対応する」ことだという。そのためには、「自分を知る」こと、「感情への気づき」、そして「状況をつかむ」ことが必要であると説く。納得の内容なのだが、普段からこういったことに向けてのトレーニングをしておかないと、いざという時に対処できないらしい。身体を鍛えるためにジムに通うように、しっかり時間をかけてメンタルな能力を意図して鍛えなければならないという。なかなかにしんどいことだ。

 不易流行という言葉がある。もともとは松尾芭蕉の「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」に由来する。不易とは世の中が変わっても変化しない本質的なこと、流行とは世の中の変化とともに変わっていくことで、いずれもが大切なのだ。流行に対処しながら人が生きていくうえで、普遍的に大事なものとは何なのだろう。今様の言葉でいくと、最近よく耳にするウェルビーイングということになりそうだ。

 適当な日本語がないからカタカナ英語のままなのだろうが、いささかわかりにくい言葉ではある。それに、政府が「各政策分野におけるKPI(重要業績評価指標)へのWell-being指標の導入」を進めたりしているので、大きなお世話だという気がしないでもない。しかし、概念としてはなかなか良さげである。

 意味としては、世界保健機関(WHO)が定義するところの健康、すなわち「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」(日本WHO協会)が適切とされている。それなら単に健康という言葉でもいいような気がするが、それだとどうしても肉体的な意味に限定されそうなのでウェルビーイングなのだろう。たしかに、精神的はともかく、社会的に満たされた状態というのは一般的な「健康」という概念に含まれてはいなさそうだ。

 ポジティブ心理学では、ウェルビーイングの5つの要素として「ポジティブな感情」、「エンゲージメント(積極的な関わり)」、「良好な人間関係」、「人生の意義」、「達成感」の5つがあげられている。そりゃそうだろうとは思うが、これとて実行するには、流行に対応して切り替える力を身につけるのと同じくらい難しそうだ。

 しかし、ウェルビーイングに詳しい予防医学研究者・石川善樹さんによると、「複数のコミュニティに異なるアイデンティティで参加」している人はウェルビーイングな状態に到りやすいことが知られているという。身体的な健康は個人的なものだが、社会的に満たされた状態というのは人間同士の関係性が基盤になる。精神的な満足度というのは、その中間といったところだ。そう考えると、ウェルビーイングにおいて「複数のコミュニティに異なるアイデンティティで参加」することの重要性は明らかだ。

 いくつかのコミュニティ—グループやレイヤー(階層)としては、家族と親戚、近所の幼なじみ、高校時代の友人、大学時代の友人、仕事仲間あるいは専業主婦ならば近所付き合いやママ友、といったあたりは多くの人に当てはまりそうだ。ただ、これらはすべて似たようなアイデンティティの人たちの集まりである。そうではなくて、年齢やら地縁、血縁やらが違う人たちとの付き合いをどれくらい持っているかが大事なのではないか。

 意図した訳ではないのだが、50歳を越えてから、そういうグループにいくつも属するようになった。毎月一回ノンフィクションのレビューをアップしているHONZ(@HONZ.jp)、来年4月に大名跡である豊竹若太夫を襲名される豊竹呂太夫師匠の素人義太夫弟子仲間、そして、武道家・思想家である内田樹先生の甲南麻雀連盟(月に一回集まって麻雀をするだけの会)をはじめ、それこそアイデンティティの異なる人たちの集まる会に5つ6つ所属している。そのどれもが面白い。というよりも、面白いから続けて参加している。

 定年して隠居の身だが、どこへ行っても相変わらず先生と呼ばれるので、完全に違うアイデンティティで参加している訳ではない。それでも、どのグループの仲間からも異なった刺激を受けられるのがいい。イヤな経験などしたことはないが、あるコミュニティでそのようなことがあったとしても、別のところで癒やしてもらえるに違いない。

 今年はぜひ、ちょっと勇気を出して、ひとつでもいいから新しいコミュニティに属することを試みられてはいかがだろうか。隠居したとはいえ、たくさんのコミュニティに参加しているので、時間的にいっぱいで、私はもう増やせそうにありませんけど。

 


2023年7月17日号 週刊「世界と日本」第2249号 より

 

教育の未来を切り拓く

 

全日本教職員連盟
委員長
前田 晴雄

《まえだ はるお》

高知大学卒業。平成14年、徳島県公立学校教員採用。徳島県那賀町立阿井小学校、全日本教職員連盟事務局長、副委員長を経て、全日本教職員連盟委員長。

 

 先日、教え子が大学に進学し、私に会いに来てくれた。小学校卒業以来、実に6年ぶりである。獣医になるという夢をもち、そのスタートラインに立った喜びに満ちた教え子の顔を見て、教師という仕事の素晴らしさを改めて実感した。ところが、今、学校及び教師は、危機を迎えているのである。

 

『持続不可能』な学校?

 

 『持続可能性』という言葉が巷間に広がって久しいが、この言葉は今、学校に対しても用いられている。「『持続可能』な学校にするためには…」といったものである。つまり、現在の学校は『持続可能』ではなく、このままでは『持続不可能』になってしまうという文脈で用いられているのだ。それでは一体、学校のどこが『持続不可能』なのであろうか。

 

教師という業務の特殊性

 

 まず第一は、教師の過酷な勤務環境にある。先日公表された教員勤務実態調査においても、指針で示された時間外在校等時間(いわゆる残業時間)45時間の上限を約7割強が超えて勤務している実態が明らかとなった。

 次に、このいわゆる残業時間に、対価が支払われてない状況がある。これは、教師独自の給与を定めた給特法において、月給の4%(月8時間相当)を「教職調整額」として一律支給する代わりに残業代を支払わないと規定されているからである。

 そして、最後はこのような過酷な勤務環境の問題や、その他の学校に対する「ブラックな職場」といったマスコミ報道等も影響してか、教師志望者の減少に伴う『教師不足』である。この『教師不足』は、志望者減少だけが理由では無く、退職者の増加に伴う採用増や、民間の業績が好調であること、また産・育休取得者及び病気休職者の大幅増加等、様々な要因が重なり、定数を満たさないまま教育活動を行わざるを得ない状況が全国各地で見られる。令和3年5月の調査では全国の小・中・高合わせて2558人が不足していることが明らかとなっており、このような学校は、教頭が担任をしたり、別の免許保有者に対して臨時免許を授与して指導させたりするといったように、直接児童生徒に影響が出ている状況に陥っている学校もある。

 これら複数の要因が複合した結果が、現在の学校が『持続不可能』だと指摘されている所以である。

 

「持続可能」な学校にするための方策①

 

 それでは、どうすれば学校は『持続可能』となるのか。以下にその方策について述べる。

 まず一つ目は、業務改善である。これまでも働き方改革という名の下に行事の効率化やICTの活用等の業務改善が進められてきたが、劇的な変化は見られなかった。一体なぜか。それは我々教師の業務は、その多くが子供の成長に直結する内容であるからである。つまり、私たちが業務を削減する、もしくは効率化するということは、児童生徒の力が伸びないことにつながることを教師が肌で感じているからである。そのために教師は、ある意味では、自らの意思で業務を減らすことを拒んでいるのだ。これが給特法成立時に、教師の業務が「自発的行為」として位置付けられた理由である。

 今回の勤務実態調査においても、ほぼ全ての業務の削減が進んだものの、学習指導のみは増加していた。つまり、教師は子供にとって必要な学習指導や生徒指導の部分は、どうしても業務を削ることができないばかりか、これからも児童生徒を取り巻く問題が複雑化・困難化することに伴い、更に増加することが予想される。しかしながら、これは減らしてはいけない業務であり、我々はこの部分を減らすつもりは全く無い。それは、我々教師が、子供たちと学習や生徒指導で関わることで教え導くことが使命としているからである。そのため我々は、自分たちを労働者ではなく、教育専門職として位置付けている。

 そうすると、教師の業務改善でできる方策は只一つ、いかに教師でなくともできる仕事を手放すかに尽きる。具体的には、中教審が業務を三分類したものがあり参考になる。まず一つは「基本的には学校以外が担うべき業務」として、登下校対応や放課後・夜間の見回り、学校徴収金の徴収・管理等である。次に「学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要のない業務」として調査・統計等への回答や、児童生徒の休み時間における対応、校内清掃、部活動がこれにあたる。これらを、学校以外、もしくは学校内において教師以外に移行できれば、教師は、本来の業務である学習指導及び生徒指導に専念することができるのだ。

 

「持続可能」な学校にするための方策②

 

 次は、処遇改善である。給特法における教職調整額について先述したが、これを10%程度に引き上げることが必要だと考える。なぜ残業代支給ではないのか。それも先述した私たち教師の仕事の特殊性にある。授業構想や教材準備の時間を残業時間としてどう換算するのか、また、帰宅が遅い保護者への連絡のための待機時間や夜間の問題行動への対応等、厳密な時間管理が困難な業務が多い。もし単純にこれらを時間管理するとなると、残業代抑制のために授業準備が不十分になったり、児童生徒の少しの変化を見逃す可能性もある。そのため、給特法成立時の趣旨を引き続き尊重し、教職調整額の引上げという形での処遇改善が必要不可欠である。同時に、学級手当の新設等、それぞれの業務に応じた給与の仕組みを取り入れる必要がある。

 

教育への投資は未来への投資

 

 教育は「国家百年の大計」であり、国づくりは即ち人づくりである。日本の未来を担う子供たちのため、思い切った投資が今こそ必要である。

 そして、その責任を担うのが、我々学校現場の最前線に立つ教師であるという矜持(きょうじ)と責任をもって業務に臨みたい。

 

 


2023年3月6日号 週刊「世界と日本」第2240号 より

「1本の襷」が日本人の心を動かす

 

 

尚美学園大学教授
佐野 慎輔

《さの しんすけ》

1954年富山県生まれ。早大卒。産経新聞編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを経て現職。産経新聞客員論説委員、笹川スポーツ財団理事・スポーツ政策研究所上席特別研究員、日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員などを務める。近著に『西武ライオンズ創世記』(ベースボールマガジン社)など。

 

 今年初頭、NHK総合テレビ『チコちゃんに叱られる!』に出演、駅伝のルーツである「東海道五十三次駅伝徒歩競走」について解説した。改めて駅伝の人気に驚かされた。

 

 番組に出演した後、友人、知人から連絡が相次いだ。「駅伝って、そんな昔からやっているのか」―彼らはこぞって駅伝の歴史を話題にした。「チコちゃん―」の影響力の大きさを伺い知るとともに、いまにつながる「駅伝」への関心の高さを思った。

 「東海道五十三次駅伝」は大正6(1917)年、東京奠都(てんと)50年を記念して読売新聞社が主催。東西両チームが4月27日に京都三条大橋をスタートし、東軍は紫、西軍は赤とそれぞれ1本の襷をつないで29日に東京上野の不忍池にゴールしたリレー競走である。

 走行距離約516㎞、23区間。選手が襷をつないで走るレースを「駅伝」と命名したのは当時の大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)副会長で神宮皇學館館長、武田千代三郎だ。武田は古代律令に定められた「駅馬」「伝馬」制にならい、この名称を発案した。

 それから3年後、「五十三次駅伝」東軍アンカーを務めた日本初のオリンピック代表、金栗四三らによって東京高等師範(現・筑波大学)、早稲田、慶應義塾、明治の4校が出場した「4大校駅伝競走」が創設された。後に「東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)」となる第1回大会である。箱根には「駅伝」の名とともに「1本の襷をつなぐ」行為も受け継がれた。

 日本テレビが中継した今年の第99回箱根駅伝の世帯平均視聴率は、1月2日の往路が27・5%、3日の復路は29・6%(いずれも「ビデオリサーチ」調べ)と相変わらず高い数値を誇る。関東学生陸上競技連盟によれば、新型コロナウイルス感染による応援自粛が解除された沿道の人出は約91万人。自粛前の100万人台復活はならなかったが人出は戻った。

 お茶の間でも沿道でも、なぜ、これほど箱根駅伝に代表される駅伝人気は高いのか。じつは「五十三次駅伝」も物珍しさからスタート、沿道、中継所、そしてゴールの不忍池には大勢の人出があったと伝えられる。いったい駅伝の何が、日本人に好まれるのか。

 かつて箱根駅伝で山登りの5区を走り、「山の神」と称された東洋大学OBの柏原竜二さんがこんな風に話したことがある。「駅伝はチーム競技だけれども、1人で走るので野球、サッカーのようなチームプレーとは異なる。とくに1本の襷をつないでいくことで、よりチームへの思いが強くなっていく」

 駅伝はチームで速さを競うリレー、団体競技である。出場した1人ひとりがベスト記録で走ればチームはより良い成績を得ることができる。バトンを手渡しする陸上競技のリレーや、タッチによる競泳やスキーのリレーも同じだ。しかし駅伝は「1本の襷をつなぐ」という行為で、ほかの競技種目と異なる。そこに日本人の琴線に触れる機微を思う。

 スタートした直後は乾いていた襷も、レースが進行していくと選手の汗を吸い込み重さを増していく。リレーされるたびに襷は重くなり、それがチームの勝利という重圧とともに受け継がれていく。言い換えれば、1人ひとりの重さの継承だと日本人は受け止める。

 時にそれは、残酷な光景を出現させる。ブレーキを起こしてはならないと自らを叱咤、鼓舞する選手がいる。交通規制のために設けられた時間制限、繰り上げスタートが輪をかける。必死な形相で中継地点に駆け込んできた走者が、設定時間に間に合わず、立ち尽くす。すでに襷をつなぐべき走者は走り出していた。茫然とする姿、悔しさをかみしめる表情…泣き崩れてしまうことも珍しくない。そんな光景に、見る者までが胸を締めつけられる。せつなさの共有にほかならない。

 私たちはしばしば「チーム一丸」と口にする。個人それぞれが責任を果たし、一体となってチーム全体の勝利をめざす決意を表す。駅伝では「1本の襷」が象徴する。襷は選手だけのものではない。出場は果たせなかったが一緒に練習を続けた仲間たち、練習や食生活、健康面を支えるスタッフの思いも背負う。

 「1本の襷」をかけて走ることとは、彼らの思いも重ねること。だからこそ「襷をつなぐ」意味は重たい。そこに生まれる悲壮感が、みる者の日本人としての心をつき動かすのである。

 こうした悲壮感は大学駅伝、とりわけ長い伝統の箱根駅伝により色濃く漂う。襷に縫い込まれた大学名を胸にかける名誉は、部員以外の在学生、そしてOB・OGたちの誇りをも背負う。近年希薄になったと言われる「カレッジアイデンティティ」である。箱根駅伝には、いまだ圧倒的な価値として残る。

 すっかり正月の風物詩となった本大会の順位は当然、シード権争いは手に汗握る。出場枠を競う予選会の当落には悲喜こもごものドラマが生まれる。それが在校生、OB・OGに限らず、大学の垣根を越えた共感を現出する。今年、立教大学の55年ぶり箱根路復活が大きな話題になった理由にほかならない。

 大学駅伝の選手たちは18歳から22歳。成人はしていても社会的には未完であり、危うさとともに可能性を秘めた存在でもある。大学駅伝を応援する人には、監督の指導にも寄り添いながら未熟な存在を見守り、育んでいこうとする意識も働く。古来、完成形よりも完成手前を好み、乱調にすら美学を見出してきた日本人特有の意識のように思われる。

 選手たちはより未熟な高校生から大学生となり、4年間の経験を経て社会人に進む。テレビの駅伝中継はそうした成長過程を、お茶の間の私たちに届けてくれる。世代別の大会がある仕組みは駅伝人気の一助となる。

 駅伝はまたスポーツツーリズムである。自然や寺社仏閣、街並みは旅情を誘う。箱根駅伝は冬枯れの箱根温泉街を活性化する願いを込めて創設された。五十三次駅伝自体が奠都記念として観光促進の側面を担った。話題、人気にならなければ逆に困ったのである。

 東海道五十三次駅伝の成功から生まれた箱根駅伝は、人々の関心、人気にも支えられて、来年100回大会を迎える。

 


2023年1月16日号 週刊「世界と日本」第2237号 より

新型コロナで学校・教育現場が受けた影響と日本の課題を探る

 

社会に必要な人材を育てていく役割

 

政治ジャーナリスト
細川 珠生

《ほそかわ たまお》

1968年生まれ。聖心女子大学英文科卒。三井住友建設(株)社外取締役。内閣府男女共同参画会議民間議員。(公財)国家基本問題研究所理事。熊本藩主・細川忠興と明智光秀の娘・玉夫妻の直系卑属。1995年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演。2021年3月番組終了まで、放送通算1337回、延べ768人のゲストが出演。同年4月よりPodcast放送で世界に配信中。著書に『明智光秀10の謎』(本郷和人共著)ほか多数。聖心女子大学大学院博士課程前期人間科学専攻在学中。

 

 新型コロナウイルスの脅威にさらされたこの3年間は、これほどまでの世界的なパンデミックの中に置かれたことは誰もが未経験であり、正に「未知の脅威」との戦いであった。現在も継続中とはいえ、フェーズが変わったことを実感している人も多いであろう。「Withコロナ」から、すでに「コロナ後」として動き出している中で、教育はどのような影響を受け、どう変わったのか、日本の課題を探る。

 

1.学校現場での「コロナ」の影響

 今年度になって、少しずつ行事や学習活動も、コロナ以前に近づいてきているが、2年間の学校現場でのコロナによる影響は計り知れない。例えば、運動会や宿泊行事などの大規模な行事は、コロナ初年度の2020年度は中止、昨年の2021年度で分散開催や日数を減らすなどの規模縮小で何とか実施したところが多かった。ようやく今年度になり、「コロナ以前」に近づいてきている。例えば、運動会も小学校であれば6学年を2分割(低学年と高学年に分ける)などしながらも、保護者の観覧を解禁したり、宿泊行事も近場で期間を短縮しながら、大部屋での就寝を禁止するなど、陽性者が出ることへの警戒ではなく、感染を広げないための対策をしながら、活動自体は実施できるような工夫や検討が行われるようになった。また、多くの大学では2年間、リアルな学祭(文化祭)が行われず、大学4年生は、1年生の時に経験して以来、卒業間近でようやく再度文化祭を経験することができたのである。また3年生は一度も経験しないまま文化祭を仕切る最高学年になった。

 学校での音楽会が「停止」されたことにより、合唱や合奏を行うハードルは今でも高いが、2年間練習ができなかったことで、「声の出し方も(子ども自身の体が)忘れてしまった」と都内某小学校の教師は言う。

 学校行事には、教育的意味があるからこそ行われているのである。リーダーシップを育て、下級生は上級生に憧れをもつことによって、将来像を自然とイメージしたり、異学年の交流による自己の再認識や協調性、他者理解の力を養うことなど、教育的効果は多岐にわたる。それでもリアル実施ができなかった分、オンラインや他のツールを用いてでも実施してきたことも多く、それはそれで、これまで見落とされていた教育的な意義を再認識するという「副産物」が生まれるとすれば、教育活動が全く「停止」されていたということではない。

 私たち社会にいる大人が留意しなくてはいけないことは、私たちが育った時代に、かのような「例年通り」の教育活動が「停止」されたことは皆無に等しく、私たちが経験してきたことを同じように経験してきた「はずだ」と思わないようにしなくてはいけないということである。加えて、オンラインでの授業に慣れ親しんだ子どもたちにとって、リアルとオンラインの区別はシビアであり、働き方においても、旧来型の業務や職場環境を継続していると、若い世代からは「選ばれない」会社になる。この3年の間のパンデミックが子ども達の成長にどのような正負の影響があったのか、それを踏まえた上でのこれからの教育と社会のありようを検討していくべきであると考える。

 

2.子どもたちの主体的な学び

 この間、日本の教育の問題点がいくつか浮かび上がった。当初、ICT化の遅れは深刻であったが、それ以上に深刻であったのは、集団に対する一斉の授業方法が、コロナパンデミックのように、「集団」を避けなければいけない時に大きな障害となっていた点である。「集団での一斉の授業」が日本の主とした学習スタイルであるということは、学習においても生活面においても、「集団」の枠にはまることが重視され、「個性の尊重」や「得意なものを伸ばす」といった、個人の能力を活かし、伸ばしていくという教育にはなかなかなり得ないという課題が強調されたのである。コロナパンデミック以前も、国際競争力の低下などを踏まえ、これまでの平均的で平準化された人間の育成に対する課題は指摘され、危機感をもつ教育関係者や学校現場では、教師からの一方的な教授方法による学習から、教科教育においても「話し合い」を重視する、子ども達が主体的に考え、学ぶ学習方法へ転換し、実践する動きが始まっていた。

 中央教育審議会の2021年1月26日に提出された答申「『令和の日本型学校教育』の構築をめざして〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現」でも、次のような指摘がされている。

 「我が国の経済発展を支えるために、『みんなと同じことができる』『言われたことを言われたとおりにできる』上質で均質な労働力の育成が高度経済成長期までの社会の要請として学校教育に求められてきた中で、『正解(知識)の暗記』の比重が大きくなり、『自ら課題を見つけ、それを解決する力』を育成するため、他者と協働し、自ら考え抜く学びが十分なされていないのではないかという指摘もある。」

 コロナパンデミックを契機に、集団に対する一斉の教育により、正解を教え込む教育の、いわば「限界」が表面化したことは、今後の日本の教育を考える上で見逃してはいけない点である。「未知との戦い」はもちろんのこと、「戦い」の後の社会でも、これまでの価値観や常識が通用しなくなる状況下で、個々人が自ら考え抜く力を持っているかということと、相互に考えを尊重しながら、より良い「解」を求めて「対話」をする力を持てるかということこそが、これから教育や人材育成の場で考えていかなければならない重要な点であるということを指摘したい。

 コロナパンデミックにより、世界中のほとんど全ての人が、それぞれの立場や境遇の中で、苦しい3年間を強いられていた。多くの命も犠牲になった。しかし、それを少しでも次世代につなげる経験とするならば、それ以前の社会には戻さないということであろう。教育は、社会に必要な人材を育てていくという役割もある。そうであるならば、まずコロナ後の社会では、個々の考えによって主体的に行動できる人材を活かす社会を作っていかなければならない。そのためには、まずは頭で「理解」することと日常の行動や考えが乖離しないことが、極めて重要であると、指摘したい。

 

 


2023年1月2日号 週刊「世界と日本」第2236号 より

専門職大学院のススメ

 

 

昭和女子大学
グローバルビジネス学部長 今井 章子

《いまい あきこ》

英文編集者を経て、ハーバード大学にて行政学修士。英文出版社、シンクタンク常務理事を経て現職。労働経済学者ロバート・ライシュの翻訳も手がける。

 

 岸田総理大臣は22年10月の臨時国会における所信表明演説の中で、個人のリスキリングに対する公的支援として5年間で1兆円の「人への投資」を行うことを表明した。2030年には450万人規模でミスマッチが発生しうる(三菱総研)という、Dx領域や脱炭素経済(Gx)領域を推進する人材を増やすとともに、新たに取得したスキルを活かせる職に人々が移動(異動)できるよう、報酬も年功序列給から職務給へ転換して、日本全体の雇用の流動性を高めていくという。

 

 社会人に狙いを定めて能力開発をし、ジョブ型雇用を促進してミスマッチの解消を図る政策は、労働力人口が激減する中、大きな意味があると思う。しかし、問題はその方法である。企業内に「働かないおじさん・おばさん」を作らないようにしよう、手に職をつけさせて一人でも生きていけるようにしようという職業安定的な発想では、せっかくのエンパワメントも限定的となろう。

 働き盛りの30代、40〜50代のキャリア円熟期の人々が、それまでの殻を破ることができるような魅力ある機会にしてこそ、人的資本への投資といえるのではないだろうか。

 

リスキリングとしての専門職大学院

 

 そこで社会人にはぜひ専門職大学院を活用することをお薦めしたい。専門職大学院とは、「高度専門職業人」を養成するため、2003年に新しくできた、主として社会人を対象とする教育課程で、法曹(法科大学院)、会計、ビジネス・MOT(技術経営)、公共政策、公衆衛生、教職などの様々な専攻分野での開設が進んだ。

 研究者養成を旨とする従来の大学院教育と大きく異なり、理論と実務の両方を重視している点が特徴で、事例研究・現地調査などを多用し、少人数による討論など双方向的・多方向的な授業が行われる。

 筆者が「大人」のリスキリングに専門職大学院を勧める理由は三つある。第一に「修士(専門職)」という学位が獲得できる点である。スキル習得を目指す職業訓練では学位は付与されないが、大学での学びの成果は学位として「見える化」される。仕事と大学院の両立は容易ではないが、苦労して獲得した学位は、所属組織とは無縁に本人だけに与えられる「勲章」だ。

 第二の理由は、人脈と新たなコミュニティーを開拓できるからである。「トータル・リーダーシップ」を提唱する米国ウォートン・スクールのスチュワート・フリードマン教授は、現代のリーダーには、①仕事②家庭③コミュニティー④自分自身の四つの領域において、自分らしいビジョンを持ち行動する力が必要だと述べている。社会が複雑化・高度化する中で、「仕事一筋」だけでは魅力あるビジネス・リーダーにはなれないということなのだ。

 専門職大学院には年齢も肩書も職種も業種も異なる人々が集う。すべての鎧を取り払った「私」だけでの勝負である。互いの実務経験を持ち寄り、共に課題解決をめざすことで、新たな人脈ばかりでなく、仕事以外のコミュニティーを手中にでき、「私」を一段と強化するチャンスとなろう。

 第三の理由、これが最大の魅力なのだが、専門職大学院で学ぶ内容は、単なる新スキルの習得だけではない。大学には、脱炭素経済、持続可能性など最近の社会課題を研究している人々が往来しているため、スキルを超えた深い学びを経験できる。

 PC(人間)に新しいアプリ(新スキル)をインストールするだけではなく、それを動かすOSそのものを刷新するようなトランスフォーメーションを可能にするのが、専門職大学院なのである。

 

現役世代が創る日本の未来

 

 閉塞感がぬぐえない日本に今必要なのは、職業人としての「大人」たちを元気にすることではないだろうか。

 いつまでも低い投票率、常に誰かを貶すキャンセルカルチャー、放置される財政赤字の拡大など「大きな難題」は自分ではない誰かがやってくれるだろうという、当事者意識の欠如は、民主主義にとっては危機である。

 米国の労働経済学者ロバート・ライシュは、近著『Common Good』の中で、「勝ちさえすれば何をやってもいい」という風潮が20世紀後半から米国社会に蔓延し始め、他者への共感や共同体に対する良識が失われた。世間の大半の人が持つ共通理解(良識)が崩壊すると、ルールを破る、人を裏切るなどの欺瞞が増え、公正な社会の維持コストが余計にかかって全体が疲弊すると警告する。

 社会を構成する一員として、大人たちがその能力と責任を発揮するためにも、社会人向けの大学院には、個人の功利を超えた市民社会の強化という役割があると思うのである。

 いささか手前味噌ではあるが、昭和女子大学では23年4月から専門職大学院を発足させ、最短一年で専門職修士号が取れる「福祉共創マネジメント専攻」を開設する。「競争から共創へ」を合言葉に、社会イノベーションをけん引するチェンジメーカー育成や、需要の拡大にも関わらず離職者の多い高齢者介護施設や保育施設における新しい経営、消費者を巻き込むマルチステイクホルダー経営の在り方などを研究する、男女共学の社会人向けコースである。平日の夜間と土曜、夏休みをフルに活用し、オンデマンド主体の講義も組み込むことで、地方の在住者でも仕事との両立を図れる。自身の職務経験に基づく課題を設定し解決策を研究して報告書にまとめるゼミも選択できる。すでに医療、介護、保育、金融、ITなどさまざまな職種の人々が集い、豊かなコミュニティーを形成しはじめている。

 教育とは人づくり。「中高年が食べていくための手立て」に終わることなく、リスキリングによって、社会や世界に対する感度の高い市民として活躍するための推進力を提供することが重要だ。

 それが、人任せで、閉塞感や分断意識が強くなっている「安い日本」を脱却する起爆剤になることを願っている。

 


2022年8月15日号 週刊「世界と日本」第2227号 より

静かな音読の再評価を

 

—自分の言葉を見つめ直すために—

 

慶應義塾大学
日本語・日本文化教育センター教授 木村 義之

《きむら よしゆき》

1963年青森市生まれ。早稲田大学大学院博士後期課程修了。十文字学園女子短大専任講師、大正大学准教授を経て、2008年慶應義塾大学日本語・日本文化教育センター准教授、2010年同教授。編著書に『斉東俗談の研究』『隠語大辞典』(小出美河子と共編)『わかりやすい日本語』(野村雅昭と共編)など。

 

 昨今の言葉づかいで気になることがある。きっかけは、受講生が各自調査結果を発表する演習形式の授業においてである。ここで、ある学生が複数の辞書を調査した結果を報告するのに、「ショバン・サイバン・サンバン」のように発音したのである。もちろん「ショハン(初版)・サイハン(再版)・サンパン(三版)」とするのが自然である。ただ、「三版」は、最近の大学生のほとんどが「サンハン」と発音する。現代日本語ではふつう、撥音「ン」や促音「ッ」の後にハ行音が来ると、発音するときの唇の構えから、「先輩・審判・鉄板・立派・熱波」など、パ行音になることが多い。しかし、「版」は単独で「ハン」と発音するから、近ごろの若い人はまじめに「サン—ハン」として読んでいるのだろう。こうした傾向は以前から見られたのでもはや驚かないが、「バン」で一貫して発音する例は衝撃的だった。「新書版(バン)・復刻版(バン)」などからの類推だろうか。いずれにしても、耳から得た情報がともなわず、文字からの類推読みだろうということは想像にかたくない。それ以来、耳から情報を得ていないことに原因する誤用に聞き耳を立ててみると、至るところでそうした例が耳につくようになる。これも学生が発表の際に「主(おも)として…」という言葉が聞こえた。私の内省では「主(シュ)として」だけと思っていたので、「おもとして」という言い方にとまどった。さて、過去にはそうした言い方も用例があるのかと種々調べてみたが、管見の限り、見つけられなかった。推測するに、「主(おも)に」「主(おも)な」→「主(おも)として」という類推から出たのではないだろうか。この伝で行くと、「主(シュ)たる」を「主(おも)たる」とする読みが出来する可能性はゼロではない。「主」という漢字だけを読み、使用語彙として未消化だった例と位置づけられよう。実は、有料朗読サービスの語り手からも、「おもとして」と読む例に遭遇している。学生ばかりを責めるわけにもいかない。

 ほかにも影響力絶大というユーチューバーの語りから「サイダイテ」という言葉が聞こえてきた。「最大手(さいおおて)」を指しているらしい。時を置いて地上波のニュースを見ると、ある弁護士がコメント中で「サイダイテ」を用いていた。特定個人の思い込みではなく一定の広がりがある誤用なのだろう。そもそも言葉の組み立ては「最+大手」で、「最大+手」ではない。先の学生の読み間違いよりも深刻だろう。日本語で字を読むことは単語を考えることにつながるのである。

 それでは日本語母語話者でこのような現象が見られるのはなぜだろう。原因の一つに、教育現場で音読の軽視があるのではないかと思う。小、中では今も重要な教室活動として位置づけられていると思うが、高校、大学となると外国語科目以外で音読をする機会が減るのではないだろうか。私の経験では、高校の古文・漢文はもちろんのこと、現代国語の授業でも音読の機会があり、そこであれこれ注意を受けた記憶がある。今もあの昔気質の先生の授業を思い起こすと感謝の気持ちでいっぱいである。大学の専門の授業でも、大学院生の演習でも、授業で文献を音読させられたことで多くの思い違いや知識の不足を補うことができた。この春に旅立った恩師が「理論だ何だと言っても、字が読めなきゃしょうがないでしょう」とおっしゃったことが今も印象深く心に残る。そこで自分も、学部・大学院の授業で学生に文献を音読させる。読ませてみると、人名、地名、歴史的名辞、書名の読み癖など、読めない部分が続々。口頭発表でも引用部分の読み飛ばしや、ごまかしが判明するので、いちいちチェックする。学生はいやがるだろうが、大切なことだと考えて実践している。

 もう一つの原因を考えてみよう。近年は読み聞かせや朗読ボランティアなどの活動が活発で、だれもが自由に童話や小説を朗読した自身の音声をインターネット上にアップすることができる時代となった。プロ芸人顔負けの動画配信者が自説を開陳したり、参加者が肉声で意見を戦わせたりすることも、総体的には好ましい。ただ、言葉の面から考えると、彼らが自らの言説を公に音声で伝えるにあたり、耳から得た情報の蓄積に欠けるのではないかと思うことがある。その一端が先に挙げた種々の例なのである。

 かつて、テレビ・ラジオから流れる落語、講談などの話芸、完成度の高いドラマ、町角の大人の会話など、子供にとって大人の言葉を知るのに恰好の情報源があった。それらは今ももちろん失われていないが、現代の若い世代は、一人ひとりが発信用ツールを獲得したことで、テキストを目にして検討もなく直ちに音声化したり、未知の言葉をどこかで確かめることなく口から発することで、不自然な日本語を無自覚に流通させる手助けをしているのではないかと懸念する。少し前にコミュニケーション論や身体論の立場から音読が注目を集めたが、ネット配信全盛の時代にあって、自らの日本語を点検、内省を目的とした、静かな音読に光を当てたいと考えている。

 


2022年1月17日号 週刊「世界と日本」第2213号 より

ウィズコロナ時代の「留学」

 

昭和女子大学グローバルビジネス学部
ビジネスデザイン学科・教授 今井 章子 氏

《いまい あきこ》

英文編集者を経て、ハーバード大学にて行政学修士。英文出版社、東京財団常務理事を経て現職。労働経済学者ロバート・ライシュの翻訳も手がける。

 

 2020年の2月からあれよあれよと拡大したコロナ禍は、大学生の留学をも直撃した。各国が独自の水際対策を展開する中、これからの「留学」について考えてみたい。

 

オンライン留学に踏み切る

 私が所属する昭和女子大学グローバルビジネス学部ビジネスデザイン学科では、卒業に必要なカリキュラムとして、2年次の前期に全員が参加する「ボストン留学」が組み込まれている。MBAホルダーの米国人教員から、経済学、経営学、マーケティング、ファイナンスの入門編を英語で学ぶのである。郊外の高級住宅街にある小高い丘に完全警備の寮で生活して勉学と、異文化交流やボランティアをも体験する。自立心と自律心を養うことができるこの留学を目標に入学してくる学生も多い。

 ところが、である。コロナ禍の拡大で20年3月には本学を含む多くの大学で留学派遣が延期となった。すでに住まいを解約したりサークル活動を休止したりして、ボストン行きを10日後に控えた当時の1年生たちの落胆ぶりは気の毒なほどであった。

 翌21年に入ったが、コロナ禍は終息しない。再び留学延期することはカリキュラム運営に支障をきたすため、2学年約230名が同時に「オンラインで」学ぶ「ボストン留学」に踏み切った。学生たちは日本にとどまり、昭和ボストンの米国人教員が、日本時間に合わせて毎日5カ月間、リモートで授業を行うのである。

 

オンラインの悩み

 グローバル教育の中核としての渡航留学が、オンラインになったことで、私たちは図らずも「そもそも留学とは何か」を自問することとなった。

 政府のグローバル人材の概念には、I 語学力・コミュニケーション能力、II 主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感、III 異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティの3要素が挙げられている。

 本学の「ボストン留学」の魅力は、これら3要素のすべての増強ができる点にある。ボストンで暮らし学習することでIは当然養われるし、同級生と相部屋で寮生活を送ることで II が鍛えられ、米国人教員や近隣のボストニアンとの交流によって III も必然的に自覚することになる。

 オンライン留学での懸念は、 II や III の学びがどうなるかという点であった。Iだけならば「英会話学校のオンライン授業」と変わらない。オンラインコミュニケーションというデジタル能力でどこまで II や III に挑めるかが、コロナ禍での大きな課題であった。

 

COILへの挑戦

 1988年に開校した昭和ボストンには、地元コミュニティーとの30余年にわたる交流がある。そこで、日本時間朝8時過ぎから昼12時過ぎまでは授業とし、さらに週に何度かは夜8時頃から、ボストンの社会人らとビジネス・アイデアを練るプロジェクト「BIG」を開始した。

 学生たちは、対面でしか分からない温度感や、身振りでカバーできない言語の壁、時差、自宅から出られない孤独感などの問題を抱えながらも、なんとか3カ月間後には、「米国の人も味わえる豚汁メニューの開発」「日本のアニメコスプレの現地展開」など様々なアイデアを英語で発表することができた。

 さらに21年2〜3月にかけては、コロラド大学ボールダー校のビジネススクールと、完全オンラインによる合同ワークショップが実現した。米側37名、日本側16名が参加して、「ポストコロナ時代のニューノーマル」という主題の下、高齢化、若年失業率、脱炭素経済、多様性と包摂性、起業などについて、日米それぞれの現状と課題を調査発表するのである。

 渡航を伴わない分経済的には安価に、またZ世代ならではの共感力とデジタル・スキルを生かして、SNSやGoogleドライブ、時には自動翻訳・通訳ソフトをも動員して、意志疎通を図り、全チームが15分間のプレゼンテーションを完成させることができた。

 これらCOIL(国際協働オンライン学習プログラム)を体験した学生の反応は、「5カ月間規則正しい生活を送れた」「ネットでもしっかり学べた、外国人と友達になれた」「隣に級友がいないので寂しかった」「終日PCの生活で疲れた」などさまざまであったが、総じて肯定的に締めくくる声が多かったのは、 II の主体性・協調性や III のアイデンティティを体得した実感が持てたからだと思う。

 

語学力を補う技術の発展

 「世界のオンライン留学1期生」ならではの経験から、我々教員も多いに学ぶところがあった。とくに「I道具としての語学力」において自動翻訳技術の飛躍的発展は、無視できないものがあった。日米合同のグループワークでは「伝えなければならないこと」が存在しており、それを言葉の壁のせいにして放置することは許されない。そこで学生たちは、自動翻訳アプリの助けを借りてでも、なんとか米国人と交渉したというのである。

 語学力やデジタル能力などの「道具」によって「参入のハードル」が下がってくると、そもそもの外国の人々とつながる理由や動機、すなわち内発的な推進力が極めて重要になってくる。

 今後のグローバル教育においては、 II や III に代表される「自らの内実」がますます不可欠になってこよう。

 

全人教育がもたらすグローバル市民社会の可能性

 OECDは技術革新とグローバル化が進む社会において、次世代が身に着けるべき3つのキー・コンピテンシーとして、①言語や技術など道具を相互作用的に用いる力②自律的に活動する力③異質な集団で交流する力を上げているが、①や②は、グローバル人材概念の II や III とも符合する。

 貧困・格差、人権、温暖化などの社会課題は、グローバルに、そして構造的に絡み合っており、「誰か」の命令で対処できるものではなくなっている。解決には「全員参加」しか手がなく、そこでは、豊かな内実を持つ個々人が、集合的な社会資本として求められているのである。

 このように考えると、「留学」はもはや「日本から見たグローバル人材」育成の機会というよりも、「地球市民」育成という大きな公益を担っているように思う。

 日本社会ではいまだにウチとソトを区別する感覚が強く、留学といえば「外国語がペラペラ」のようにスキル面の成果で語られがちだ。そろそろ「留学」の主要な価値を、内実のある人間、コンテンツを持つ人物の育成に置くことが重要なのではないだろうか。

 


2021年2月1日号 週刊「世界と日本」第2190号 より

学校と塾は共生関係

捨てよう 損得勘定

育児・教育ジャーナリスト おおたとしまさ 氏

《おおた としまさ》

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、中高の教員免許を有し、小学校教員および心理カウンセラーの経験もある。現在、育児・教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『ルポ塾歴社会』、『名門校とは何か?』、『21世紀の「女の子」の親たちへ』、『中学受験生に伝えたい 勉強よりも大切な100の言葉』など60冊以上。

 先日、現役高校1年生から取材を受けた。都内の有名私立中高一貫校に通い、東大受験専門塾にも通っている2人組だった。質問内容は「受験勉強で学べないものって何ですか?」であった。逆に「受験勉強で学べるものって何ですか?」と聞きたくなった。

 自分たちのいまやるべきことは1にも2にも大学受験のための勉強なのだとずっと思い込まれてきたらしい。しかしここにきて、「あれ?」とかすかな違和感を覚えて私に話を聞きたくなったというのだ。拙著『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書)も読んでくれたという。

 彼らは言う。塾の勉強のほうが受験に直結していてやりがいもあって、その塾と比べると学校の勉強には意味がないんじゃないかと感じていたんですが、学校には学校の役割があるんじゃないかと気づいたんです、と。その通りである。気づいてくれてよかった。

 受験勉強を通しても学べることはたくさんあるが、人生において大事なことのなかではそれも微々たるものである。たとえば、たったひとりの誰かを徹底的に愛する経験は、どんなお勉強よりも大きな学びになる。その恋がどんな形に発展し、あるいは大失恋に終わったとしても、人生の豊かさを感じる感受性を開花させてくれる。そんな話をしてさしあげた。

 私は最近、『超進学校トップ10名物対決』(日経プレミア)という書籍で、最難関大学に多くの合格者を出す学校でこそ、幅の広い教養や、「やり抜く力」に代表される非認知能力、そして損得勘定を超えた価値観を身につける教育を行っている様子を描いた。最高の“学歴”を手に入れるばかりでなく、人生において重要な“胆力”まで鍛えられるのだから、鬼に金棒なのだ。

 しかし私が意図した結論は、「このような学校に入るといいよ」ではなく、「どんな学校でも、こういう教育を優先してみてはどうか」という提案である。

 「目覚ましい進学実績を残している学校だからこそこのようなゆとりある教育が行えるのだ」という指摘もあるだろう。正しい。ただそれはあくまでも「何はともあれ高い大学進学実績を出すことが高校教育の使命であるかのように思われている」という現状認識の上に成り立つ理屈だ。

 そのような理屈がまかり通る限り永遠に、結局一部の進学実績上位校の生徒以外は、一流の学歴という“金棒(輝かしい学歴)”を手に入れられないばかりか、教養や非認知能力や損得勘定を超えた価値観を携えた“鬼(胆力を備えた存在)”にすらなれないことになる。全国の高校がどんなに必死で進学実績を上げようとしても、難関大学合格という椅子取りゲームの椅子の数は増えないのだから。

 このような状況は、格差を助長するだけでなく、大半の若者がその本来の能力を十分に開花する機会を逸するという意味で、甚大な社会的損失ももたらす。要するに、「何はともあれ高い進学実績を出すことが高校教育の使命である(なぜなら結局のところ出身大学名でひとの価値が推し量られる社会だから)」という風潮が、高校教育の目的を歪め、社会から活力を奪っているということだ。

 ところで最近興味深い調査分析結果を目にした。東京都医学総合研究所とロンドン大学の共同研究によって、60年以上にわたる大規模追跡調査の結果を分析したところ、思春期の時点で抱いていた価値観が人生の終盤での幸福感に大きく影響することがわかったという。具体的には以下の示唆があった。報告書から引用する。

 ・思春期の時点で抱いていた「興味や好奇心を大切にしたい」という価値意識(内発的動機)が強いと、高齢期の幸福感が高まり、「金銭や安定した地位を大切にしたい」という価値意識(外発的動機)が強いと、幸福感が低くなることを明らかにしました。親の社会経済的地位や、本人の学歴によらず、この関係が認められました。

 ・若者に対して経済的な成功や安定を目指すように強調するよりも、自身の興味や好奇心をはぐくむ教育環境を作っていくことが、活力ある超高齢化社会の実現に向けて重要な対策であると示唆されます。

 さらに、報告書には「若い頃の様々な欲求や誘惑に負けずに自分をコントロールする力(自己コントロール力)は、成人した後の経済的な成功を左右しますが、幸福感の指標である人生を振り返った時の満足感(人生満足感)とは関係しません」とも記されている。

 ノーベル賞受賞の経済学者ジェームズ・ヘックマン氏の研究成果をもとにして、偏差値的な学力よりも自己抑制力などの非認知能力が重要だという言説が流行した。さらにペンシルベニア大学心理学教授のアンジェラ・ダックワース氏は、非認知能力のなかでも「GRIT(やり抜く力)」が、“人生の成功”に大きく影響すると主張し、世界的な注目を浴びた。

 しかし先に挙げた論文では、「やり抜く力」とて、“経済的成功”の要因にはなるが、それ以上ではないことを示している。

 論文の示唆するところを私なりにまとめれば、要するに、中高生のうちにせこい損得勘定を刷り込むなという話である。そして実際、拙著『超進学校トップ10名物対決』に登場する錚々たる顔ぶれの進学校はみな、そのことを昔から知っていたかのような教育を行っている。「いま勉強しないと、いい大学に行けなくて、将来苦労するよ」とは言わないのだ。

 その点、塾があることで学校が学校でいられる側面がある。塾があることで学校は、「長期的な目標を見据えた本質的な教育と大学合格を目的とする教育の両立」というジレンマから解放されているのである。その意味で、学校と塾は共生の関係にある。

 塾が受験競争を煽っているという批判もあるが、因果関係が逆である。子どもたちを受験競争へと追い立てるものは、塾でも偏差値でもない。オックスフォード大学教授の社会学者・苅谷剛彦氏の表現を借りれば、「戦後の日本における能力主義と平等主義の奇妙な結合」がこの国の学歴社会の基盤になっており、それこそが塾や偏差値のニーズを高めているのである。

 「いま勉強しないと、いい大学に行けなくて、将来苦労するよ」という損得勘定を大人こそが捨てなければ、受験偏重的な日本の教育は変わらないだろう。

 


2020年7月20日号 週刊「世界と日本」第2177号 より

9月入学論議 大人の都合

育児・教育ジャーナリスト おおたとしまさ 氏

 2月末に突如全国一律の休校要請が出された。卒業式など、学年の終わりの行事が行えなくなった。ようやく新学期が始まるはずだった4月1日には、逆に東京都が休校を5月6日まで延長すると発表。感染拡大が続いていた他自治体にも同様の判断が広がった。

《おおた としまさ》

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、中高の教員免許を有し、小学校教員および心理カウンセラーの経験もある。現在、育児・教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『ルポ塾歴社会』、『名門校とは何か?』、『21世紀の「女の子」の親たちへ』、『中学受験生に伝えたい 勉強よりも大切な100の言葉』など60冊以上。

 ゴールデンウィークがまもなく終わろうとするタイミングで、さらに緊急事態宣言が5月いっぱいまでに延長される見込みとなると、「学習の遅れ」が社会的に大きな関心事となった。そこで日本中の学校を「9月入学」にすればいいんじゃないかという案がもちあがった。

 東京都などでは、2月末からまるまる3カ月も学校に通えない子どもたちがいる。入学式すら行えていない学校も多い。それであればいっそ9月から1学期をやり直せばいいのではないかというのが当初のニュアンスである。

 さすがにそれは拙速すぎるということで、「学習の遅れ」を取り戻す時間を稼ぐために、2020年度の学年を2021年の夏まで延長しようというニュアンスに話は遷移した。

 言い出しっぺが誰だったのかはいまとなってははっきりしない。大阪の高校3年生がSNSで発した意見がきっかけだったかもしれないし、それを取り上げ早速検討チームを結成した野党が火付け役だったかもしれないが、一気に焚き付けたのは4月29日にオンラインで開催された都道府県知事の会だ。宮城県知事が話題にし、東京都知事や大阪府知事などが賛意を表明した。

 なぜ少なくない知事が、あえてこのタイミングで率先して声を上げたのか。そこを想像してみる必要がある。

 休校期間中の遠隔的学習指導においては、特にオンライン授業の導入で、私立と公立の間での対応格差が露呈した。公立の学校の間でも、家庭との連絡方法や学習指示の与え方については地域差が大きいことが文科省の臨時調査でわかっていた。

 そんな中、たとえば広島県では教育長が強力なリーダーシップを発揮し、県内約30万人すべての児童・生徒のためにグーグルのクラウドサービスのアカウントを取得し、休校中でも全員がオンライン学習を行える体制づくりを急ピッチで進めていた。

 一方、遅れの目立つ地域では、当然ながら住民からの不満の声が上がる。そこで、「いっそのこと、9月から仕切り直しにしてしまえば、これまでの対応の遅れもチャラにできる!」と一部の自治体の長が発想したのではないかと私は邪推する。

 子どものころ、テレビゲームで自分の負けが込むと、いきなり「リセットボタン」を押す友人がいた。あれと同じである。

 実際のところ、彼らからしてみれば「9月入学」は「魔法の杖」のように見えたのだろう。「半年延長するからその間で挽回してね」と教育現場に丸投げすることで、新型コロナ関連の課題が山積しても、教育に関しては「すでに手を打った」と言うことができるわけだ。

 もちろん「魔法」なんてない。「魔法の杖」が振るわれた瞬間から、教育現場の教員たちが「魔法使い」の手下の「小人」のようにせっせと働き、表向きは「魔法」が効いたように見せなければいけないのである。それを知っている教育関係者は「9月入学」に猛反対した。

 しかし4月30日、首相は導入に向けた論点整理を関係府省の事務次官に指示した。それを伝えるヤフーニュース記事に、専門家として私は、次のようにコメントした。

──────

 これは普通なら、国家の総力をかけても準備に数年を要する大プロジェクト。社会への影響力は大学入試改革の何十倍にもおよぶ。それがこの大混乱期にできるのか?

 これをきっかけに数年後を見据えた変更の検討を開始するのならわかるが、いま無理にやろうとすれば、文科省も学校の先生たちもそのための対応に追われて、ますます子どもたちが置き去りにされる可能性だってある。

 たとえるなら、川の堤防が決壊しそうになって村人総出で土嚢を積んでいるところに「ちょうどいい。洪水対策で上流にダムを造るから全員集合!」と号令をかけるようなもの。

 今年の学習の遅れをどう取り戻すか、受験生をどう救済するかということと、日本の学校制度を9月始まりにするということは分けて考えたほうがいい。

──────

 ちょうどそのころ私は、全国の中小塾のオーナーによるオンライン勉強会に参加させてもらう機会を得た。当然ながら話題はこのコロナの時代に中小塾はどう対応すべきかである。そこでも「9月入学」が大きな関心事だった。発言を求められた私は、「全国の小学校から大学まですべてを9月入学にするなど、1年やそこらの準備期間ではどうやっても無理なので、絶対に実現しない」と断言した。

 いまとなっては多くの人が「9月入学」を荒唐無稽だったと振り返るだろう。しかし当時は、テレビのコメンテーターや有識者までもが賛意を表明していた。一種の集団パニック状態だったのだと私は思う。

 6月に入ってから私は、経済的な理由で塾に通えない中学生のための無料塾の代表に話を聞いた。その無料塾でサポートを受けていた子どもたちの中には、むしろこの休校期間中に学校での学習の遅れを取り戻し、学校の進度よりも先に進めた子どももいると言う。

 彼女は「いま『学習の遅れ』が話題になっていますが、あれって子どもにとっての『学習の遅れ』じゃなくて、大人にとっての『指導ノルマの遅れ』ですよね。決まり切ったスケジュール通りに学習予定をこなすことを目的にしている気がします」と指摘した。

 要するに、大人の都合で子どもたちを振り回したのが2月末の突然の全国一律休校要請であり、この「9月入学」議論であったと私は観ている。

 「学校とは、決められたカリキュラムに沿って一律に授業を行うところである」という思い込みからまず大人こそが脱しなければ、日本の教育を変えることなどできないだろう。

 


2020年6月22日号 週刊「世界と日本」第2175号 より

コロナ禍 教育現場にも

突然の休校は失策

育児・教育ジャーナリスト おおたとしまさ 氏

 2月末に突然の全国一律休校要請が出された。何の準備も心構えもなく、突然学校と子どもたちが分断された。通常、人と人とが離ればなれになるときには、「ときどき手紙を書くね。こちらの住所はここだから何かあったら尋ねに来てね」とか「6月には戻るから、そのときはメシでも行こう」とか、会えない期間の連絡手段や再会の見通しを話すものだ。そうして、しばしの別れを受け入れる。

《おおた としまさ》

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、中高の教員免許を有し、小学校教員および心理カウンセラーの経験もある。現在、育児・教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『ルポ塾歴社会』、『名門校とは何か?』、『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』、『ルポ教育虐待』、『21世紀の「女の子」の親たちへ』など60冊以上。

 今回の休校はあまりに急すぎた。心理的不安は双方に大きくなるし、実際、休校期間中の学びをどのように補償するのかなど、すべてが後手後手に回った。その分、休校による教育現場へのダメージは大きくなる。

 休校するにしても、その悪影響を最小限にとどめるための策が必要であったはずなのに、それをスキップした。官邸の暴走だったと聞く。失策である。

 文部科学省によれば、4月22日の時点で全国の公立小学校・中学校の約95%が休校中だった。緊急事態宣言が発出された当初5月6日までとされていた該当地区での休校はその後、5月末まで延長されることとなった。

 このままでは子どもたちの学びの機会が失われるという危機感から、各学校では遠隔での学習指導を開始したが、対応にはかなりの差がある。

 オンライン会議システムも利用して、時間割通り毎日6コマの授業を遠隔で行っている学校もある。しかしそれも試行錯誤の連続であり、早く始めたところから弊害も報告されることになる。最初は目新しいので子どもたちも目を輝かせるが、教員側がよほど工夫しない限り、それも長くはもたないことは簡単に想像できる。

 一方、公立の小中学校をはじめとする大半の学校では、毎週の学習内容を課題という形でメールなどで指示し、児童・生徒が家庭でそれぞれにこなすスタイルになった。多くの場合、おそらく、1日6コマの授業の代わりとしては物足りないが、1人でこなす宿題としては多すぎる。

 しかも、新しい単元について自分で教科書を読んで理解して、実際に問題集を解くことができる児童・生徒はどの学年にも一握りしかいないはずだ。無理をすれば、ますます勉強嫌いになる。そこでさらに在宅勤務中の保護者が「勉強しなさい!」と頭ごなしに怒鳴れば、勉強になんて見向きもしなくなるのは時間の問題だ。

 普段の宿題でもその矛盾はあったのだが、課題の量がいつもの何倍にもなる現状においては、その歪みはさらに大きくなる。どこを基準にして課題を設定するのかという問題である。

 この状況は日本だけのことではない。日本より早く遠隔授業に切り替えたフランスでは、早期に弊害が報告された。国としてオンライン教材を用意するなどかなり周到な準備をしていたにもかかわらず、結局「現在、遠隔授業についてきているのは、自力でできる生徒か、親が勉強を見てくれる生徒だけです」とフランスの教員はメディアのインタビューに答えている。

 ただでさえ友達に会えず、外出もままならず、ストレスフルな状況だ。大人だってストレスを感じているのに、育ち盛りでエネルギーにあふれる子どもたちのストレスはその何倍にもなっているだろう。教科書や問題集の単元を先に進めることも、もちろん大事だが、それとて子どもたちの生活リズムと心の安定があってこその話である。

 そこにきて「9月入学」の検討が始まった。いい加減にしてほしい。普通なら準備に数年を要する大プロジェクトであり、ただでさえ混乱した状況の中で行える変更でないことは3秒考えればわかる話だ。

 いま無理にやろうとすれば、文科省も学校の先生たちもそのための対応に追われて、ますます子どもたちが置き去りにされる。

 それなのに、政治家や官僚や専門家たちが膨大な時間を費やして検討したという実績をつくるための茶番をしなければいけなくなった。壮大なる時間とエネルギーの浪費である。5月下旬には「見送り」の方針が決まったようだが、これにより、休校の悪影響を補償する議論がまた後手に回った。

 「9月入学」を見送った代わりに、夏休みを削って遅れを取り戻そうという案もあるが、子どもの立場に立って考えてみてほしい。

 休校期間は、子どもたちにとっても我慢の連続だったわけだ。それがやっと終わったと思ったら、大好きな夏休みをつぶされて「遅れを取り戻せ!」とせっつかれるのでは心がもたない。特に小学生。休校期間が長引こうと、子どもたちにとって夏休みは夏休みなのである。

 また、5月28日、東京都立高校は夏休みを16日間に短縮する方針を発表した。授業時間数の帳尻を合わせるためだ。しかし、これが本当に全高校生のためになるかはわからない。

 学校に通って授業を受けないと勉強ができない生徒には、必要な措置である。いわゆる最難関大学を目指す学力上位層の生徒は、学校での授業内容は塾でさっさと終えてしまい、夏休みには夏期講習や自宅学習で弱点補強をし、学力向上に努めるのが常套だ。夏休みが受験の天王山といわれるゆえんである。しかしその天王山がなくなる。これは彼らにとって不利に働く可能性が高い。

 本来であれば休校の埋め合わせは、学校ごと、生徒ごとの状況にあわせて行われるべきだが、いまの教育現場にはその余裕はない。そんな状況を作ってしまったのも、もとはといえば、唐突な休校要請であり、さらには「9月入学」などという余計な議論に時間とエネルギーを費やしてしまったためだ。政権の罪は重い。

 失われたものは取り戻せない。それを無理に取り戻そうとすると、「魔法の杖」のようなものにすがりたくなる。しかしそんなものは現実には存在しない。

 まやかしにすがれば、傷口はさらに大きくなるだろう。休校要請によって奪われた授業時間数の帳尻あわせを目的にするのではなく、いまこの状況の中で子どもたちが最も安心して学習に取り組める環境を整えることにこそ議論を集中すべきだ。

 


2020年1月20日号 週刊「世界と日本」第2165号 より

白紙に戻せ 入試改革議論

 

育児・教育ジャーナリスト おおたとしまさ 氏

 大学入試改革が迷走している。端的にいえば、英語民間試験を導入する、記述式問題を導入するなど、手段そのものが目的化してしまったからだ。2019年11月1日には、大学入学共通テストへの英語民間試験活用の延期が発表された。10月25日の萩生田光一文部科学大臣の「身の丈」発言が引き金となって、受験生の居住地域や経済状況の違いによって公平性が保てないことに多くのひとが気付くところとなり、批判の集中砲火を浴びた。

《おおた としまさ》

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、心理カウンセラーの資格、中高の教員免許を有し、小学校教員の経験もある。現在、育児・教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『ルポ塾歴社会』、『名門校とは何か?』、『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』、『ルポ教育虐待』、『21世紀の「男の子」の親たちへ』など50冊以上。

 英語民間試験活用についてはそのほかにも多くの問題点があり、まずもって延期は賢明な判断だった。そしてなにより、もしあのまま強引に実施していたら、結局のところ予定通り実施できなかった可能性が高いと私は思う。

 一部試験を実施してからも混乱が収拾できず、「制度不備によりノーカウント。今回の英語民間試験の成績はすべて無効」というシナリオも十分あり得た。その状況を想像しただけでも恐ろしい。

 そのことは文部科学省の現場の官僚たちがいちばんよくわかっていたはずだ。11月7日発売の『週刊文春』には「実は自分たちも限界でした。これ、ホントにどうなっちゃうんだろうと思いながら、毎日徹夜でやっていたんです」という文科省幹部のコメントを萩生田大臣自らが紹介している。

 延期が発表された11月1日の前日には、ベネッセが運営する英語民間試験GTECの実施概要が発表された。

 しかしいつどこの会場で試験が行われるのか、具体的な情報がほとんどないものだった。

 つまり、会場確保がどうにも間に合っていなかったのだ。ほかの英語民間試験もほぼ同様だ。それが民間業者に丸投げすることのアキレス腱だった。

 大学入試センターが運営するセンター試験の会場とは違い、英語民間試験の試験会場は、あくまでも民間業者が自ら交渉し、確保しなければいけない。英検なりベネッセの職員が、全国津々浦々の施設をまわって、おおよその受験者人数を伝え、料金交渉を行い、日程を抑えなければいけない。

 しかし複数ある英語民間試験のうち、地域ごとに英検を受けるのが何人でGTECを受けるのが何人でと予想することは難しい。そんななかで会場押さえがなかなか進まなかったのだ。

 しかもたとえばGTECの場合、これまで実は高校単位で、高校の教室をそのまま会場として、高校の先生がそのまま試験官になって実施されていることが多かった。ハコ代もスタッフの人権費もかかっていないので、あれだけの低料金で実施できていた。これまでの実績は、いわば高校の全面的な協力によって成り立つものだったのである。

 しかし大学入試の一環として行われるなら、いつもの教室で担任の先生が試験官をやるなどという方法が認められるわけがない。それで具体的な日時、会場が決められずに、ずるずると10月31日を迎えてしまったのだ。この時点でおそらく「白旗」だったのだろう。

 それでも、もし強引に実施に踏み切っていたら、指摘されていたとおり、離島など遠隔地に居住する受験生は、英語民間試験のために、場合によっては宿泊を伴う遠距離移動をしなければいけなかっただろう。時間もお金も余計にかかる。しかも試験の選択肢は限られる。

 もちろん都市部において、気軽に予行練習としてのテストを受けられる受験生が有利にもなる。これが不公平であるというのが「身の丈」発言の背景にある問題だ。

 さらに、試験会場が多く設けられるであろう都市部においても、長距離移動を余儀なくされる受験生が少なからず出たはずだ。

 都市部には当然試験会場が多く設けられるはずだが、前提として受験生数も多い。最寄りの会場のキャパがオーバーして、離れた会場をあてがわれるリスクも十分にあり得たのだ。たとえば、東京都港区の受験生が、埼玉県の会場まで受験しに行かなければならないというケースも出ただろう。

 各試験実施の詳細がギリギリまで発表されず、いざ蓋を開けてみたら全国の至るところでそのような悲劇が報告され、結局受験機会を失ったという受験生も現れ、土壇場で「英語民間試験中止」となる可能性を私はいちばん恐れていた。

 とにもかくにも、それが回避されたことでほっと胸をなで下ろした。2024年度以降の実施を検討するという話だが、雲行きはかなり怪しい。

 大学入試改革にまつわる混乱はそれで終わったわけではない。国語の記述式問題導入についても実施はもはや非現実的ではないかと思われる。

 約50万人の記述式問題の解答を採点するには約1万人規模の採点者が必要だといわれている。これをベネッセの子会社である採点専門業者に委託することになっているが、ここにもさまざまな問題がある。

 論点の1つにアルバイトが採点することへの是非がある。いくら専門の業者とはいえ、1万人規模の採点の専門スタッフを常駐で抱えているわけがない。当然アルバイトを雇うことになる。なかには学生も含まれるだろう。

 学生アルバイトが採点するということに強い拒否反応を示すひともいるようだが、むしろ受験勉強から何年も離れていて、普段まったく違う仕事をしている社会人フリーターに採点させることのほうがもっと危ういと私は感じる。

 仮に専門の常駐スタッフが採点するにしても、50万人規模の採点を公平に行うのはどう考えても無理がある。齟齬をなくすためには、設問の段階で解答のパターンをきつくしばっておくしかない。解答の表現の自由度をあらかじめ制限するのだ。

 しかしだとしたら、何のための記述式問題か。マーク式のままでもよいだろう。深い思考力や豊かな表現力を試す記述式問題を出すことと、50万人規模の採点を公平に行うことは、もともと両立し得ない命題なのだ。

 英語の4技能を見る試験にしよう、思考力や表現力ももっと細かく見られるようにしようという目論見はもちろん悪くない。しかしそれをセンター試験の後釜として行われる50万人規模のテストの機能に組み込むのは、どだい無理な話だったのだ。

 くり返す。当初の目論見は悪くない。いままでの議論はいちど白紙に戻し、現実と照らし合わせながら、少しずつその目論見を実現する別の手段をいちから考え直してはいかがだろうか。

 


2019年8月12日号 週刊「世界と日本」第2155号 より

「令和」契機に国柄教育を
文科省通知 確かな一歩

 

全日本教職員連盟 委員長 郡司 隆文 氏

 「御代替わりを契機とし、国事行為としての儀式や皇室の行事、御活動について学ぶ機会を通して、子供たちに日本人として自国に誇りをもち、歴史や伝統・文化を大切にする等の『美しい日本人の心』を育むことができるよう支援すること」これは全日本教職員連盟が昨年度来、文部科学省をはじめ関係各所に要望してきた内容である。

《ぐんじ・たかふみ》

栃木県出身。平成6年東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。同年、栃木県公立小学校教諭に採用。27年4月より全日本教職員連盟事務局専従、29年4月、同連盟第13代委員長に就任する。東京都在住。

 昭和63年秋から翌年初めにかけて、日本全体を自粛ムードが覆った。当時大学生だった私は、「なんとなく」重大なことがこの日本で起こっていることを肌で感じつつも、それが一体何を意味するものなのか理解できずにいた。そして昭和64年1月7日、御代が「昭和」から「平成」に替わったものの、やはり「自分には関わりのない周囲の環境が変化しただけ」であり、自分事としては捉えていなかったように思う。
 戦後生まれの少なからぬ人は、当時の私と似たような感覚を覚えたのではなかろうか。
 なぜか。端的に言うならば、我々戦後世代は、我が国の国柄についての知識が非常に乏しかったからである。日本が建国世界最古の国であり、その中心には常に「天皇」の存在があったこと。また、現在でも天皇陛下が国民の幸せや国家の繁栄を祈り続けられていること。さらに、我が国の伝統文化を継承し後世に伝える御活動をされていること、等々。
 そしてこれらの全てが日本国民である私たちの生活の基盤となっていること。そういったことを我々戦後世代は教えられる機会を失っていた。そのことによって我が国の国柄を基盤とする日本人としてのアイデンティティや、長い歴史を通じて培ってきた生活様式や思考様式、行動様式の全てがなくなってしまった、ということでは勿論ない。しかしながら世代が移り変わるにつれ、これらは徐々に徐々に溶解しているような気がしてならない。
 そして今年4月30日「平成」は終わりを告げ、5月1日、新たな御代「令和」が幕を開けた。今回の御代替わりは前回とはその様相が大きく異なる。光格天皇以来二百年振りの御譲位となるため、自粛ではなく祝賀ムードの中で、日本各地で新しい御代や御即位を奉祝する行事が執り行われた。
 とある調査によると、70%以上の国民が新元号「令和」に好感がもてると回答したとのことである。マスコミでも元号について深掘りして取り上げている番組も見られた。であればこそである。祝賀にとどまることなく、御代替わりを契機とし、我が国の国柄を理解し、それによって日本人としての確固たるアイデンティティをもつことができるようにすべきである。
 4月22日、文部科学省より各都道府県教育委員会教育長等に対して「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に際しての学校における児童生徒への指導について(通知)」が発出された。
 本通知では、各学校において天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位について、また、御即位に際し国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにすることが適当であるとする見解が示された。
 この見解は、昭和から平成への御代替わりの際の平成2年10月19日付「即位礼正殿の儀に際しての学校における児童生徒への指導について(通知)」を踏襲したものである。従って基本的な文脈は同様であるものの、全体としての通知のトーンは大きく異なる。
 第一に、今回の通知では各学校への内容の周知を求めている点である。そして第二に、通知の参考資料として「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」「政府広報オンライン」「学習指導要領(抜粋)」が添付された点である。
 前回の通知においては、とどのつまり「即位礼正殿の儀当日の国旗の掲揚」だけが学校現場には求められたが、本通知においては、各学校への周知や参考資料の添付が示すように、明らかに「児童生徒への指導」が求められているのである。
 一方で、御代替わりを契機に我が国の国柄について、子供たちに何を伝えていくべきか、どう伝えていくべきかという具体的な指導内容(児童生徒用リーフレット等)については、今回の通知においても示されることはなかった。
 このような状態では地域・学校・教師によって、指導にバラツキや偏りが出てしまうことが大いに危惧される。公教育である以上、不作為があったり、イデオロギーに左右されたりしてはならない。
 本通知については、文部科学省の発出までの努力に対し、深く敬意を払いつつも、しかしながら内容については「大きな一歩ではあるが、同時に物足りない一歩」と言えるであろう。
 私たち全日教連は、その「物足りない一歩」を埋める作業をしていかなければならないと考える。言うまでもないことであるが、教育基本法においては「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ことが教育の目標の一つとされている。小学校学習指導要領では「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」が明記されている。
 しかしながら、以上のように目標は明記されているものの、目標の到達には程遠い。本通知にある「各学校において天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位について、また、御即位に際し国民こぞって祝意を表する意義について、児童生徒に理解させるようにする」ことを実現するためには、全国各地の授業実践事例を収集するとともに好事例を横展開していかなければならない。
 また、神社本庁等関係機関と連携することにより、授業実践のための各種資料の提供も行っていきたい。御代替わりに関する授業を全国的に展開することで、今こそ、我が国の未来を担う子供たちに我が国の国柄を理解させ、日本人としてのアイデンティティの溶解に歯止めをかけていかなければならない。

 


2019年8月1日号 週刊「世界と日本」第2154号 より

教育を考える

避けよ「教育」と「人材育成」の混同
大人の焦りが教育危機の正体

 

育児・教育ジャーナリスト  おおたとしまさ 氏

《おおたとしまさ》

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、心理カウンセラーの資格、中高の教員免許を有し、小学校教員の経験もある。現在、育児・教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『ルポ塾歴社会』、『名門校とは何か?』、『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』、『ルポ教育虐待』など50冊以上。

 「教育危機」が叫ばれるのは世の常である。自分の受けた教育や自分の能力が、時代についていけなくなっていると危機を感じた大人たちが、自分の不安を子供たちに投影しているだけである。これは人類の歴史の中で常にくり返されてきた。つまり教育危機の正体は大人の焦りでしかない。

 たとえば経済界のひとたちは「これからはグローバルな時代」を連呼するが、だからなんだというのか。

 彼らは地球の裏側のひとたちにも自分たちの商品を買ってもらいたいと思っているだけ。ほかの国の競合会社も同じことを考えているから、彼らとの競争に勝てる社員がほしいと思っているだけ。

 いまさらわざわざそのようなことを連呼する企業は、そもそも国内需要だけで大きくなってきた旧態依然とした体質の企業であることがほとんどだ。その時代遅れの船に乗ることこそ、21世紀の社会を生き残るうえでは賢い選択ではないと私は思う。

 要するに彼らは、子供たちの生き残りのために「グローバル」と言っているのではなくて、自分たちが生き残るために「グローバル」と言っているだけである。単なる商業的な競争のために叫ばれる「グローバル化」には踊らされるべきではない。

 もし英語教育にイノベーションが起こり、子供世代が驚異的な英語力を身につけ、こぞって海外に行ってしまい、大規模な人口流出が起こり、国内需要が急激に縮小したら、そのような企業はあっという間に潰れる。そのとき彼らは断末魔のように「日本人は英語なんて勉強しないでいい。日本に留まるべきだ」と訴えるのだろうか。もし日本全体が沈むのだとしたら、沈没船から避難するために外国語や海外の文化について学んでおくべきだという理屈も成り立つが、だとしたらなおさら彼らの忠告など聞いている場合ではない。

 逆にいえば、旧態依然とした企業の延命のために次世代の教育が利用されることがあるとすれば、それこそが教育危機である。

 「木材」も「食材」も「材」と呼ばれるものは基本的にすでに死んでいる。一般に、なんらかの大きな組織の一部として押し込めるという目的のために、本来生きている姿から邪魔なものを切り落とされ、扱いやすい状態に加工されたもののことを「材料」と呼ぶ。

 同様に、「人材」という言葉からは生命力が感じられない。

 「グローバル人材を育成する」というフレーズもよく聞くが、それは企業の理屈であって、教育に適したフレーズではない。「教育」と「人材育成」は似て非なるものである。

 学問とは「問うて学ぶ」こと。勉強とは「強いて勉める」こと。たとえるなら、勉強とは地中に根を張るようなこと。学問とは天に向かって幹や枝葉を伸ばしていくようなこと。先人たちの知恵を効率よく吸い上げられるように根を縦横無尽に張り巡らせることで、はじめて誰も到達したことのない空中へ枝葉を伸ばすことが可能になる。

 ただし、梅には梅の育て方があり、松には松の育て方がある。それぞれ適切な環境を与えられれば、小さな種子は自らの力で芽吹き、自らの力で根を張り、自らの力で枝葉を伸ばし、大木となる。それが教育。つまり教育とは、それぞれの人間の特性を見極め、好ましい環境を与えること。

 一方、「人材育成」とは、なんらかの目的に合う材料として一定のスペックをもつ状態に人間を加工すること。どうやったら効率よく「人材」を育成することができるかに主眼が置かれる。

 教育畑のひとと経済界のひととの教育論議がかみ合わない理由はここにある。経済界のひとたちは得てして「人材育成」のことを「教育」と勘違いしているのだ。

 「人材」を「人財」と書き換えたところでさしたる意味の違いはない。「財=価値あるもの」を誰かが勝手に決めている時点で、学ぶ側中心の発想ではないからだ。

 「教育」と「人材育成」の混同はさまざまなところで弊害をもたらしている。

 そのひとつがたとえば「教育虐待」だ。「あなたのため」という大義名分のもとに親が子に行ういきすぎた「しつけ」や「教育」のことである。「理想の人材」に育てるという目的ばかりを見てしまうため、目の前の子供が見えなくなる。気づけば子供に過度な負荷をかけており、場合によっては子供が壊れてしまう。精神的に不安定になってしまうこともあれば、軽犯罪を犯すこともある。最悪の場合、自殺にもいたる。

 ところで、前述の「人材育成」という言葉と「教育虐待」という言葉には、どちらも指導を受ける側の意思が後回しにされている点が共通している。つまり「人材育成」の概念は「虐待」に直結しやすい。

 だとすれば、「教育」が「人材育成」にすり替えられた瞬間に、「虐待」への道が開かれてしまうのではないか。本来の意味での「教育」が「虐待」に直結することはあり得ず、「教育虐待」のように見えるものの本質は「人材育成虐待」なのではないか。私はそう思う。

 急速に産業化が進んだ時代に一定以上の能力をもつ「人材」を大量に育成する必要性が生じ、「教育」が「人材育成」に置き換えられ、それがいまも変わらず存続してしまっているために、さまざまなところで軋轢を生じている。それが親子関係の間で生じると「教育虐待」になるのであり、学校の中で生じれば「ブラック校則」「パワハラまがいの指導」「指導死」などと呼ばれる。

 適切な「教育」がなされたうえでの適材適所的「人材育成」は歓迎である。しかし「教育」が「人材育成」に取って代わられることがあってはならない。

 


2019年4月15日号 週刊「世界と日本」第2147号 より

今、子供を守るということ
「本当の『大人』になれ」

 

育児・教育ジャーナリスト  おおたとしまさ 氏

《おおた・としまさ》
1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、心理カウンセラーの資格、中高の教員免許を有し、小学校教員の経験もある。現在、教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『男子校という選択』、『名門校とは何か?』、『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』、『地方公立名門校』など50冊以上。

 今年初め、東京都町田市の公立高校で、教師が高校1年生の生徒を殴る動画が拡散し、テレビのワイドショーが連日取り上げる騒ぎとなった。この事件は、いまの子供たちが置かれた難しい状況を象徴していると私は思う。
 どんな事件だったかを、おさらいしよう。きっかけはインターネットに公開された比較的短い動画だった。
 学校の廊下で、生徒が教師に対して「ふざけんなよ」などと容赦ない言葉を浴びせて食ってかかっている。すると次の瞬間、教師が生徒の顔面に右ストレートを見舞った。生徒は廊下に崩れるが、教師はなおも生徒の襟首を掴んで制裁を加える。
 事態の異常さに気付いた別の生徒たちが「先生、それはいけない」と止めに入るも、教師は「やかましい」と言って自分を制することができない。
 当然教師への非難が集中する。しかし編集されていない動画を見ると、撮影している生徒たちが笑いながら「ツイッターで炎上させてやろうぜ」などと言っていることがわかり、世間の声は教師擁護に大きく傾く。
 「生徒たちが意図的に教師をハメた」という構図で語られるようになり、生徒たちはネットで実名をさらされ、猛烈なバッシングを受け、テレビのコメンテーターも「こんな態度をとられたらオレだったらもっと早く手を出している」「一発殴ってくれてスカッとした」などと容赦なく生徒たちを非難した。
 私はここに、子供たちを包む現代社会の問題が凝縮されていると思う。3つの観点がある。
 1つは「しつけのため、教育のためなら、子供たちは大人から殴られても当然」という社会的意識の存在。2つめは子供たちの「早すぎる社会人デビュー」。3つめは、自分に見えている範囲だけで拙速にものごとを判断してしまう大人たちの浅はかさである。
 1つめ。日本は、過去4回にわたって、「国連子どもの権利委員会」から勧告を受けている。教育システムが過度に競争的であることや、カリキュラムや校則に柔軟性がないことが指摘され、学校のなかに暴力がはびこっていることも指摘された。体罰といじめをなくすために、包括的な対策をとるように勧告されている。
 「しつけのため、教育のためなら、子供たちは大人から殴られても当然」という発想自体が、世界的に見れば前時代的であることをいい加減に認めなければならない。社会的な人権意識の低さが、一向になくならないセクハラやパワハラ、幼児虐待の温床になっていることは言うまでもないだろう。
 そもそも、この事件を「体罰」と表現する大人たちがいるのがおかしい。かつての「体罰」とは、いいか悪いかは別にして、「罰としていまからお前たちを殴る。歯を食いしばれ」と言って痛みをもって気持ちを伝えることだったはずだ。今回のあれは違う。まるでストリートファイトのような、ただの卑怯な不意打ちだ。
 2つめ。かつてなら、子供が直接、社会とつながることなどほとんどなかった。
 しかしいま、スマホなど、インターネットを介して直接世界とつながることができる道具の普及によって、小学生でもひとりで世界中を見て回ることが可能だし、世界中のひとと直接コミュニケーションすることができるし、どんな知識だって手に入る。動画など、自分の「作品」を世界に発表することもできる。親すら知らない“世界”をふらつくことができてしまう。早すぎる「社会人」デビューだ。
 その一方で、便利な道具は、子供の未熟さゆえの間違いを、直接社会に露呈する。今回の事件では、子供たちはネットの力を借りて教師を叩こうとしたのかもしれない。その力が自分たちを叩くことに向けられる可能性までを勘案できていなかったわけである。
 ただし、そもそも今回の件が、本当に教師をハメるために計画的に行われた卑怯な行為かどうかも、動画を見るだけではわからない。それが3つめの観点でもある。
 「炎上させてやろうぜ」という声が入っている動画が出回ってからは、「真実が判明」「悪いのは生徒だった」というような論調に一気に傾いた。しかしその動画だって、ことの全容のごく一部でしかない。
 「炎上させてやろうぜ」と言っていたのは、撮影している生徒たちが面白がって言っているのであり、教師に悪態をついていた生徒自身にそのような意図があったのかどうかは、はっきりしない。そもそも教師が生徒に対して「お前は病気だ」と暴言を吐いていて、それに生徒がくってかかったとする情報もある。いずれにしても真相はわからないのだ。
 それなのに、多くの“大人”が、切り取られたフレームの中だけで「真実」を決め付ける。それに基づいて、人を裁き、社会的制裁を加える。たった数十秒の違いで「真実」や「正義」が変わってしまうとは恐ろしい。
 どんな暴言を吐かれようが、手を出したら負け。それが社会のルールであるはずだ。どんな理由があれ、そのルールがねじ曲げられるようなことがあってはならない。
 狭い視野に基づいた稚拙な正義感が暴力を肯定すると、その延長線上に、戦争が起こる。戦争は、すべての子供たちの人生をめちゃくちゃにする。
 自分たちだけの視野・前提・常識・論理に基づいてものごとを判断し、敵をつくり出したうえで、「我が国の子供たちを守る」と言って、あたかも“勇ましく”武器を外に向ける“大人”に、本当の意味で子供たちを守る力などあるはずがない。
 子供たちを守るために、いまの“大人”たちに、私は言いたい。
 「本当の『大人』になれ。」

 


2019年1月21日号 週刊「世界と日本」第2141号 より

歴史の中の私
御代がわりを前にして

 

拓殖大学学事顧問 前総長 渡辺 利夫 氏

 私は大学で日本近代史を講義しています。パワーポイントを使って、1枚の我が家の写真を学生諸君にみせることから始めます。明治37年、私の祖父が日露戦争に出征する日の朝、家族を集めて撮ったもので、この写真を画面に映しながら、私は次のように学生に語りかけます。講義を聴いている気分で、文章に目を落としてくださればありがたく存じます。

 この写真の裏書きをみますと、明治37年1月、山梨県中巨摩郡にて撮影、と書かれています。私の生まれ故郷です。中央の軍服姿の男性が、私の母方の祖父です。祖父の胸には、いくつかの勲章がつけられています。
 実は、祖父は日露戦争から10年前の明治27年の日清戦争にも出征し、その時の軍功により賜ったものがこの勲章だそうです。祖父が履いているのは草鞋(わらじ)です。日露戦争への出征後、この草鞋で満州の荒野を転戦したのでしょうね。
 左側に立って幼児を抱えているのが、私の祖母です。その幼児が私の母です。右側の2人の老人が祖父の両親、つまり私の曾祖父母です。この写真をみますと、少なくとも日露戦争が勃発した時点で、私の母は出生しており、その母が長じて結婚し、5人の子供を生み、その1人が、諸君の前でいま話をしているこの私です。
 日清戦争や日露戦争といえば、明治維新後の日本の興廃を決定した重要な戦争でした。諸君にとってみれば、日清戦争も、日露戦争もはるか遠い昔の戦争で、この2つの戦争が現在の私どもに何らかの形でつながっているという感覚は、失われているのでしょうね。
 しかし、どうでしょう。こういう写真を眺めてみますと、それほど縁の遠いものとも思われないのではないでしょうか。いま諸君の前で、こうやって話をしている私の血族なのですからね。
 諸君の誰にもご両親がおられます。そのご両親のそれぞれに2人ずつのご両親(ご祖父母)が、さらには4人ずつのご両親(ご曾祖父母)がおられます。さらに、そのまたご曾祖父母を生んでくれた幾世代もの祖先のことを想像してみますと、その数は、幾何級数的に、つまり1、2、4、8、16、32、64・・・というように増加して、大変な数になります。
 このきわめて多くの祖先の人々のうちの、たった1人が欠けても、いまの諸君はここに存在していないのです。
 このように考えれば、自分が存在していることが奇跡のように感じられませんか。私どもの存在は、実に、「運命的」なものだということに気づかされるのではないでしょうか。これを運命と言わずして、なんと言えばいいのでしょうか。
 諸君は両親を選ぶことはできません。血脈を選ぶこともできません。諸君は、その出生自体が運命的なのです。「運命の中に生きる自己」の確認、この自覚こそが、歴史を学ぶということの第1の意義なのだ、と私は考えます。
 諸君は、ご父母はもとより、祖父母、曾祖父母、祖先と、いわば「縦の関係」を通じて連なっています。諸君の肉体や精神、諸君の性差、体つき、性格、その他さまざまな属性は、細胞内に精細に組み立てられた遺伝子の情報伝達メカニズムを通じて、世代間で継承されてきたのです。
 諸君は、「自分とは何か」とみずからに問いかけ、「自分とは他の何者でもない自分である」ということを確認したい、そういう欲求をもっているにちがいありません。
 アイデンティティという言葉を聞いたことがありますよね。正確にはセルフ・アイデンティティといいます。「自己同一性」と訳されていますが、なんだかぴったりしない訳語です。要するに、いま言いましたように、「自分は他の何者でもない自分である」という自意識、これがセルフ・アイデンティティです。この自意識は「自我」ともいいます。
 諸君は、いま、20歳前後の青年期にあります。長い人生における、まさに決定的に重要な自我の形成期、自己の確立期にあります。「自分とは何者か」とみずからに問いかけて、まず思いをいたすべきは、自己を自己たらしめている血族のことでなければなりません。
 このことは諸君の自我形成と自己確立にとって、きわめて重要なことだと私は考えます。「血族の中の私」、いいかえれば「歴史の中の私」です。「歴史の中の私」とは、もう少し難しくいえば「歴史意識」です。
 諸君は、いま何かに迷い悩み苦しみ、逆に、何かに喜び幸せを感じているはずです。しかし、諸君のご両親もご祖父母もご曾祖父母も、そのまた祖先も、諸君と同じように迷い悩み苦しみ、何かに喜び幸せを感じてきたにちがいありません。諸君と血縁で連なる人々も、諸君と同様の絶望と歓喜に、時に胸を塞(ふさ)がれ、時に躍りあがっていたのだろうと思います。
 人間は、世代がいくつ変わっても、そんなに簡単に変化したり、進歩するものではありません。製造方法、通信技術や輸送技術は恒常的に進歩し、むしろその進歩に追いつくのが難しいほどです。しかし、人間存在は、それほど容易に変化したり進歩するものではありません。
 著しく進歩したのは、人間社会の「表層」だけです。「深層」の方は、ほとんど変わってはいないのではないか、と私には思われるのです。私は、人間の社会は進歩すると考える「進歩史観」の立場をとりません。
 むしろ人間存在は、同じことを繰り返すものだと考える「循環史観」の立場を支持します。それがゆえに、私どもは、現在をよりよく生きるために、先人の絶望と歓喜の中に学ぶべきを学んで、いまをよりよく生きるための知恵を得たいのです。
 話はもどりますが、諸君がいまここに「在」るのは、血族があるからです。
 今上(きんじょう)天皇、つまり現在の日本の天皇陛下は、一二五代にあたります。この「万世一系」の天皇こそ、日本の歴史が、動乱や大逆、外国からの侵略によって深刻な危機の淵に立たされることなく、連綿として紡がれてきたことを証(あか)しています。このような存在を、他の国々の皇帝や王位の中にみることはできません。
 明治以降、天皇の「御代がわり」ごとに元号を改める「一世一元制」が採用されています。実にみごとな制度だというべきです。「一世一元」は、天皇家の血族が絶えることなく連綿として伝わっているという歴史の真実を、私どもによく分からせてくれるからです。
 何より祖先があって初めて現在の自分が存在するということを、改めて自覚させてくれます。天皇家の脈々と連なる血族の中に、私どもは自分の存在のありようを投影させているのです。
 明治、大正が過ぎ、昭和の幕も閉じ、平成も間もなく終わろうとしています。この「御代がわり」を「歴史の中の私」を確認する時期としたいと私は強く感じています。


2018年6月4日号 週刊「世界と日本」第2126号 より

成人年齢の引き下げ
18歳の意味を考える

 

失敗に不寛容な社会は発展しない

 

育児・教育ジャーナリスト  おおたとしまさ 氏

《おおた・としまさ》 

1973年東京生まれ。上智大学英語学科卒業。(株)リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立。その後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。学校や塾の現状に詳しく、心理カウンセラーの資格、中高の教員免許を有し、小学校教員の経験もある。現在、教育ジャーナリストとして活躍中。著書は『男子校という選択』、『名門校とは何か?』、『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』、『地方公立名門校』など50冊以上。

 自分が20歳になったときのことを思い出せない。大学生であったことは間違いない。当時の彼女と食事をしたはずだ。しかし自分が成人したという感慨がどのようなものであったのか、思い出せない。それくらいにあっさりと、私は成人になってしまった。
 2022年4月から、ルールが変わる。18歳からが成人だ。といっても、酒・タバコ・ギャンブルは、20歳までできない。最近の若者はいずれもあまりやらないというから、そもそも関係ないかもしれないが。
 法的には、さまざまな契約に保護者の署名が不必要になるなどの違いはある。それによって、まだ社会的に未熟な若者が、だまされたりということは起こりえるかもしれない。かといって、若いからだまされるというわけでもない。30歳になったって、40歳になったって、60歳になったって、だまされるひとはだまされる。
 成人年齢が18歳に引き下げられたからといって、何かが変わったようには、多くのひとは感じないだろう。成人になる18歳にとっても。
 ときに「成人」とは何か。辞書によれば、すなわち「おとな」とある。「おとな」とは何か。誰にもわからない。生物学的にいうのなら、性的に成熟し、生殖活動を行えるようになることを示すはずだ。しかし「成人」には、そのニュアンスはない。一人前の判断力をもって、社会活動に参加できるようになるというニュアンスがある。
 社会活動に参加できるようになるためには、社会のルールや一般常識をわきまえておかなければならない。それを身に付ける場が、家庭であり、地域であり、学校である。特に現代社会において、学校への期待は高まるばかりだ。
 義務教育は15歳程度までである。義務教育を過ぎたということは一通り世の中のことを学んだということではないのか。しかし世界的に見ても、義務教育機関と成人年齢は一致しない。最低限学ぶべきことは学んだが、一人前になるにはまだ早いというグレーゾーンが存在する。
 このグレーゾーン、最低限学ぶべきことを学んだうえで、実際の社会の中でそれを活用してみて、ときに失敗し、試行錯誤しながら一人前になっていく期間だととらえることができる。だから、少々の失敗なら「未成年」という免罪符で大目に見てもらえるという意味合いがある。
 このグレーゾーン期間中に、どれだけたくさんの挑戦・冒険をして、どれだけたくさん失敗することができるかが大事だ。その「大目に見てもらえる時期」が、今回減るわけだ。その意味をよく考える必要がある。
 著名な生物学者から面白い話を聞いたことがある。人間は他の生物に比べて、「こども」である期間が異常に長く、だからこそ、その間にたくさんの「遊び」を経験し、知性を育むことができる。未成熟な期間が異常に長いサルが、そうやって特殊な進化をすることができたというのだ。「ネオテニー理論」というらしい。
 早く一人前と認められることはうれしい。しかし一方で、早く社会の荒波に揉まれるようになるということは、「ネオテニー理論」の逆を行くことになるかもしれない。
 ならばせめて、成人になる前のこどもたちが、たくさん失敗できる社会にすべきではないだろうか。
 私は最近『開成・灘・麻布・東大寺・武蔵は転ばせて伸ばす』という本を書いた。日本を代表する私立中高一貫校において、共通して失敗を推奨する教育を行っているという内容だ。しかし先生たちは口を揃えて憂いていた。「いまの日本はますます失敗に不寛容な社会になっている」。
 不祥事があれば、すぐに責任問題に発展するから誰もリスクを取らない。何でもルールでがんじがらめにして、管理しようとする。学校の現場もそうなっている。特に昨今は教員の過重労働が問題になっており、先生たちにも余裕がない。管理教育が止まらない。
 先生の意図しない動きを生徒がしたときに、「誰が座っていいと言った?」「誰がしゃべっていいと言った?」などと言う先生がいるそうだ。そんなコミュニケーションの仕方では、子供たちは何をするにも先生の許可が必要だと、強烈に刷り込まれる。自発性を削ぐ効果は抜群だ。
 作文の中でまだ学校で習っていない漢字を使うと×にされるという話もよく聞く。「勝手に学ぶな」というメッセージを強烈に突きつけている。完全に受け身の学習姿勢が刷り込まれる。
 まるで子供たちに「自ら考えるな」と、必死に教えているように見える。
 ちなみに公立中学校の行事では、生徒たちが入場するなり、「静かにしろ!」と先生が怒鳴りつける場面も珍しくない。先生たちも、それをまったく悪びれもせず、保護者の前で普通にやる。
 学校という権力を盾にして振りかざされる上下関係は、「長いものには巻かれておけ」という服従精神を培うのにもってこい。義務教育の集大成ともいえる中学校の晴れ舞台で、それを教育の成果としてあえて披露しているのだ。
 これを当たり前だと思ってしまえば、ブラック企業にいいように使われる人間に育つわけである。権力者が黒を白だと言えば、それに合わせて公文書も書き換えてしまう人間が育つわけだ。
 成人年齢の引き下げが、「他人の失敗に不寛容な社会」のムードに拍車をかけないことを願う。


2018年5月7日号 週刊「世界と日本」第2124号 より

何のために「学び」「生きる」のか
“志”を持って活き活きと生きる社会を

 

バッカーズ寺子屋塾長 木村 貴志 氏

 「何のために学ぶのか」「何のために生きるのか」というテーマが、日本の教育の世界から遠ざけられて久しい。戦後の教育においてはテストのために懸命に目の前にある問題を解くことと、知識を暗記することが、「勉強」と同義になってしまった。先の大戦の前までは、「学は人たる所以を学ぶなり」(吉田松陰)というように、どうすれば立派な人間になれるのかを究めるために学問はあった。

《きむら・たかし》
1962年、福岡県生まれ。企業勤務、高等学校教師などを経て、2006年「志の教育を創る」を理念にVision&Education,Ltd.を設立。代表取締役を務める。バッカーズ寺子屋塾長。バッカーズ九州寺子屋塾長。福岡雙葉学園教育指導顧問。著書に『「志」の教科書』(産経新聞出版)などがある。

 四書の一つ『大学』に書かれているが如く、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」。
 つまり、一人一人が天から授かった素晴らしい徳を明らかにし、それを発揮できるようになり、その立派な人物が、為政者として立派に国を治めていくことが学問の目的であった。
 幕末の儒学者、佐藤一斎も次のように述べる。「緊(きび)しく此の志を立てて以て之を求めば、薪を搬(はこ)び水を運ぶと雖(いえど")も、亦(また)是(こ)れ学の在る所なり。況(いわん)や書を読み理を窮(きわ)むるをや。志の立たざれば、終日読書に従事するとも、亦(また)唯(た)だ是れ閑事(かんじ)のみ。故に学を為すは志を立つるより尚(かみ)なるは莫(な)し。(聖賢たらんと志を立て、これを求めれば、たとえ、薪を運び、水を運んでも、そこに学問の道はあって、真理を自得することができるものだ。まして、書物を読み、物事の道理を窮めようと専念するからには、目的を達せないはずはない。しかし、志が立っていなければ、一日中本を読んでいても、それは無駄ごとに過ぎない。だから、学問をして、聖賢になろうとするには、志を立てるより大切なことはない)」(『言志録』)。
 つまり、学問にも、人生にも「志」という名の「目的」がなければ、決して人は、活き活きと学び、生きることはできないのだ。教育者・森信三先生は次のように述べた。
 「今日の学校教育では、生徒はいつまでも眠っている。ところが生徒たちの魂が眠っているとも気づかないで、色々なことを次から次へと、詰め込もうとする滑稽事をあえてしながら、しかもそれと気づかないのが、今日の教育界の実情です」そして、その原因を「教える側の教師に志が立っていないからである」と見た。
 子ども時代に習慣となった、目的もなく、受け身でやらされる勉強が、仕事をやらされる受け身の大人をつくる。そこから脱し、主体的に考え、生きる人材を育むためには、「志ある教師による志の教育」「アクティブ・ラーナーによるアクティブ・ラーニング」が必要だ。
 「志の教育」のポイントはいくつかある。これは私が塾長を務めるバッカーズ寺子屋・バッカーズ九州寺子屋(対象は10歳から15歳)の塾長を10年以上務めてきて、その実践の中からつかみ取ってきたことだ。
 私は、過去に県立高校の教師も経験したが、学校教育の枠組みの中にいては決して気づくことのなかった教育実践方法だ。
 例えば、「志の定義を明確に伝える」「話の聴き方を変える」「アウトプット(話す・書く)を前提としたインプット(聴く・読む)を鍛える」「目標設定の方法を学ぶ」「考え方・心の持ち方について学ぶ」「体験を言語化する」「レポートを書く力を高める」「原稿を読まないスピーチトレーニング」「良き大人たちとの出会い」「古今東西の先人の生き様に触れる」「多様性の中で切磋琢磨する」。
 さまざまなテーマがある。卒塾生たちの多くは、「バッカーズ寺子屋では、学び方を学んだ」との感想を持つ。その全てをここに書くことはできないが、「志とは何か」ということについて、夢と志を比較しながら触れておきたい。
 夢と志の第一の違いは、「考え抜き、信念に基づくか否か」ということだ。「私の夢ははかなく消えた」「そんな夢みたいなことを言ってどうする」とは言っても、「私の志ははかなく消えた」「そんな志みたいなことを言ってどうする」とは言わない。
 つまり、夢は実現可能なものも指すが、思いつきや誇大妄想的なものをも含んでいる。夢の語源は、寝ているときに見る「寝目(いめ)」が、平安時代に「ゆめ」に転じたもので、元来、はかなさを比喩的に表す語であった。将来の希望を指す語として使われ始めたのは明治以降だという。
 私たちの先達は、心が指し示す(心指す)方向にしっかりと歩んでいくことを、「志」と言ったのだ。信念を持って何かを成し遂げようと思い、逆境を乗り越え、困難に打ち勝ってこそ「志」は実現していくものだ。
 また、「志」には、「人々のため、社会のため」というニュアンスが含まれている。「私の夢は将来20億円の豪邸を建てて住むことだ」とは言えても、「私の志は将来20億円の豪邸を建てて住むことだ」とは言えない。
 つまり、「夢」は私的なものであっても構わないが、「志」となれば、人々のため、社会のためといった「公的」なニュアンスを含む。人間は誰かの役に立とうとすることで、大きな力を発揮する。人々のために役立つことをミッションとし、わが喜びとする生き方は、自分にも他人にも大きなエネルギーを与えていく。
 人生は大いに「志高く」生きた方が楽しい。もちろん、夢は夢として大切だ。なぜなら誇大妄想であろうと、私的なものであろうと、「こんなことができたらいいな」と願い、実現を夢見てワクワクすることは人間の活力と進歩の源だからだ。
 だが、大小を問わず、ぼんやりした夢を、実現のための努力もせず思い続けていても、無為に時を過ごし、夢ははかなく消えるだけだ。夢の実現のためには、自己の適性を理解し、努力によって能力を磨き続ける必要がある。
 また、実現のための具体的目標を常に掲げねばならない。だから、具体的なビジョン(将来の構想・展望)をつくることが大切なのだ。
 学びの成果は、卒塾生たちが雄弁に物語っている。正味30日ほどの学びにもかかわらず、多くの場でリーダーシップを発揮し、さまざまな進路で活躍を始めている。私の志は、この寺子屋で培った「志の教育」を全国に広げ、子どもからお年寄りまで、全ての人が志を持って活き活きと生きる社会を実現することだ。


2018年1月15日号 週刊「世界と日本」第2117号 より

「教育勅語」をどう読むか
根底に反映する「生命の連続」観

 

立命館大学フェロー  大阪大学名誉教授 加地 伸行 氏

 「教育勅語」―このことば自体、現在ではもう死語に近いと言っていいだろう。と言うのも、教育勅語に対する考えかたには、二つの両極端な立場しかなくなりつつあるからである。つまり、そこからは二つの主張しかでてこない。
 一つは、いわゆる右翼の連中らの主張である。この右翼は、皇室絶対主義者であるから、皇室関連のものは、すべて崇(あが)め奉るということになる。だから、教育勅語と言えば、ただもうひたすらに平伏し、崇め奉るわけである。
 かと言って、では教育勅語の内容に通じているのかと言えば、怪しいものである。おそらく大半は教育勅語を精読していないであろう。皇室絶対であるがゆえに、明治天皇のおことばである教育勅語も絶対としているだけではなかろうか。
 いま一つは、いわゆる左翼連中の主張である。この左翼は、社会主義者であり、人間平等論者であるから、究極においては、皇室廃止論者である。すなわち、人間すべて平等という彼らは、皇族という特別の身分を認めることができない。当然、皇室を悪の塊として排除する。
 もちろん、教育勅語も排除する。教育勅語は、皇室にとって都合のいいことを書いている纏まった教育論であり、その結果、日本は中国や朝鮮を侵略し、多くの人々を殺し、また日本軍人も多く死亡していったと非難する。
 しかし、左翼の彼らの大半は、右翼のそれと同じく、きちんと教育勅語を読んでいない。みずからは読まず、教育勅語をひたすら攻撃している者が多い。日教組の連中など、その最たる者である。教育勅語も知らずして教育に当たっている愚か者と言うべきか。
 その意味では、教育勅語を読んでもいないで賛否を声高に主張する右翼も左翼も、老生から見れば同じ穴の貉(むじな)である。
 では、お前はどうするのだ、と言われると、こう答えよう。
 教育勅語を熟読せよ、すると左翼右翼には思いもよらぬ姿が見えてくるのだ、と。その思いもよらぬ姿について、述べたいと思う。
 老生、今から72年前、昭和20年大東亜戦争敗戦のとき、国民学校(今の小学校)3年生(9歳)桜組の児童であった。
 当時、クラス代表は級長と称していたが、戦時中とて、名称が変更され、老生、桜組小隊長であった。もちろん、「皇軍(日本軍)必勝」、敵は「鬼畜米英」、と高唱する日々であった。なつかしい。
 そのころの学校の風景をよく想い出す。紀元節(今の建国記念日)をはじめ、入学式・卒業式等の式典において、校長が正装で教育勅語を奉読し、教職員ならびに児童(生徒)一同が謹聴した。やや頭を下げて。
 いつだったか、朝日新聞の記者が、学校で朝令のときに校長が朝令台(運動会におかれている台)に立ち、教育勅語を〈読んだ〉と書いていたが、愚かにも程(ほど)がある。毎朝の朝令で気軽に〈読んだ〉りするかよ。朝令は式典ではない。教育勅語奉読は重要な式典において行われたのである。もっとしっかり調べてから書け。
 教育勅語の拝聴―こうした経験は、敗戦当時の2年生、3年生がおそらく最後。1年生は、入学してから多くても数回の経験しかなかったので、おそらく記憶に残っていないことであろう。
 すなわち、児童として教育勅語と直接に関わり記憶している世代は、老生ら昭和11年・12年誕生の者が最後かと思う。すなわち最後の戦中派か。
 敗戦のそれから72年、教育勅語排斥派(Aと名づけておこう)、そして擁護派(Bと名づけておこう)ともに、教育勅語に対して、〈型通り〉の賛否それぞれの主張をしているのは、教育勅語についての実感がないのみならず、中身がよく分かっていないからだと老生は思っている。
 まずAは、〈教育勅語は、戦前教育の悪の中心であり、忠君愛国思想を徹底的に叩きこみ、天皇の下、侵略戦争へと進み、内外を問わず、多くの人を苦しめてきた〉とし、究極的には〈皇室否定〉をめざす。
 こうした主張を日本の共産主義者、社会主義者らが、学校教育において絶えず吹きこんできた。つまり、極めて政治的な、そして思想的偏りのある戦後教育の実態がそこにある。
 一方、Bは、〈教育勅語は、日本人の道徳律の根本を教えており、皇室を尊崇することを中心に、日本精神を最もよく伝えている〉とし、教育現場における教育勅語復活を求めている。
 しかし、皇室を尊崇するのはなぜか。なぜ日本人は皇室を精神的拠りどころとしているのか、という点について、きちんとした論理を作ることができないでいるので、AはBを蔑視している。
 それが現実であり、A・B両者の討論はなく、たがいに無視のままである。
 これに対し、老生は、A・Bの視点とはまったく異なる立場で、教育勅語を位置づけている。それについて述べたい。
 問題の根源は、教育勅語の最大目的すなわち道徳の位置づけが、A・Bともに誤っている点である。
 Aは、教育勅語の「一旦緩急あれば、義勇〈の立場で〉公(こう)に奉(ほう)じ、以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし」(原文を理解しやすく記してある)を特に取りだし、これは、天皇のために死ぬということだと称し、なぜ天皇のために軍人として死なねばならないのかと非難し、教育勅語そのものを否定する。すなわち、道徳の基準を皇室への忠誠とし、それを批判する。
 一方、Bは、天皇への忠誠はもとよりの道徳であり、かつ教育勅語の「父母に孝に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)(仲良し)に、夫婦相(あ)い和し、朋友相い信じ・・・」を特に取りだし、道徳の根本がここにあるとする。それは、道徳についての儒教の伝統的立場を主張するものであるので、だれも文句は言えない、言うまい、とする。
 すなわち、道徳の基準を伝統的儒教道徳に求め、それを自己の主張の拠りどころとする。
 しかし、上述のA・B両論は、教育勅語が述べようとするところがまったく分かっていない。すなわち教育勅語の内容が分かっていない、ということに尽きる。
 そこで、以下、老生の見解を述べる。
 150年前、明治維新があり、成立した明治政府は、近代国家として、欧米先進国の国家像すなわち国民国家をめざした。
 国民国家―読者諸氏はその意味をご存知であろうが、念のため説明をいたしたい。
 遠い昔、国家などはなかった。血でつながった一族が数多く在るだけであった。しかし、しだいにいろいろな
一族が寄りあうこととなり、そのリーダーとして王が登場する。けれども、すべてが王の意のままというわけではない。
 一族(いわゆる豪族)がおり、それら諸一族の連合体が、後に侯(日本で言えば大名)と呼ばれる。そういう侯がいろいろいたので諸侯とも。王がいて、その下に諸侯(貴族・豪族)という形であるから、クニと言ったとき、それは王のクニであり、貴族のクニであった。
 人々はその下で働いていたが、自分のクニという意識はなかった。だから、他国との戦争となると、王や貴族は自分の財産を使って兵士を雇って戦った。王のクニであり貴族のクニであったので、一般人にはクニという意識はなかった。
 ところが、フランス革命というものが起こり、フランス人は王の首をはね、王の上にいたカトリックを追い出し、政治は議会が行うこととなった。議会の議員は選挙で選ぶ。すなわち一般人、人々のクニとなったのである。このような国家を国民国家と言う。王国家(王国)や貴族国家ではない。
 すると、国民は自分たちの国である以上、国は自分たち国民で守ることとなる。となると、徴兵制が当然となる。こうして生まれた新しいフランス軍は強かった。自分たちが議会を通じて運営する国家のために戦うのであるから。
 また、徴兵制なので平等の資格と負担があり、不公平はなかった。しかも、ナポレオン(後に皇帝制を復活して失敗し失脚)という天才的指揮官がいたので、フランス国民国家軍はさらに強かった。
 これ以来、国民国家となる欧米先進国は軍も強かった。ただし、英国は王制を残しつつの国民国家となる。王は権威はあっても実権はなく、選挙制による議会が国家を運営するようになった。いわば国民国家の変形であった。
 明治維新以来、日本はこの国民国家をめざしたのである。ただし、皇室が存在したので、英国と同じく立憲君主国家をめざした。
 すなわち前引の教育勅語の「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」とは、日本という国民国家のために戦地に赴くという意味なのである。ただし立憲君主制なので「皇運を扶翼」と述べてはいる。しかし、あくまでも日本国のためにという国民国家意識なのである。
 また、同じくBの場合の前引の文は、伝統的儒教道徳のように見えるが、実はそうではない。『孟子』が説く五論は「父子の親〈したしみ〉、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」であるが、教育勅語では「君臣の義」は削り、また「夫婦の別」に対して、教育勅語の事実上の作者、井上毀(こわし)はあえて近代風にと「夫婦相い和し」(出拠は中国古典)とし、夫婦を上下の関係としなかったのである。一見、なるほど伝統的儒教道徳のように見えるが、近代的なものが導入されている。
 さらに教育勅語には、驚嘆すべき工夫がこらされているのである。Aに関しての引用文とBに関してのそれとをつなぐとき、「博愛」ということばを使っている点である。
 (伝統的道徳としての)「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相い和し、朋友相い信じ・・・博愛衆に及ぼし・・・〈近代国民国家の一員として〉常に国憲を重(おもん)じ、国法に遵(したが)い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」とある。
 「博愛」は、儒教に在ることばでもあると同時にキリスト教におけることばでもある。その意味は若干異なるが、同一語を重ねた感じで、伝統的道徳と近代国民国家道徳をみごとにつないでいるのである。片一方側の主張ではなく、伝統ある日本が、さらに近代国家へと飛躍しようとする壮大な覚悟を示している。
 それは、皇室を頭にして、立憲君主制の方向づけもし、徳川幕府崩壊後の国家的混乱をみごとに回避した、日本ならではの位置づけであった。
 しかし、単に政治的技術として皇室が現れたのではない。それだけの理由で日本人が皇室を歓迎し支持したのではない。もっと根底的な日本人の死生観が根本にあったからである。それは、〈生命の連続〉観である。
 日本、中国を含む東北アジアにおける共通した死生観は、己れの肉体は父母の〈遺(のこ)した体〉すなわち遺体とする。この遺体はさらに先代へ先代へと続き、果ては生命の誕生に至る。これは真実である。
 であるがゆえに、祖先祭祀すなわち死者との出会い、慰霊を重んじ、一方、自己の死後、縁者による慰霊を期待する。それが〈生命の連続〉観であり、それを軸にして完成した体系が儒教なのである。
 しかし、ごく少数の名家を除き、大半の家においては、五代前そしてそれ以前の人々の名も定かではない。けれども、天皇家は連綿として続いてきていて、天皇名と時代とは明らかである。すると、その皇族とともに自己の祖先たちも、ともに生きてきたということであり、それが天皇家・皇室に対する、敬意とともに親近感となっている。
 すなわち教育勅語は、こう呼びかけているのではないか。
 日本人よ、上述のような〈道徳の在りかた〉に従って誠実に生きよ、そのことによって、「爾(なんじ)(あなたの)祖先の遺風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん」と。それこそ〈生命の連続〉重視のことばであり、ここに大いなる共感が日本人に生まれていたのである。
 単なる強制によって教育勅語が日本人に広がっていたというような浅薄な見かたをするようでは、教育勅語を永遠に理解することはできないであろう。
 〈生命の連続〉という根源的死生観・思想の反映が教育勅語ではなかったかと、老生は思っている。


2018年1月15日号 週刊「世界と日本」第2117号 より

林 芳正 文部科学大臣への提言
教育の質 維持・向上
教員の「働き方改革」を

 

全日本教職員連盟 委員長 郡司 隆文 氏

《ぐんじ・たかふみ》 

栃木県出身。平成6年東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。同年、栃木県公立小学校教諭に採用。27年4月より全日本教職員連盟事務局専従、29年4月、同連盟第13代委員長に就任する。東京都在住。

 現在、教職員の多忙化が進む中で、新学習指導要領の実施や、ますます複雑化・多様化・困難化する教育諸課題に対し、教職員は適切に対処する時間を奪われ、学習指導や生徒指導等における教育の質の低下が懸念されている。
 このような状況の中において大切にすべきことは、「人づくり」という教育の本質を見失うことなく、「学校教育の質の維持・向上」を図るために教職員の働き方をどう見直していくべきか、議論を進めるということである。
 この観点から、平成29年12月に中教審から示された「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための、学校における働き方改革に関する総合的な方策について(中間まとめ)」について、いくつか提言させていただく。
 第1に、勤務時間管理についてである。中間まとめにおいて勤務時間管理は「働き方改革の『手段』であって『目的』ではない」とあるが、業務改善等の裏付けのないまま、時間外勤務を安易に削減するという事例が出始めている。
 教職員の勤務実態は、児童生徒指導やそれに付随する各種会議、保護者対応や対外的な提出文書、保護者等への通知作成、校務分掌で割り振られた業務が優先され、授業準備にかかる時間は後回しにせざるを得ない。目的化した勤務時間管理は、教材研究等の準備にかかわる時間の短縮につながり、教育の質の低下に直結する。
 また、教職員の若返りが急速に進む中、教職員の教育技術の伝承、特に若手教員の授業改善や学級経営に関する課題への助言等のため、「学校における協働性」を重視した取組が、これまで各地で行われてきた。
 先輩教師が後輩教師の悩みを聞き、アドバイスをしたり、児童生徒の情報を共有したりすることによって、まさに「チーム学校」を創りあげてきた。これらの協働についても、時間外勤務を削減するという圧力の中では極めて困難とならざるを得ない。
 学校教育の質を低下させないために、人員配置、業務改善、教育環境等の改善による、明確なエビデンスをもとにした「勤務時間管理」が推進されることを提言する。
 第2に、小学校高学年における、外国語の実施に伴う授業時数増についてである。新学習指導要領の実施にあたっては、小学校高学年において年間35時間増の授業時数の確保が必要となる。
 小学校における時間割編成の現状から、単純に1コマ分を増加させることが困難であり、そのための弾力的な時間割編成の手段として、(1)15分の短時間学習の設定、(2)60分授業の設定、(3)長期休業期間における学習活動、(4)土曜日の活用、(5)週あたりのコマ数増等が挙げられているが、それぞれについて次のような課題があり、学校現場が混乱することは明らかである。
 例えば(1)については、朝の帯時間が想定されるが、現状では、各学校や地域の実態を考慮に入れた上で、国算等のドリル学習、学習が遅れ気味な児童への個別学習等、多岐に亘る活動が行われている。
 同時に教師は、職員打合せ、問題行動の児童指導、不登校傾向児童への対応等、様々な業務を臨機応変に行っているのが現状である。各学校や学年、学級の実態に応じ、柔軟に対応できる朝の帯時間は非常に貴重な時間であり、この時間に英語を導入することは、総合的に考えるとマイナスである。
 文科省は平成30年度概算要求において、外国語専科教員等として2200人(3年間で6635人)の加配定数の増員を要求している。これは、外国語教育の授業時数増加による、教員1人あたりの持ち授業時数を現状に留めるために必要となる増員であり、要求人数すべてが認められたとしても(本稿執筆時点では未定)、持ち授業時数に関しては教員の負担が軽減することは有り得ない。
 小学校における勤務実態は、勤務時間では中学校より短いものの(とはいえ、3割超が過労死ラインを越えている)、児童の在校時間中は空き時間がほとんどない中で、トイレ休憩のための時間も十分確保できない状況である。
 いじめの認知件数が増加する等の中で、児童と向き合う時間を十分に確保しなければいけない状況を踏まえると、各種業務改善に関する手立てが講じられたとしても、現行の週28コマの時間割に無理やり35時間増加させることは、要求人数すべてが認められたとしても、教育の質の維持向上および教員の働き方改革の観点から大きな問題である。したがって各教科における時数の削減が見込めない以上、外国語活動および外国語については、総合的な学習の時間をもって行うことと考えざるを得ない。
 学校教育における学習指導の基盤となる授業時数の確保については、英語学習がそのねらいを達成することのみならず、他の様々な教育活動に支障を来すことがなく各学校が安心して取り組めるよう、また、教員の働き方改革を、学校、教育委員会、国が一体となって実行するという姿勢を明確に示すという点からも、文科省が責任をもって実効性のある授業時数確保の方策を提示する責任があると考える。
 第3に、教職調整額および人材確保法についてである。教職調整額は教員の勤務の特殊性を鑑み、時間外勤務手当が支給されない代わりに支給され、現在、給料の月額4%分の金額(昭和41年の勤務実態調査の時間外勤務、平均月8時間を踏まえて算出)となっている。
 平成29年4月に公表された教員勤務実態調査では、小学校教諭で約34%、中学校教諭で約58%が「過労死ライン」に到達しており、教職調整額4%はまったく実態にそぐわず、早急な改善を要望する。
 また、人材確保法では、三次に亘る計画的改善により合計25%引き上げの予算措置がなされたが、現在、一般行政職と教育職員の平均給与月額を比較すると、教員給与の優遇措置が低下している(平成21年度から25年度の平均で0.66%)。
 教員は、一般行政職と異なり免許制であり、更新講習も課されている。教員採用試験の倍率も低下傾向にあり、人材確保法の初心に返った処遇の改善を提言する。


2017年11月6日号 週刊「世界と日本」第2112号 より

脱・教科書絶対主義

 

育児・教育ジャーナリスト おおたとしまさ 氏

 2017年夏、ある歴史教科書を採択した複数の学校に、嫌がらせとも思える抗議の文書が大量に送りつけられたことが発覚し、大きく報道された。一部の人たちが自分の政治信条あるいは歴史認識と相容れない記述がある教科書を排除するために、過激にふるまったのだろう。
 しかし、それは無駄だとはっきり言いたい。
 この国ではなぜか、教科書を、教育における絶対的な存在として崇(あが)め奉(たてまつ)る文化がある。「教科書信仰」や「教科書絶対主義」といってもいいだろう。多くの人が無自覚のうちにそれを当たり前だと思い込んでしまっている。
 しかし本来、教科書に書いてあることをもとにして「真実」に近づく方法を学ぶのが教育であって、教科書に書いてあることを「真実」として覚えることが教育ではない。極論すれば、教科書なんてなんでもいい。
 教科書は教えるための材料に過ぎず、その内容すら疑ってかかるのが健全な批判的思考。どんな教科書を選んだって、生徒たちはちゃんと学ぶ。
 本当なら、全然違う視点から書かれている教材を複数使うのがいい。そのほうが物事を立体的に見ることができる。教材とは本来そういうもの。「検定教科書」という概念がそもそもおかしいのは、それが「国が認めた『真実』」であるかのように見えてしまうことだ。
 たとえば、教科書に書かれていることすら疑ってかかるのが歴史教育の醍醐味。それこそ賛否の議論を呼び起こした教科書を開いて、「この教科書については賛否があるんだ・・・」と授業を始めて、それぞれに資料をあたり、発表し、議論すれば、それがいちばんのアクティブ・ラーニングである。
 特にアクティブ・ラーニングでは、教科書の存在価値はほとんどゼロに等しい。新聞の切り抜きのコピーや一般書籍、自ら実験・取材したデータが教材になる。要するに、必要なのは「教科書」ではなく「教材」なのだ。
 教科書信仰、そろそろやめようではないか。


2017年8月1日号 週刊「世界と日本」第2106号 より

教育勅語

近代教育に果たした意義とは

道徳教育に継承される勅語の精神

 

麗澤大学教授 八木 秀次 氏

 今春、大阪市の学校法人・森友学園が経営する幼稚園で、園児が「教育勅語」を暗唱させる教育をさせていたことが批判されたことで教育勅語が注目された。野党やメディアの中には全面否定する向きも見られた。虚偽を重ねて補助金を得ようとするなど、とても教育勅語の精神を実践していたとは思えない人たちが教育勅語を持ち上げることで、多くの国民が教育勅語に拒否反応を示しているとすれば大変残念だ。奇妙な学園の教育方針とは別に、教育勅語が我が国の近代教育に果たした意義は評価されなければならない。

 教育勅語(教育ニ関スル勅語)は、明治23年10月30日に明治天皇の名で発せられた。この勅語が発せられるに至った背景には、急激な近代化に伴う青少年の精神的荒廃があった。
 この年の2月、地方長官会議が開かれた。官選の地方長官だが、現在の都道府県知事会議と考えればよい。その地方長官会議の場で全国の教育荒廃が報告された。
 小学生は親を馬鹿にする。親は近代教育を受けていない。読み書きができない場合もある。そのため子供が家に帰って親を馬鹿にするというわけだ。
 中学生は自由民権運動の影響を受けて学校で政治運動をする。処分されると処分が不当と騒ぎ、中学校を辞めて政治運動に走る。大学紛争を彷彿させるが全国でそのような現象が見られた。そこで地方長官らは政府に明確な道徳教育の指針を示すよう「徳育涵養の義に付建議」を上げた。
 これを受けて政府は、『西国立志編』の訳者で知られた女子高等師範学校学長の中村正直に原案の起草を依頼するが、キリスト教徒であった中村の案はキリスト教色や哲学色が強く、その後、明治天皇侍講の儒学者・元田永孚(ながざね)に依頼するが、今度は儒教色が強かった。ついには内閣法制局長官の井上毅が、自ら筆を執って勅語の原案を完成させた。
 勅語の中核は「父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ 朋友相信シ 恭倹己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ 進テ公益ヲ広メ 世務ヲ開キ 常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という12の徳目にある。
 これは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の部分も含めて、近代国民国家の「国民」としての普遍的な道徳を示したものだ。国民には「国防の義務」があるとするのが国民国家であり、そのことを示したものだ。何も日本に特有な道徳的価値ではない。
 勅語には「之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」という文言があるが、これは勅語の内容を外国語に翻訳しても通じるかと、井上が英語の達人の金子堅太郎に尋ね、「通じる」と答えたのを受けて入れられた。
 現に勅語は、英仏独西中の各語に翻訳され、西ドイツのアデナウアー首相は戦後のことであるが、執務室に勅語のドイツ語訳を掲げていた。
 政府は勅語の形式にも配慮した。教育勅語には国務大臣の副署がなく、天皇の社会的著作として発表した。近代国家では、政府は国民の内心に干渉することはできない。そこで天皇が自ら率先して上述の道徳的諸価値を実践するとし、国民はこれに従うことを希望するとした。
 勅語が「朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」と結んでいるその趣旨だ。12の徳目を受けて「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とする部分を問題視する向きもあるが、主語が天皇(朕)であるのだから「皇運ヲ扶翼」とするのが自然だ。
 教育勅語が出されて我が国の教育が大幅に改善されたわけではなく、その後も苦労は続いた。徳目を分かりやすく教えるために「修身」の時間を設け、教科書汚職事件が起きたことから国定教科書にした。
 日露戦争後や関東大震災時に国民精神が荒廃した際には、教育勅語の内容を踏まえた新たな詔書(「戊申詔書」「国民精神作興ニ関スル詔書」)を発している。
 教育勅語は大東亜戦争敗北後の占領中も評価された。学校行事での奉読は廃止されたが、旧教育基本法(昭和22年3月)に「教育の目的」(第1条)として「教育は、人格の完成をめざし」としか規定しなかったのは、その具体化は教育勅語に示されているからだとされた。
 旧教育基本法の起草者たちは何れも教育勅語の趣旨を評価した。旧教育基本法と教育勅語は、戦後教育の車の両輪と考えられていた。しかし、その後、占領軍内の権力闘争の影響で国会に圧力が掛かり、衆議院での廃止決議、参議院での失効確認決議が行われ、教育勅語は葬られた(昭和23年6月)。
 朝鮮戦争の勃発とともに占領政策が日本に融和的になり、また、主権回復が近づくに連れ、教育勅語そのものではないにしても、その精神を継承した新たな教育指針が必要との声が高まった。昭和26年11月、カント学者の天野貞祐文部大臣によって「天野勅語」とも呼ばれた「国民実践要領」が発表された。しかし、教育界やメディアの批判の中で挫折した。
 昭和41年11月、中央教育審議会が「期待される人間像」を発表したが、これも多くの批判にさらされた。そして平成18年12月に教育基本法が抜本的に改正される。改正の趣旨は旧教育基本法に欠けている教育勅語の精神を補うことだった。
 「教育の目的」(第1条)に「人格の完成をめざし」の文言を維持しながら、「教育の目標」(第2条)に「豊かな情操と道徳心を培う」「公共の精神に基づき」「生命を尊び、自然を大切にし」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…態度を養う」などを掲げた。
 そしてこの「教育の目標」を具体化するものとして、第2次安倍晋三内閣において「道徳の時間」が「特別の教科」とされた。道徳の時間は昭和33年から設置されていたが、教科ではないので形骸化していた。
 「教科化」に当たって文部科学省は学習指導要領を改訂し、新たに教科書が作成され、小学校では平成30年4月から、中学校では平成31年4月から使用される。新たな学習指導要領では、「生命の連続性」の自覚など、これまでなかった道徳的諸価値が強調されている。
 教育勅語の精神は現代の道徳教育に継承されている。


2017年4月17日号 週刊「世界と日本」第2099号 より

<私の教育論 第3回>

日本の将来を託す女性教育 ― 大学の現場から
不確実性の時代、「レジリエンシー」を高めよ

 

昭和女子大学グローバルビジネス学部 ビジネスデザイン学科・教授 今井 章子 氏

 女子大学と聞くと、いまだに「女性らしい」学問の習得や「良妻賢母」志向の教育を思い浮かべる人が多いようである。しかし、人々の生き方、働き方、家族の在り方がこれほど多様化している時代である。女子大学も、学生を単一の「型」にはめて知識や知恵を授けるのではなく、学生が自ら「型」を設定し、随時修正しながら、自分らしく生きるための素養を身に着ける場所へと大きく舵を切っている。本稿では、筆者が所属する昭和女子大学グローバルビジネス学部ビジネスデザイン学科の試みを中心に私論を述べたい。

今井 章子氏

■デザイン思考で、グローバル社会を生き抜く知恵

 1998年から、経済のグローバル化に伴う負の影響が世界各地で問題にされ始めた。それは次第に「グローバル化」そのものへの非難となってBrexit(英国のEU離脱)やトランプ政権の誕生を促し、欧州でも「反グローバル主義」が政局を左右しつつある。

 だが、この先ゆうに半世紀を生きていく今の若者たちにとって、「主義」の議論は意味をなすのだろうか。人類は太古の昔から移動と交流を繰り返し、外の世界と切り結んで活動域を広げてきた。「グローバル化」は主義ではなく、人間が互いに必要なもの、求めるものをトレードし、支え合ってきた結果であり現象ではないのか。

 若い人々に必要なのは、多様化し、予測や通念が立てにくいグローバル社会で、潰されずに生きていくための「レジリエンシー」(耐性、しなやかさ、たくましさ)を高めることであろう。4年前に開設された本学のグローバルビジネス学部が想定しているのは、そういう市場であり社会である。

 では「ビジネスデザイン」とは何か? 読者は「デザイン思考」という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。

 もとは建築などの世界で、いわば「やわらか頭」で、創造的に問題を解決するためのアプローチと聞く。

 ビジネスデザイン学科では、経済成長と持続性、効率性と人間のゆとり、といった一見並び立つのが困難な条件を乗り越え、自分と他人が持つ様々な知識や発想や資金力や仕掛けを総動員して、新たな課題解決を設計(デザイン)する女性プロフェッショナルの育成をめざしている。

 最近よく言われる「社会人基礎力」(経産省)、「学士力」(中教審)、あるいは「ジェネリックスキル」なども、こうした問題意識から提起されていると想像する。

 

■変わる女性の生き方

 「不確実性の時代」のビジネスパーソンに必要な「レジリエンシー」は、実は現代女性の生き方にも当てはまる。国内外の女性政策に詳しい坂東眞理子氏(昭和女子大学理事長、中央教育審議会委員)によれば、戦後の日本の働く女性を取り巻く状況は3つのステージに分けることができ、今すでに、第4ステージの幕が静かに上がっているという。

 戦後の女性労働保護(第1ステージ)、70年代以降の差別撤廃(第2ステージ)を経て、90年代は育児休業法の成立など、企業の社会的責任として、女性が子どもを産んでも働きつづけられるような整備が進んだ(第3ステージ)。

 そして、雇均法制定から30年を経た今、女性活躍推進法が成立。女性の能力や適性を活かすことが企業戦略の重要な要素となる「女性リーダー4.0」時代が静かに幕を開けた。

 坂東氏は、そういう時代には「いわゆる『いい子願望』を乗り越え・・・管理職として新しい視点を持って働く」など「女性自身も変わらなければならない」と説く。

 このように、ここ40年だけでも、女性の働き方は男性のそれと比べ激変している。しかも女性の場合、結婚するかしないか、子どもを持つか持たないか、離婚するかしないか、その時子どもがいるかいないかなどのライフステージによって、職業生活を短縮・中断するなどの決断をも迫られる。

 女子学生が必要としているのは、自分自身のライフステージの変化と、経済社会の変化の両方が織りなす不透明な将来に備え、何があってもどこへ行っても、変化を味方につけられる力量なのである。

 これまでも女性の人生設計の強力なサポーターとして発達してきた女子大学の役割は、この変革の時代にかつてないほど大きな役割を担っている。

 

■コミュニケーションとレジリエンシーを養う「留学」

 本学科では全員が2年次にボストンに留学する。重要なのは、異文化の中で寮生活をしながら学業に励み、ボランティアやビジネスコンテストに参加することで、米国の教育格差や貧困などの現実を直視する体験だ。

 彼女たちにとっては、不透明で予測不能な環境であれこれ試行錯誤しながら生き延びる、ひとつのリーダーシップ体験なのである。帰国後の学生は見違えるほど眼差しが強く、「個性」を感じさせる一人の「女性」となっていることに驚かされる。

 

■経験学習の「PBL」

 帰国した学生たちは3年次から「PBL」(プロジェクト・ベースド・ラーニング)と呼ばれる「経験学習」を通して、さらに立体的に知識とスキルを拡張する。経験学習は経営教育の場でよく使われる手法で、具体的なプロジェクトを実際に経験し、それをチームで多様な視点から振り返り、そのことを汎用性のある概念に高めて次の実践に活かす学習サイクルである。

 本学では、現役社会人が所属する現代ビジネス研究所などの協力で常時約60のプロジェクトが進行している。

 例えば、資生堂とのプロジェクトでは、総勢15名の参加学生が「資生堂長命草」という実在の商品のコンセプトを理解し、イベントで発信し、顧客アンケートを取ったり、フォーカスグループインタビューを実施したりして、実際のマーケティングプランを練った。

 その体験は、経済学、経営学、戦略的マーケティング、人的資源管理などの専門的概念と結び付けられ、文字通り頭と身体で習得していくのである。

 PBLで重要なのは教員の役割だ。実務経験と専門知識を備えた教員自身がプロデューサとなって運営手腕を実演することになる。教員を模倣しつつ学ぶという、まさに「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」が経験学習には必要だ。

 

■人生100歳の海図

 この春、本学科は初の卒業生を送り出した。150名弱の卒業生の就職率は約97%、例年、本学自体も高い就職率を誇っているが、それは単に「働き口」を見つけているからではなく、学生が主体的に、職業や人生を選び取る力を身に着けてきた結果であろう。

 18年度からは新たに会計ファイナンス学科を創設、レジリエンシーを備えた「専門職」の育成を目指す。

 人生100歳の時代を生きる人たちが、25歳以降の海図を白紙にしたり他者に描かせるのではなく、常にオールを握って漕ぎ続けてほしいとの願いを込めて、彼女たちの助走を指導し、見まもり続けることが私の「実践的」教育論である。

 


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