特別企画
内外ニュースでは「特別企画チャンネル」において、週刊・月刊「世界と日本」の執筆者、東京・各地懇談会の講演、専門家のインタビュー記事等の情報を掲載して参ります。
2025年4月7日号 週刊「世界と日本」2290号 より

《かわくぼ つよし》
1974年生まれ。東北大学大学院博士課程単位取得。専攻:日本思想史。現在、麗澤大学教授。論壇チャンネル「株式会社ことのは代表取締役」。主な著書に『福田恆存』(ミネルヴァ書房)、『方法としての国学』(共著、北樹出版)、『ハンドブック近代日本政治思想史』(共著、ミネルヴァ書房)、『日本思想史事典』(共著、丸善)など多数。
左翼全盛の中でインテリからの罵倒語に過ぎなかった「保守」が、今や人々の賞賛を受ける状況となっている。こうなると「保守」の看板の奪い合いも起こり、互いを似非保守と呼んで叩き合う風景が日常化している。こうした状況のなかで改めて「そもそも日本の保守とは何か」という根源的な問いが浮上してくるのは当然であろう。
そもそも保守というのはイギリスのconservatismの訳語であるから、「日本の保守」といったときにすでにそこには本質的な矛盾が内蔵されており、「日本の保守」なるものは成立するのだろうかという疑義が生じる。それは、本来西洋の学問である哲学philosophyに日本人が取り組む際に「日本の哲学はそもそも成立するのか」という問いに直面せざるを得ないのと同じである。
イギリスの保守思想conservatismの祖は『フランス革命の省察』で知られるエドマンド・バークであろうが、実は、1729年生まれのバークとたった一歳違いの1730年生まれの日本の思想家に、国学の確立者の本居宣長がいる。この事実はほとんど話題にならないが、大変重要であると思われる。つまり、イギリスで保守思想が定式化されたのと同時平行的に日本には国学思想がひとつの重要な思想的立場として確立されたのである。バークの『フランス革命の省察』は、革命からヨーロッパの秩序を守るための書であり、それゆえ保守思想の原典と称されるわけだが、宣長もまた、当時の日本の大陸支那礼賛の風潮の中で日本的なるものを掘り起こし、守ろうと考え、国学思想を唱えたのである。同じ十八世紀前半において、洋の東西に、イギリスの保守思想と日本の国学思想は同時的に成立してくるのである。他の国・地域に先駆けてそれぞれ固有の文明社会を築いていたイギリスと日本に同じような思想が誕生したのである。この点に重要な思想史的意味が含まれているといえないだろうか。
つまり「日本の保守」とは何かという問題を解く際に手がかりになるのは、宣長によって大成され、その後様々な思想家によって深められていった国学思想ではないかということである。大胆に言ってしまえば、「日本の保守思想」とは国学思想なのではないかということである。一般的に、「日本の保守思想」とは何かという問いを前にして話題になるのは、戦後保守を代表すると言われる、小林秀雄、福田恆存、江藤淳などの文学者であり、彼らの系譜を社会科学者として継承した西部邁などであるが、実はここに、そもそもの間違いがあるのではないだろうか。というのも、これらの人々は、確かに保守の思想を説いたといえるが、みな共通して西洋派であり、小林はフランス文学、福田と江藤はイギリス文学、西部はバークをはじめとする西欧の保守思想を専門としたのである。つまり彼らは、西洋から日本を眺め、西洋の保守思想を日本の文脈に持ち込んだのである。したがって彼らは、西洋由来の保守思想の重要性については論じることが出来たが、「日本の保守とは何か」という問題についてはまとまった論考を残すことが出来なかった。そこに彼らの問題点があるのではないだろうか。
確かに、小林は宣長を賛美し、福田は国語を論じ、江藤は江戸・幕末を描いた。それらは戦後日本の思想を画する作品であることは間違いないし、「日本の保守とは何か」という主題につながる数々の洞察も見られる。しかし、そこには、保守すべき日本人の自然観、人間観、死生観とはこれだというような体系的考察が展開されていない。彼らは、戦後の左翼的風潮によって見落とされた日本的なるものの価値に向かいはしたが、その内容について全体的に明らかにし、ひとつの思想として確立しようとはしなかった。それゆえ、彼らを参照しても「守るべき日本的価値とは何か」という点がはっきりしない。そこで、顧みるべきは、やはり国学思想の系譜ではないだろうか。
実は戦後日本にも「新国学」と称して、日本的価値の開示に取り組んだ人々がいたのである。それは新京都学派とも称された、京都大学の今西錦司や梅棹忠夫、梅原猛たちである。彼らの仕事は、同じグループの一人であった上山春平が「開かれたナショナリズム」と呼んだように、現代世界における日本思想の意義について正面から探究した点に特徴があった。彼らは、それぞれの学問方法で日本人の自然観・人間観・死生観について明らかにするとともに、それが人類の新たな時代を開く文明の原理となり得ることを説いた。今西たちは、日本民俗学を開拓した柳田國男や西洋近代の自我哲学に変わる日本思想に根ざした哲学を創出した西田幾多郎の学統を継承しながら、戦後日本の怒涛のような欧米化の風潮の中で、守るべき日本的価値を明らかにしていったのである。ちなみに、小林と今西は同年齢であり、互いに敬意を表する間柄だった。小林たちは欧米化の先頭を走る東京圏にいて、絶えず時流に向き合わざるを得なかったのに対し、今西たちは、東京から距離があり、日本的なるものが温存された京都にいたということも、それぞれの仕事に影響したであろう。
中曽根康弘は、梅原猛との対談で、「私が政治家になり、とくに総理になる前後、京都大学の皆さんは、日本的な立場を基本に置いて諸学を研究されていました」、「この人たちが日本の思想の中軸となり、政治家は、彼らとの交わりの上に日本の政治を行なっていかなければならない」というのが、私の結論でした」(『リーダーの力量』)と述べている。今日、小林や西部の保守思想と京都学派の日本思想研究を自らの内に統合し、「現代における日本の保守とは何か」という問題にひとり向き向かっているのが京都大学の佐伯啓思である。佐伯が参照している京都学派の知見は、西田幾多郎の哲学であるが、わたしは、西田哲学とともにその発展的展開ともいえる今西たちの思想にも眼を向けることで、「守るべき日本」をより明らかにすることが出来ると考えている。
2025年4月7日号 週刊「世界と日本」2290号 より

《まつうら みつのぶ》
1959年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部国史学科教授。博士(神道学)。皇學館大学を卒業後、大学院博士課程に学ぶ。専門は日本思想史。歴史、政治、教育に関する評論、随筆など幅広く執筆。著書に『新訳 留魂録 吉田松陰の「死生観」』〈PHP研究所〉など多数。最新刊は『神道学博士が語る 日本に生れたことが嬉しくなる 日本史11話』上・下(経営科学出版)、『不朽の人 吉田松陰と安倍三晋』(明成社)
「七生報国」の精神とは?
吉田松陰の門人の一人に、渡邊蒿蔵(わたなべ・こうぞう)という人物がいる。明治維新後は、長崎造船所を創設するなど、わが国の造船業界で活躍した。安政四年、十五歳の時に松陰の門に入ったが、松下村塾の塾生のなかでは、もっとも長生きしたことで知られる。亡くなったのは昭和十四年、時に九十七歳であった。
昭和八年、九十一歳の時のインタビュー記録が残っている。そのなかで「松下村塾の看板は、梅田雲濱が書いたものか?」という問いに対して、渡邊は、こう答えている。「そんなものは見たことがありません。看板などありませんでした。塾のなかには、ただ大原重徳の筆による『七生滅賊』の掛け軸がかかっているのみでした」。大原重徳というのは、松下村塾と関係の深かった公家であるが、松陰は、その大原に「七生滅賊」と書いてもらい、それを掛け軸にして、松下村塾にかかげていたのである。
現在、萩の松陰神社の入り口には、「明治維新胎動の地」と刻まれた巨碑が立っている。その「胎動の地」の、いわば「奥の院」には、「七生滅賊」の精神があったのである。
「七生滅賊」とは何か? いうまでもなくその言葉は、建武の中興の時代を描いた古典『太平記』のなかに見える楠公(楠木正成)の弟・正季の言葉を、もとにしている。討死する直前、楠公は正季に、「最後に臨んで、何か願いはないか?」と聞く。正季は、カラカラと笑って「七生まで、ただ人間に生れかわって、朝敵を滅ぼしたい」と答える。すると、楠公は「罪業の深い、悪念ではあるが、私もそのように思っていた」と応じ、そのあと二人は刺しちがえて、散華するのである(巻十六)。
『太平記』の正季の言葉を四文字熟語にすれば、「七生滅敵」ということになろうが、江戸時代の頼山陽は、『日本外史』で、その言葉を「願わくば、七たび人間に生れて、もって国賊を殺さん」と書いている。これを四文字熟語にすれば、「七生殺賊」ということなるが、たぶん松陰の「七生滅賊」は、それも踏まえたものであろう。
幕末の志士たちにとって、楠公とは〝生き方の手本〟そのものであった。松陰の松下村塾に学んだ門人たちも、その点は、師の松陰と同じである。他にも、薩摩の西郷隆盛や有馬新七、土佐の坂本龍馬、福岡の野村望東尼、久留米の真木保臣など、楠公を仰いだ志士の名前をあげていけばきりがない。つまり、有名な幕末の志士で、楠公を仰がなかった者など一人もいないのである。
やがて明治時代になると、軍神・広瀬武夫が、「七たび人間に生れて、国恩に報ぜん」と書き、ここに「七生報国」という四文字熟語が生まれる。「七生報国」の精神は、近代になって「楠公精神」とも呼ばれるようになるが、やがてはその精神が、白人諸国からの政治的、軍事的、経済的な圧力に苦しみつづけた近代の日本人たちの、いわば“心の柱”となるのである。
近代日本を支えた「七生報国」の精神
昭和十七年のミッドウェー海戦は、大東亜戦争の〝運命の分岐点〟として知られる。その海戦で、わが国の連合艦隊は、潰滅的な被害を受けるが、そのような戦況のなか、万丈の気を吐いたのが、空母「飛龍」の山口多門である。じつは、その「多門」というのは、楠公の幼名で、父が楠公のような人物になってほしいと願って付けた名であった。最後の時、山口は、月を見上げながら、「飛龍」の艦長に、「武人として、こんないい死に方ができるのは、幸福ですね」と語りつつ、艦と運命をともにするが、それは、あたかも湊川の楠公兄弟の最後が、六百年後に再現されたかのような光景であった。
特攻隊の若者たちも、楠公を仰ぎつつ、次々と散華していった。人間魚雷「回天」の創始者で、昭和十九年、訓練中に二十二歳で殉職した黒木博司は、「慕楠」と号した。また、楠公の家紋にちなんでつけられた部隊名である「菊水特別攻撃隊」の高久健一(昭和二十年、二十二歳で散華)は、こう書き残している。「楠公のいたましい姿、正行の悲願、それらへの日本人の、たゆみなき切ない郷愁に、日本の伝統は生きているのだ」。
しかし、昭和二十年八月の戦闘終結後、わが国を軍事占領したGHQは、その「楠公精神」を、日本人の心から根絶やしにしなければ、日本は、ふたたびよみがえる…と危惧した。こうして昭和二十一年の「教科書検定基準」で、天皇、神道、神社、国体、そして楠公などに関する用語は、教科書から、ほぼ一掃されてしまう。異常なのは、軍事占領が終わったあとも、GHQの設置した「歴史洗脳プログラム」が、大手メディアと学校で、延々と機能しつづけていることである。楠公という日本人の〝心の柱〟を切り倒したのは、たしかにGHQであるが、その状態を八十年も放置しつづけてきたのは戦後の日本人であり、その責任も、また重いといわざるをえない。

それは、いわば「失われた八十年」である。もちろん、それを取り戻すのは、容易なことではなかろう。しかし、日本人の「記憶装置」から、GHQの設置した「歴史洗脳プログラム」という「ウィルス」を丁寧に削除しながら、たとえば、楠公を仰ぐ日本人の「心のプログラム」を「復旧」させる。まずはそこからはじめてみては、いかがであろうか。
より深く学ぶためのお薦め書
松浦光修 著 経営科学出版
各定価:本体2200円+税
2025年3月3・17日号 週刊「世界と日本」2288・2289号 より

《かわの かつとし》
1954年生まれ。防衛大学校を1977年に卒業し、海上自衛隊に入隊。護衛艦隊司令官、統合幕僚副長、自衛艦隊司令官、海上幕僚長を歴任。2014年に第5代統合幕僚長に就任。2019年4月、退官。
1 自衛隊の統合化への歩み
報道によれば常設組織である統合作戦司令部が今年度末の3月24日に発足するとのことである。自衛隊統合化の懸案であった統合作戦司令部が実現することになったことは、かつて統合化に携わった者として感慨無量である。しかし、ここまでたどり着くには長い道のりが横たわっていた。そこで、先ずここに至るまでの自衛隊の歩みを今一度振り返ってみたい。
1954年に防衛庁・自衛隊が発足し、昨年で70年を迎えたが、発足当初から自衛隊は政治的には55年体制の下に置かれることになった。55年体制とは与党は自民党そして野党第一党は日本社会党という体制である。当時、日本社会党は自衛隊違憲の立場であり、外交防衛政策としては「非武装中立」を主張していた。また、国民世論も自衛隊違憲論が多数を占め、その意味で「非武装中立」論も一定の支持を集めていた時代だった。しかし議会制民主主義の国において、野党第一党が自衛隊違憲の立場というのは防衛政策を進める上で極めて重大な支障をもたらすことになった。すなわち違憲である自衛隊の存在を前提にした議論には応じないということになる。その結果、与党自民党も自衛隊を動かそうとすると国会、国民世論の猛反発を覚悟しなければならないため、そのような発想は、一部災害派遣を除き思案の外ということになる。その結果、自衛隊は存在すれども動かない時代が約40年近く続くこととなった。
その状況が一変したのが1990年の湾岸危機である。冷戦終結直後、イラクのサダム・フセイン大統領が隣国クェートに武力侵攻した事案である。当時のブッシュ米大統領(父)は国連決議を得て多国籍軍を編成し、原状回復を図ろうとした。そして当時経済大国第二位の日本にも参加を求めたのである。自衛隊を動かすという発想がなかった当時の日本政府は大混乱をきたし、日本中に論争を巻き起こした。しかし議論すれども結論は出ず、結局130億ドル(約1兆7000億円)を拠出したにも関わらず、国際社会から評価されなかった。さすがに国際的孤立を恐れた日本政府は1991年の湾岸戦争の終結を受けて、戦後処理の名目で掃海部隊をペルシャ湾に派遣した。これを契機に自衛隊は「存在する自衛隊」から「動く自衛隊」となり、「オペレーションの時代」に入ったのである。
それ以降、PKO、阪神淡路大震災への災害派遣、2001年の同時多発テロを受けてのインド洋補給オペレーション、イラク・クウェートへの派遣、今に続く海賊対処行動、2011年の東日本大震災への災害派遣そして北朝鮮への弾道ミサイル防衛等、一連のオペレーションが続くことになる。
オペレーションの時代になると、当然それに対応できる組織編成への要請が起きてくる。それまでは、制服自衛官の最高位としての統合幕僚会議議長とそれを補佐する統合幕僚会議事務局が存在したが、統合部隊を編成する時以外はオペレーションに関する権限はなく、陸海空がそれぞれでミッションを遂行する態勢であった。しかし、実任務が多様化すれば、当然陸海空が協力しながら任務を遂行しなければならない。その結果2006年にオペレーションに関して実質的権限を有する統合幕僚長のポストと統合幕僚監部が発足したわけである。自衛隊の統合化は、オペレーションの時代を迎えたことによる必然の結果と言える。ただ、統合作戦司令部の創設については懸案として残されていた。
2 統合作戦司令部の創設と日米同盟
統合幕僚長の役割は大きく言えば、一つは自衛隊の最高指揮官である総理大臣そして防衛大臣への軍事面からの助言・補佐であり、もう一つは、政治サイドからの命令を自衛隊部隊に実施させる役割である。この後者の役割を統合作戦司令官は担うことになる。
統合幕僚長は、制服自衛官の最高位のポストであるが、指揮官ではない。従来はミッションごとにその都度、統合任務部隊が編成され、司令部を構成する指揮官、幕僚等もその都度任命する仕組みだった。東日本大震災の災害派遣を例にとれば、発災後直ちに10万人を超える統合任務部隊が編成され、陸自東北方面総監を指揮官とし、増強幕僚を海空自衛隊からも派遣した。しかしその結果、指揮官、幕僚が初顔合わせというケースも当然起こってくる。軍事的合理性の観点からも問題だった。
米軍の場合は、制服組トップの統合参謀本部議長が大統領、国防長官を軍事的に補佐し、インド太平洋軍等の地域統合軍及び戦略軍等の機能統合軍の指揮官が大統領、国防長官の命令を受けてオペレーションを遂行する。その意味では、統合作戦司令部の設置により規模は異なるが、仕組みとしては米軍と同様となる。
統合作戦司令官の新設により、統合幕僚長のカウンターパートとしてワシントンの統合参謀本部議長がおり、一方、統合作戦司令官の作戦レベルのカウンターパートとしてハワイのインド太平洋軍司令官が位置付けられ、極めてクリアな関係が構築される。
従来は陸海空自衛隊が米軍のそれぞれのサービスと緊密な関係を築いてきたが、それに加えて統合作戦司令部が創設されれば、インド太平洋軍との間で共同作戦計画等の詳細が調整されることになろう。その意味で、日米防衛関係はワンランクアップした関係になるものと期待している。
この関連で、在日米軍司令部の作戦司令部化が計画されているようである。その詳細については知る立場にはないが、そうなれば統合作戦司令部にとっての日常的な調整先は在日米軍司令部となろう。その場合、在日米軍司令官と第7艦隊司令官、沖縄の第3海兵遠征軍司令官等との指揮関係はどのように整理されるのか、個人的には関心があるところだ。
トランプ政権で国防次官に就任したエルブリッジ・コルビー氏も著書「アジア・ファースト」で、「統合化された軍事力を持った日本」を期待すると述べている。
いずれにしても日米同盟は、「統合作戦司令部」の創設を契機により効果的な統合オペレーションの遂行に向けた新時代を迎えることになる。