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刻々と変化する国際情勢を各国の政治・経済など様々な視点から考察する。

《ほさか しゅうじ》 

日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター研究顧問。慶應義塾大学大学院修士課程修了、在クウェート日本大使館、在サウジアラビア日本大使館、中東調査会研究員、日本学術振興会カイロ研究連絡センター長、近畿大学教授等を経て、現職。日本中東学会会長を兼任。おもな著書に『ジハード主義』(岩波書店)など。

2024年11月18日号 週刊「世界と日本」第2281号 より

 

沈静化に向けた道筋が見えない

 

中東情勢とこれからのシナリオ

 

日本エネルギー経済研究所
理事・中東研究センター研究顧問
 

保坂 修司氏

 

 昨年10月7日、パレスチナ・ガザ地区を実効支配するイスラーム主義勢力ハマースなどが突然、イスラエルに侵入、イスラエル人や外国人約1200人を殺害、また200人以上の人質を取った。これに対しイスラエルは圧倒的軍事力で大規模反撃を開始、パレスチナでの犠牲者は今年8月半ばには4万人を超えてしまった。また、イスラエルのガザ封鎖で、ガザへの食料や医薬品搬送が滞り、ガザは今世紀最悪ともいわれる人道危機に陥っている。さらにイスラエルは最近、北の隣国レバノンへの攻撃を活発化させ、10月1日には限定的であるが、地上侵攻も開始した。

 今年7月末には、ハマースの指導者、ハニーイェ政治局長が、さらに10月にはその後継者のシンワールが殺害され、また、9月にはレバノンのシーア派組織ヒズバッラーのナスラッラー事務局長が殺害された。事態は沈静化どころか、悪化の一途をたどり、戦線は、パレスチナのみならず、レバノン、イエメン、シリア、イラン、イラクなど周辺国にも拡大している。現在、米国、エジプト、カタールがイスラエルとハマースの停戦の仲介を行っているが、ほとんど進んでいない。レバノンについても、米国が調停を行っているものの、やはり効果は不透明である。

 

 一方、ハマース、ヒズバッラー、シリアのアサド政権、イエメン・フーシー派等、いわゆる「抵抗の枢軸」を率いるイランとイスラエルの関係も緊迫している。今年4月には、イスラエルによるイランの在シリア外交施設空爆やハマース・ヒズバッラーの指導者殺害をきっかけにイランとイスラエル間で4月と10月に報復の応酬があった。現時点では、両国の報復合戦には、最悪の事態は避けたいという「自制」が見られる。しかし、大規模な戦争に発展する可能性もゼロではない。

 アラブ諸国を含め、国際社会は、原則的にパレスチナ問題をイスラエルとパレスチナという2つの国家を樹立することで解決する「2国家解決」で合意しているが、肝心のイスラエルとハマースなど「抵抗の枢軸」が2国家解決に否定的である。ただし、抵抗の枢軸の立場はイランの政策に左右されがちであり、イランが2国家解決を容認すれば(実際、そうした兆候がないわけではない)、一斉に停戦に向かう可能性もあるだろう。

 

 イスラエルの強気を支えるのは米国の支援である。米国、そして米国の主導するG7は紛争勃発以来、イスラエル支持の立場を堅持してきた。とくに米国は、国連安保理でイスラエルに不利な決議案を軒並み拒否権で否決してきた。他方、G7以外の国の多くはパレスチナに同情的であり、とりわけ民間人の犠牲者増加には強い怒りを示している。西側の一員であるスペイン、ノルウェー、アイルランドが紛争勃発後、相次いでパレスチナを国家承認したのはその顕れである。

 また、ロシアや中国も、パレスチナ支持を明確にしており、このことが、中東諸国の米国離れの促進、中露への接近の要因にもなっている。日本は、国連決議などでしばしば米国と異なる対応をしているが、G7の一員、米国の同盟国として、アラブ・イスラーム諸国から親イスラエルと見なされてしまうことは要注意である。

 

 米国の親イスラエル的立場は、民主党でも共和党でも大差ないが、大統領選でトランプが勝利すれば、イスラエルがさらに強硬な姿勢に出る可能性もある。したがって、米大統領選の結果が出るまでは、ガザ戦争の解決はない、との見方もある。

 もう一つ、ネタニヤフ首相の汚職疑惑や対パレスチナ強硬派の極右勢力を含む連立政権といったイスラエルの国内事情も、イスラエルの過剰ともいえる周辺国攻撃と無関係ではあるまい。

 今回の紛争は国際経済にも大きな影響を与えている。昨年10月19日には、イエメン北西部を占拠するフーシー派がパレスチナ支援を名目に紅海を航行する船舶攻撃を開始した。その後、アデン湾やアラビア海にも攻撃の手を広げ、それによってアジア・中東・アフリカ・ヨーロッパを結ぶ通商の大動脈が滞ってしまった。フーシー派は、イスラエルがパレスチナ・レバノンへの攻撃をやめないかぎり、作戦を継続すると主張しており、日本にとっても他人事ではない(実際、日本関連船舶も攻撃されている)。

 また、日本への影響という意味では、原油価格も重要である。現時点では、中東において大きな衝突があると、一時的に油価が上昇することもあるが、深刻なレベルには達していない。1973年の第4次中東戦争・第1次石油危機時にあったようなパニックの再来は考えづらいが、サウジアラビアやUAEといった産油国に危機が飛び火するようなことがあれば、油価にも影響が出かねない。また、パレスチナに同情する民衆の怒りが、有効な手を打てない政権に向かうと、産油産ガス国がエネルギーを武器に用いることもありうる。

 

 もう一つ、今回、国際社会の反対を無視して、イスラエルが、民間人を標的にする攻撃をつづけたことで、世界中で反イスラエル感情が高まったことも指摘できる。ガザ戦争以前は、イスラエルのハイテク産業やスタートアップへの注目が高く、日本政府・企業も対イスラエル投資を熱心に進めていた。しかし、今回の事件で、イスラエルへの投資が鈍化しただけでなく、イスラエル企業に対するBDS(ボイコット・投資引揚げ・制裁)運動が活発化し、イスラエルから撤退する企業も出てきた。米国や日本を含むG7内でも、イスラエル批判の声は強まっている。仮に事態が沈静化したからといって、イスラエルへの投資がそう簡単に戻ってくるわけでない。

 ガザ戦争終結には、国際社会が一致団結して、解決に向けた努力を行わねばならない。しかし、世界の分断がそれを困難にしている。日本が、G7の結束を強化したり、イスラエルやアラブ・イスラーム諸国を説得したりするのは重要だが、米国の対イスラエル政策を変えさせる努力も必要になるだろう。

 

 


《ちの けいこ》 

横浜市生まれ。1967年に早稲田大学卒業、産経新聞に入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長。外信部長、論説委員、シンガポール支局長などを経て2005年から08年まで論説委員長・特別記者。現在はフリーランスジャーナリスト。97年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。著書は『戦後国際秩序の終わり』(連合出版)ほか多数。近著に『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)。

2024年11月4日号 週刊「世界と日本」第2280号 より

 

フジモリ元ペルー大統領の墓標

 

 

ジャーナリスト 

千野 境子氏

 

 1990年7月、南米初の日系大統領となったペルーのアルベルト・フジモリ氏が9月11日、86歳で死去した。天国と地獄を地で行くような波乱の生涯だった。改めてフジモリ元大統領の時代とその功罪を考える。

 

 今も瞼に焼き付いている光景がある。大統領就任1周年を前にした91年7月末、母親ムツエさんについての産経新聞連載「ペルー遥かな道」の取材で首都リマを訪れていた私は「パラシオ(大統領官邸)でアルベルトとご飯を食べるからウステ(貴方)も来なさい」とのムツエさんの言葉に、警護の車で一緒に官邸まで行った。ペルー大統領官邸の私的部分に足を踏み入れたのは後にも先にもこの時だけだ。

 夕食は既に終わり、フジモリ大統領(当時)は食堂で末子のケンジ君のためにリンゴの皮を剥き、傍らでスサナ夫人が一心にペンを走らせていた。7月28日の独立記念日兼就任1周年の大統領演説の準備中だった。

 あらあら、両親の役割がアベコベじゃないと思ったが、公的な場ではまったく見せたことのない温和で家庭的な子煩悩の大統領がそこにいた。

 振り返れば、この頃から2期目(95年〜2000年)の初め頃までが、フジモリ氏のもっとも輝いていた時期だった。

 就任時に8000%というハイパーインフレを、国際機関を含め誰もが不可能と考えた緊縮政策の断行により収束させ、連続爆弾テロで首都の住民を恐怖に陥れていた極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝く道)」には、歴代大統領として初めて対決姿勢で臨んだ。92年9月の最高指導者グスマンの逮捕に国民がどれほど歓喜し安堵したか、今では想像も出来まい。

 同年4月のアウトゴルぺ(自主クーデター)と呼ぶ憲法停止措置と議会閉鎖も、大統領が自ら立憲秩序を破壊したにも関わらず、私益に明け暮れる既成政党に絶望していた国民は喝采し、非常措置支持は90%を超えた。

 長引くインフレ、深まる経済危機、爆弾テロの日常化に、国民とくに貧しい大衆は救世主を待ち望んでいた。ペルー社会の非主流で無名の日系人学者フジモリ大統領の誕生は、こうした背景抜きにはあり得なかった。

 しかしそこには大統領失脚の一因ともなった強権的手法の萌芽が早くもあった。強権は一概に悪とは言えない。日本大使公邸占拠事件でフジモリ氏の武力による人質救出作戦を批判するのは易しいが、ではそれ以外の解決方法はあっただろうか。ただ強権は奏功すればするほど、権力者はそれに依存し、結局は独裁となる。フジモリ氏もその道を免れなかった。

 さらなる瑕疵はモンテシノス顧問の登用だ。軍人出身の弁護士で、南米コロンビアの麻薬カルテルや米中央情報局(CIA)などとの関係が指摘され、最初から政権の暗部だったが、有能ゆえに重用された。

 大統領になったものの軍に基盤を持たず、非白人が最高司令官になるのを良しとしない軍にクーデターの企みさえあったことを考えれば、モンテシノスの存在は心強かっただろう。

 しかし最初は虎の威を借りていたモンテシノスは、やがて国家諜報局(SIN)を操り、最後は大統領の首をとるモンスターと化した。

 

 2000年9月14日夜、モンテシノスが議員の買収工作をする生々しい現場ビデオが公表され、衝撃が走った。フジモリ氏は直ちにSIN解体を発表したが、そんな程度で事態は収まらなかった。

 11月16日、フジモリ氏はブルネイでのAPEC首脳会議出席の帰途、日本に立ち寄り議会に辞表を提出した。しかし議会は受理せず、21日に大統領罷免を可決、フジモリ政権は2期4カ月を以って終焉したのだった。

 約5年の日本滞在の後、05年11月に大統領選再出馬を目指し密かに離日した。直前のある日、会見に呼ばれた。「ペルー情勢はイイです」と終始笑顔で、何時にない高揚感も漂い、何があったのだろうと怪訝に感じたが、間もなくチリ経由でペルー入国を図り拘束されたことをニュースで知った。

 本当にそんな方法で帰国出来ると思ったのか。情勢判断の甘さと楽天家ぶりに驚いた。

 もっとも状況がどうあれ、それに左右されない楽天性は、私にはフジモリ氏の天性のように思える。ペルー移送後、大統領時代の市民虐殺事件で禁固25年が確定し、2017年10月に収監先の警護施設で会った際も、恩赦が近いと、明るく意欲満々だった。

 大統領として危機の時代を立て直したという自負と、職が未完に終わった無念さが、生きるエネルギーの源ではなかったかと思う。

フジモリ氏の大統領としての功罪は、牽強付会と言われそうだが、功の中に罪があり、罪の中に功がある。

 ただ明らかなことは、今日のペルーはフジモリ時代に築かれた基礎の上にあるということである。11月17日からリマでAPEC首脳会議が開かれる。フジモリ政権が太平洋国家の一員となることを目指してAPECに加盟希望を表明し、1998年にロシア、ベトナムとともに認められたからである。

 

 今年は日本人のペルー移住125周年である。フジモリ氏の両親も熊本から移住し、1938年7月に長男フジモリ氏が生まれた。ペルーの日系人は6世代20万人を数え、ブラジルに次ぐコミュニティを誇る。しかし日系人の政界進出にフジモリ氏がアクセルとブレーキ両方の役割を果たした点は否めない。

 また昨年は日本とペルーの外交関係樹立150年だった。中国がペルーをはじめ中南米に地歩を広げ、存在感の増した今こそ、本当は日秘関係の強化が必要であるにも関わらず、日秘関係もフジモリ氏によって近くなり、フジモリ氏によって遠くなった気がするのは、私だけだろうか。

 言い換えればフジモリ氏はそれほど大きく強烈な存在だった。

 大統領府はその死を悼み、ペルーは3日間の喪に服した。報道によれば、一般公開されたフジモリ氏の棺には数千人からの多くは庶民たちが追悼に長蛇の列を作り、ミサが行われた国立劇場周辺では「チーノ」「チーノ」とフジモリ氏を惜しむ声が聞かれたという。一方で「反フジモリ」もなお健在で、分断対立の克服はペルーでも課題だ。

 今はフジモリ氏が安らかに眠りにつくのを祈るのみである。

 


《いとう とおる》 

1969年広島県生まれ。中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程後期単位取得退学、博士。在インド日本国大使館専門調査員、島根大学法文学部准教授等を経て2009年より防衛大学校。2021年4月より現職。『新興大国インドの行動原理—独自リアリズム外交のゆくえ』、『インドの正体—「未来の大国」の虚と実』など著作多数。

2024年10月15日号 週刊「世界と日本」2279号 より

 

「世界第三の経済大国」へ向かう

 

インドの虚と実

 

防衛大学校 教授

伊藤 融 氏

 

 インドへの注目が集まっている。いまや世界一の人口大国となり、今後3年以内には日独を抜き世界第3位のGDPとなることも確実だ。対中リスク懸念が強まるなか、次の新興大国としての期待が寄せられる。ところが、この国はどういう国なのか?驚くほど知られていない。実際に付き合ってみると、当初のイメージとのギャップの大きさにたじろぐ日本人が多い。

 

 いくつか例を挙げてみよう。たとえば、インドと言えばIT大国で、有能な人材がたくさんいるはずだというイメージだ。インドは現在、20歳代前半の層だけで日本の総人口を超えるほど若年層が分厚く、インド工科大学(IIT)など、理工系の大学新卒者だけで年間100万人輩出するのは確かだ。しかしそのうち、すぐにコードが書ける人材はほんの数%にすぎないとも言われ、その多くが給与の高い米国に流出する。しかし残りの卒業生が、喜んで工場の生産ラインでモノづくりに携わるかというと必ずしもそうではない。プライドの高さやカーストの意識から、そうした仕事はしたくないと考える者も多い。他方で読み書き算盤さえままならない若者も依然多い。企業が進出したとき、適度な能力のある人材が安く簡単に見つかるわけではないのだ。

 

 それでもインドへの期待の声がやまないのは、中国と同じかそれ以上の成長市場であるうえに、中国とは違い、日本などと価値や利益を共有しているはずだというイメージがある。今後徐々に中間層が増え、市場としての潜在力があるのは間違いない。しかし、インドが西側の自由民主主義的な価値を共有しているというのは幻想にすぎない。カースト制は古くから根付いた慣習だが、現在のモディ政権下では「ヒンドゥー国家」を建設しようとする運動が進み、その過程ではムスリム排除やメディア、野党、市民団体の弾圧が深刻化した。これに対し、米欧の市民社会、議会、そして政府は批判を強めている。昨年秋には、カナダと米国で、現地のシク教徒活動家を印諜報機関が殺害した、あるいはしようとしたのではないかとの疑惑が持ち上がった。事実だとすれば、国際的な秩序やルールの点でも、西側と価値を共有しているとは言いがたくなる。

 

 もちろん、インドは選挙で政権交代の可能性があり、どんなに弾圧されても批判の声を上げ続ける市民社会の存在も健在だ。この点では、中国やロシアに比べればはるかに「まし」なのはいうまでもない。それに、価値はともかく、インドという国はかつて中国と戦火を交え、いまでも未解決の国境問題で攻勢を受けているのだから、少なくとも中国に対する脅威認識はわれわれと共有していて、その点で協力するはずだという言説がある。実際、明言こそしないものの、日米豪印4カ国の連携、「クアッド」の根底には、中国に対する警戒感があるのは間違いない。

 しかし、注意しなければならないのは、中国への脅威認識自体をインドが抱いているといっても、外交・安全保障政策において、日米豪など西側と常に協調するわけではない、いやむしろ正反対の行動をとることが少なくないという点である。インドはロシアのウクライナ侵攻ヘの避難を避け、ロシア制裁に同調せず、原油や肥料を大量に購入してきた。今年もワシントンでのNATO首脳会議の最中に、モディ首相はモスクワを訪問してプーチンと熱い抱擁を交わし、結束をアピールしてみせた。10月に予定されるロシアでの拡大BRICS首脳会合にもモディは出席を約束している。

 

 なぜなのか。端的に言えば、中国からの脅威を実際に受けている場の違いである。日米豪は海洋国家として東シナ海や南シナ海での中国の威圧的行動に懸念を抱いている。しかし、インドが感じる脅威は海だけではない。クアッドのなかでインドだけが、陸上で中国と向き合わねばならない大陸国家でもある。2020年の国境衝突以降、中国はインドの主張する実効支配線に入り込んだままだ。さらに西にはパキスタンという中国と蜜月関係を構築した伝統的な敵対国が存在する。そんななかで、パキスタンの向こう側にあるイランとアフガニスタンはインドにとって本来味方につけなければならないパートナーだが、米国はアフガンから撤退してタリバン政権の復活を許し、イランに対しては制裁を科し圧力を強める。ミャンマー軍政やバングラデシュのハシナ政権に対しても、米欧は批判的だ。インドは、いくら海洋において日米豪が味方に付いているといっても、ユーラシア大陸においては四面楚歌状態にあると感じている。だからこそ、ロシアという伝統的な友好国を失うわけにはいかないのである。

 加えて、インドは先進国ではない。モディ首相は独立後100年となる2047年までの先進国入りを目標に掲げるが、そのためには西側のルールや秩序に唯々諾々と従ってはいられない。だからこそ、エネルギー・食糧価格が高騰するなか、自らを「グローバルサウス」に位置づけ、ロシア産の原油や肥料を爆買いすることで国民生活を支え、経済成長を維持しようとしたのである。気候変動問題、WTOやインド太平洋経済枠組み(IPEF)など貿易分野でのルール形成においても、インドは西側先進国とは利害が真っ向から対立する。

 

 しかしながら、中国の権威主義と覇権主義的な傾向への懸念、ならびに日本の人口減少に伴う相対的な国力の低下という現実を踏まえると、労働・消費市場としても、外交・安全保障のパートナーとしても、中国とは異質の新興大国インドと付き合わないという選択肢はありえない。西側とはさまざまな違いがあることを認識しつつ、いまのうちに企業も国もインドに入り込み、インドにとって必要不可欠な存在になることが重要だろう。すでに米国は戦闘機のエンジン製造や半導体工場建設に乗り出した。そうすることで、既存の価値や制度に沿った行動を促す。インドと付き合う際には、そうした長期的な視野に立った戦略が求められる。

 


《せ てるひさ》 

政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)などがある。

2024年9月2・16日号 週刊「世界と日本」2276・2277号 より

 

安心して暮らせる日本を目指すー

 

「グローバル化」と「国際化」を考える

 

九州大学大学院 比較社会文化研究院教授

施 光恒 氏

 

主人公ではなくなった一般国民

 現在、「草の根保守」の日本人、つまり特定のイデオロギーなど持たない大多数の普通の日本人でも日本の現状や将来に不満や不安を抱いている。かつて日本は「一億総中流」と言われた。しかし今は昔だ。給料は上がらず職場のブラック化も止まらない。政治は頼りにならない。人手不足だというから勤労者を大切にし、正社員化や賃金引上げを図ってくれるかと期待しても、政治家は低賃金の外国人労働者を大量に入れるぞと言い出す始末だ。「外国人に選ばれる日本を作るべきだ」などとしたり顔で述べる輩も跋扈している。

 日本の経済や政治の主人公は日本の一般庶民ではなかったのか?

 

主人公はグローバルな投資家や企業

 1990年代半ば以降、日本を含む先進各国では新自由主義(小さな政府主義)に基づき、グローバル化路線がとられてきた。「グローバル化」とは「国境の垣根をできる限り引き下げ、ルールや制度、文化、慣習などを共通化し、ヒト、モノ、カネ、サービスの流れを活発化させる現象、およびそうすべきだという考え方」だと言える。

 グローバル化路線は先進各国に深刻な社会問題を生じさせた。国内の経済的格差の拡大、民主主義の機能不全、国民意識の分断などである。背景にあるのは、まさに各国の政治経済の主人公が一般国民からグローバルな投資家や企業関係者に変化したことだ。

 グローバル化以降、国境を越えて資本を動かす力を持つグローバルな投資家や企業の政治的影響力が、各国の一般国民よりも非常に大きくなった。グローバルな投資家や企業は、各国政府に対し、自分たちが稼ぎやすい環境を準備しなければ資本を他所へ移動させるぞと圧力をかけられるようになったからだ。「人件費を下げられるよう非正規労働者を雇用しやすくする改革を行え。さもなければ生産拠点をこの国から移す」「法人税を引き下げる税制改革を実行しないと貴国にはもう投資しない」などと要求できるようになったのだ。

 グローバル化以降、各国ではグローバルな投資家や企業の要求を受けた制度や政策が数多く作られ、社会のあり方が富裕層に有利になる一方、庶民層には不利になり、経済的格差が拡大した。政治的には、庶民層の声が、グローバルな投資家や企業関係者に比べ各国政府に届きにくくなったという点で民主主義の機能不全だと言える。加えて、グローバル化推進策から利益を得る層と、そうでない庶民層との意識面での分断や対立も招いた。

 

大多数の日本人の望みは「グローバル化」ではなく「国際化」

 この状態の改善のために、私が日本でまず必要だと思うのは「グローバル化」と「国際化」の区別である。現在、「グローバル化」批判は非常に難しい。グローバル化を批判すれば、外国や外国人との各種交流をすべて否定していると誤解され、「排外主義」「極右」などのレッテルを周囲から貼られる恐れがあるからだ。そのため大方の人はグローバル化批判を控えてしまい、ずるずるとグローバル化路線が続くこととなる。

 外国や外国人との交流の仕方は、当然ながらグローバル化だけではない。例えば「国」の役割を重視する「国際化」型の交流もあり得る。ここで「国際化」とは「国境や国籍は維持したままで、各国の伝統や文化、制度を尊重し、互いの相違を認めつつ、積極的に交流していく現象、およびそうすべきだという考え方」だと言える。

 現在の日本人は「グローバル化」と「国際化」のどちらを好むだろうか。それを調べるため、私の研究室では2023年12月に両者をめぐる質問紙を作成し、社会調査会社に委託し、全国約300名の18歳〜70代の成人を対象に調査を実施した。調査の際には、いずれの選択肢が「グローバル化」型、「国際化」型に当たるのかは回答者に示していない。設問や回答の一部を紹介したい。

 例えば、次の二タイプの「外国や外国人との交流の仕方」のうち、どちらが自分の望ましいと思う交流に近いかを尋ねた。タイプ①は「国境線の役割をなるべく低下させ、ヒトやモノなどが活発に行き交う状態を作り出し、様々な制度やルール・文化・慣習を共通化していく交流」(「グローバル化」型)であり、タイプ②は「国境線は維持したままで、また自国と他国の制度やルール・文化・慣習などの様々な違いも前提としたうえで、互いに良いところを学び合う交流」(「国際化」型)である。その結果、タイプ①の「グローバル化」型を選んだのは48名(16%)のみで、残りの252名(84%)はタイプ②(「国際化」型)を選択した。

 経済政策についても尋ねた。「あなたが考える日本の望ましい経済政策の基本方針は、次のうちどちらに近いですか?」というもので、選択肢は以下の二つだ。①「日本経済をグローバル市場の中に適切に位置づけ、投資家や企業に投資先として選ばれやすい日本を実現すること」(「グローバル化」型)、②「日本国民の生活の向上と安定化を第一に考え、国内に多様な産業が栄え、さまざまな職業の選択肢が国内で得られるようにすること」(「国際化」型)。①はまさに現行の経済政策である。②は庶民の生活の充実を図る路線である。こちらは適度に関税をかけることも厭わない。結果は①の「グローバル化」型を選んだ者は27%(80名)、②の「国際化」型は73%(220名)であった。

 他の設問でも「多文化共生」「教育目標」「移民と国際援助」などについて同様に尋ねたが、概ね4人中3人強という多数派が「国際化」型のほうを好むという結果が得られた。

 

草の根の庶民が主役になれる国づくりを取り戻せ

 現在の日本では「グローバル化」と「国際化」はほぼ区別されていない。それゆえグローバル化の批判は非常に難しい。「排外主義」「極右」などのレッテル貼りを恐れ、大半の人はグローバル化批判を控えるからだ。「グローバル化」と「国際化」を峻別し、建設的な議論の環境を作り、一般庶民が主人公の国づくりを取り戻すべきである。

 


《にわ ふみお》 

1979 年、石川県生まれ。東海大学大学院政治学研究科博士課程後期単位取得満期退学。博士(安全保障)。2022 年から現職。拓殖大学国際日本文化研究所所長、大学院地方政治行政研究科教授。岐阜女子大学特別客員教授も務める。著書に『「日中問題」という「国内問題」—戦後日本外交と中国・台湾』(一藝社)等多数。

2024年8月19日号 週刊「世界と日本」第2275号 より

 

日台関係強化のために乗り越えるべき壁

 

—『言語教育』と『歴史教育』の再考を—

 

拓殖大学 政経学部教授

丹羽 文生 氏

 

 去る5月20日、台湾で新たに頼清徳政権がスタートした。民進党は3期連続で執政を担うことになった。

 「台湾独立工作者」を自称する人物がトップに立ったことが、よほど気に入らないのだろう。中国人民解放軍は就任直後から台湾全土を取り囲むように、大規模な軍事演習を2日間にわたって実施した上、就任式当日には在日中国大使館で開催された座談会において、総統就任式に日本から国会議員30人超が参加したことに触れた呉江浩駐日中国大使が、日本が「台湾独立」に加担すれば民衆が火の中に連れ込まれると恫喝、波紋を広げた。何とも大人げないが、習近平主席の機嫌を取るには、そのくらいの忖度が必要なのかもしれない。

 

 頼清徳総統は就任演説で、中国とは全く対照的に台湾には「民主主義と自由の価値」が完全に定着し、民主主義指数のランキングでも、世界の自由度を計る国際比較でもアジアのトップクラスに数えられていると述べた上で、「台湾を民主主義世界のMVP(最優秀選手)に」すると力強く訴えた。その瞳の奥には自信と誇りが漲っていた。

 ただ、やはり心配なのが、中国による台湾への武力侵攻である。中台統一を最大目標に掲げる習近平政権は台湾への武力侵攻も辞せずという態度を崩していない。

 そのため、台湾の人々の多くは「現状」を変えることへの不安を感じており、「台湾独立工作者」を公言する頼清徳総統も、台湾は「主権国家」であって今さら独立を唱える必要はないというスタンスに立っている。これは台湾における大多数の民意に沿ったものである。

 就任演説でも「へつらわず、高ぶらず」に「現状維持」を堅持すると強調しており、既支持層からの不満が出ないよう中国に妥協せずの構えを見せながらも、一方で刺激もせずに、適度なバランスを保っていくことになろう。そのため、激烈な変化は生じないと推測される。

 

 もう一つ気になるのが今後の日台関係である。頼清徳総統は生粋の親日家としても知られている。毎年5月8日には、「日本時代」に台南にある烏山頭(うさんとう)ダムを始めとする「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれる灌漑(かんがい)施設を完成させた日本人土木技師の八田與一(はったよいち)の慰霊祭に台南市長当時から参列しており、日本人実業家の林方一が創業した市内にある林百貨(旧ハヤシ百貨店)といった歴史的建造物の保存にも取り組んできた。

 2017年1月、台南市長として日本記者クラブでスピーチを行った際は「私が小さい頃、周りの大人たちは、何か大きな困難に見舞われた時には、常に『「死んでも退くな」という日本精神を持て』と言っていましたので、私はこの頃から日本に非常に興味を持っていました」と語っている。

 2022年7月には、現職副総統として銃撃され死去した安倍晋三元首相の弔問に訪れた。これは1972年9月の日中国交正常化に伴う断交以来、最高レベルの高官の来日となった。

 総統就任直前には、台湾と日本は「見えない1本の糸」で固く結ばれていると述べ、「台湾有事は日本有事」であり、「日本有事は台湾有事」であるとして連携強化を唱えている。「親日政権」誕生は、日台関係にとって好機到来と見ていいだろう。

 しかしながら、中長期的に見れば日台間に横たわる課題も多い。確かに頼清徳は親日家であることは事実だが、知日派というわけではない。日本に留学したことがあるわけでもなく、日本語ができるわけでもない。政権内には「日本専門家」もいない。

 

 かつては、李登輝元総統に代表されるように、政権中枢に日本通と呼ばれる大物が何人もいた。彼らは「日本時代」の台湾に生まれ育った本省人、いわゆる「日本語世代」である。国共内戦に敗れ、中国大陸から台湾に逃れて来た外省人でも、蒋介石の腹心だった元総統府秘書長の張群のように陸軍士官学校に学んだ長老たちが数多く見受けられ、中国語(台湾華語)のできない日本の政治家たちとも上手くコミュニケーションを図ることができた。

 しかし、今日の台湾社会を担う40〜60歳代のエリートたちは、ほとんどがアメリカ留学組である。「日本語世代」の大半は今や90歳代で、そう遠くないうちに彼らは全員、天に召される。

 今、日本の政治家の中で中国語ができるのは、せいぜい外務省のチャイナスクールと呼ばれる元外交官か大手企業の元中国駐在員くらいである。ましてや台湾留学組など見当たらない。言語環境の整備は、日台関係を深化させるための重要な鍵となろう。

 頼清徳総統は行政院長だった頃、台湾での英語公用語化を打ち出したことがあった。日本人の英語力は、台湾の人々と比較しても著しく低い。英語教育見直しが必要である。

 言葉だけではない。近現代史教育軽視が原因なのか、若い人々を中心に、かつて台湾が「日本」だったことすら知らない日本人もいる。近現代史は年代的に後になるため、受験直前期と重なり、結果、多くの中学校、高校が歴史科の授業で近現代史を十分に扱わず、単語の丸暗記で終わっているからであろう。

 

 新型コロナウイルス禍による厳しい状況は未だに尾を引いてはいるものの、台湾と言えば修学旅行先としても人気がある。

 ところが、事前学習を怠っていたためか、台湾の旅行会社に勤務する日本人の知人によると、以前、ある高校の生徒が、現地で接した「日本語世代」の高齢者に対し、なぜ日本語が話せるのかと尋ねことがあったという。相手も相当なショックを受けたらしい。2022年度から高校で近現代史をメインとする新科目「歴史総合」がスタートしたが、主なテキストを見ても、「日本時代」の台湾に関する説明は、ほとんど触れられていない。

「言語教育」と「歴史教育」の壁を、いかしにして克服すべきか。いずれも台湾側というより、日本側に求められる喫緊の課題である。蔡英文政権に続く「親日政権」が発足した今こそ再考すべきであろう。

 


《あらき かずひろ》 

1956年東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒。民社党本部勤務の後97年から拓殖大学海外事情研究所講師、その後助教授を経て現職。予備役ブルーリボンの会代表。2003年から18年まで予備自衛官。著書に『「希望」作戦、発動 北朝鮮拉致被害者を救出せよ』他。

2024年8月19日号 週刊「世界と日本」第2275号 より

 

拉致解決、最後の首脳会談から22年を超えて

 

 

拓殖大学 海外事情研究所教授
特定失踪者問題調査会代表

荒木 和博 氏

 

 最近ときおり日朝の水面下交渉の話がマスコミに報じられている。私にもときどき問合せがあるが、何の情報もないので答えられないというのが正直なところだ。それでも火のない所に煙は立たないわけで、何らかの交渉は行われているのだろう。

 

 今回の交渉がどの程度のものなのかについては、22年前、平成14(2002)年9月17日の第一次小泉訪朝と比べてみると分かりやすい。あのときは直前まで誰も知らなかった。私が知ったのは公式発表があった8月末のことで外務省の中ですら知っていたのは交渉の実務者田中均アジア・大洋州局長と周辺の数人だったと言われている。

 それだけ情報保全に神経を使い、実務者も日本側は田中均という優秀な外務官僚、北朝鮮側は金正日の信認の厚かった保衛部の柳京(リュギョン・当時は「ミスターX」と呼ばれていた)であり、そしてトップは小泉純一郎という特異なキャラクターの首相と、今の金正恩よりははるかに国家を掌握していた父金正日という布陣である。だからこそ北朝鮮に拉致を認めさせ、5人の帰国までこぎ着けることができたのである。それと情報ダダ漏れの現在を比べれば、行われている交渉がどの程度のものか想像はつく。

 そんな中、7月6日付の時事通信が興味深い報道をした。韓国の拉北者(拉致被害者)家族会会長である崔成龍氏が北朝鮮筋からと思われる情報で、日本政府が横田めぐみさんの娘ウンギョンさんの日本への往来を北朝鮮に求めたとの話を明らかにしたのである。真偽は不明だが、あっても不思議ではない話だ。それを一つの取っ掛かりにしようということだろう。

 この話を聞いて感じたのは、日本政府が行っているのは大体このレベルであって直接被害者を取り返す交渉などしていないということである。このレベルの交渉を糸口にして救出(政府は「帰国」というのが普通だが)までたどり着くのには何年かかるだろうか。

 

 「やっています」という言い訳のために、これまで拉致問題はずっと足踏みを続けてきた。「自分の政権で拉致問題を解決する」と語り歴代最長の政権を誇った安倍総理でも何も変えることができなかった。それどころか安倍政権当時の平成26(2004)年のストックホルム合意では北朝鮮側が出してきたリスト(そこには政府認定拉致被害者の田中実さん、特定失踪者金田龍光さんが入っていたという)の受け取りを安倍総理が拒否している。

 このことは当時の拉致問題担当大臣である古屋圭司衆議院議員や外務事務次官だった斎木昭隆氏がマスコミに語っており、救う会全国協議会の西岡力会長も安倍元総理から直接聞いたと話している。もちろん様々な経緯があってのことだろうが、その後誰も取り返していないという結果から考えれば「解決」どころか「後退」だったのだ。

 

 なぜこの状態が続いてきたのだろう。それは私たち(あえて国民全てという意味で)が拉致問題の本質を何かしら感じながら避け続けてきたということではないだろうか。政治家も、官僚も、報道関係者も、そして私たち民間も。

 私はその「本質」は次のようなものではないかと思っている。

 

① 拉致問題は国家主権の侵害、言い方を変えれば「戦争」であり、武力の使用をも視野に入れない限り交渉も成り立たないということ。

② 拉致問題は「あってはならないことだから、なかったことにしよう」と、おそらく半世紀以上の長期にわたって隠蔽されてきた国内問題であること。

③ ①と②の根本にあるのは敗戦後占領期から続く日米関係が強く影響しているということ。

 

 拉致には様々な形態がある。横田めぐみさんのように最初から暴力的に連れて行かれた人もいれば、石岡亨さんや松木薫さん、そして有本恵子さんのようにとりあえず自分の足で入って出られなくなった人もいる。しかしいずれにしても北朝鮮の国家目標であった「南朝鮮解放」のために連れて行かれたのだからそれを取り返すのに交渉だけでできるはずがないのである。

 

 日本国内の誘拐立てこもり事件でも交渉するのは警察だ。犯人は逮捕されたり、場合によっては射殺される可能性もあるからそれなりに緊張して話し合いをするのである。交渉するのが町内会長だったら交渉にはならないだろう。武力の裏付けがあり、場合によっては攻撃を受けるかもしれないと考えてこそ北朝鮮は拉致被害者を返す話し合いに乗ってくるというものだ。

 

 ②の隠蔽の話は挙げればきりがない。代表的なものは「山本美保さんDNAデータ偽装事件」で、ここでは詳説している余裕がないが、関心があればこのタイトルで検索してもらいたい。小泉政権当時、官邸の一部が画策して特定失踪者山本美保さんと、無関係な身元不明遺体を結びつけて拉致問題の収束を図ろうとした事件である。この事件に関わった面々はその後国会議員になったり内閣情報官になったり県警本部長になっている。誰一人として責任を問われた人間はいない。

 拉致事件の象徴たる横田めぐみさんの事件ですら事件当時から北朝鮮による拉致だと分かっていたのに隠蔽され、明らかになったのは民間の力によるものだ。隠蔽が積もり積もってだれもそのかさぶたを剥がすことができない、逆に言えば事態が明らかにならず、時間が経過して当事者が死んでしまうことを望んでいる人間が何人もいるということだ。

 

 最後に③だが、結局はこれが全ての根元なのではないかと思う。戦争に負けてわが国は米国に逆らう気概を失い、戦前は全て悪、米国の言うことを聞いていれば良いという意識は私も若い頃ずっと抱いてきた。そういう教育も受けてきた。私自身今も米国コンプレックスのようなものがないと言えば嘘になる。

 他に選択肢がなかったと言えばそれまでだ。しかし、苦しくても「いつか必ず」と思ってやってくるべきではなかったのか。それをしていないから正面から国家国民を守ることもせず、「米国に守られている日本は平和であり、その平和な国から国民が拉致されるなどあってはならないことだ。だからなかったことにしよう」となってしまったのではないだろうか。

 私自身誰かを責める資格はないが、ともかくこの現状を打開するために、地を這っても闘い続けるべきだと思うのである。

 


《しゃ  ちょうてい》 

1946年台北市生まれ。国立台湾大学卒業。大学在学中に弁護士試験をトップの成績で合格。司法官試験も合格。74年日本・京都大学法学修士後、同大学博士課程修了。台北市議会議員、立法委員(国会議員)、高雄市長を歴任。民主進歩党主席、行政院長(首相)、2007年第12代総統選挙民主進歩党候補者、16年6月より現職。

2024年8月5日号 週刊「世界と日本」第2274号 より

 

台湾の現状を維持するために

 

民主主義陣営は団結を

 

頼総統の対話呼びかけと対極の中国軍事演習

台北駐日経済文化代表処代表

謝 長廷 氏

 

 台湾の頼清徳総統(大統領)は、5月20日の就任演説で、台湾海峡両岸政策について「現状維持」の継続を表明した。頼総統は、中華民国(台湾)と中華人民共和国(中国)が互いに隷属しないことを強調した上で、中国に対し、民主選挙で選ばれた台湾の合法的な政府と対等・尊厳の原則の下で、「対立ではなく対話を」、「封じ込めではなく交流を」と呼びかけた。

 これに対し、中国は5月23日から2日間にわたり、台湾を包囲するように軍事演習を実施し、台湾の人々を恫喝した。中国の董軍国防相は6月2日にシンガポールで開かれた「アジア安全保障会議」で「台湾は中国の一部だ」と主張した上で、「台湾を中国から分裂させるものは粉々に打ち砕かれ必ず自滅する」と脅迫した。さらに中国は台湾とのECFA(両岸経済協力枠組協議)に基づき実施されてきた134項目の関税優遇措置を一方的に取り消し、経済面からも台湾に圧力をかけている。

 その上、中国は「両岸は同じ一つの中国に属する」、「台湾海峡の中間線は存在しない」と嘯き、台湾の防空識別圏への軍機侵入を毎日のように繰り返している。今年に入り、中国は台湾との協議なしにM503南行き航空路を西寄り(大陸寄り)にずらす従来の措置を取り消し、W122及びW123航空路についても西から東(台湾海峡中間線に向かう)への運航を始めた。このようなグレーゾーン戦略は、台湾海峡を国内水域化し、台湾への武力侵攻に備える意図がある。これらの中国の敵対的な行動は、台湾海峡の現状を一方的に破壊し、緊張をエスカレートさせるものだ。

 

 台湾の大陸委員会が5月30日に発表した世論調査によると、頼総統の就任演説の中で、中華民国の存在事実を直視し、民主選挙で選ばれた合法政府と対等・尊厳の原則で対話と交流するよう中国に呼びかけたことに85%を超える台湾の人々が賛成している。一方、「大陸と台湾が同じ一つの中国に属し、台湾は中国の一部であり、台湾独立分裂と外部からの干渉に反対する」という中国政府の主張に対しては、77%の台湾の人々が同意していない。つまり中国政府の一方的な主張は台湾の民意とかけ離れている。

 

国連総会2758号決議は台湾に言及していない

 

 中国は最近、1971年の「国連総会2758号決議」(アルバニア決議)を曲解し、中華人民共和国が国連における「中国」代表権を得たことと、中国が主張するいわゆる「一つの中国原則」を結び付け、台湾が中華人民共和国の一部であることが国際社会で承認されたかのように強弁し、台湾の国際機関参加を妨害する理由としている。

 しかし、「国連総会2758号決議」は台湾について一言も言及されておらず、同決議は台湾を中華人民共和国の一部と認めたわけではなく、中華人民共和国に国連における台湾の代表権を認めたものでもない。中華人民共和国は1949年の建国以来、そもそも台湾を統治したことはなく、台湾は絶対に中華人民共和国の一部ではない。これは長年にわたる台湾海峡の現状であり、疑いようのない客観的事実である。

 

 日本は「国連総会2758号決議」が通過した翌年の1972年に中華民国(台湾)と断交したが、だからといって台湾の政府が消滅したり、中華人民共和国に吸収された訳ではないことは明らかだ。しかも台湾は1980年代後半より民主化の道を歩み、国自体は小さいが、国民1人1人の自由や幸福が保障されていることは台湾の誇りである。台湾は日本と自由、民主主義、人権といった普遍的価値観を共有し、正式な国交こそないものの経済、文化、観光、学術などさまざまな分野で緊密な協力関係が築かれている。とりわけ、台湾と日本は、自然災害や新型コロナウイルスのようなパンデミックが発生した際に、互いに支え合い、共に困難を乗り越える「善の循環」が形成されている。これは隣国関係の模範であり、世界平和の手本となるものだ。

 

台湾の民主社会を中国が奪う権利はない

 

 台湾は国際社会の責任ある一員ならびに善良な力として、今後も台湾海峡および地域の平和と安定の現状の維持に努めていく所存である。

 しかし中国は近年、台湾及びアジア太平洋地域の国に対する軍事的恫喝、経済的脅迫、グレーゾーン戦略などを強化しており、その覇権主義的体制の本質を隠さないようになっている。

 中国が台湾に対して武力行使または脅迫することは、国際法における合法性や正当性を持たないばかりか、地域の平和と安定を破壊するものである。台湾の民主社会は、何代にもわたり台湾の人々が血と汗を流してようやく勝ち取ったものであり、中国にこれを奪う権利などない。

 

民主主義陣営はさらなる団結を

 

 台湾は長きにわたり権威主義の拡張に対抗する民主主義陣営の第一線に立ってきた。もし中国による台湾への武力侵略が発生した場合、ルールに基づく自由、民主主義の国際秩序が破壊され、地域の平和と安定も維持できなくなる。台湾海峡は海運・空運交通の主要なルート上にあり、世界の40%以上の海運貨物が台湾海峡を通過し、毎年のべ約200万機もの飛行機が通過しており、台湾有事はインド太平洋地域および世界の海運・空運、貿易・流通に重大な衝撃を与えることになる。また、台湾には世界で最も先進的な半導体産業クラスターがあり、半導体チップの60%以上、先端半導体チップの92%が台湾製であり、このグローバル・サプライチェーンが破壊されると世界は計り知れない経済的損失が発生する。日本も無関係ではいられない。

 中国が軽率な軍事行動をとることのないよう思いとどまらせ、台湾海峡の現状を維持していくために、台湾との安全保障分野を含む緊密な連携がかつてなく重要であり、今こそ民主主義陣営のさらなる団結を呼びかけたい。

 


《みのはら としひろ》 

1971年生まれ。神戸大学大学院法学研究科教授。専門は、日米関係・国際政治・安全保障。カリフォルニア大学デイヴィス校を卒業後、98年に神戸大学大学院法学研究科修了、博士号(政治学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、神戸大学法学部助教授を経て、2007年より現職。19年よりインド太平洋問題研究所(RIIPA)理事長に就任。清水博賞、日本研究奨励賞を受賞。

2024年8月19日号 週刊「世界と日本」第2275号 より

 

異例の米大統領選-その顛末と日本の備え

 

神戸大学大学院法学研究科教授

インド太平洋問題研究所理事長 

簑原 俊洋氏

 

 今年は稀に見る選挙の当たり年で、世界各地で国政選挙が実施された、または実施される。ある統計によれば、最終的に世界総人口の約半数の国や地域で選挙が行われるそうだ。すでに選挙が済んでいる一部の国だけを挙げても、メキシコ、台湾、インド、欧州連合(EU)、イラン、イギリス、フランス等々、歴史的な選挙結果が多かった。とはいえ、世界が固唾を呑んで結果を見守る選挙が、11月6日(日本時間、以下同)に開催される米国の大統領選挙である。

 なぜなら、誰が自由主義陣営を牽引する超大国のトップ・リーダーになるかによってその後の国際政治の趨勢が変わるゆえに、到底無関心ではいられない。当然、安全保障の礎を日米同盟に置く日本としても、誰が次の大統領に就任するかは重大な関心事項である。むろん、有権者ではない日本国民は候補を選り好みする立場になく、どの候補が大統領になったとしても、良好な日米関係の持続は不可欠であるゆえに、適切に対応するための備えは必要となる。

 

 では、以上を踏まえて、大統領選挙の結果はどうなるのであろうか。筆者は、6月28日のCNN主催の第1回大統領討論会の前は次のような見解であった。この度の選挙は接戦であるのは間違いない上に、そもそも9月時点まで支持率調査のデータはさほど意味を持たない。他方、秋ごろにはトランプ氏の当選がより現実味を帯びることで、民主主義の将来を憂い、何が何でも彼の再選を阻止しなければと考える無党派層が結集して、最終的にバイデン氏が僅差で勝利するであろう、と。実際、トランプ氏を頑なに支える岩盤支持基盤層—いわゆるMAGA—を打ち砕くためには高い投票率が必須条件となり、戦後2番目に高い数値となった4年前の選挙の66%の投票率を超えれば勝算は十分あると考えた。

 しかし、討論会を経て、この分析を変えざるを得なくなった。討論会でバイデン氏が露呈したのは、覇気のない疲れ切った老人の姿であった。トランプ氏の無数の虚偽に対しても効果的に反論できず、自らの主張についても途中で何を言いたいのか忘れたのか、時として支離滅裂な議論を展開した。その上、声は掠れて弱々しかっただけでなく、言葉が不明瞭かつ語尾の繰り返しが多く、意味が通じない場面も多くあった。さらに、トランプ氏が話している間、彼の口は半開きで、目の焦点は定まらず、まるで幽体離脱しているかのようであった。認知症が疑われても仕方がないこの不甲斐ないパフォーマンスにより、大統領として果たしてもう一期を無事に全うできるのかについて大きな疑問符が付いたのは当然である。事実、彼を支持するメディアの反応は凄まじく、米ニューヨーク・タイムズや英エコノミストは挙って現職大統領に大統領選からの撤退を呼び掛けるほどであった。

 

 本稿が掲載される8月上旬には、共和党の党大会はすでに終わり、トランプ氏の副大統領候補も明らかとなっている。この人選は、バイデン氏が「年齢」で躓いたことを踏まえれば、若さをアピールできる候補が優先される可能性が高い。また、トランプ氏の3期目はないため、必然的に副大統領候補が今後の共和党を率いていく最有力の人材となる。逆に、民主党は目下危機的なジレンマに陥っている。予備選挙も終わり、あとは党大会でバイデン候補を正式指名するだけだったはずが、大統領に対する退陣要求が日増しに強くなっている状況だ。もしバイデン氏が堪忍して大統領選から退くことがあれば、党大会直前になって大波乱が起きる可能性も否定できない。このように、現在の民主党は前代未聞の状況の最中に置かれている。仮にバイデン氏が撤退した場合、3カ月後に迫る大統領選挙で体制を早急に仕切り直してトランプ氏とまともに戦える筆頭格の候補は必然的にハリス副大統領となる。彼女の巷の評判と知名度はともかくとして、予備選挙をバイデン=ハリスのチケットで戦った以上は、正当性の観点からも彼女が最も優先されるべきであろう。さらに、もしマイノリティーの女性が勝利すれば、それは米国の歴史が塗り替えられることになると共に国家も大きく前進したことを意味し、これも民主党に相応しいと言える。

 

 米大統領選がこうした異例な状況下にあるため、現時点でどの候補が勝利するかという予想は至極困難だ。まずは、民主党の候補はバイデン氏のままであるのか、あるいは別候補と交代するのか、こちらが定まらなければそもそも結果予想などできない。となれば、この問題が最終決着する8月20〜23日の党大会にもっぱら世界は注視することになる。通常はセレモニー的な党大会が、歴史的なイベントになるかもしれないのである。

 とはいえ、こうした不透明な要素が多い中でも備えは十分にできる。民主党のどの候補が大統領になったとしても、対日政策は大きくは変わらず、同盟重視政策は継続される。他方、激震が走るのはトランプ氏が再選した場合である。トランプ陣営が管理する「アジェンダ47」のウェブサイトに基本方針が全て掲げられているため、ここではその内容を繰り返さないが、同盟軽視、保護貿易主義、対価を求める対外政策、さらには親ロ路線等、日本への負の余波が相当大きくなることが容易に想像される。ならば価値を共有するEU諸国、韓国、カナダ、オーストラリア等と現段階から連携を取り、トランプ再選という恐怖のシナリオにいかに対応するのか、国ごとのちぐはぐな対応ではなく、足並みを揃えて面として対応できるようなコンティンジェンシー(緊急時対応)計画を用意しておくことこそが国益と合致しよう。

 躊躇なく言えるのは、トランプ2・0はトランプ1・0と比較にならないほど国際政治に波乱をもたらし、日本を含む価値を共有する国家群に対して幾多の苦難をもたらすとということである。だからこそ、プーチン氏が米世論をトランプ氏に大きく引き寄せる「オクトーバー・サプライズ」を突如仕掛けたとしても、決して驚くべきことではないのだ。

 


《かわぐち  まーん  えみ》 

85年シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。最新刊は『優しい日本人が気づかない残酷な世界の本音』(ワニブックス)など著書多数。

2024年7月15日号 週刊「世界と日本」第2273号 より

 

名目GDPがドイツに抜かれた!

 

ドイツの実態は?

 

作家 (独ライプツィヒ 在住) 

川口 マーン 惠美氏

 

 脱産業に向かってまっしぐらのドイツ。産業が逃げ出す一番の原因は電気代だ。電気は高いだけではなく、供給が不安定。最近、ドイツ商工会議所が無作為に抽出した1000社を対象に実施したアンケートでは、そのうち28%の企業が、昨年1年間に3分以上の停電を経験したと答えた。3分未満の停電は42%。つまり、7割が停電に見舞われている。

 家庭の冷蔵庫が3分止まってもどうってことはないが、高度な技術を駆使している製造業では、数秒の停電は致命的だ。いや、停電どころか、周波数が揺れるだけで大問題。印刷や紡織ではたちまち不良品が生じるし、作業途中で止まってしまったロボットは、通電したからといって勝手に息を吹き返すわけではなく、一から複雑な調整が必要になる。

 

 先のアンケートによれば、停電による経済的な被害は、1万ユーロ未満が32%、1万から10万ユーロが15%、それどころか2%の企業では、10万ユーロ以上だったという。ところが、ドイツで送電を担当している連邦ネットワーク庁は、3分未満の停電は把握していないとか。電気事情の劣悪さを隠すためであるとしか思えない。そういえばドイツ鉄道の統計でも、6分未満の遅延は“定刻”とカウントすると決めている。

 いずれにせよ、極めて質の高い電力を要求する産業界にしてみれば、これではおちおち生産もできない。そこで起こっているのが、沈みかけた船からの脱出。直近だけでも、テュッセン=クルップ(鉄鋼大手)、BASF(世界一の化学コンツェルン)、メルセデス、ポルシェ、ミーレ(家電大手)、ケルヒャー(世界一の清掃機器大手)など、これまでドイツを牽引してきた優良企業が、製造過程の一部を海外に移転させ始めた。

 それどころか、若くて優秀な人間の流出までが急増している(この10年で63・5万人)。それにしても、なぜ、政府はここまで放っておいたのか? 皆が持つ疑問である。

 現ショルツ政権(社民党)は緑の党と自民党との3党連立だ。21年12月に成立して以来、功績はほとんど何一つ無い政権だが、それでも、産業衰退の全責任を彼らに押し付けるわけにもいかない。脱原発を前倒しにし、脱石炭を打ち出し、国民が気づかないうちにドイツを弱体化させ、しかも左旋回させたのは、何を隠そう、16年も続いたメルケル政権だった。

 ゆえに、産業界が“アフター・メルケル”のショルツ首相にかけた望みには、並々ならぬものがあった。特に、何年も前から脱原発による悪影響を警告していた彼らは、ショルツ氏が直ちに現実政治に舵を切り換えることを期待した。

 

 ところが蓋を開けてみたら、氏は忠実なメルケルの僕で、メルケル氏が水面下で行っていた産業弱体化政策を堂々と実行に移し始め、挙句の果てに、エネルギー危機の真っ最中に、緑の党の思惑通り、全ての原発を止めた。これにより、ついに産業界の堪忍袋のは切れ、投資家は匙を投げた。要するに、ドイツ経済にとっての決定的な不幸は、実は、現ドイツ政府であったといえる。

 中でも1番の問題人物は、元童話作家で、経済音痴のハーベック経済相(緑の党)。温室効果ガスを減らせば地球の温度が下がり、かつ、経済が上向くと確信している氏だが、実際のところ経済は急降下中。昨年11月、OECDはドイツの24年の経済成長を0・6%と予測したが、2月にそれが0・3%に、さらに5月には0・2%に下がった。まだ下がるかもしれない。3月6日のドイツの公的研究機関のifo経済研究所によれば、ドイツ経済は「麻痺した状態」で、他の欧州の主要国と違い、当面、伸びは期待できないという。

 

 一方、昨年、減少したのがCO2の排出。喜んだハーベック氏は記者会見で、「これこそが我々の政治の成果だ」と威張ったが、実は、その第一の原因は、エネルギー多消費産業が生産を縮小したり、国外に出たり、あるいは倒産してしまったことだった。不況になればCO2は減る。喜んでいる場合ではない。

 ところが、この経済音痴の経済大臣は、T Vのトークショーで「倒産の波」について質問されると、「いくつかの業種が生産を止めることはありうるが、倒産ではない」と真剣な面持ちで答えた。また、今年の2月、政府が過去の2年続きのマイナス成長を報告した後の国会答弁では、経済状態が悪いのではなく「数字が悪いだけだ」と言って失笑を買った。そうする間に緑の党の支持率は、前回の選挙時の半分にまで下がってしまった。

 ドイツ連邦統計庁の発表では、4月の破産の申し立て件数は、前年同月比で28・5%も増加(3月は12・3%)。昨年6月より10カ月連続で2桁の伸びだ。しかもドイツ政府は現在、深刻な金欠に見舞われている。税収が少ないわけではない。出費が多過ぎるのだ。そのため自民党のリントナー財相が各大臣に、それぞれ節税案を提出するよう求めたが、大臣の多くは聞く耳を持たなかった。

 経済相は再エネへの莫大な投資をやめようとせず、内相は難民援助を止める気はない。また、23年1月からお金のない人なら誰でももらえるいわゆるベーシックインカムを導入した労働相は、24年1月、その額をさらに引き上げたし、開発相は途上国に対する援助の増額を求め(22年は290億ユーロだった)、外相はさらに多くの武器をウクライナに送りたい。

 

 ドイツでは財政規律が基本法(憲法に相当)により厳しく定められており、新規借入がしにくい。そこで、これら財務の穴を塞ぐため、すでに猛烈な増税、あるいは補助金のカットなどが始まっている。その昔、絶対主義のイギリスやフランスでは、支配者が窓税や暖炉税といったとんでもない税金を徴収したが、O ECD諸国でドイツよりも税負担の大きい国は、今やベルギーのみ。新規に導入された炭素税、プラスチック税は、氷山の一角に過ぎない。

 そんな折り、ドイツが名目GDPで日本を抜いたというニュースが駆け巡った。

 しかし、これはドイツが日本を抜いたのではなく、日本が勝手に落っこちたのだ。そのうちインドあたりが、日本を抜き、さらにドイツを抜くだろう。共に経済成長の高みを極めたドイツと日本は、奈落も共にする? 何だか悲しい話になってしまった…。

 


《しまだ よういち》 

1957年大阪府生まれ。専門は国際政治学。主に日米関係を研究。京都大学大学院法学研究科政治学専攻課程を修了。著書に『アメリカ解体』、『三年後に世界は中国を破滅させる』(共にビジネス社)など。最新刊に『腹黒い世界の常識』(飛鳥新社)。

2024年7月8日号 週刊「世界と日本」第2273号 より

 

混沌米国大統領選を読み解く

 

 

福井県立大学 名誉教授 

島田 洋一氏

 

 世界が注目する米大統領選(11月5日投開票)。以下、その争点と意味を考えたい。

まず移民問題。トランプが強化した米・メキシコ国境の管理を、バイデンが大幅に緩めた結果、不法越境者が急増した(2021年以来の累計で約1千万人)。

 その結果、与党民主党内でもバイデン批判が顕在化してきた。移民問題は目下、大統領選の争点調査で1位となっている。

 

 不法越境者や不法滞在者は、経済的理由や犯罪目的の入境であっても、強制送還を避けるため「本国で政治的・宗教的迫害を受けた」と難民申請するのが常だが、トランプは「メキシコで待て」(remain in Mexico)政策で対応した。

 すなわち、法に基づいて難民審査を行い、該当する人物は受け入れるが、順番が来るまでの間はメキシコ領内で待ってもらう、アメリカには入れないというものである。

 これを、国境地帯での「難民キャンプ生活」を強いる非人道行為と非難したバイデンは、入国を許した上で、米国内の知人や支援者の家で審査の日(通常数カ月後)を待つ形でよいと改めた。当然ながら、指定の日に現れず、そのまま姿を消す人が続出する。

 子供を連れていると一層当局の対応が甘くなるため、他人の子を斡旋するブローカーも暗躍している。一旦アメリカに入境してしまうと子供は足手まといとなるため、路上に放置する例も続出した。綺麗ごとの「人道的対応」が新たな非人道的事象を生んだわけである。

 

 身内の民主党からも「もはや受け入れは限界」と悲鳴の声が上がるに至り、バイデンは6月4日、「新政策」を打ち出した。すなわち、越境してくる「難民申請者」が2500人を超える日が1週間以上続いた場合、申請受付を停止するというものである。

 ただし、体調など考慮すべき事情がある人は例外とするなど「人道的抜け穴」に満ちているため、単なる見せかけの措置で効果はほとんどないというのが一般的見方である。

 この関連で興味深いのは、伝統的に民主党支持が圧倒的な黒人層において、今回はトランプに投票するという有権者が大幅に増えている事実である。

 民主党応援団というべきニューヨーク・タイムズの最近の調査でも、接戦州におけるトランプ支持が平均で20%以上となっている。これは、黒人の投票権が定められた「1964年公民権法の施行以来、共和党の大統領候補として最も高い数字」だという。

 さらに民主党員が多い若年層(19〜29才)やヒスパニック(中南米系)でもトランプとバイデンの支持率はほぼ並んでいる。前回2020年の大統領選では、バイデンがいずれのグループにおいても60%以上の票を獲得した。

 

 特に単純労働者の割合が高い黒人の場合、職において競合する不法移民の激増は失業に直結する。バイデン政権に対する怒りが高まるのも当然だろう。

 また左翼の若者の間では、曖昧な姿勢でイスラエルに武器支援を続けるバイデンへの憤懣から、棄権ないし「緑の党」のジル・スタイン大統領候補支持に回る動きも見られる。

 スタインは4月28日、ワシントン大学(ミズーリ州セントルイス)構内で行われた「パレスチナ支持集会」で警官隊と衝突し、学生たちと共に拘束されるなど、バイデンとの違いを行動でアピールしている。若者を中心にバイデンの票を少なからず奪うのではないか。

 なお、もう一人の大統領候補ロバート・ケネディ・ジュニアは、逆にイスラエルを「道徳国家」とよび、ハマス壊滅作戦を全面支持する立場を明らかにしている。その点では、左翼学生たちと相いれない。

 ケネディは元々左派的な環境弁護士だが、左右の極論的正論を集めた候補の観があり、イスラエル全面支持以外に、ワクチン全面反対、軍事費半減、プーチンの言動に一定の理解、ゼレンスキー批判など、トランプ、バイデンのどちらからより多くの票を奪うか、現状では読みがたい。

 なお、米大統領選挙の本選は、民主、共和両党の公認候補以外は、一定の推薦署名を集めないと候補者名簿に名前が搭載されない(必要署名数は州によって異なる。例えば3千人、前回その州で勝った候補の得票数の100分の1など)、ケネディ、スタイン共に全州で候補者となるのは無理と見られている。そのため当選は困難だが、選挙戦の帰趨に影響を与える可能性はある。

 ちなみに、大接戦となり、最後のフロリダ州で、537票差でブッシュが勝利を決めた2000年の大統領選では、環境活動家のラルフ・ネイダーが同州で9万7488票を獲得している。この100分の1でも同じく環境派のゴアに流れていれば、民主党ゴア候補の勝利となっただろう。

次に一連の訴訟の影響を見てみよう。

 

 左翼活動家的な検察官が、トランプに対して、刑事、民事両面で無理筋の訴訟を立て続けに仕掛けたが、保守派の間では、「司法の武器化」「卑劣な選挙妨害」などと怒りの声が高まり、共和党内ではかえってトランプのもと結束が強まっている。

 それら訴訟の一つ、「不倫口止め料」をめぐる業務記録の虚偽記載云々の罪に問われたニューヨーク州マンハッタン地区(民主党の牙城)の刑事裁判では、5月30日に陪審団が有罪評決を出した。

 この件は、「トランプでなければ起訴されなかった」が大方の見方である。「口止め料」支払い(秘密保持契約)は他の重罪に絡んで行われた場合を除き、違法ではない。現に、前任、前々任の検事は立件しなかった。それを5年の時効も経過した状況下、大統領選が近づく中で起訴したのは、選挙妨害目的と言われても仕方ないだろう。なおトランプ自身は、当該ポルノ女優との性交渉自体を否定している。

 また一連の訴訟には、バイデンの次男ハンターの裁判を相殺、中和する意図が明らかに見て取れる。

 6月11日、ハンター裁判の一つ、麻薬中毒下の銃購入、違法投棄で有罪評決が出た。バイデンの地元デラウェア州の陪審団ですら、可罰的違法性を認めたわけである。

 ハンターはヘロイン中毒、アル中、「買春狂」の上、親の威光を振りかざしての国際的たかり的行為で大金を得てきた。バイデンの監督責任どころか、威光を貸す形での関与も問われている。

 流れはトランプに傾いている、と今のところ言えるだろう。

 


《きむら まさと》 

1961年生まれ。元産経新聞ロンドン支局長。国際政治、安全保障、欧州問題に詳しい。元米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。元慶応大学法科大学院非常勤講師(憲法)。著書に『欧州 絶望の現場を歩く—広がるBrexitの衝撃』『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』

2024年7月1日号 週刊「世界と日本」第2272号 より

 

マクロン仏大統領はセーヌ川での

 

パリ五輪開会式を無事開催できるか

 

 

在英国際ジャーナリスト 

木村 正人氏

 

 ウクライナ戦争とイスラエル・ハマス戦争の出口が見えない中、パリ五輪が7月26日、セーヌ川での開会式とともに幕を開ける。世界中の注目を集める五輪はたびたびテロの標的にされてきた。エマニュエル・マクロン仏大統領は大会期間中、テロを防ぐことができるのか。

 

 人口統計サイト「世界人口レビュー」によると、イスラム教徒の人口はフランス670万人(全人口の10%)、ドイツ460万人(同5・5%)、イタリア299万人(同4・8%)、スペイン118万人(同2・5%)。

 イスラエルの容赦のない攻撃に欧州のイスラム教徒の憤りは頂点に達している。

 国境を廃したシェンゲン協定加盟国間はパスポートなしで自由に行き来できる。島国・日本の東京五輪のように水際作戦を徹底できない欧州大陸のテロ対策は困難を極める。

 フランスでは2015年にシャルリー・エブド襲撃事件、死者130人以上を出したパリ同時多発テロが起きている。イスラム過激派は組織化し、武装化している。

 

 仏情報機関・対内治安総局(DGSI)は5月22日、フランス中部サンテティエンヌで五輪テロを計画していたとしてロシア南部チェチェン共和国出身の男(18)を逮捕した。

 男にはスタッド・ジェフロワ=ギシャール(競技場)で行われるサッカーの試合を狙っていた嫌疑がかけられている。

 仏内務省によると、パリ五輪の会場を狙ったテロ計画の摘発は初めて。同競技場は4万6000人収容で、五輪ではサッカーの試合が6試合行われる予定。

 「一匹狼テロリスト」とみられる男は昨年、フランスにたどり着いた難民申請者。「かなり単純な手段」によるテロを計画し、観客だけでなく警察も襲って「殉教者として死ぬ 」ことを望んでいたとされる。

 暗号化されたメッセージシステムを使う男のスマホからイスラム主義的なコンテンツが見つかった。欧州はテロを防ぐためデジタル監視システムを強化しており、DGSIだけでも17年以来、約50件のテロを防いでいる。

 スタジアムの外での開会式は近代五輪では初めて。パリのランドマークを背景に選手団1万500人が94隻のボートでセーヌ川を6キロメートルにわたってパレードする。グランドフィナーレはエッフェル塔が一望できるトロカデロ広場。32万6000人の観客を想定する。

 開会式まであと100日余と迫った4月15日、マクロン大統領は地元メディアのインタビューに「テロのリスクが高すぎると判断した場合、セーヌ川での開会式には代替シナリオも存在する」との考えを示した。

 

 マクロン大統領は「そのために準備してきたのだから開催に向けて努力する価値はある。わが国は不幸にもテロリズムに見舞われてきた。テロリストが何より欲するのは私たちの夢を止めることだ。それが彼らの最大の勝利なのだ」という。

そして「開会式はできるだけ美しいものにしたい。パリ五輪・パラリンピックの肝の1つはフランス最高の姿を見せることだ。このような時にこそ私たちは未来に向かって前進できる。この開会式は世界初の試みだ。私たちはそれを行うつもりだ」と意気込んだ。

 2つのゾーンを設けた厳格な入場制限、ドローン(無人航空機)の監視システム、情報の暗号化、サイバー防御による非常に高いレベルの警備が実施される。

 非常事態の「プランBやプランC」として、マクロン大統領は「トロカデロ広場での限定的なシナリオやスタッド・ド・フランスに変更する案も並行して準備している」と明らかにした。

 当初60万人の観客を見込んでいた開会式の規模は警備上の懸念から40万人、そして30万人にまで縮小された。

 

 マクロン大統領は「オリンピズムは時として戦争状態の国々を和解させることができる」と大会期間中、古代ギリシャ時代からの伝統を引き継ぎ「五輪休戦」を提案した。

 イスラエル・オリンピック委員会のヤエル・アラド会長は共同通信の取材に85人程度が出場予定だと述べた。パレスチナ自治区ガザ地区の戦闘で夥しい死者が出ているパレスチナからは6〜8人が出場する見込みだ。

 双方とも五輪精神に則って大会で対立しない姿勢を打ち出している。

 ガザ保健当局によると、イスラエルの攻撃で3万6700人超のパレスチナ人が死亡。その大半は女性や子供だ。負傷者も8万3500人を超える。

 これまであからさまにイスラエル寄りだった欧州でもスペインとアイルランドがパレスチナを国家として承認するイニシアチブを推進する動きが出始めた。

 そうでもしなければイスラム系移民のフラストレーションはいつ爆発してもおかしくない。

 ウクライナを侵略するロシアはパリ五輪には招待されていないものの、国旗を持たず国歌を歌わないロシア人選手は出場できる。マクロン大統領の「五輪休戦」提案を、ウクライナのゼレンスキー大統領は「ロシアを利するだけ」と一蹴した。

 敵対行為の一時停止は、ロシア軍がウクライナ軍の反撃を恐れずに態勢を立て直す時間を与えるだけだとゼレンスキー大統領は考えている。ロシアは休戦協定を締結した直後に協定を破棄したことがある。ウクライナにはロシアに対する根強い不信感がある。 

 

 マクロン大統領は「選手たちには良識、マナーの順守を求める。政治的駆け引きや攻撃的な態度は控えてほしい」と呼びかけた。1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナ・ゲリラ「黒い9月」によるイスラエル選手宿舎襲撃事件が起き、イスラエルの選手、コーチ、警官ら12人が死亡し、テロリスト5人は警察に射殺された。 

 パレスチナに対して世界中の同情が広がる中、イスラム過激派がパリ五輪でテロを起こす政治的メリットは大きくない。しかし米国や英国、ドイツの政治支配層はイスラエル寄りの姿勢を崩さない。米欧のダブルスタンダードはもはや誰の目から見ても明らかだ。

 「イスラム国」(IS)のようなテロ組織にとって五輪は存在感を誇示する格好の場。パリ五輪でミュンヘン五輪のような血の惨劇が繰り返されれば、地獄の蓋が口を開ける。世界は混乱のるつぼに放り込まれるだろう。

 五輪会場のテロ警備だけでなく、和平に向けた国際社会の外交努力も欠かせないのは言うまでもない。

 


《あこ ともこ》 

東京大学大学院総合文化研究科教授。 大阪外国語大学、名古屋大学大学院を経て、香港大学教育学系ph.D(博士)取得。 在中国日本大使館専門調査員、早稲田大学准教授などを経て現職。 主な著書に『香港 あなたはどこへ向かうのか』『貧者を喰らう国—中国格差社会からの警告』(新潮選書)など。第24回正論新風賞を受賞。

2024年6月3・17日号 週刊「世界と日本」第2270・2271号 より

 

今の日本は清末にはほど遠い

 

-どうして日本の政界も経済界も中国の言論活動を支援しないのか-

 

東京大学大学院 総合文化研究科教授 

阿古 智子氏

 

日本が華人コミュニティに言論空間を提供

 

 昨今、中国政府の言論統制の影響を受けて中華圏の言論空間が狭まる中で、意図せざる結果かもしれないが、日本が華人コミュニティに重要な言論空間を提供する場となっている。例えば、私の勤める東大でも、中国国内や香港では開催できない中華圏の知識人による講演会を頻繁に行っている。講演会によっては、200人以上の聴衆が集まることもある。聴衆のほとんどは中国人だ。中国では聴けないような講演が日本では聴くことができると考える人が多いからだろう。

 以前は香港中文大学が、中国の公共空間における論争に果敢に参加する「公共知識人」や調査報道ジャーナリスト、人権派弁護士などを訪問研究員として数カ月から数年にわたって受け入れ、講演会やセミナーを活発に展開していた。ソーシャルメディアでは、「東京大学が香港中文大学に取って替わった」というコメントする人さえいる。

 香港では、国際的な人権団体がオフィスを置き、社会的弱者やマイノリティーのためのアドボカシー活動が行われていたし、天安門事件の追悼集会も毎年開催されていた。しかし、天安門事件35周年にあたる今年の5月28日、3月に可決された、香港での破壊行為や外国勢力による干渉などを取り締まる「国家安全条例」をめぐる初の逮捕者が出た。鄒幸?(チョウ・ハントン)を含む6人が、「センシティブな日付」を標的に、ソーシャルメディアで中国政府に対する「憎悪を拡散する」投稿を行ったという理由で。協力者とみなされたのか、6人の中には彼女の母親も含まれていた。家族に連帯責任を背負わせるような形で圧力をかけるのは、現在の中国共産党政権の常套手段だが、香港にもそうした手法が適用されるようになってきている。

 チョウ・ハントンは1985年生まれの法廷弁護士で、英ケンブリッジ大学で物理学を学んだ後、弁護士資格を取得した。労働団体や中国の人権派弁護士を支援する団体で活動し、毎年天安門事件の追悼集会を開催してきた香港市民支援愛国民主運動聯合会(略称「支聯会」。2021年9月に解散)で副主席を務めていた。香港警察によって香港国家安全維持法違反の容疑で逮捕・拘束されたが、今も獄中からメッセージを発信し続けている。

 チョウを主人公とするドキュメンタリー映画「彼女は監獄にいる」が今年、日本、ドイツ、タイ、イギリス、カナダ、アメリカなど、世界各地で上映され、天安門事件の記念集会でも流されている。実はこの映画は私が「出品人」となっている。私も制作の一部に関わってはいるが、主の製作者は別にいる。だが、彼・彼女らの身に危険が及ぶ可能性があるため、名前は明かすことができないのだ。日本人である私が代わりに、前に立って映画の宣伝やメディアの取材に対応している。

 日本でよく知られている周庭は2023年12月、愛国教育を押し付けられことに耐えられない、「ただ自由に生きたい」と、カナダに実質上亡命したことを公表している。彼女は「再び日本を訪れたい」と私に話していたが、どのような形にせよ、知名度と影響力のある彼女を日本が受け入れるとなると、中国政府を刺激するのは確実である。

 

自由経済(フリーダムエコノミー)

 

 今年5月2日、私は東京晴海のコンサートホールにいた。中国の歌手のコンサートに誘われたのだ。会場で聞こえる言葉はほぼ中国語だけ。スタッフも観客も中国語を話し、まるで中国にいるかのような錯覚に襲われた。5年間、中国大陸でコンサート活動を禁止されている李志(リージー)という南京出身の歌手がハスキーボイスで歌い始めると、観客は大歓声を上げた。李志のよく知られている楽曲には、1989年の天安門事件を想起させる「広場」や「人民には自由は必要ない」があるが、今回そうした曲は歌わなかった。おそらく中国当局と一定の約束をして出国と海外での公演を許されているのだろう。一緒に行った中国の友人は、「今、中国で自由を望むことはできないの。だから “人民に自由は必要ない” と言うこともできないのよ」と嘆いた。最後に李志が「自分のような農家の息子が日本で演奏するなんて。それになんと、チケットは完売だったんだ!」と語ると、観客は笑い、涙を流した。

 中国では言論空間が厳しく統制され、中国では検閲によって大量の重要な情報やコメントが削除されている。書籍や雑誌の出版、音楽や芸術の活動にもさまざまな制限が科されるようになった。そのような中で、表現活動の拠点を海外に移す人が増えている。中国人の海外移住は「潤(ルン)」と表現されるが、それは、「潤」の中国語の発音が “run” で「脱出」という意味合いを込めているのである。多くは、自由が制限される中国の環境から逃れて海外に移住している。日本にも中国人移住者が増えており、中国語書籍を扱う書店が都内にいくつも開店し、李志のようなアーティストの公演が日本でも行われるようになった。6月には1万人収容できる会場で中国では開催できない人気トークショーが行われる。

 前出の友人はこのような動きを「自由経済」(フリーダムエコノミー)と表現した。自由を求める活動が経済効果を産んでいるということである。それも、中国ではなく海外で。日本にも脱出してきた中国人コミュニティによる一定のマーケットが生まれており、日本経済を押し上げる要因となっている。

 

今の日本は清末とはほど遠い

 

 中国人が自由を求めて日本に押し寄せている状況を見て、「日本の今は清末に近い状態ではないか」という人もいる。日本が、表現の自由を享受できる空間を一定程度、提供できているという意味ではそうなのかもしれない。でも、何かが違う。そう、今の日本に孫文を支援した梅屋庄吉のような人物はいるだろうか。中国当局の圧力を跳ねのけて、志のある中国人の言論や表現活動を積極的に支援しようとする企業や政治家、知識人はほとんど見受けられない。それどころか、短期的な利益を考えて、中国と向き合う際に、日本が戦後努力して築いてきた民主主義の理念を示すことができていないのではないか。

 現在、中国の知識人を支えるための海外のプロジェクトの大半は、欧米諸国の資金で行われている。そんな状況を前に、私は日本という国の衰えを切実に感じている。

 


《り そうてつ》 

専門は東アジアの近代史・メディア史。中国生まれ。北京中央民族大学卒業後、新聞記者を経て1987年に来日。上智大学大学院にて新聞学博士(Ph.D.)取得。98年より現職。同年、日本国籍取得。テレビのニュース番組や討論番組に出演、情報を精力的に発信。著書に『日中韓メディアの衝突』『北朝鮮がつくった韓国大統領—文在寅政権実録』『なぜ日本は中国のカモなのか』(対談本)など多数。

2024年5月20日号 週刊「世界と日本」第2269号 より

 

金正恩の危険な賭け

—日本は北朝鮮の異変に備えよ—

 

龍谷大学教授 

李 相哲氏

 

 最近、ソウルを訪問、北朝鮮出身の元高官らと朝鮮半島情勢について意見を交す機会をもった。金正恩朝鮮労働党総書記が打ち出す不思議な政策の数々をどう受け止めればよいかを聞くためだった。参加者らによれば「金正恩はどうもおかしくなっている。狂い始めたのかも知れない」。

 

正恩が祖国統一を放棄した理由

 

 今年1月中旬、平壌で開かれた北朝鮮最高人民会議の施政演説で正恩氏は韓国を「第1の敵対国」、「不変の主敵」とする内容を憲法に明記し、「8000万ギョレ」(北朝鮮は、これまで南北朝鮮及び海外に住む朝鮮民族を合わせて8000万同胞、またはギョレと呼んだー筆者注)のような言葉を使わない考えを示した。さらに、憲法に「戦争が勃発した場合、大韓民国を完全に占領、平定、修復し共和国(北朝鮮)領土に編入させる」ことを明記するとも話した。つまり、韓国は和解と統一の対象でもなく、「同族」でもない、全く別個の国と看做(みな)すと宣言したのだ。

 北朝鮮ではいま、金正恩のこのような指示を実行に移すための作業が同時進行中だ。1月には、金正日時代に南北統一を願って建てた巨大な「祖国統一3大憲章記念塔」を爆破、同族や平和、統一を讃える歌を禁止、北朝鮮各地に建てられた記念物などから関連用語を抹消する作業にハッパをかける一方、金正恩を「新しい太陽」「偉大な首領」と称える歌の普及に全住民を動員している。

 この一連の動きが意味するのは金日成、金正日時代に北朝鮮が国是としてきた「祖国統一3大憲章(自主、平和統一、民族大団結)」を放棄することにし、先代が歩んできた路線を180度変えるものだ。北朝鮮の幹部や一般人にとって、このような措置は「青天のへきれき」のようなものだ。「神さま」として慕っていた金日成や金正日を否定するような動きとしても捉えかねないからだ。

 では、なぜ今、金正恩はこのような、北朝鮮の人々の目に狂気とみえる政策を打ち出したのか。考えられる主な理由は、住民の中で広がる韓国に対する幻想をいま打ち砕かないと収拾がつかなくなるという焦りがあったからではないか。

 韓国統一部が今年2月に公開した2013年より2022年までの10年間に北朝鮮を脱出した元北朝鮮住民6351名に対して実施した調査によれば、「10名のなか8名は、北朝鮮にて韓国ドラマや映画、音楽を視聴した経験があった」。韓国統一部長官は「いま、北朝鮮では外部世界に対する関心が着実に増加している」と話す。このような傾向は金正恩政権にとって致命的だ。外部世界と断絶された状態で住民に洗脳教育を施し、住民を奴隷化し、忠誠を強いる方法で政権を維持してきたが、その基盤が大きく揺らいでいることを意味するからだ。このような流れを止めるべく北朝鮮は韓国のドラマ、映画、音楽に接する行為に対し「死刑」、または10年以上の労働教化刑に処する「反動思想文化排撃法」(2020年12年)を制定、韓国風の生活様式、ファッションを厳しく取り締まる「青年教養保障法」(2021年9月)、韓国式ことばの使用を禁止する「平壌文化語保護法」(2023年1月)を公布したが、もはや歯止めがかからなくなった。特に、金正恩時代に入って一度も国から配給をもらったことのない若い世帯は金正恩への忠誠心はなく韓国に憧れていることも調査で明らかになった。このような若者、そして苦しい生活を強いられながらも何時かは韓国と統一すれば楽になると一縷(いちる)の希望をもつ住民に「韓国を諦めさせる」ために正恩は韓国を「同族ではなく有害な敵国、統一の対象ではなく平定の対象」と看做す方針に転じたのだ。

 

先代の否定が命取りになることも

 

 それに代わるビジョンとして提示したのが、金正恩を「太陽」とする新しい国造りだ。金日成、金正日の古い時代とは決別し金正恩時代を切り開くというものだ。そのため、金日成、金正日の影をなくす、先代の「否定」も密かに進んでいるようだ。金日成、金正日への参拝回数を減らし、先代を讃える歌に代わって金正恩を太陽とする歌の普及に力をいれている。

 金正恩はこれまで祖父や父の威厳や先代の指導者に対する住民の忠誠心を利用して国をまとめ、統治してきたと言ってよい。金日成を真似るため体を太らせ、金日成が好んで着用した洋服や帽子を小道具に使い住民の歓心を買おうとした。しかし、金正恩の12年は失敗の連続だった。

 金正恩が政権の命運をかけて取り組んだ70億米ドル規模のプロジェクト、元山地域のリゾート開発事業は途中で頓挫(とんざ)したまま、1日5000人の観光客誘致を見込んで建設した世界最大級の馬憩(マシン)嶺(リヨン)スキー場は、いまや閑古鳥(かんこどり)が鳴く状況、2020年10月に完成を目指した「平壌総合病院」建設も止まったままだ。住民に我慢を強いながらひたすら追求した「核強国建設」も中身はスカスカであることが明らかになりつつある。北朝鮮が国力発揚の象徴として大々的に宣伝する軍事偵察衛星は、実は「軍事的には全く意味をなさない玩具の水準」(韓国軍当局)だ。このような現実から目をそらすために、あたかも新しい時代が到来するかのように金正恩を新しい太陽に仕立てようと躍起になっている。

 

金正恩降しの大義名分が出来た

 

 このような新しい時代を住民に実感させるためには経済を立て直す必要があるが、その秘策として金正恩が打ち出した政策も失敗は火を見るように明らかだ。新しい国づくり政策として打ち出した「地方発展20×10政策」が象徴的だ。20の地方に10年間で200の工場をつくるというものだが、いま北朝鮮は、発電量などエネルギー生産指数は90年代水準に後退、鉄道や道路は戦前のまま。工場をつくるだけで経済が好転する見込みは全くない。

 金正恩が太陽になっても、住民生活がよくなる見込みはなく、金日成時代より悪くなれば、北朝鮮内部では、先代の首領の路線から離脱した金正恩の責任を追及する動きが出る可能性もある。先代を裏切ったから金正恩は後継者にふさわしくないという「大義名分」が立つからだ。日本は、このような北朝鮮の異変に備える必要があるのではないか。

 


《ロバート・D・エルドリッヂ(エルドリッヂ研究所・代表)》 

1968年、米国生まれ、99年、神戸大学大学院より政治学博士号。大阪大学准教授、海兵隊顧問等を経て現職。日本戦略研究フォーラム上席研究員。『沖縄問題の起源』、『オキナワ論』、『尖閣問題の起源』、『人口減少と自衛隊』、『中国の脅威に向けた新日米同盟』など多数。

2024年5月6日号 週刊「世界と日本」第2268号 より

 

台湾有事の可能性に今すぐ対処せよ

 

 

政治学者・元米海兵隊太平洋基地政務外交部次長 

ロバート・D・エルドリッヂ氏

 

 台湾の政治と外交について研究するため、今年1月に台湾に渡り、丸1年を台湾で過ごすことになった。具体的には、1月13日に行われた総統選挙の結果が、台湾の今後の外交政策に与える影響を調べている。

 総統選挙の10日ほど前の1月4日に到着した。アパートを見つけ、幸い数日で引っ越しを完了した後、専門家と会い、それぞれの陣営を観察し始め、二大政党(台北市と新北市でそれぞれ民進党と国民党)の集会に参加した。また、総統選挙で初めて二大政党に挑戦する第三の小政党(台湾民衆党)の集会場にも足を運んだ。

 私のアパートは総統府と立法院から徒歩7分圏内だが、それぞれ方向が違う。

 選挙当日(土曜日)、私は2人の大学生の実家(台北市と新北市)近くにある投票所を、ともに訪れ、投票とその過程を見学した。彼らは初めての投票だった。私はこの訪問に興奮し、投票した彼らを誇りに思った。

 投票所(どちらも地元の小学校だった)は、(近年のアメリカとは違って)とてもよく運営され、スムーズで迅速だった。多くのボランティアが素晴らしいカスタマーサービスを提供していた。情報は明確に掲示されていた。投票箱にはきちんとラベルが貼られ、色分けされていた。

 投票する時間は午前8時から午後4時までで、期日前投票、郵送投票、タブレット端末の使用はない(これらはすべて、米国の選挙の完全性を大きく損なっている)。このように投票できる時間が限られているにもかかわらず、選挙の投票率は71・9%と、先進国の中では国際的に非常に高い数字を記録した。

 面白いことにこれは国際的には高い数字だが、台湾国内では1996年に民主化されて以来8回行われた総統選挙の中で2番目に低い投票率であり、おそらく若者や国民が二大政党制に不満を抱いていることを示唆している。

 

 選挙結果は、民進党の頼清徳(らいせいとく)候補が総統に、野党が立法院を制するというもので、投票前に正確に予測されていたため、驚くようなものではなかった。頼次期総統の就任式は5月20日に行われる。一方、立法院の任期はすでに2月1日から始まっている。

 1月の選挙への関心は国際的にも非常に高かった。当時、7000人以上の外国人記者や代表団が台湾を訪れたという(私自身、その時来台した日本の記者やオブザーバーとの打ち合わせに大忙しだった)。総統選挙は終わったが、台湾の将来に対する関心は依然として高い。

 私は、1月の投票はより大きな台湾総統選挙の第一段階だと考えている。つまり、11月の米大統領選の結果を知るまでは、台湾の将来を予測することは難しい。

 今後、機会があれば、台湾の将来を予測するための論点を書きたいと思うが、その前に、本稿を執筆している現在までの3カ月間の台湾滞在で得たいくつかの気づきを紹介したい。

 まず、台湾外交部との交流である。私は毎月2回、外交部の外交官とランチやティータイム、ディナーを共にする機会がある。彼らは皆、とても賢く、フレンドリーで、洗練されている。彼らは私が台湾で過ごす時間が実り多いものであり、すべてがうまくいっていることに深い関心を寄せてくれる。彼らは非常に良い見識を持ち、私が台湾政府に行った多くの問題についての提言や提案を歓迎してくれている。その対応や姿勢に深く感謝している。

 

 ところが、今年11月の米大統領選に関して、米国との二国間関係に携わる担当者の理解が限られていることに、私は非常に不安を覚えた。特に、ドナルド・J・トランプ前大統領に対する彼らの見解は、慎重かつ丁寧に検討された意見というよりは、まるでアメリカ民主党の党派的なトーキングポイントか、反トランプのアメリカメディアの再掲のようだった。私はそれらに驚き、気になったので、初めて聞いたときに激しい反論を展開し、2回目に会ったときにフォローした。

 これは、私がトランプ支持者のためにやった訳ではない。実は、共和党の党員でもなければ、トランプの支持者でもない。この反論の目的は、台湾外交部の関係者にアメリカ社会と政治を正しく理解してほしいからだ。それがなければ、彼らは適切な仕事をすることができないだけでなく、彼らの誤解が台湾とアメリカの関係や地域の安全保障に影響を与えかねないからだ。

 彼らの見解は、台湾の他のエリートたちにも共有されているようだ。それは、2月に日本でウイルスのように感染した「もしトラ」という造語の現象と同じく。

 トランプ政権がどのような政権になるかは、すでに4年間務めたトランプが知っているはず。日米関係は強化し、米台関係を前進させるためにあれだけのことをしたのだから。

 もうひとつ得た気づきは、台湾有事に対する日本の現実的な考えと計画の欠如である。私は多くの理由から、中国は遅かれ早かれ台湾に侵攻する。早ければ今年中にも台湾に侵攻すると見ている。

 もしそうだとしたら、「なぜあなたは台湾にいるのですか?」

 私のアメリカ側の家族は、まさにその質問を私に投げかけてきた。別の言い方をすれば、なぜ危険な場所に行くことを選んだのか?

 それは、私が「現場記者」タイプの研究者だからだ。台湾がどのような準備をしているのか、中国が何をしでかすのかを間近で見たいからだ。

 ところが日本では、外相経験もある麻生太郎元総理など、台湾有事の日本への影響を警告する政治家はいても、台湾関係法などの法整備はまったくされていないし、台湾に住む日本人や台湾を訪れる日本人を避難させるという議論もない。

 後者については、事実上の在台日本大使館である日台交流協会が、何の計画も立てておらず、台湾在住者との効果的なコミュニケーションもない。それどころか、それについて話すことさえ忖度されている。ただ、「自分の身は自分で守れ」「できるだけ早く避難しろ」としか言っていない。

 台湾に住んでいる私は、日本が手遅れになる前に、台湾有事の可能性に今すぐ対処しなければならないことを、これまで以上に実感している。

 


《ちの けいこ》 

横浜市生まれ。1967年に早稲田大学卒業、産経新聞に入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長。外信部長、論説委員、シンガポール支局長などを経て2005年から08年まで論説委員長・特別記者。現在はフリーランスジャーナリスト。97年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。著書は『戦後国際秩序の終わり』(連合出版)ほか多数。近著に『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)。

2024年5月6日号 週刊「世界と日本」第2268号 より

 

世界選挙年 前半戦の結果と後半戦の注目点

 

 

ジャーナリスト 

千野 境子氏

 

 世界では空前の選挙年が進行中だ。国政から地方まで少なくとも80カ国が実施、有権者は人類の半分以上の45億人超という。ウクライナと中東の2つの戦争に出口が見えず、国際秩序が揺らぐ中、新たに選ばれた指導者と議会の動向は? 世界選挙年前半戦の結果と後半戦の注目点を報告する。

 

 幕開けは1月7日のバングラデシュ総選挙だった。与党アワミ連盟が勝利しシェイク・ハシナ政権の続投が決まったが、野党バングラデシュ国民党が政府の弾圧などに抗議し選挙をボイコットした結果でもあった。

 軍部が政権を事実上牛耳るパキスタン総選挙(2月8日)や政敵は消してしまうロシア大統領選挙(3月17日)と併せて、選挙を免罪符に独裁・権威主義体制の強化に向かう国々が目立つ。選挙イコール民主主義とは言えず、むしろ民主主義の形骸化が広がっている。

 その意味で1月13日の台湾総統選と立法院(国会に相当)選挙は、民主主義の模範を示した。故李登輝総統以来、民主化は着実に浸透し、民進党・蔡英文(さいえいぶん)総統に続く頼清徳(らいせいとく)党首の勝利は台湾の一層の台湾化を物語る。

 ただ立法院は野党国民党が勝利し、第1党のため、頼氏の政権運営は容易ではない。4月、習近平国家主席と国民党・馬英九(ばえいきゅう)前総統が北京で会談するなど、中国の策動も陰に陽に続く。付け入るスキを与えぬよう日米は台湾と結束を強め、台湾有事を回避することが一段と重要になってきた。

 

 台湾と並び注目された世界最大の直接選挙、2月14日のインドネシア大統領選はプラボウォ・スビアント国防相が史上最高の58%の得票率で制した。4月には早くも訪中して習近平氏と会談、帰途東京で岸田文雄首相及び木原稔防衛相と会談するなど統治に向け着々と準備を進める。親中派のジョコ・ウィドド大統領に対して、対米・対日関係の強化に意欲的と言われ、外交手腕が注目される。

 ただ同日実施の総選挙はメガワティ元大統領率いる闘争民主党が第1党で、プラボウォ氏のグリンドラ党は伸び悩んだ。圧勝の演出者、ジョコウィ氏も院政に意欲十分、独自色を発揮出来るか課題は多い。

 

 前半戦の最後、4月10日の韓国総選挙は尹錫悦(ユン ソン ニョル)大統領の与党「国民の力」が大敗した。全300議席で野党の「共に民主党」は175議席、新党の「祖国革新党」もいきなり12議席、合わせると180議席超で青瓦台は色を失った形だ。尹大統領は強気の人で大統領権限も強いが、レームダック化は必至。改善が進んで来た日韓関係にも黄信号が灯るかもしれない。韓国社会の基層にある反日の潮流は容易にはなくならないと覚悟したい。

 

 改めて前半戦の結果を振り返ると、先述の民主主義の後退・劣化と独裁・権威主義体制の広がりに加えて、右派ポピュリストの台頭とデジタル選挙の浸透も特徴づけられる。前者は憲法を変え再選を果たした2月4日の中米エルサルバドル大統領選や中道右派が第1党になった3月10日のポルトガル総選挙が該当する。後者の代表は「TikTok(中国系動画投稿アプリ)選挙」とも称されたインドネシア。とくにプラボウォ氏は強面の軍人像を払拭、SNSやAIを駆使し「かわいい」イメージ・キャラクターで若い有権者の圧倒的支持を得た。

 

 以上4つの傾向ないし潮流は後半戦でも問われるだろう。韓国総選挙後から後半戦とすると、インド総選挙(4月19日から6月1日)、バルト海沿岸国リトアニア大統領選(5月12日)、メキシコ大統領選(6月2日)と続くが、最初の注目点は6月6日から9日に行われる欧州議会選挙だ。

 5年に1度、加盟27カ国の有権者4億人超が議員(国でなく政党グループ別)720人を選ぶ。本来は決して関心の高いとは言えない欧州議会選が注目されるのは、言うまでもなくウクライナ戦争中だからである。

 躍進が予想される極右はじめ欧州の右派ポピュリズムは①EU懐疑主義②自国第1主義③反移民・難民④反イスラムなどの傾向とともに㈭親ロシア・ウクライナ支援に消極的だ。後述する米大統領選でもしトランプ前大統領が勝利した場合、欧州は内に親ロシアの逆風、支援に消極的な米国と二重のハンデで対ロ戦を強いられかねない。「もしトラ」に怯えるのは、日本よりむしろ欧州の方かもしれない。

 同様に6月9日のベルギー総選挙と9月か10月予定のオーストリア総選挙(9月任期満了)も注目点で両国とも極右の躍進が予想されている。

 欧州議会選を終えると、残るは選挙年最大の焦点、米大統領選である。民主党はジョー・バイデン大統領、共和党はドナルド・トランプ前大統領と、よほどの事態が起きない限り、支持者以外望まぬ?前回対決の再現が濃厚だ。共和党は7月15日から18日までウィスコンシン州ミルウォーキーで、民主党は8月19日から22日までイリノイ州シカゴで全国大会を開き、候補者を選出する。

 本選は9月2日のレイバーデー明けからスタート、10月に全米テレビ討論会(大統領3回、副大統領1回)、11月5日投開票という日程だ。

 「もしトラ」から現在は「ほぼトラ」(ほぼトランプで決まり)まで言われているが、とかく熱狂的支持者の声は大きい。本当にそうだろうか。

 両者リスクがある。バイデン氏は高齢、カマラ・ハリス副大統領の不人気、移民・国境、ウクライナ、イスラエル、インフレなど。トランプ氏は裁判(事件4、罪状91)、巨額の裁判費用、陰る選挙資金、中道穏健派や無党派層のトランプ離れなど。

 世論調査はトランプ氏リードだが、投票は半年以上も先である。結局、スウィング・ステーツ(接戦州)のアリゾナ、ネバダ、ミシガン、ウィスコンシン、ペンシルベニア、ジョージア各州の帰趨(きすう)が勝負を決める公算が高いと言える。ウィナーテイクオール(勝者総取り方式)なので、どんな僅差でも勝ちは勝ち。たった6、7州、それも中小州の勝敗で米国のみならず日本や世界の命運が左右されるのは理不尽、米大統領選挙システムの再考が必要だ。民主主義の本家米国にも、その劣化は及んでいると言わざるを得ない。我が総選挙はどうであろうか?

 


《ほさか しゅうじ》 

日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長。慶應義塾大学大学院修士課程修了、在クウェート日本大使館、在サウジアラビア日本大使館、中東調査会研究員、日本学術振興会カイロ研究連絡センター長、近畿大学教授等を経て、現職。2021年から日本中東学会会長。おもな著書に『ジハード主義』(岩波書店)など。

2024年4月15日 週刊「世界と日本」第2267号 より

 

パレスチナ・ガザ情勢で顕在化する世界の分断

 

日本エネルギー経済研究所
理事・中東研究センター長

保坂 修司氏

 

 2023年10月7日、パレスチナのガザを実効支配するイスラーム主義組織ハマースなどの戦闘部隊がイスラエル国内に侵入、多数の人質を取ったほか、多くの民間人を殺傷した。これに対し、軍事力で圧倒的に勝るイスラエルは大規模な反撃を加え、ガザを完全封鎖した。その結果、今年3月にはガザでの犠牲者の数は3万人に達し(その多くは女性や子ども、老人など非戦闘員)、イスラエル側犠牲者の数をはるかに凌駕してしまった。さらにイスラエルの攻撃でガザへの援助物資が滞り、飢餓が蔓延し、病院が機能停止するなど、ガザは最悪の人道危機に直面している。

 

 2020年に当時のトランプ米大統領の仲介でイスラエルとUAE、バハレーンが国交を正常化(アブラハム合意)した。その後、さらにモロッコとスーダンもイスラエルとの国交正常化に合意、すでに外交関係を樹立しているエジプト・ヨルダンとともに、中東では新しい政治的枠組ができつつあった。また、サウジアラビアとイスラエルとの関係正常化も近いとの観測が盛り上がり、実際、サウジアラビアにイスラエルの現役閣僚が公式訪問するなど、これまでにない展開が現出していた。ハマースの対イスラエル奇襲攻撃の背景には、さまざまな要因が考えられるが、パレスチナ側がこうしたアラブ諸国のイスラエルへの接近に焦りを感じていた点も指摘できる。

 ハマースの攻撃とイスラエルの反撃は、この流れに大きく影響を与えることとなった。民間人を人質に取った、ハマースの戦術は、さすがにパレスチナに同情的な国であっても、一部の例外を除けば、諸手を挙げて支持するわけにはいかなかった。当初こそ、UAEやバハレーンなどイスラエルと国交を樹立したばかりの国は奥歯にものの挟まったような物言いだったが、ガザで民間人の犠牲が増加すると、これらの国もイスラエル非難に加わった。

 イスラエルとの関係を強めていたサウジアラビアも当初から一貫してイスラエルを非難、エルサレムを首都とするパレスチナ国家の成立がなければ、国交樹立がありえないとの立場を繰り返している。米バイデン政権は、今秋に迫った大統領選挙のため、サウジ・イスラエル国交樹立を外交的成果の目玉にしたかったようだが、それも遠のいてしまった。

 また、中東の大国であるトルコも、2022年にイスラエルとの関係改善で合意したばかりだったが、ガザ紛争を契機に、エルドアン大統領がイスラエルを「テロリスト国家」と呼ぶなど、関係を悪化させている。

 他方、ハマースを長年支持してきたイランは、今回の事件でも支持を継続しているが、直接関与することは避けている。しかし、イランの影響を受けている、シリアのアサド政権、レバノンのシーア派武装勢力、イエメン・フーシー派などいわゆる「抵抗の枢軸」はすでにイスラエルから攻撃されたり、逆にイスラエルを攻撃したりしている。

 米国バイデン政権はハマースの攻撃以来、一貫して強くイスラエル支持を明言、東地中海に艦船や戦闘機を送るほか、武器を含め、イスラエルのガザでの戦いに必要なものを供給すると主張した。また、英国やドイツなど欧州諸国、そしてG7の一員である日本も、米国との温度差はあるものの、ハマースの攻撃をテロだと厳しく糾弾し、イスラエルの自衛権も確認した。

 しかし、国際社会はかならずしも西側先進国と同様の立場を取っていない。前述のとおり、アラブ・ムスリム諸国のなかでは、サウジアラビアなど「親米」湾岸諸国を含め、ハマースを批判する声は少数派であり、むしろ、ハマースがイスラエルを攻撃したことの背後に、イスラエルによるガザへの暴力や抑圧、ヨルダン川西岸における非合法な入植活動があるとし、ハマースの行動に理解を示すほうが多数を占めていた。

 この傾向は、イスラエルのガザ攻撃が激しさを増し、ガザで民間人犠牲者が増えるにつれて、さらに強まっていき、急速にイスラエルに批判的な勢力が拡大していった。南米では、ボリビアがイスラエルと断交、ボリビアと同様、左派政権を有するコロンビア、チリ、ベネズエラなどもイスラエルに対して厳しい態度をとっている。他方、南米最大のユダヤ人コミュニティーを有するアルゼンチンは、伝統的に親イスラエルであり、ガザ紛争でもイスラエル支持を明確にしている。なお、エルサルバドルのナジーブ・ブケーレ大統領はパレスチナ系でありながら、ハマースを厳しく批判、イスラエル支持を明言した。

 また、アフリカでは、南アフリカが昨年末、国際司法裁判所(ICJ)にイスラエルを提訴した。そして、西側諸国と対立するロシアや中国も早い段階でパレスチナ支持を明らかにしている。

 G7を中心とする西側先進国が、ハマースの攻撃をテロと非難、イスラエルの攻撃を自衛権の行使として正当化するのに対し、イランなどは責任がイスラエルにあると主張する。米国・エジプト・カタールが停戦と人質解放の仲介に当たっているが、それ以外の国は、温度差こそあれ、そのあいだに入ることになる。結果的にガザをめぐる国際社会の分断は国連において顕著となり、戦闘停止など強制力のある国連安保理決議が常任理事国の拒否権でことごとく否決され、紛争解決の場であるべき国連が機能しなくなってしまった。

 しかし、ガザでの犠牲者が拡大し、人道危機が深刻化するにつれて、その勢力図が変化していることも重要である。いわゆる「グローバルサウス」の多くは、インドを除けば、おおむねパレスチナ寄りであるが、その傾向はさらに強くなっている。先進諸国でも、ガザ情勢の悪化が国内世論に影響を与え、親イスラエルとされた企業がボイコットの対象になるなどしたため、バイデン政権ですらイスラエルの強硬姿勢と距離を置きはじめている。イスラエル国内でも反ネタニヤフの動きが活発化しつつあるなか、米国でもイスラエル支持派とイスラエル批判派の対立が先鋭化しており、大統領選挙に影響を及ぼす可能性も出てきた。

 


《あびる たいすけ》 

1969年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、モスクワ国立国際関係大学修士課程修了。東京財団研究員、国際協力銀行モスクワ事務所上席駐在員を経て現職。専門はユーラシア地政学、ロシア外交安全保障政策、日露関係。著書に『「今のロシア」がわかる本』、『原発とレアアース』。監訳本に『プーチンの世界』がある。

2024年3月4日・18日 週刊「世界と日本」第2264・2265号 より

 

プーチンが描くウクライナ後の世界秩序

 

笹川平和財団主任研究員

 

畔蒜 泰助氏

 

“ ウクライナ危機は領土紛争ではないし、地域の地政学的バランスを確立する試みでもない。この問題はより広く、よりファンダメンタルなものである。これは新たな世界秩序の基礎となる原則についてのものである。(中略)米国とその衛星国は軍事、政治、経済、文化、更にはモラルや価値においてもヘゲモニーを獲得すべく、地道な努力を重ねている。(中略)西側の判定は数世紀に亘って植民地から略奪したことで達成されたものである。これは事実である。本質的にこのレベルの発展は地球全体を略奪したことで達成されたものである。”

 

 ここで引用したのは2023年10月、ソチで開催された露バルダイ会議でのプーチン演説の一節である。2022年2月24日に開始されたウクライナへの軍事侵攻当初、ロシアのプーチン大統領は、現在のキーウ政権は北大西洋条約機構(NATO)の主要国(=米国)に支援された過激なナショナリストとネオナチ主義者からなる政権であり、彼らによるジェノサイド(大量虐殺)の対象となっているウクライナ東部のロシア系住民を救済することがウクライナでの「特別軍事作戦」の主目的であるとした。

 ところが、同年9月30日にロシアがウクライナ東部のドネツク州、ルガンスク州、南部のザポリージャ州とヘルソン州の併合を宣言した際のプーチン演説あたりから「この闘いは世界を植民地化してきた西側による新植民地主義との闘いでもある」という新たな意味づけを加え始め、冒頭の一節にあるように、ここに来て彼はこの「反・新植民地主義」ともいうべきナラティブ(物語)を全面的に打ち出して来ている。

 周知の通り、ロシアによる対ウクライナ軍事侵攻を受けて、米国を筆頭とする西側諸国はかつてない大規模な経済制裁をロシアに科し、また兵器供与や兵士訓練などを通じてウクライナを全面的に支援している。だが、依然として国際社会がロシアによる侵略行為を止めさせる見込みは立っておらず、むしろ本戦争は更なる長期化の様相を呈している。

 その要因の一つは、米国への対抗という文脈でロシアと戦略的利害を共有する中国はもちろん、いわゆるグローバルサウスと呼ばれるインド、東南アジア、中東、アフリカ、南米など国々の多くが西側主導の対ロシア制裁に参加していないからだ。

 2023年3月、中国の習近平国家主席がウクライナ戦争勃発後、初めてロシアを訪問した。ロシア大統領府での会談後、習近平国家主席とプーチン大統領が次のようなやり取りをする映像がYouTubeにアップされている。

習近平「我々が過去100年間、見てこなかった大きな変化が起きている。これらの変化を一緒に促進していこう」

プーチン「同意する」

 

 前述のようにプーチンはここに来てウクライナでの軍事力の行使を正当化すべく「反・新植民地主義」の論理を全面に打ち出し始めているが、その根底にあるのは「米国主導の世界秩序は揺らぎ始めている」とのプーチンや習近平が共有する世界秩序観なのである。

 実際、2023年8月、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)への6カ国(アルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦)の新規加盟が決まったとの発表は、プーチンや習近平の世界秩序観の現実化を想起させる出来事だった(ただし、その後、アルゼンチンはBRICS加盟の方針を撤回している)。

 更に、そんなプーチンや習近平の世界秩序観を増幅させているのが、揺れ動く中東情勢であろう。2023年10月7日、パレスチナ自治区ガザを実行支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに仕掛けた大規模攻撃に端を発して勃発したイスラエル・ハマス戦争は、米国がイスラエルを支持すればするほど、中東諸国やアフリカ諸国などのグローバルサウスの国々の中で西側諸国が言うところの「法と正義に基づく国際秩序」はダブルスタンダードであるとの不満が高まり、逆にパレスチナに同情的なロシアの「反・新植民地主義」のナラティブに信ぴょう性を与える結果となっている。

 もちろん、依然として米国が政治・経済・軍事などあらゆる面で世界最強の国家であることは論を待たない。問題はトランプ現象の象徴される内向き志向が米国内で強まりつつあることだ。米大統領選挙を目前に控え、米議会においてトランプ親派と反トランプ派の対立が強まる中、ウクライナへの追加の軍事支援を含む予算案が通らない状況が続いているはその最たるものだろう。

 それでなくとも2023年6月末に始まったウクライナによる反転攻勢は、ロシアが張り巡らせた地雷や塹壕(ざんごう)による防衛線に阻まれ、大きな成果なく終了し、戦闘は完全に膠着状態に陥っている。

 米国からの軍事支援が滞る中でウクライナ軍の武器・弾薬不足が深刻化している一方、ロシアは政治経済体制への移行により国内での兵器生産能力を整えつつあり、これに加えてイランや北朝鮮からもドローンやミサイルなどを調達している。

 それゆえ、このまま米国によるウクライナへの軍事支援が停止したままなら、ウクライナはこの膠着状態さえ維持できない可能性がある。

 米大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利すれば、米国主導の「リベラルな世界秩序」は米国の内側から終焉を迎え、ウクライナ戦争の行方にも大きな影響を与えることになる。

 「ウクライナ戦争とは今後の世界秩序を巡る闘い」であるとのプーチンのナラティブはトランプという補助線を引くと現実味を帯びてくる。

 いずれにせよ、世界は暫く米国を中心とする西側陣営とこれに対抗する中国やロシアの陣営が対峙し、彼らがグローバルサウスの国々を巡って綱引きを繰り広げることになるだろう。その中でグローバルサウスの国々は自国の国益にとって何が最も良いかを取捨選択するという移行期の世界に突入すると予想する。

 我が国も決して傍観者ではいられない。あらゆる事態を想定して、激動の世界情勢に備える必要がある。

 


《あらき かずひろ》 

1956年東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒。民社党本部勤務の後97年から拓殖大学海外事情研究所講師、その後助教授を経て現職。予備役ブルーリボンの会代表。2003年から18年まで予備自衛官。著書に『「希望」作戦、発動 北朝鮮拉致被害者を救出せよ』他。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」第2261号 より

 

拉致被害者・失踪者家族の

 

救出を訴える声を聞いて

 

拓殖大学海外事情研究所教授 特定失踪者問題調査会代表

 

荒木 和博氏

 

 「両親は子供を残して失踪するような親でもありません。私たちは当時から今日までただ一度として自らの気持ちであの両親がいなくなったと思っておりません。政権が変わるたびにこの問題は最重要課題と言われておりますが私たちにはそれがどこまでそうなのか分かりません。私ももう75歳この先どうなるのか不安と焦りでいっぱいです」(昭和46年(1971)12月30日、鹿児島県大崎町の自宅から宮崎空港に向かう途中失踪した園田一・敏子夫妻の長女、前山利恵子さん)

 

 令和5年10月21日、東京都庁前の「都民広場」で「『お帰り』と言うために 拉致被害者・特定失踪者家族の集い」が開催され、39家族52名の政府認定拉致被害者・特定失踪者(拉致の疑いの排除できない失踪者)家族が参加した。この集会は同じ場所で14年前の2010年に「これ一度だけ」と言って開催している。前回参加された家族でも他界したり病気で出席できなくなった人が少なくなかったが、それでも家族からの訴えは参加者の心に響いた。最初に挙げたのはそのうちのお二人の訴えの一部である。

 前回の集会が「これ一度だけ」と言って呼びかけたのは、名称から分かるように特定失踪者問題調査会は拉致問題について調査する機関として設立したものであり、運動体ではなかったからだ。しかし拉致被害者の救出は当時、調査会設立以来7年が経過していたが何の進展もなく、状況を打開しようとして開催したのだった。このときは北海道から沖縄まで全国のご家族に声を掛けて手弁当で集まっていただいた。

 しかしその後13年間実質何も変わらなかった。調査会の幹事会で「もう一度だけ大集会をやるべきではないか」という声が上がり、今回はクラウドファンディングでご家族の旅費集めも実施した。高齢化のため前回より大幅に参加者は少なくなったが、ご家族の訴えは参加者の心を打った。

 自分自身は集会をやっているときは様々なことに目を配らなければならず、集中してご家族の声を聞くことができなかった。もちろん問題の深刻さは痛感したのだが、後から文字起こししたものを読んで、「これは集会だけで終わらせてはいけない」と確信した。

 ご家族の高齢化からして、このような集会は二度と開けない。だから今回のご家族の思いを様々な形で伝えていかなければならない。動画も、音声も、活字も、あるいは写真も、使えるものは全て使って一人でも多くの人に知ってもらう必要があると考えたのだ。活字メディアとしては私の勤務する拓殖大学海外事情研究所の「海外事情」に訴えの一部を紹介した(昨年11・12月号「拉致被害者・特定失踪者家族の声」)他、春には単行本として出版することにしている。動画は既に多数YouTubeやSNS上に上がっている。

 拉致問題に「現状維持」はない。一日過ぎれば被害者の人生も、家族の人生も一日縮まるのである。あなたがこう訴えなければならなくなったときのことを想像して、以下の集会での訴えもぜひお読みいただきたい。

 

 「北朝鮮に拉致された人たちは本人に何の落ち度もないと思うんです。「帰国を望む」とか「返してほしい」とかおっしゃる方がおりますがそんなことでは私はないと思うんです。国が責任持って取り返してほしいと思います」(昭和47年(1972)11月1日に東京都渋谷区の自宅を出て失踪した生島孝子さんの姉、生島馨子さん)

 

 「国が北朝鮮による拉致をしっかり把握できてから21年経っているのに何も進展しておりません。進展するということは被害者を取り返すことです。私たち家族は『ただいま』と言って普通に帰ってくる家族を『お帰り』と言って迎えることがたった一つの願いなのです」(昭和48年(1973)7月7日に千葉県市原市の自宅を出て失踪した会社員古川了子さんの姉、竹下珠路さん)

 

 よく日本は平和だ平和憲法を守んなきゃいけないなんて言っていらっしゃいますけども拉致被害者は日本人じゃないんですか。彼ら日本人を共に平和な環境の中でいさせるためにどうすればいいかということを国会議員は考えるべきじゃないんですか。彼らを取り戻せない憲法であるならば変えていかなければならない。そのぐらいの考えがなぜできないんでしょう。(昭和53年(1978)8月12日に鹿児島県吹上町で拉致された会社員増元るみ子さんの弟、増元照明さん)

 

 「拉致から45年帰国してから20年となる今年、長い歳月が流れたこの間一日でも母のことを忘れたことはありません。帰国直前に母は日本にいないと知りこの目で確認しないと信じられないと母との再会を信じて日本の地を踏みました。けれどやはり母はどこにもいなかったのです。再会を信じて家族を待つ皆さんの気持ちは痛いほどよくわかります」(昭和53年(1978)8月12日に母曽我ミヨシさんと共に拉致され2002年9月17日の日朝首脳会談で北朝鮮が認め翌月日本に帰国した曽我ひとみさん)

 

 「内閣官房から『やってます』みたいなメールが来ます。やってますじゃなくていつまでにどうやりますって言ってほしい。できないんだったらできないって言ってほしいんですよ。やりますやりますって言ってずっと続けられてストックホルム合意でぬか喜びさせられてそのままです。もう本当に時間がないということを我々思ってます」(昭和63年(1988)7月17日宮崎市の沖合で友人の林田幸男さんとともに船ごと失踪した会社役員水居明さんの息子、水居徹さん)

 

 「娘は23歳でいなくなりもう28年の時が過ぎ一緒に過ごした日より会えなくなった年の方が多くなりました。政府は『全員救出が国の最重要課題だ』『努力しています』というだけで結果が出ません。その他の作戦も考える時ではないでしょうか」(平成7年(1995)3月26日大阪府美原町の自宅を出て失踪した植村留美さんの母、植村光子さん)

 


《かわぐち  まーん  えみ》 

85年シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。最新刊は『左傾化するSDGs先進国ドイツで今、何が起こっているのか』など著書多数。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」第2261号 より

 

ドイツ・ヨーロッパから学ぶべき

 

移民・難民問題

 

作家 (独ライプツィヒ 在住) 

川口 マーン 惠美氏

 

 先日聞いたジョーク:ある女性が家でラジオを聴いていたら、高速道路に逆走ドライバーがいるという警報。ちょうど父親がその付近を走っているはずなので、慌ててケータイを掴み、「パパ、気をつけて! 逆走の車が1台いるらしいから」。すると、父親が落ち着いて答えた。「分かってる。でも、1台どころじゃないんだよ。ものすごい数の車が逆走してる」

 

 最近のドイツ政府の政治を見ていると、このジョークを思い出す。逆走をしているのはどう見ても自分たちなのに、ドイツ政府は他の国々が間違っていると思い込んでいる。

 2011年、福島の原発事故の後、地震も津波もない国で、無理やり脱原発を前倒しにしたドイツ。いずれ多くの国がこの“正道”に続くだろうと胸を張ったが、付いてきた国はまだ1国もない。それどころか昨年12月2日、国連のCOP28に合わせて、米エネルギー省は、「世界の原発の発電容量を50年までに3倍に増やす」と宣言し、日本、英国、フランス、スウェーデン、フィンランド、韓国、UAEなど22カ国が賛同した。ドイツにしてみれば、皆、間違っている。

 

 正道を行くドイツはすでに23年4月15日、脱原発を達成。今では褐炭まで燃やし、EUで一番たくさんCO2を排出する国の一つだ。そのうえ、毎日欠かさず、“道を誤った”フランスからの原発電気に支えられているが、「それが何か?」 なんとなく、「5カ年計画」のかけ声で衰退の道を歩んだ東ドイツの姿を彷彿とさせる。

 逆走は難民問題でも同じだ。2015年9月、当時のメルケル首相がいきなり中東難民に国境を開き、EUを未曾有の混乱に陥れたが、あれもドイツ人にしてみれば、人道上の正道。それに勇気付けられた難民たちは、いかなる危険にもめげず、今日もアフリカから、中東から、怒涛のように流れ込んでくる。しかも、困ったことに、難民資格のない人たちのモチベーションが、とりわけ高い。

 一度入ってしまった人を追い出すのはほぼ不可能だ(国籍を特定できないか、できても、相手国が送還を受け入れない)。多くの国はすでに増え過ぎた難民のせいで、経済だけでなく、治安まで脅かされており、どうにかしてこの流れを変えようと必死。これまで何十年にも亘って寛大な難民・移民政策を敷いてきたデンマークやスウェーデンも、あまりの犯罪の増加に、今では難民シャットアウトに舵を切った。

 

 自国の離れ島に大量に流れつく難民に痺れを切らしたイタリアのメローニ首相は、EU域外に難民センターを作ろうと思いつき、昨年11月、バルカン半島のアルバニア政府と協定を結んだ。今年の春からは、海を漂う難民を見つけたら、直接そこに運び、難民資格の有無を審査。資格がない人はそのまま送り返すというが、いったいどこへ追い返せるのやら。ちなみに英国とデンマークも、同じことをアフリカのルアンダで計画しているという。

 しかし、もちろんドイツはそんな“間違った計画”には乗らない。EUの一員として、一応、難民対策は模索しつつも、実は、与党の社民党も緑の党も、来る難民は全員受け入れたい。そうするうちに、少子化で悩んでいたドイツの人口が、2011年の8033万人から、22年の8436万人へと、11年間で400万人以上も増えた。ひとえに難民と、彼らの産んだ子供たちと、さらには100万人を超えるウクライナ難民のおかげだ。

 

 深刻な人手不足のドイツのこと、彼らが働いてくれれば言うことなしだが、そうはいかず、政府は昨年施行した「市民金」を奮発している。これは政府が一律に配るお金で、働けるけれど働いていない人、あるいは働いても貧しい人が対象。現在、独身者の月額は563ユーロで、これに住宅手当や暖房手当が乗るので、低所得者と比べるとお得感が大だ。子沢山なら一気に左うちわになる。

 23年、市民金の受領者は550万人で、そのうち260万人が外国人だった。特にウクライナ人は、ドイツに入ったその日から普通市民扱いなので、70・7万人が市民金を受領。ウクライナの一人当たりのGDPはドイツの10分の1以下なので、市民金は彼らにしてみれば目玉の飛び出る豪華版だ。なお、その他の国の難民申請中の人たちも、審査で難民と認められれば、市民金がもらえる。中東難民もウクライナ難民も、何を押してもドイツを目指すのは、これら潤沢な現金支援のためだ。

 なお、難民はまだまだ増える。15年と16年に入った難民の家族呼び寄せが始まっており、一昨年も昨年も12万人前後が移住してきた(発行されるビザ数から正確な数が割り出せる)。彼らはおおむね大家族で、下手をすると妻が複数いる(ドイツの法律との整合性は?)。ただ、ドイツ語の得意でない人がほとんどだから、出産率は跳ね上がるだろうが、労働力は期待できない。こうしてドイツ人が養う人々はどんどん増えていき、中堅納税者の経済的負担が急増。昨年のドイツの税率は、OECDによればベルギーに次いでEUで二番目に高くなってしまった。

 

 その他、破格の支出となっているのが、政府が熱心に進めるエネルギー転換やGX(グリーントランスフォーメーション)のコスト。政府はこれを賄うため、おそらく違憲とは承知の上で、コロナの非常時のために特別に許可された債務枠を素知らぬ顔で使うつもりだった。正しい目的のためなら法律違反も許されると、ドイツ政府が信じてやまなかったのだとすれば、民主主義の崩壊ではないか。

 いずれにせよ、増税なし、借金なしと豪語しつつ、引き続きあちこちに補助金をばら撒こうとしていた政府だが、11月15日、憲法裁判所(=最高裁)のまさかの「待った」で、エネ転換と気候保護の予算から600億ユーロが削られてしまった。しかも、憔悴のハーベック経済・気候保護相がその後のインタビューで、「(補助が付けられなくなるので)電気代やガス代が高くなるかもしれないが、その時は(訴えた)CDU(ドイツキリスト教民主同盟)にお礼を言ってくれ」とヤケクソのコメントをしたのには少なからず驚いた。“正道”から外れたのはあなたでしょうが!

 案の定、このあと、これ以上落ちることはないと思っていた政府の人気はさらに落ち、12月15日のZDF(第2ドイツテレビ)のアンケートでは、与党の支持率は3党合わせてたったの33%。今では国民に向かって果敢に逆走しているドイツ政府である。

 


《むらた こうじ》

1964年、神戸市生まれ。同志社大学法学部卒業、米国ジョージ・ワシントン大学留学を経て、神戸大学大学院博士課程修了。博士(政治学)。広島大学専任講師、助教授、同志社大学助教授を経て、教授。この間、法学部長・法学研究科長、学長を歴任。現職。専攻はアメリカ外交、安全保障研究。サントリー学芸賞、吉田茂賞などを受賞。『現代アメリカ外交の変容』(有斐閣)など著書多数。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」2261号 より

 

国際的な重要選挙が続く — 激動の2024年の幕開け —

問われる日本外交のポテンシャル

 

同志社大学 法学部教授

 

村田 晃嗣 氏

 

 昨年11月末に、ヘンリー・キッシンジャー博士が亡くなった。100歳の大往生である。国家安全保障問題担当大統領補佐官や国務長官として、彼は米ソ間のデタント(緊張緩和)を推進し、劇的な米中接近を図り、そして、中東和平に尽力した。だが今や、米ロ関係は破綻し、米中関係も緊張して、中東でも大規模な武力紛争が発生している。半世紀前のキッシンジャーの偉業はことごとく覆った感がある。他方で、彼が仕えたリチャード・ニクソン大統領は、弾劾に直面して1974年に任期半ばで辞任した。ドナルド・トランプ前大統領は二度の弾劾を乗り超えて、再び大統領の椅子を手に入れるかもしれない。つまり、アメリカ内政の混乱だけが50年前と共通しているのかもしれない。

 

 さて、いよいよ激動の2024年が幕を開けた。まず、1月には台湾の総統選挙が控えている。この選挙結果は、中台関係のみならず東アジアの国際政治に大きな影響を与えよう。3月には、ロシアの大統領選挙がある。ウラジーミル・プーチン大統領の勝利は知れている。しかし、プーチンの勝利の度合いによっては、ポスト・プーチンのロシア政治が見えてこよう。また同じ頃には、ウクライナの大統領選挙も巡って来る。戦火の下での選挙は困難であり、おそらく延期されよう。だが、そうなれば、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領の正当性を、ロシアは政治的に攻撃するにちがいない。インド、韓国という日本にとって大切な民主主義国でも、議会選挙がある。

 

 日本でも、7月には東京都知事選挙、9月には自由民主党の総裁選挙が予定されている。そして、11月5日は大本命のアメリカ合衆国大統領選挙である。

 9月の自民党総裁選挙までに、岸田文雄首相は衆議院を解散できようか。ほどなく通常国会が始まるが、3月末までは予算審議に忙殺される。昨年11月にサンフランシスコで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、アメリカのジョー・バイデン大統領は岸田首相に春先の公式訪問(国賓待遇)を求めた。つまり、アメリカは少なくとも春先までは岸田内閣の続投を予想し、期待している。7月末には通常国会は閉会しようから、それまでに自民党がスキャンダルを乗り超えて、内閣支持率がある程度回復し、岸田首相が解散権を行使できるタイミングが巡って来るか。現状ではむずかしいであろう。解散なしで総裁選を迎えれば、自民党の国会議員たちは次の選挙の顔として有利な人物を選ぶから、岸田総裁の続投は容易ではない。もしかしたら、菅義偉前首相のように、総裁選までに辞任に追い込まれているかもしれない。

 今回の自民党の政治資金規正法違反の事件は、ロッキード事件やリクルート事件に匹敵するスキャンダルになるかもしれないのである。実は、このスキャンダルの発覚前に衆議院を解散する可能性も模索されたのだが、内閣支持率が低迷して、できなかったのである。やはり1974年に、田中角栄首相が金脈問題で辞任に追い込まれたことが想起される。もし自民党が選挙の顔として、今や無派閥で菅前首相らが推す石破茂氏を次の総裁に選ぶなら、それは「令和の三木武夫」といったところであろう。

 

 さて、アメリカの大統領選挙である。民主党は現職のバイデン大統領が、そして、共和党はトランプ前大統領が候補になることは、ほぼまちがいない。となると、25年1月の大統領就任の段階で、バイデン氏は82歳、トランプ氏は78歳になる。高齢者同士のリターン・マッチである。かつて、ロナルド・レーガン大統領が73歳で再選をめざした時も、さらに昔にはドワイト・アイゼンハワー将軍が62歳で大統領をめざして際も、年齢が問題にされた。それから40年、72年を経ている。あるいは、年齢はそう大きな問題ではないのかもしれない。それでも、アメリカの多くの有権者が、両候補の年齢や健康に不安を感じていることは事実である。80歳を超えても、バイデン大統領が再選をめざす理由はただ一つである。トランプ再選を阻止することである。おそらく、民主党からバイデン大統領以外の誰が出馬しても、強烈な個性を持つトランプ氏を阻止できまい。バイデン氏だけが、トランプ氏に一度勝ったことのある男なのである。

 他方、トランプ氏は90を超える訴訟を抱えており、それらは連邦レベルと州のレベルに跨り、刑事訴訟と民事訴訟を含んでいる。すべての裁判で敗れれば、トランプ氏は最長で懲役730年の刑を科されるかもしれないのである。しかも、州レベルで有罪が確定すれば、トランプ氏が大統領になっても自らに恩赦を発することはできない。それは州知事の権限だからである。数々の訴訟にもかかわらず、共和党の多数はトランプ氏を支持しているが、肝心の無党派層はやはり裁判の<RUBY CHAR="帰趨","きすう">に大きく影響されるのではなかろうか。

 もちろん、それでもトランプ氏が勝つ可能性は、十分にある。われわれは「トランプの世界」の再現に備えなければならないのである。しかも、安倍晋三氏抜きで。来るべき自民党の総裁選びは、派閥の論理や選挙対策を超えて、「トランプの世界」に対処できるリーダーの選定でなければならない。

 

 もとより、「トランプの世界」はこの世の終わりではない。下院議長選出をめぐる共和党の混乱を見るにつけ、下院で共和党が多数を維持することは困難であろう。上院でも民主党が議席を伸ばすかもしれない。そうなれば、大統領の暴走は議会の予算権と立法権に大きく拘束されよう。それでも、日米同盟の信頼性を高め、厳しい戦略環境に対処するには、日本は2022年末の安保三文書で示した政策、すなわち、5年かけて防衛費を倍増し、反撃能力を保持することを確かに実現しなければならない。思えば、2015年に平和・安保法制を成立させ、限定的とはいえ集団的自衛権の行使容認に踏み切っていなければ、翌年のトランプ政権の成立で日米同盟は苦境に立たされたであろう。その平和・安保法制をめぐっても、22も違憲訴訟が起きたが、ことごとく裁判所に退けられている。日本政府は勇気を持って公約を進めるべきである。昨今の内外情勢に鑑み、われわれの持ち時間は、そう長くはないのだから。

 


《にしの じゅんや》

1973年生まれ。96年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、同大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了、2005年、韓国・延世大学大学院政治学科博士課程修了(政治学博士)。専門分野は東アジア国際政治、現代韓国朝鮮政治、日韓関係。慶應義塾大学法学部専任講師、同准教授を経て現職。共著書に『戦後アジアの形成と日本』、『朝鮮半島と東アジア』、『アメリカ太平洋軍の研究』など。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」2261号 より

 

どうなる2024年の日韓関係

 

慶應義塾大学法学部教授 朝鮮半島研究センター長

 

西野 純也 氏

 

 2024年の日韓関係も基本的には昨年からの改善の流れが続くことが予想されるが、その速度と力強さがどうなるのかは予断を許さない。振り返れば、2023年は日韓首脳会談が7回行われたことに象徴されるように、急速に政治外交関係の改善が進んだ特筆すべき年となった。

 

 3月の尹錫(ユンソン)悦(ニヨル)大統領の訪日と5月の岸田文雄首相の訪韓によってシャトル外交が復活したことに加え、途絶えていた政府当局間の各種対話、協議の枠組みも再開された。約5年ぶりに開かれた外務・防衛の局長級による日韓安全保障対話、約8年ぶりの日韓ハイレベル経済協議、そして9年ぶりの日韓次官戦略対話などがそれらである。2012年から関係の悪化が長く続いたことに鑑みれば、昨年は日韓協力の「失われた10年間」を取り戻した1年となった。今年は、回復した政府当局間の対話や協議の枠組みを本格稼働させて協力関係をしっかり構築し、それを軌道に乗せる年にする必要がある。

 

 今年の日韓関係の行方を考える上で、両国の国内政治、世論、そして両国を取り巻く国際情勢、の3つに着目すべきだろう。

 まず第1に、日韓両国の国内政治である。周知の通り、関係改善に大きな役割を果たしてきたのは尹錫悦大統領の強いリーダーシップである。日韓間の最大の懸案である「元徴用工」問題について、2018年10月の韓国大法院判決に反対する日本の立場を踏まえた「第3者弁済」解決策を提示し、3月の訪日と首脳会談を実現した。しかし、尹政権への韓国内の支持率は高くなく(韓国ギャラップ調査では30%台前半を推移)、尹政権の対日政策への世論も冷たい。国会で過半数を占める最大野党「共に民主党」は、尹政権が「対日屈辱外交」を展開していると批判し続けている。

 そんな中、24年4月に韓国では国会議員総選挙が実施される。昨年末から韓国政治は総選挙モードに突入しているが、各種世論調査からは尹政権の与党「国民の力」は人気がなく苦戦している状況が明らかである。そのため、昨年末には与党では代表が辞任をして非常対策委員会が発足した。この与党を率いることになったのが、尹大統領の側近で検察出身でありながら将来有望な政治家と目されている韓(ハン)東勲(ドンフン)・前法務部長官である。長官職を辞して政界に飛び込んだ韓氏の決断が奏功するかどうかは、韓氏個人だけでなく尹政権の命運にも大きな影響を及ぼすことになる。もし与党が総選挙で敗北すれば、任期3年を残す尹政権の国政運営はさらに厳しくなり、それは対日政策にも悪影響を及ぼすことになろう。関係改善に対する尹大統領の決意と熱意がいくら強くても、国内の逆風が強くなれば前進することは容易でなくなる。

 同時に、日本の国内政治の動向も不安材料となった。いわゆる裏金問題もあり岸田内閣の支持率は尹政権のそれより低くなった。尹大統領の決断を受け止めて共に関係改善を進めてきた岸田首相の指導力が弱まることは、日韓関係を発展させる好機を逃すことにつながりかねない。

 

 国内政治の動向とあわせて第2に留意すべきは、関係改善に対する日韓両国民の理解と支持を増やせるか、である。世論調査により明らかなのは、関係改善への支持が韓国側世論で依然低いことである。特に気になるのは、関係改善の進め方に対する日韓世論の認識差である。例えば、23年6月発表の読売新聞・韓国日報が実施した日韓共同世論調査を見ると、日韓首脳が相次いで会談して関係立て直しを進めることを「評価する」との回答が日本側で84%に達しているのに対し、韓国側では「評価する」47%、「評価しない」49%と二分された。歴史問題にとらわれずに関係改善を進めるべきとの尹大統領の姿勢についても、日本側の85%が「評価する」のに対して、韓国側は「評価する」50%、「評価しない」46%であった。総じて、韓国世論の約半数は関係改善の進め方に不満を持っていると言える。特に、「第3者弁済」解決策の提示など、尹政権は日本に譲歩しすぎであり、それに相応する日本側からの「誠意ある呼応」を引き出せていない、との声が韓国内で依然として大きい。

 それゆえ、関係改善の展望について日韓世論とも楽観的であるよりかは慎重もしくは悲観的である。今後の関係について「変わらない」との回答が日本側60%、韓国側47%であり、「良くなる」「悪くなる」との回答よりも多い。韓国側では「悪くなる」との見方も13%あった(日本側は3%)。とりわけ、尹政権が示した解決策で元徴用工問題が最終決着すると「思わない」との見方は、日本側で66%、韓国側で77%に達している。

 

 残念ながら、現実の動きも世論の雰囲気と軌を一にしている。尹政権の解決策に反対して韓国内財団から賠償金相当の支給金受け取りを拒否する元徴用工らがいる中、財団による支給金の供託手続きは裁判所で認められなかった。さらに、23年末には18年10月と同様の判決が大法院で下された。今後も同じ事態が続く可能性がある。財団が説得をして支給金を渡すべき原告の数は増え続けることになるが、説得は容易ではなく財団の基金も十分ではない。

 つまり、ある程度想定されていたことではあるが、現時点で尹政権の示した解決策は行き詰まりつつある。この他、23年11月にソウル高裁で慰安婦問題について日本政府に賠償を命じる判決が出るなど「歴史問題」の行方は依然険しい。この状況を少しでも緩和させるためにも、これまで以上に関係改善に対する世論の理解と支持を得るための日韓両政府の努力が必要になる。

 最後に、第3の厳しい国際情勢は引き続き日韓両国の協力を促す要素として作用するだろう。しかしここでも、日韓協力の求心力の一つである米国の大統領選の行方や、中国問題に対する日韓の立ち位置の違いなど留意すべき点がないわけではない。以上のような不安要素がある中でも関係改善の歩みを着実に前へ進められるかどうかが、日韓関係の未来を大きく左右することになる。

 


《にわ ふみお》

1979年、石川県生まれ。東海大学大学院政治学研究科博士課程後期単位取得満期退学。博士(安全保障)。2022 年から現職。拓殖大学国際日本文化研究所所長、大学院地方政治行政研究科教授。岐阜女子大学特別客員教授も務める。著書に『「日中問題」という「国内問題」—戦後日本外交と中国・台湾』(一藝社)等多数。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」2261号 より

 

台湾有事「最前線の砦」へ

 

—死闘の痕跡が残る中国の「目と鼻の先」—

 

拓殖大学 政経学部教授

 

丹羽 文生 氏

 

 「目と鼻の先」という言葉は、この島のためにあるのではないか…。そう感じずにはいられなかった。過日、台湾本島から西に約270キロメートル、中国大陸の福建省廈門から僅か約10キロメートルしか離れていない台湾の金門島を訪れた。台北市内中心部に程近い台北松山空港から1時間20分ほどで着く。台湾が実効支配する金門島は、行政区分上は「中華民国福建省金門県」だが、中国からすれば「中華人民共和国福建省泉州市」の管轄地域となる。

 

 第2次世界大戦後の1946年6月、中国大陸において、毛沢東配下の共産党軍と蒋介石率いる国民党軍による国共内戦が勃発した。当初は約430万人の兵力を誇る国民党軍が圧倒的に優勢だった。その数は共産党軍の4倍近くに及んだ。だが、やがて農民の支持を固めた共産党軍が反転攻勢に転じる。国民党軍は敗走を重ね、徐々に居場所を失っていき、ついに1949年10月1日、毛沢東が中国大陸の北京を首都に新中国の建国を宣言、これにより、共産党軍の勝利、国民党軍の敗北が確定した。

 中国大陸は「中華民国」から「中華人民共和国」に衣替えしたわけである。国民党軍は、日本から返還されて間もない台湾への退去を余儀なくされ、「中華民国」を丸ごと台湾へ持ち込んで、そのまま居座ることとなった。

 そんな中、国共内戦のクライマックスとも言える戦いが金門島を舞台に繰り広げられた。「古寧(こねい)頭戦(とうせん)役(えき)」(金門島の戦い)である。南方に追い遣られた国民党軍にとって金門島は「最後の砦」だった。ここが共産党軍に奪われれば、台湾にまで、その手が伸びてくる。

 「中華人民共和国」の成立から約3週間後の25日深夜、共産党軍は金門島への上陸作戦を開始した。

 この時、共産党軍を撃退すべく、その殲滅(せんめつ)作戦を立案したのが日本から台湾へ密航し、国民党軍の「軍事顧問」として、これに参戦した旧日本陸軍中将の根本博であった。二昼夜に亘る激闘の末、辛うじて国民党軍が勝利し金門島を死守、共産党軍による台湾侵攻を阻止することに成功した。

 金門島訪問時、ガイドブック代わりに持参した元朝日新聞台北支局長でジャーナリストの野嶋剛氏の著書『蒋介石を救った帝国軍人—台湾軍事顧問団・白団の真相』(筑摩書房、2021年)には「国民政府軍は海岸から少し離れた高台に陣取り、共産党軍が上陸したのを待ち受けていっせいに火力を集中した。これまで連戦連勝だった共産党軍にも気のゆるみがあったのだろう。共産党軍は混乱に陥り、上陸に使ったジャンク船は焼き払われ、数万人が捕虜になるという、国民政府軍の大勝利に終わった」と描かれている。

 1958年8月23日には金門砲戦が起こり、約1カ月半の間に人民解放軍から約47万5千発もの砲弾が金門島に撃ち込まれた。戦闘行為そのものは10月5日に終了するが、人民解放軍による砲撃は米中国交正常化までの21年の長きに亘って続いた。

 1992年11月には台湾本島より5年遅れで戒厳令が解除、2001年1月より厦門(あもい)との間で「小三通」と呼ばれる通航の自由化が実現し、2018年8月からは福建省から金門島への給水も始まった。

 軍事施設が観光資源となっていることから大勢の中国人も訪れ、繁華街「模範街」には中国国旗「五星紅旗」が掲げられた。

 そんな金門島の名物は、かつて中国から撃ち込まれた砲弾の破片や不発弾を溶かして作られた包丁である。切れ味抜群、錆び難(にく)いと評判で、中国人の行き来が活発だった頃は飛ぶように売れたらしい。

 近年は、独立志向の強い蔡英文政権への圧力強化の一環として中国から台湾への渡航制限・禁止策に加え、新型コロナウイルス禍により、観光にやって来る中国人はいない。ホテルもレストランも土産物店も閑古鳥が鳴く。そのため中台間の往来再開を待ちわびる声が多くあった。

 滞在中は、古寧頭戦史館や八二三戦史館の見学、敵兵の上陸を阻止するために立てられた鉄製の杭が並ぶ海岸からは厦門のビル群を肉眼で見ることができた。

 48台ものスピーカーが埋め込まれたコンクリート製の北山放送壁では、「アジアの歌姫」ことテレサ・テンの「親愛なる大陸同胞の皆さん、こんにちは。テレサ・テンです…」で始まるメッセージと名曲「甜蜜蜜(ティエンミィミィ)」が流れていた。

 中国大陸からやって来た外省人を両親に持つ彼女は台湾雲林県生まれ。勿論、今は観光用だが、かつて、中国大陸でも人気を博していた彼女の甘い歌声を対岸に向けて流すことで敵兵の戦意を喪失させる、あるいは中国への投降を訴えるための「心理戦」に使われたという。

 台湾では、大半の人が自分は「台湾人」であると自認しているが、しかし、そもそも「台湾」ではない金門島に住む人々は、地理的感覚からなのか厦門寄りで、「中華民国人」としてのアイデンティティが強い。政治的にも民進党より、対中融和のスタンスを取る国民党の支持率が圧倒的に高く、中台統一を唱える人までいた。

 台湾有事が起こった場合、この金門島が中国による最初の標的になるとの見方がある。自民党副総裁の麻生太郎元首相も2023年11月、訪問先のオーストラリアでのスピーチで、中国が台湾に軍事侵攻する可能性は低いものの金門島を占領する可能性はあると語った。確かに、アメリカの台湾関係法においても、ここは防衛義務の適用範囲外でもあるため、中国からすれば攻撃し易い。

 ただ、これだけ親中的な住民に対して危害を加えることができるのか。それに、金門島で中台軍事衝突が発生すれば、当然、対岸の厦門にまで戦火が及び、多くの自国民が犠牲となろう。

 間もなく4年に1度の台湾総統選が行われる。金門島の将来を左右するだけに、その行く末に注目したい。

 


《ちの けいこ》 

横浜市生まれ。1967年に早稲田大学卒業、産経新聞に入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長。外信部長、論説委員、シンガポール支局長などを経て2005年から08年まで論説委員長・特別記者。現在はフリーランスジャーナリスト。97年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。著書は『戦後国際秩序の終わり』(連合出版)ほか多数。近著に『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)。

2024年1月15日号 週刊「世界と日本」第2261号 より

 

世界最大の直接選挙

 

—インドネシア大統領選—その注目点は

 

ジャーナリスト 

千野 境子氏

 

 大統領選挙ラッシュの本年、来月14日にはインドネシア大統領選挙がある。人口約2億7千万人は世界第4位、有権者も2億人を超す世界最大の直接選挙だ。ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領の下、存在感を高め今やグローバルサウス(新興・途上国、GS)のリーダーとしても動向が注視されるインドネシア。日本も目が離せない。

 

 立候補者は与党グリンドラ党の党首プラボウォ・スビアント国防相(72歳)、最大与党・闘争民主党公認のガンジャル・プラノウォ前中部ジャワ州知事(54歳)、アニス・バスウェダン前ジャカルタ特別州知事(54歳)の3人。副大統領候補は順にジョコウィ大統領の長男ギブラン・ラカブミン・ラカ・ソロ市長、モハンマド・マフッド政治・法務・治安調整相、ムハイミン・イスカンダル民族覚醒党党首が夫々(それぞれ)ペアを組んでいる。

 当選には得票率50%以上と全37州の半数以上の州で有権者の20%以上の得票を得ることが必要。満たせない場合は上位2ペアが6月に決戦投票を争う。

 選挙運動は既に終盤戦だ。焦点は誰が支持率80%超のジョコウィ人気を取り込み、路線を継承するかだが、プラボウォとガンジャルは路線継承を表明している。

 3度目の挑戦で背水の陣のプラボウォは大統領の長男と「チーム・ジョコウィ」を標榜、国防相として政権入り後は、従来の強面する元軍人像から親しみやすい庶民派つまりジョコウィ流に「変身」したかのようだ。世論調査も昨年半ば頃からガンジャルを抜き1位を走っている。

 ただギブランの立候補が届け出締め切り直前の憲法裁判所の判決のお蔭であること、しかも叔父が裁判長だったためネポティズム批判は強い。吉と出るか凶か、有権者の審判が注目される。

 ジョコウィと同じ闘争民主党のガンジャルは継承という点では一番の正統派で、世論調査も一貫してトップだった。ところが昨年、バリ島でのサッカー国際試合のイスラエル選手団入国拒否を巡る支持発言が裏目に出た。国際サッカー連盟(FIFA)U—20W杯のインドネシア初開催の夢は潰え、失望はガンジャルにも向った。

 ガンジャルの発言は反イスラエルのイスラム票を意識したものとされるが、党首メガワティ元大統領のパレスチナ支持の意向にも沿うもので、(ジョコウィと違って)メガワティから自立出来ない政治家と評判を落としてしまった。その後も、支持率は完全回復とは行かないようだ。

 今回の大統領選はこの一事が示すように、自分の意のままにならないジョコウィに不満で次は掌中に収めていたいメガワティと、退任後も影響力を保持したいジョコウィの「暗闘」が囁かれている。

 3番手のアニスはインドネシア最大のイスラム団体ナフダトゥル・ウラマー(NU)が支持基盤のムハイミンの集票力に期待する。第1次ジョコウィ政権で教育・文化相と務めたが、その後、袂(たもと)を分かち、新首都ヌサンタラ移転ではひとり見直しを公約している。ただ対立は政策的よりは感情的側面が強そうだ。

 従って次期大統領の政策の継承は言わば既定路線、問題は誰が独自色を出し、今の路線も強化・発展させて行くかだろう。高い支持率を誇るジョコウィ路線の否定はそう簡単ではない。

 インドネシアはこの間ずっと4〜6%前後の経済成長を達成し、コロナ禍からの回復も早かった。今後も①インフラ開発②人材開発③投資の促進などの重点政策は進められ、外交も経済外交や海洋主権の強化、GSのリーダーとしての発言力確保などを目指すのは間違いない。経済協力開発機構(OECD)への加盟も本格的課題となる。独立100周年となる2045年の先進国入りを掲げているが、政治的安定と経済の好調がこのまま続けば前倒しだって可能だろう。

 不安要因はある。世界最大の島嶼国に民族は633、言語は747ある。国是に「多様性の中の統一」を掲げるのもそれが如何に難しいかの裏返しだし、ジャワ島とそれ以外の島々との経済・開発の発展の格差も厳然と残る。宗教は穏健なイスラムと位置づけられ、原理主義派のテロ活動は近年鳴りを潜めて居るが、将来を保証するものではない。社会の安定が崩れた場合、大国故にダメージも大きい。

 しかし今のインドネシアにはこれら不確実性を吹き飛ばすような勢いが感じられる。エネルギーの源は平均年齢29歳の若さだ。いわゆるミレニアル世代とZ世代が1億1300万人超いる。その意味で大統領選は、彼らが帰趨(きすう)を握っているとも言える。候補者もプラボウォ以外は54歳と若い。しかも今回こそ立っていないが、サンディアガ・ウノ観光・創造経済相(前回はプラボウォの副大統領候補)、ユドヨノ前大統領の長男のアグス・ハリムルティ民主党党首、リドワン・カミル前西ジャワ州知事…と将来立候補が有望な政治家に欠かない上に、皆ミレニアル世代か、さらに若い。

 昨年、日本とインドネシアは首脳会談で「包括的・戦略的パートナーシップ共同声明」を発出し、関係を格上げした。次期大統領候補も皆、日本との縁がある。プラボウォは国防相として防衛装備品供与の推進等を通して対日関係を深めて来たし、ガンジャルはスポーツマンで東京マラソンに参加したこともあるとか。知己も多いという。アニスはガジャマダ大学在学中に上智大学に留学経験があり、やはり知己は少なくない。

 12月に駐中国大使に転じた金杉憲治前駐インドネシア大使は10月5日付『じゃかるた新聞』への寄稿で、今後の両国関係を考える際に重要と思われるポイントを4つ挙げている。

 第1は経済関係のさらなる強化、第2は安全保保障協力、第3はインドネシアの若者への働きかけで、いずれももっともだが、筆者が最も共感したのは第4だ。《今のインドネシアは日本人の多くがイメージするかつてのインドネシアでは全くなく、変化を恐れない柔軟な政策運営やデジタル分野ではむしろ日本が学ぶべき相手であり、それを前提にインドネシアと向き合っていく必要がある》。

 新しい皮袋に新しい酒を入れる時代が来ている。

 (敬称略)

 


《しまだ よういち》

1957年大阪府生まれ。専門は国際政治学。主に日米関係を研究。京都大学大学院法学研究科政治学専攻課程を修了。著書に『アメリカ解体』、『三年後に世界は中国を破滅させる』(共にビジネス社)など。最新刊に『腹黒い世界の常識』(飛鳥新社)。

2024年1月1日号 週刊「世界と日本」2260号 より

 

2024年の外交課題

 

中東情勢流動化と日米関係

 

福井県立大学 名誉教授

 

島田 洋一 氏

 

 2024年の国際政治は、「新・悪の枢軸」対自由主義諸国の歴史的闘争という様相を益々強めていこう。しかしこの間アメリカでは、お世辞にも指導力があるとは言えないバイデン政権が続く。日本政府は決して、無批判に引きずられてはならない。

 

 通常「新・悪の枢軸」に数えられるのは中国、ロシア、イランの3国。加速度的に連携を深めている。互いの支配圏拡張(しばしば露骨な軍事侵攻やテロの形をとる)を側面支援すべく、米軍の勢力分散を図る動きを活発化させていこう。

 論者によっては、ウクライナ戦争以降ロシアとの関係を緊密化させ、核武装を進める北朝鮮も「新・悪の枢軸」に加える。イランの傘下にあるシリアのアサド政権、ハマス、ヒズボラ等の中東テロ勢力は、北朝鮮と、武器取引などで密接な関係を有する。中国は、台湾侵攻に際して、米軍の一部を北東アジアや中東に引き付ける陽動作戦を北やロシア、イランに期待するだろう。

 

 トランプ政権は、これら勢力の封じ込めで、かなりの成果を収めた。歴代米政権と比べて出色の出来だったと言える。

 中国に対しては、大統領権限を相当程度拡大解釈して、先進テクノロジー分野における輸出管理を強化した。司法省とFBIに「中国シフト」を敷かせ、機微な技術の流出阻止に動いた。秘密裏に中国の科学技術獲得「千人計画」に協力していた、ナノテクノロジーの世界的権威チャールズ・リーバー・ハーバード大学教授の逮捕、起訴は代表例と言える。

 ところがバイデン政権は「中国シフト」を早々に解き、トランプ時代に立件された、中国系を中心とする研究者の多くについても、次々起訴を取り下げていった。

 米議会は、共和党主導で様々な対中締め付け策を法制化してきたが、肝心の法執行においてバイデン政権が厳格だったとは言えない。

 その背後に、「気候変動こそが最大の安全保障上の脅威であり、二酸化炭素の排出量で世界一の中国は、問題解決に当たって協力を得るべき最大のパートナー」という非常にナイーブな筋の悪い基本認識がある。

 中国はこれを逆手に取って、「脱炭素で協力」の代償に、台湾政策、テクノロジー管理などあらゆる面で米側に譲歩を迫ってきた。前述の、バイデン政権における法執行の弱さは、対中宥和の一側面に過ぎない。

 脱炭素原理主義勢力への迎合を事とするバイデン政権だが、統計を自由に操作できる中国共産党政権との「画期的な脱炭素合意」が砂上の楼閣に過ぎないことは分かっている。

 バイデン政権自身が掲げるアメリカの温暖化ガス削減目標も、エネルギー自立を重視する共和党の反対で実現不可能な数字であることは承知している。現に、火力から太陽光・風力発電に全面転換するための予算案は毎年否決され、共和党が下院で多数を占める中、2024年度も成立の見込みはない。

 それでも米中脱炭素合意を目指すのは、国内環境左翼へのアピールであると同時に、日欧に圧力を掛ける芝居という意味合いが濃い。すなわち初めから外される予定の梯子であり、日本は追従姿勢を取ってはならない。

 

 2024年大統領選挙で共和党候補が勝てば、アメリカのエネルギー政策は大きく転換する。

 共和党の候補選出過程で、若手実業家のビベック・ラマスワミが相当な健闘を見せた。反炭素運動は「欧州発の気候カルト」であり、無視せねばならない、むしろ化石燃料の有効利用こそがアメリカの国力を高め自由主義圏全体を強化するという彼の主張は、共和党陣営において何ら異端ではない。

 バイデン政権や民主党応援団のマスコミ(主流メディアのほとんど)が日々発信する「脱炭素=世界の流れ」論は、アメリカではあくまで「一方の意見」に過ぎない。

 中東政策に話を移そう。トランプ政権は、「テロの中央銀行」たるイランに対する制裁レベルを格段に高めた。オバマ前政権が進めた宥和政策の完全否定であった。

 同時に、イランと対立するサウジアラビアとの軍事・経済関係を強化し、サウジのジュニア・パートナーと言うべきアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーンなど湾岸アラブ諸国とイスラエルの国交正常化を成功裏に仲介した。

 また、オバマ時代に悪化したイスラエルとの関係も、エルサレムの首都認定、同地への米大使館移転などを通じて大きく改善させた。情報機関同士の信頼関係も回復させ、多くの対テロ共同秘密作戦につなげた。

 

 イランの対外破壊活動を担う革命防衛隊「コッズ部隊」の司令官ソレイマニの除去は最たる例である(2020年1月3日)。ソレイマニは、当時のイランにおいて最高指導者アヤトラ・ハメネイに次ぐ実力者と言われた人物である。彼の「無害化」に踏み切ったことは、世界に衝撃を与え、テロ勢力全般に対する抑止力を高めた。

 この時、ソレイマニ殺害は無謀かつ国際法違反で、暗殺に米政府職員が関与することを禁じた1976年大統領令違反でもあるとして、「私ならこうした命令は出さなかった」と非難したのがバイデンであった(当時、大統領候補として選挙運動中)。

 綺麗ごとの言動は抑止力を低下させる。2021年1月のバイデン政権発足以降、アフガニスタンからの米軍潰走(かいそう)、タリバン復活、ロシアのウクライナ侵略、イラン傘下のハマスによる対イスラエル大規模テロなどが続いたのは、その証左と言えよう。

 米議会は、下院で多数を握る共和党が、イスラエルへの軍事支援に積極的な一方、ガザ地区への「人道」支援や復興支援には基本的に反対の立場を採っている。ハマスが手中に収め、テロ支援となりかねないとの懸念からである。また、パレスチナ系アラブ人の支援や難民受け入れは、反イスラエルの旗を掲げてテロを助長してきたアラブ諸国やイランが責任を持つべきとの発想もある。

 日本政府は安易な「パレスチナ支援」を続けてはならない。渡す相手によってはテロ支援となる。世界を混乱に導いてきたバイデン政権ではなく、着実に成果を上げた前トランプ政権関係者の知見に、より多く学ぶべきだろう。

 


《みつい みな》

一橋大学卒業後、読売新聞に入社。ブリュッセル、エルサレム、パリ特派員を歴任。2016年、産経新聞に入社。17年、パリ支局長。23年9月から現職。近著は「敗北は罪なのか オランダ判事レーリンクの東京裁判日記」(産経新聞出版)

2024年1月1日号 週刊「世界と日本」2260号 より

 

パリ五輪を覆う戦争とテロの影

 

 

産経新聞 外信部編集委員

 

三井 美奈 氏

 

 

〈エコ五輪めざす〉

 

 パリにとって五輪は、08年大会誘致で北京に敗れて以来の悲願だった。

 アンヌ・イダルゴ市長はかつてない「エコ五輪」を実現し、21世紀の大会モデルを先導すると宣言した。期間中の温室効果ガス排出量は、16年のリオ大会、12年のロンドン大会の半分以下にする目標を掲げた。イダルゴ市長は社会党の元大統領候補で、環境重視は看板でもある。

 温暖化対策の手始めに、「選手村にはエアコンを置かない」と発表した。欧州では、屋外に廃熱を出すエアコンは「温暖化をもたらす」として何かと評判が悪い。

 とはいえ、フランスは近年、猛暑続きで夏の気温が40度を超える日も珍しくないから、「エアコンなし」はかなりきつい。まして五輪選手となれば、体調管理は最優先課題である。

 大会組織委に対策を聞くと、「大丈夫。『緑の冷房』で乗り切れる」と自信たっぷりの回答が返ってきた。敷地に9千本の木を植え、建物の床下パイプに冷水を通すことで、「外気が38度でも室内は26度に下げられる」というのだ。

 これはあくまで机上の計算である。選手村を視察した日本オリンピック委員会(JOC)関係者は、「エアコンなしで、本当に大丈夫か」と不安を漏らした。

 エコ五輪には、ほかにも現実の壁がある。

 「使い捨てプラスチック容器の禁止」も論議を呼んだ。ペットボトルを会場から排除し、選手や関係者にはファウンテン(飲料供給機)からコップや水筒を使って飲んでもらう計画だ。

 フランスは23年1月からファストフード店の使い捨て容器使用を禁止しており、法に沿った措置ではある。だが、再利用容器となると異物混入やドーピングの懸念が当然出てくる。仏紙によると、「個別密閉は絶対必要」だとして、競技団体や選手から適用除外を求める声が相次いでいるという。

 さらに心配なのは、交通網。五輪は「観客が公共交通機関でどの会場にも行けるようにする」のが目標で、パリ郊外の在来線を市内に延伸する予定だった。イダルゴ市長は11月になって、「用意ができていない」と認めた。パリ首都圏は年間4千万人以上が訪れる世界屈指の観光地で、通勤ラッシュ時の混雑は常に深刻な問題だ。そこに五輪が加わるとどうなるか。想定外を想定できていないのは間違いない。

 

〈イスラム過激派の影〉

 

 パリ五輪で最大の難関は、治安対策だろう。

 華やかなパリは、西欧文明の象徴でもある。このため、何度もイスラム過激派テロの標的となってきた。

 2015年には、イスラム教の創始者ムハンマドを風刺した週刊紙シャルリー・エブドが過激派の兄弟に銃撃された。続いてイスラム国(IS)による同時襲撃テロが起き、130人の死者を出した。パリ五輪のメインスタジアム「スタッド・ド・フランス」はこの時、自爆攻撃の現場になった。

 フランスのイスラム人口は推計570万人で、欧州で最も多い。移民問題は年々緊張している。この夏には各地でイスラム移民2世や3世の若者たちの暴動が続いた。

 10月にパレスチナ自治区ガザで紛争が始まると、不安はいよいよ現実のものに近づいた。パレスチナを支持するデモが広がり、イスラエルの自衛権を支持するフランス政府を非難した。ユダヤ人への攻撃も相次いだ。国内に緊張が走る中、12月にはエッフェル塔近くでテロが起きた。イラン系の男が「神は偉大なり」と叫んで、ドイツ人観光客をナイフで殺害した。男は現場で「イスラム教徒が死ぬのは、もううんざり」と言い、仏政府はイスラエルの共犯だと罵(ののし)った。10月には仏北部アラスで、イスラム過激派に教員が刺殺されている。

 ルーブル美術館やベルサイユ宮殿、空港では「爆破テロ予告」が相次いだ。爆発物が見つかったことはないが、毎度訪問客が一斉に避難し、大騒ぎになる。

 イスラム教徒の暴動は、大胆になる一方だ。2世、3世はフランス人として生まれ育ったのに、なかなか白人社会に溶け込めず、社会分断の危険がかねてから指摘されていた。夏には、警察署や役所という「権威の象徴」が相次いで襲撃され、炎上した。商店略奪も横行した。主な現場となったのは、パリ郊外の移民街だった。スタッド・ド・フランスや選手村が建つ地域である。

 

〈代替案はない〉

 

 水上開会式には外国からのVIPや一般の見物客をあわせ、セーヌ川両岸に60万人が集まる。

 屋根のない会場で、どこから脅威が迫るかは分からない。政府は警察や軍、民間警備員をあわせて4万5千人を動員し、無人機で上空から会場を監視する計画だ。近隣住民の移動も制限し、厳戒態勢が敷かれる。

 それでも、「本当に大丈夫か」という声は強い。10月には、柔道男子五輪金メダリストのダビド・ドゥイエ元スポーツ相が「万一、攻撃の危険が発覚した場合に備え、開会式にはプランB(代替案)が必要」と訴えた。現下の国際情勢を見れば、競技場での開催も視野に入れるべき、という意見だ。政府は、水上式典の実施に変更はないとしている。

 不安を煽るように、外国から揺さぶり工作の兆しも見える。夏にはSNS(交流サイト)で「パリ五輪ボイコット」の呼びかけが広がった。仏情報当局は、アゼルバイジャンが関与したとみている。ナゴルノカラバフ紛争で、対立するアルメニアを支えるフランスに政治報復したらしい。仏政府はロシアに対しては、「偽情報によるサイバー攻撃を仕掛けている」と名指しで非難した。

 世界で紛争やテロ脅威が高まる中、どうやって巨大イベントを安全に開催するかは、先進国共通の課題になった。パリ五輪の行方は、日本も注視すべきだろう。

 


かわくぼ つよし

1974年生まれ。東北大学大学院博士課程単位取得。専門は日本思想史。現在、麗澤大学教授。論壇チャンネル「ことのは」代表。(公財)国策研究会幹事。著書に『福田恆存』(ミネルヴァ書房)、『日本思想史事典』(共著、丸善)、『ハンドブック日本近代政治思想史』(共著、ミネルヴァ書房)など多数。

2023年12月4日・18日号 週刊「世界と日本」2258・2259号 より

 

安倍外交と日本の世界構想

 

麗澤大学 国際問題研究センター長

 

外国語学部 教授 川久保 剛 氏

 

 安倍元首相の死去以降、日本政治は内向きになっているように見える。

 ウクライナ戦争をはじめとする国際情勢の激変に対して常に受け身の対応を強いられている印象が強い。

 「今安倍晋三という政治家がいれば、国際政治に対してどのようなメッセージを発するだろうか」と考える人は多いだろう。

 実際に、安倍氏が首相であれば、日本政治は現下の情勢に対して力強く向き合い、国際政治に対して一定の影響力を行使しているに違いない。

 安倍元首相は、日本の政治家では珍しい、世界ビジョンを持ったリーダーだったと言われている。

 安倍外交の代名詞ともいえる「自由で開かれたインド太平洋」構想は、外交史家の細谷雄一氏も言うように、「明治以来の日本の歴史でもっとも成功した外交ビジョン」であり(『Voice』令和5年8月号)、現在も、自由と民主主義を掲げるG7、EU、NATOの方針に大きな影響を与えている。そして、中国、ロシアなど権威主義国家に脅威を与え続けている。

 

 岸田政権は安倍外交の継承を方針に掲げているが、残念ながら、安倍外交のような影響力は持ち得ていない。

 岸田首相をはじめとする日本の政治家には、安倍外交の根幹にある、国際政治のビジョンを描き、世界をリードする気概を受け継いでもらいたい。

 安倍外交の世界構想が国際社会から評価されたのは、それが自由と民主主義を奉じる多数の国にとって公益と思われたからである。

 日本の国益だけではなく、多数の国の利益にもなる、公益と見なされたがゆえに、支持を集めたのである。

 外交ビジョンは、かように、国際公益を志向しなければならない。

 もっといえば、人類益を示すものでなければならない。

 近年、令和の日本が目指すべき国家像に関して論議されているが、あるべき国家の姿も、あるべき世界の姿を構想する作業から見えてくるはずだ。

 何が真の人類益であり、その実現のためにはどのような国際秩序を形成すべきかを問うことから、日本の目指すべき「令和の国家像」も鮮明になってくるだろう。

 

 最初に論議すべきは、これからの人類構想であり、世界構想なのである。

 安倍外交が、国際社会で通用したのは、そうした普遍性と公共性を備えていたからである。

 安倍外交を継承するとは、そうした普遍的な言語で国際公共性を論じるスタイルそれ自体を継承することを意味する。

 そのためには、わたしたち日本人には、世界構想を示し、国際社会をリードするだけの力があり、さらにいうとその使命もあるということに気づかなければならない。

 安倍元首相には、その力の認識と使命の自覚があった。

 日本は世界をリードする立場にあるという信念を持っていたのだ。

 実際に日本は、世界有数の長い歴史をもち、国際的にも高く評価される豊かで独自の文明を形成してきた国家なのだ。

 世界史的・文明論的な視点を持つと、日本という国家の位置と可能性が見えてくる。

 日本の政治家は、ぜひ文明論を学んで欲しい。

 文明論の領域では、西洋近代文明の終焉・没落のなかで、日本文明の中にこれからの人類文明の原理となる思想を見出しうるのではないかという論議が盛んに行われているのである。

 内外の知性が、文明としての日本の可能性に注目しているのである。

 日本がひとつの希望にもなっているのだ。

 こうした文明論を学べば、日本の政治家として世界に貢献するビジョンを描き出そうという気概も湧き上がってくるだろう。

 文明論は、日本の政治を方向づける力となる。

 文明論は、日本の政治家の必須科目といえる。

 現在、ウクライナ戦争、イスラエル・ハマス戦争に加え、世界各地に紛争の火種が大きくなりつつある。

 間違いなく世界は曲がり角に来ている。

 

 日本の政治家は、今こそ日本の出番だと構え、積極的に世界に働きかけてもらいたい。

 幕末に、横井(よこい)小楠(しょうなん)という思想家がいた。

 勝海舟をして、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷(さいごう)南洲(なんしゅう)だ」(『氷川清話』)と言わしめた志士である。

 横井小楠は、日本は開国後に世界に向けて普遍的な公共の道理を語れ、と高唱したことで知られている。

 小楠が開国論を展開している『沼山対話』には、次のような言葉が出てくる。

 「所詮宇内に乗り出すには公共の天理を以て彼等が紛乱をも解くと申丈の規模無レ之候ては相成間敷、徒に威力を張るの見に出でなば後来禍患を招くに至るべく候」。

 つまり、これから開国し、世界に乗り出すには、公共の天理をもって現在の国際紛争を解決してみせるほどの気概をもたなければならない、日本は単に自国の国益だけを考えていてはいけない、と言うのである(中央公論『日本の名著30佐久間象山・横井小楠』)。

 

 あの幕末の時期に、すでにこれだけの普遍的視野を獲得していたのである。

 小楠は、公共の道理をもって「世界の世話やきにならねばならない」(村田氏寿筆記「横井氏説話」)と述べたことでも知られているが、その根底には「地球の上はすべて同じ原理が貫徹している」(「国是十二条」、前掲『日本の名著30』)という信念が存在した。

 ここには、安倍元首相が掲げた「地球儀を俯瞰する外交」や「普遍的価値を重視する外交」、「積極的平和主義」の源流があるといえよう。

 今こそ、横井小楠や安倍晋三のような政治家が待望される。

 何度でも言おう。日本から、世界をリードする政治家が出て来て欲しい。

 そして、混迷する世界に明るい展望を拓いて欲しい。

 それこそが、安倍外交の真の継承であるといえよう。

 

 


《よしの ふみお》

1957年、福岡県に生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、大学院経済学研究科博士前期課程修了。1996年より拓殖大学に勤める。2016年より現職。

2023年12月4日・18日号 週刊「世界と日本」2258・2259号 より

 

一帯一路とASEAN統合

-チャイナマネーは東南アジアをどう変えたか-

 

拓殖大学国際学部教授

 

吉野 文雄 氏

 

 

一帯一路が変える東南アジア地図

 

 中国が2013年に一帯一路構想を発表して10年がたつ。同時に発表されたアジアインフラ投資銀行(AIIB)が2015年に設立され、名実ともに構想が動き始めた。この中国の取り組みに対して、期待が膨らんだ国もあれば不安が期待を上回った国もある。日本や米国はこの構想から一線を画し、首脳会議などにも出席していない。中国は2017年には、スリランカのハンバントタ港の運営権を向こう99年にわたって手中に収め、債務の罠として広く知られるようになった。

 東南アジアにおいても中国のプレゼンスは急速に高まった。ラオスを例に取ろう。ラオスではおよそ750万人の人々が日本の3分の2程度の国土に住んでいる。首都ビエンチャンの人口は100万人ほどで、他の東南アジアの国々と異なり、人口の都市集中がみられず、国土全体に散らばって居住している。ラオスではフランス植民地時代に短い鉄道が走っていたが、第2次世界大戦後、鉄道はなく、陸上輸送は自動車に頼っていた。

 そのラオスが中国の助けを借りて鉄道網を作ろうと決意したのは21世紀に入ってからであった。ラオスを専門にするアジア経済研究所の山田紀彦氏の論稿によると、ラオスは鉄道網建設に熱心であったが、中国は債務の罠が発生する懸念を払拭できず、むしろ消極的であった。しかし、熱意にほだされたというのであろうか、2016年12月に、首都ビエンチャンと中国雲南省の昆明を結ぶ路線の建設が始まり、2021年12月に開通した。ラオスは今後鉄道を南に走らせ、パクセーを通ってカンボジア国内に至る計画で、東のベトナムにつなぐ路線も建設予定である。

 この鉄道網がラオスと中国に何をもたらすか。もちろん旅客や貨物の陸上輸送の利便性は高まる。中国からは鉄道でシンガポールまでたどり着けることになる。ラオスで作られた野菜や果物を中国市場に届けられるし、中国からの観光客の来訪も期待できる。しかし、鉄道網構築の費用と便益を天秤にかけると、相当の長期を考えないかぎり、便益が費用を上回らないであろう。

 

一体化する中国と東南アジア

 

 一帯一路の10年は、東南アジアが中国の強い影響下に入った10年であった。ASEAN事務局がまとめた貿易統計を用いてASEAN全体の貿易額を求めると、輸入においては2007年以降最大の輸入元が中国となっている。輸出においては2011年以降今日までASEAN最大の輸出相手国は中国である。

 企業の海外進出を意味する直接投資については少し様相が異なってくる。直接投資については各国整合的な国別統計がとれないが、ASEAN事務局の推計によると、今日でもASEAN加盟国向け最大の域外からの投資国は日本である。年によってはASEAN域内投資が日本からの投資を凌駕するが、ASEAN域内投資の多くは日本や韓国などの企業の現地法人による投資である。例えば、韓国の電機・電子メーカーであるサムスン電子がベトナムに大規模な携帯電話工場を設立したが、これはサムスン電子のシンガポール法人による投資なので、域内投資に分類される。

 興味深いのはASEAN加盟国からの域外投資である。これまでASEAN加盟国は外国企業を受け入れるものと考えられてきたが、今日では例えばタイのチャロンポカパンが中国に養鶏場を作ったように、ASEAN加盟国からの企業進出も無視できない。統計が利用可能なマレーシアを見てみると、域外への投資では対中投資が最大の金額である。対日投資もないではないが、金額的にはごくわずかで、総投資額の1%にも及ばない。

 コロナ禍でクローズアップされた国際人流を見てみると、やはり東南アジア諸国では中国からの入国者が多い。コロナ禍前の2019年のASEAN加盟国のいずれかに入国した中国人は3200万人。日本からの入国者570万人をはるかに上回る。

 統計を並べてみたが、いずれのデータでもASEAN加盟国と中国との結合が強化されていることが分かる。各国の経済成長率を用いた私の研究でも、中国とASEAN加盟国は経済的に一体化の道を歩んでいる。

 経済の一体化が必ずしも好ましい影響を与えるわけではない。一帯一路のかけ声で始められた東南アジアにおける不動産事業の中には、中国の不動産不況の波をかぶって行き詰まっているものがある。マレーシア半島部最南端ジョホールバルで建設された複合施設フォレストシティは建屋がほぼ完成したにもかかわらず、入居者が少なく閑古鳥が鳴いている。インドネシアの華人財閥リッポ・グループが手掛けた大規模宅地開発メイカルタでは建設途中の建物が野ざらしになっている。

 

一帯一路は一蓮托生か

 

 中国の存在は2015年に共同体形成を高らかに宣言したASEANの統合にも影響を与えている。貿易動向に戻るが、2019年以降ASEAN諸国の域内からの輸入を中国からの輸入が上回ったのである。対中輸出はまだそれほどの大きさではないが、輸入についてはASEANが統合を進めるよりも、むしろASEAN諸国は中国と統合する方が理にかなっているのである。

 制度として、ASEANのみの自由貿易地域(AFTA)もあるし、ASEAN中国の自由貿易地域(ACFTA)もある。サービス貿易や投資をめぐってもASEANと中国とは協調している。そうなると、ASEANのみの自由貿易地域や共同体の意義が問い直されることになろう。

 例に引いたラオスなどは、ASEANの一員として統合に参加するよりも、一つの自治区として中国に編入してもらった方が経済発展を遂げるかもしれない。もちろん、統合には経済問題だけでなく、政治・文化・価値の問題も絡んでくるので、経済原理だけで国境が変わるわけではない。

 21世紀に入ってから中国経済は破竹の勢いで伸び、東南アジア経済はそれに牽引されて高成長を遂げた。この10年は一帯一路構想が両者の靱帯となってきたが、不動産不況の伝播に見られるように、中国経済が迷走すると東南アジアは行き詰まる。東南アジア諸国にとっては、中国との距離感が成長を左右することになろう。

 

 


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